「蒼空のシュヴァリエ」第十六回
月が見え隠れする夜の帳の中、一式陸攻は太平洋上の海面すれすれを這うように飛行していた。誰も一言も言わず、各々が自分の持ち場で自らの生命の終焉をただ待つだけ。白崎少尉は、電波方位測定器に耳を澄まし、新たな突撃目標となった米軍第58機動部隊の正確な居場所を割り出そうとしていた。微弱だが、艦艇同士が交わしていのるであろう英文の無線通信を白崎は傍受していた。方位測定器の指針を睨みながら、白崎は操縦者の梅岡少尉に進路の誘導を行っている。白「右五度へ変針」梅「右五度、ようそろ」白「行きすぎだ、左三度へ修正」梅「…」白崎は顔を上げて操縦席を見やった。白「梅岡少尉?」返事が途絶えたのに気づいた白崎は、操縦席で心なしか前かがみになっている梅岡の姿を見たが…梅「…がはっ!!」操縦席の梅岡は、水気の混じった咳を一つ吐き出した。白崎の視線の先で、操縦席の計器盤が紅に染まった。白「梅岡っ!!」白崎はレシーバーを放り出し、操縦席に飛び込んだ。梅岡は苦しげな表情で、しかし操縦桿を離さずにいた。梅「…大丈夫だ」白「大丈夫なものか…笹塚に操縦を替わってもらえ!」梅「駄目だ。あんたら陸軍さんには分からんだろうが…海軍では一つの乗り物に大人数が命を預けている以上、 誰かが持ち場を離れるということは有り得ない。例外は…死んだ時だけだ」白「…」梅「苦しいのは笹塚も同じはずだ。俺はまだやれる」白崎は、機首の爆撃手席を覗いた。笹塚も、蒼白な顔で悪寒と戦いながら双眼鏡を抱えて索敵に励んでいた。ジ「すまないな…」白崎が振り向くと、いつの間にか桜田少佐が危なげな足取りでそばに寄り、梅岡をねぎらっていた。梅「もう少しです。敵空母までは…何があってもこの機を飛ばします」梅岡は前方を睨みつつ答えた。白崎は、梅岡と笹塚…そして桜田の矜持に再び涙しそうになった。その頃。蒼星石は、新型機の烈風を駆り、海上を南へと高速で飛行していた。…桜田司令達の死に様を何としても本土に伝える。それが彼女の想いだった。桜田達がどこを目指して出撃したのかは、彼女は聞かされていなかったために分からない。南に向かったのは確実で…桜田は「原子爆弾による新たな犠牲をくい止める」と言っていた。蒼星石の出した予想はテニアンだった。かなり前から米軍勢力下にあるマリアナ諸島の大飛行場なら、原子爆弾が運び込まれている公算は高いと彼女は踏んでいた。…だが、問題は烈風の航続距離だった。胴体の下に使い捨ての燃料タンクである増槽があるために、今回の飛行可能距離は少しは伸びているはずだが、それでも…テニアンに行って帰るだけの燃料はない。そもそも沖縄に征く特攻機すら、燃料は満タンでないと満足にたどり着けない状態なのだ。爆撃機ならまだしも、新型機とはいえ小型の戦闘機程度では、テニアンまでの長距離を行けるかどうかも怪しい。…だが、それでも蒼星石は桜田達の最期をどうしても見届けてやりたかった。冷静に考えれば準備不足で馬鹿な飛行だが、蒼星石はどうしても自分の心を突き動かすものを抑えられなかった。烈風は飛び続けた。新開発の11型エンジンは力強く機体を疾駆させている。蒼星石は、今は亡き愛姉を思い出さずにはいられなかった。…翠星石の烈しさそのままに、烈風は飛び続けた。一式陸攻。あまりにも突然に、機首の笹塚の叫び声が機内に響いた。笹「発見しました!!円陣を組んだ敵機動部隊が前方にいます!」他の皆が、操縦席の向こうの暗闇を、息を呑んで見つめた。双眼鏡を手にした桜田は、闇に沈んだ水平線の上に、ぼんやりと人工的な明かりがいくつも浮かんでいるのを見た。ジ「…皆、よくやってくれた!このフライトは無駄じゃあなかった!」桜田少佐がわずかに興奮した口調で言った。おお、と応じる全員。ジ「燃料はもちそうか?」梅「はい…十分にたどり着けます!」