「蒼空のシュヴァリエ」第六回
昭和20年3月19日。この日の昼頃、日本近海の太平洋上に展開する、米第58機動部隊の空母「キティホーク」以下12隻の艦載爆撃隊が、西日本の要衝、広島の呉軍港の残存艦隊を攻撃せんと、発進準備に入っていた。この月に入り、日本の大都市圏はB-29の爆撃で次々と焼かれていた。ことに、3月10日の東京大空襲は、昭和17年のそれとは規模も被害も桁外れに甚大なものとなり、帝都の機能は麻痺寸前に陥った。3年前を経て復興されていた東京は、今度は完全に焦土と化してしまったのである。水銀燈は飛行服に身を包み、重たい足を引きずり、出撃前のためにエンジン音で騒がしい飛行甲板へ向かった。久しぶりに見る愛機。水銀燈のグラマンF6Fワイルドキャット戦闘機は、主を迎えた喜びを表すかのように、整備員の操作で快調に轟音を上げていた。真っ黒な機体に、あまたの逆十字。水銀燈が葬ってきた日本軍機の数を表しているそれは、水銀燈自身が望んで描かせたものではなかった。…話は遡る。ハイスクールを出た水銀燈は、軍に入隊し操縦士を目指した。親の宗教的な抑圧からの解放を欲していたのか、彼女は、広い空を自由に飛びたいと望んでいた。皮肉にもそれを後押ししたのは両親だった。厳格なカトリックの家庭は政治思想的に右派であることが多いが、水銀燈の両親も例外ではなかった。彼らは娘が軍に入ることを妨げなかったのである。複葉の練習機で初めて空を飛んだ時の感動を、今では水銀燈はよく覚えてはいない。ただ、忘れる事もありえない。一度、親友のメグを基地に招き、複葉機の後席に乗せて飛んだことがあった。あの時、伝声官から聞こえてくるメグの歓声と、振り返った時に見た彼女の笑顔が、今の水銀燈を、飛行機乗りとして支えている。あのピッツバーグの空はとても青かった。…整備員の「どうぞ」という声でわれに返った水銀燈は、主翼に足をかけ、操縦席に身を沈めた。舵の動きもいい。エンジンも不具合なし。やがて、飛行甲板の前の方に溜まっていたグラマンが次々と離艦し、艦隊上空で編隊を組み始めた。他の空母からも、単発のSB2C(ヘルダイバー)爆撃機が続々離艦していた。「離艦よし」の信号を確認した水銀燈は、計器板に貼ったメグの写真を航空手袋の上からそっとなで、前を見据えてスロットルを押し込んだ。…今日の任務は爆撃隊の護衛。…あの日本軍のパイロットはやってくるだろうか…?抜群の腕前から『堕天使』と呼ばれ、戦意高揚のために、あだ名にふさわしく黒く塗られ、堕天の象徴である逆十字を描かれた機体に乗せられている天使は、ふとそんな事を思った。鵜来基地。昼食を終えた蒼星石は、飛行場の端に座り一人海を眺めていた。「なんだ、砂浜まで行けばいいのに」声をかけたのは桜田司令だった。小さな島だからそれくらい他愛も無いはずだ。 蒼星石はちょっと驚いた風に振り返ったが、「いつ警報が出るか分かりませんから…」と目を戻した。その横に腰を下ろす桜田。ジ「どうだ、空戦にもこの基地にも慣れたか?」蒼「…はい」ジ「それは良かった。…貴様達の働きには感謝している。ここ数ヶ月で町村からもらった感謝の 電話は数知れんしな」蒼「…僕は、やるべきことをやっているだけです」 蒼星石は淡々と答えた。桜田が嫌いなわけではない。物静かな所に好感は持てる。こうして二人で話をすることが滅多になかったのだ。桜田は続けた。ジ「…もし敵艦に体当たりしろと言ったら、君はやるか?」蒼「…!!」少しの間沈黙が流れた。特攻はこの時すでに陸海軍を通じて定着していた。レイテ戦の折の関隊、硫黄島攻防戦の折の御盾隊の活躍は、軍はもちろん新聞を見た国民の広く知るところであった。蒼「…それが僕の生命を犠牲にしてなお敵に大打撃を与えうる、と司令が確信して命令されるなら…」 蒼星石の声はわずかに震えていた。ジ「命令なら行く、か」蒼「…」ジ「僕は君自身の気持ちが聞きたい。命令云々がどうこうではなく、特攻という戦法に対し、 一戦闘機乗りの君がどう感じているか…それを教えてくれないか」蒼「僕の…気持ち?」 蒼星石は思わず桜田の顔を見た。畑違いの素人とは言え、航空隊の基地司令が言う言葉とは思えなかった。蒼「…」ジ「聞き方を変えようか…君は何故搭乗員を志願した?」蒼「それは…ご存知でしょう」ジ「お姉さんが東京の初空襲で亡くなった…そうだったな」蒼「はい…」ジ「…復讐か?」蒼「…かもしれません。…そうでなくとも、あの日、普通に生活していた罪もない一般市民が 殺されました。