もはや電波方向探知機にしがみつく必要のなくなった白崎は、梅岡のそばに寄った。白「よく頑張ってくれたな。燃料切れで自爆、なんてことにならなくて良かった良かった」梅岡は顔を戻さず応じた。梅「あんたの誘導のお陰だ。あと少ししたら頼むぞ」白「…ああ、そこからは俺達に任せろ」白崎は、腰の南部14年式拳銃の弾倉を確かめた。桜田も自身の拳銃を確認しつつ言った。ジ「…よし、そろそろやるか。梅岡、頼むぞ」梅「は!」全員が持ち場に戻り、身近なものにしがみついた。米軍第58機動部隊 護衛駆逐艦『ヘレン』『ヘレン』のレーダーは、超低空で接近してくる飛行機を捉えていた。レーダー室。『何だこれは!飛行機が一機こちらに向かってきます!距離は…およそ20マイル!』『馬鹿な!一体何処から現れた!?』『分かりません!突然画面に出てきました…恐らく低空で飛行していたのが、今までレーダー波に当たらなかったのかと!』『なんて事だ…味方ではないんだな!?』『識別信号の発信はありません!…あ、デッキの見張り員が目視で飛行機を確認したと情報が入りました!』『よし、目標は敵性と判断する!全艦に警報を出せ!攻撃許可を取れ!レーダーを主砲にリンクさせろ!砲撃用意!』『は!!』海上に警報が響き、サーチライトの光の筋が敵機を探り始める。駆逐艦隊の各主砲が、近づいてくる飛行機に向けて旋回を開始した。主砲には、米軍が開発していた一撃必殺の兵器…目標に直撃せずとも、金属を感知しただけで爆発するVT信管を備えた砲弾が装填されていた。一式陸攻。敵艦隊から投げかけられるサーチライトを見た桜田は、機内の手すりに掴まりつつ叫んだ。ジ「今だ!」梅「は!!」梅岡は、力の限り操縦桿を引き込んだ。だが、被曝していた梅岡の腕力は弱りきっていた。…いつの間にか、副操縦席に白崎が飛びつき、その操縦桿を共に引っ張っていた。梅「白崎!」白「おら前見ろ前!」梅「すまん!」白「いいから!よし、槐!今だ!」白崎は機体尾部の槐少尉に叫んだ。槐は…大きな布袋に入っていたものを、機銃砲塔の隙間から撒き散らした。わずかにキラキラと輝く光が、上昇する一式陸攻のあとを舞った。米機動部隊。『砲撃開始!!』護衛駆逐艦隊は一斉に主砲の火蓋を切った。砲炎が海面を赤く照らし、硝煙が辺りを包む。撃ち出された数多の砲弾は、まっしぐらに海面上を飛翔した。そして…その先端に備え付けられた信管は、その特殊な機能を発揮し、金属を感知…爆発した。あまりにも、愚直に。駆逐艦『ヘレン』レーダー室『当たったか!?』『…!?そんな…金属反応が広汎に広がりました!』『何だと!?』『まさか…敵はチャフ(囮の金属片)を使用した可能性があります!』『と言う事は敵はまだ…』『あ!金属反応の中から新たな反応が!飛行機です!』『畜生!再度砲撃だ!』『駄目です!ここまでチャフが拡散した以上、これ以降のレーダー管制による砲撃は無意味です!』『ならばレーダー管制を解除しろ!』『それでは命中精度が下がりますが!』『くそ…!!』一式陸攻ジ「うまく引っかかったな…!!」操縦席の梅岡と白崎は額の汗を拭い、他の皆はニヤリとした。…広島で調達しておいた、レーダー撹乱用の銀紙はやはり役に立ってくれたようだった。陸攻のはるか後方で、敵艦隊から飛んできた砲弾が花火のように破裂し、金属片を四方八方に吹き飛ばしていた。ジ「よし!ここからが本番だ!一気に敵艦隊の中央に突っ込むぞ!笹塚、頼む!」笹・槐「「は!」」笹塚は魚雷用照準機の調整を開始した。機動部隊旗艦 空母「キティホーク」電話でたたき起こされたフィッチャー司令は、肥った身体をゆすって艦橋に飛び込んだ。すでに何人かの参謀と航海士が、艦隊に近づきつつある日本軍機を食い入るように見つめている。フ『ジャップのカミカゼだと!?』 『は!双発爆撃機が一機突っ込んできます!』フ『迎撃は!?駆逐艦隊は何をしているんだ!?さっきの砲撃はどうなった!?』 『そ…それが、迎撃には失敗…あっ!!』フ『何だ…うおっ!!』艦橋の窓からフィッチャーが見たものは、機動部隊の外縁に並ぶ駆逐艦隊を今まさに突破しようとする大型の日本軍機だった。一式陸攻。進路上の駆逐艦からまばらな対空機銃の射撃を受けながらも、一式陸攻は機動部隊の懐に入ることに成功した。大小さまざまの戦艦・空母からなる大艦隊が、大きな工場よろしく整然と並んでいる。その間を飛び回られると、同士討ちの危険のために、米艦隊は砲門を開くことは出来なかった。ジ「笹塚!敵空母の数は!?」笹「…11です!正規空母5、小型空母6!」ジ「多いな…ならば目標は正規空母に絞れ!」笹「了解!梅岡少尉、2時方向の正規空母へ変針願います!」梅「よし!」機体が旋回し、わずかに傾く。正面前方に、巨大な空母が1隻、夜闇に堂々と浮かんでいた。笹「爆弾倉開きます!」機体の腹の扉が開き、機内に突風がどっと入り込む。笹「このまま直進!」梅「ようそろ!」陸攻の前面に空母が迫ってくる。笹「用意…テェっ!!!」笹塚の号令が響き…一式陸攻は、その腹から、何も無い海面に向けて、尾部の切り取られた250㌔爆弾を一発投下した。時速400kmで海面に対しほぼ水平に突っ込んだ250㌔爆弾は水切り遊びの石のように海面を何度もバウンドして直進し…やがて、空母の喫水線に衝突した。火炎と水柱が上がった。空母『キティホーク』フィッチャーは、正規空母『レキシントン』がその左舷に爆弾の直撃を喰らったのを目の当たりにした。フ『畜生…ジャップめ!我が軍の反跳爆撃を真似しやがって!』 『司令!奴らが反転…あっ!『ヨークタウン』もやられました!』フ『…!!あの機は第18悌団の後ろにいたヤツだったのかっ…』フィッチャー達が見守る前で、それほど離れていないところにいた正規空母『サラトガ』『ホーネット』も、艦艇の間を縦横に飛び回る日本軍機によって、舷側に爆弾を次々と喰らっていた。 その頃。烈風を駆る蒼星石の視界の隅に、闇に浮かんで花火のように光る何かが入った。「何だろう…?」蒼星石が手探りで航空地図を取り出し、現在地と光の方向を調べると…彼女は思わず息を飲んだ。何かが光った海域…そこは、敵の第58機動部隊がいると予想されているエリアだった。よく見ると、花火のような光はもう消えたものの、サーチライトか何かの光の筋が暗い水平線をぼんやりと舐めているのが分かる。蒼星石は確信した。あそこだ、桜田少佐達は間違いなくあそこにいる。烈風は大きく旋回し、エンジン全開で疾走を始めた。一式陸攻笹「爆弾は全て投下し尽くしました!」ジ「…見事だ!よくやった!これであの正規空母4艦は傾斜復旧のために数日は戦闘不能だ!」笹・梅「ありがとうございます…!」ジ「だが終わったわけではない!あと一艦残存する正規空母に突っ込むぞ! 梅岡、最後の一仕事だ!貴様に全てを任せるぞ!皆、武器は持ったな!?」桜田は南部14年式拳銃と、許婚の形見の刀…とを確認しつつ言った。白「大丈夫です!」槐「抜かりありません!」陸軍中野学校出の戦士二人は既に百式軽機関銃を携えていた。操縦席の梅岡、そして爆撃手席の笹塚も、かねてから99式小銃と拳銃を身につけている。残った最後の敵正規空母の姿が大きく迫ってきた。梅岡は、白崎に手伝ってもらい操縦桿を左に倒し、同時にフットバーを真逆に蹴りつつ叫ぶ。梅「間もなく突入します!!」ジ「よし!全員、衝撃対応姿勢を取れ!」言われるまでも無く、操縦席の二人以外は、身近なものにつかまり、頭を引っ込めた。梅「うおおおおおおおおおおおおおお!!」両翼のエンジンが止まった。『キティーホーク』たった一機の爆撃機に指揮下の正規空母を次々と爆撃されるのを手をこまねいて見ていたフィッチャー司令の形相は、物凄い怒りに歪んでいた。本国の政府が日本に対し降伏を迫り、日本側が中々それに応じない事をフィッチャーは知っていた。そのためにフィッチャーは、降伏を中々決意しない日本政府に対するプレッシャーをかけるため、この日の夜明けを待って第58機動部隊の艦載機の総力を挙げた日本本土に対する銃爆撃を計画していた。…その目論見が、たった今正規空母群の受けた損害によって、もろくもご破算となってしまった。浸水で傾いた空母は、艦載機を発艦させる事など出来ない。洋上での傾斜復旧作業には最低でも数日を要する。運の悪いことに、出撃を数時間後に控えていたこの時、各空母内の爆装作業中の格納庫は爆弾の衝撃を受けて大混乱に陥り、空母そのものの機能を必要以上に喪失させてしまっていた。フィッチャーは怒りに燃える目で憎き日本の爆撃機を見つめ…あとずさる。日本軍機は、低空でゆっくりと旋回し、フィッチャーの乗る正規空母『キティーホーク』に向かってきていたのである。フ『…何だあのジャップは!何を考えている!?』 『あの進路は、奴ら…本艦に胴体着陸するつもりです!!』フ『クレイジーだ!!!』フィッチャーはその拳を机の上の海図に叩きつけた。…車輪を出していない一式陸攻の胴体が『キティホーク』の飛行甲板にのし上げた。空母の甲板上の乗組員が慌てて倒れこむ。機内は大いに揺れた。機体前部の風防ガラスが全部弾け飛んだ。機体は物凄い火花を散らし、『キティーホーク』飛行甲板上を滑り出す。目をかっと開いたままの梅岡は、昇降舵を一杯に下げて機体を停止させようとした。だが、簡単に機体は止まらない。梅岡は、左手の『キティーホーク』艦橋に向けて舵を切り、左主翼を思い切り艦橋にぶつけた。左主翼は根元からちぎれ、後方へ吹き飛ぶ。そのまま大きな衝撃と共に一式陸攻の機体は左に半回転し、艦橋の傍で…煙を上げて静止した。ジ「いてて…皆無事か?」転がった眼鏡を探し当てた桜田が、真っ暗な機内に問いかける。あちらこちらから元気そうな返事が返ってきた。ジ「よし…では艦内に突入する!行くぞ!」「「「「「は!!!」」」」」機体側面の昇降口を蹴り破った白崎が、真っ先に飛行甲板へ飛び降りる。丸腰の敵兵らが遠巻きにこちらに近づいていた。白『地獄へ堕ちろ!!』白崎が機関銃の一連射でそれを蹴散らす。慌てて伏せる米兵。数人が射倒された。白崎は間髪いれず、手榴弾を彼らにお見舞いした。爆音があがり、煙が立ち込める。その間に機から飛び降りる5人。槐が先立って艦橋のとある扉を開き、中へ入った。白崎が飛び込んできたところで扉を内側からロックした後、一同は艦橋内の薄暗い通路に集った。艦内は薄暗く、警報音が鳴り響いていた。ジ「では…槐少尉と白崎少尉はここから別行動だ。…幸運を祈る!」槐・白「はっ!!」梅「じゃあな!」白「ああ!」笹「ご健闘を!」槐「靖国で会おう!」万感の思いを込めて、一同は行動を開始した。…桜田以下・梅岡少尉・笹塚飛曹長は、敵司令官がいるであろう艦橋の操舵室へ突入する。槐少尉と白崎少尉は…とある別行動を行う。これが、事前に彼らが打ち合わせていた事だった。艦橋の操舵室はパニックになった。 『敵が艦内に侵入しました!数は…6名です!』フ『なんだと畜生!奴らの目的は何だ!』 『恐らく…敵は本艦を…』フ『…弾薬庫かっ!!』フィッチャーは愕然とした。少数で侵入してきた敵兵の意図は他に想像できなかった。奴らは生存などハナから考えていまい。どこまでもしぶとい彼らの執念に舌を巻いたフィッチャーだったが、すぐに出すべき指示を出した。フ『警備隊を出せ!敵兵を押さえ込んで皆殺しだ!何としても弾薬庫に行かせるな!』艦内の指揮系統がしばらくもたついたのち、M1カービン自動小銃で武装した警備隊が行動を開始した。
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