軍はこれを防ぐ事も出来ませんでした。そこに失望したから、とも言えます。 …ですが」ジ「…」蒼「思うんです。果たしてあの日、姉さんが無事だったら、僕は軍に志願したか…と。 周りで人々が死んでも、軍が役立たずでも…僕の心は穏やかでいられたのではないかと…」ジ「と言うと…」 蒼星石は少し失笑とも思える笑みを浮かべた。蒼「結局のところ、僕も僕自身のことが分からないんです。だけどこれだけは言える。 昭和17年4月1日、僕はあの日からそれまでの僕でいられなくなってしまった」ジ「…」蒼「復讐であろうと、義憤であろうと、もしかしたらどうでも良いのかも知れません。 ただ…生きているんです。戦いの中で…操縦桿を握り締めて…それを実感できるんです。 それだけなんです」ゆっくりと立ち上がった蒼星石。桜田は、その寂しげな横顔を確かに見た。何か言葉をかけなければ…その時。 「敵機襲来ーーー!!」指揮所から白崎少尉が走り出て、大声で叫んだ。蒼「!!」ジ「何だと!?」桜田が腰を上げ、蒼星石とともに指揮所へ走る。白「室戸岬の対空電探監視所より入電!!現在、空母から発進したと思われる敵爆撃隊 が数派に分かれて接近中!!かなり大規模な編隊らしいとの事です!」ジ「敵の目標は何処だ!?」白「空母からの爆撃隊ですから恐らく敵主力は単発のSBDかSB2C爆撃機と思われます! よって敵が目指しているのは…」ジ「…呉か!!」白「はい、戦闘機の機銃掃射ごときでは呉の艦艇群には被害を与えられません。ですから…」ジ「よし分かった!」蒼「司令、出撃命令を!!」ジ「いや待て。白崎、近隣の航空隊と連絡を取ってくれ!」この時、槐が無線室から出てきた。槐「司令!第343航空隊はとりあえず地上待機、最後に到来する敵の派群のみに目標を絞り、 これに集中攻撃を加えるそうです!!」ジ「そうか…では我々はこれに加勢するしかないな」松山には、源田実司令が海軍内からかき集めた熟練搭乗員と、日本中からかき集めた紫電改で構成した最精鋭部隊の第343航空隊があった。彼らですらすぐさま飛び立って戦えるような数の敵ではないのだから、小隊規模でしかないこの443航空隊がこれに立ち向かったところで飛んで火にいる夏の虫だろう。敵が護衛戦闘機も充実させているのは明白だ。よって、米軍の大規模な空襲の場合、桜田は、他の航空隊と協同で迎撃に当たることにしていた。…これには、海軍内で『小隊規模の航空隊など他の隊に吸収させれば済むではないか』という批判も当然出ていた。443隊にいるのが蒼星石でなければ、その意見はすんなり通っただろう。愛機に走る蒼星石に、桜田は思い出したように言った。ジ「さっきの続きだが…僕は君達に特攻を命じることは絶対にしない。今日も生きて帰れ」蒼「…はい!」米SB2C爆撃隊とその護衛戦闘機隊は、難なくクレを視界におさめ、停泊する艦艇への攻撃を開始した。水銀燈はこれまでにも何度かクレ周辺を飛んだことはあったが、改めて見ると、港には大きな戦艦や空母が何隻もいた。戦艦のうちの一隻は、水銀燈が今までに見たことのない巨大なものだった。…あれがヤマトに違いないわね。真珠湾のお返しよ。非戦闘員を攻撃に巻き込む事には大きな抵抗を感じる水銀燈であったが、軍事施設に対しては別だった。最初のSB2Cが艦艇群目掛けて爆弾をお見舞いしようと投弾体勢に入ったところで、突然、港中の艦艇や陸上から対空射撃が始まった。特にヤマトからのそれは物凄いものだったが…350機からなる爆撃隊の物量の前には、港内で回避運動を取れない艦艇などただの標的に過ぎなかった。水銀燈ら護衛戦闘機隊が見守る下で、港のあちこちに爆炎やら水柱が上がり、戦艦や空母が浅い湾内で次々と転覆していった。鵜来基地を飛び立った梅岡少尉以下の紫電改は、四国上空の高高度で大編隊を組んで旋回している第343航空隊の紫電改と合流した。343航空隊には、梅岡少尉や笹塚飛曹長の、南方で熟練した戦友が数多くいた。実戦には参加していないが、戦闘で負傷したにもかかわらず、片目だけで戦線に復帰し、硫黄島航空戦で15機の敵グラマンに追われつつも逃げ切った坂井三郎少尉も、指導員としてこの343航空隊にいる。すぐ傍で堂々の大編隊を組んで飛ぶ343隊を、蒼星石は感嘆のため息を漏らして見つめていた。と、無線電話から梅岡少尉の声が届いた。梅「二飛曹、貴様は編隊での空中戦の経験はないな?」蒼「…はい。低空での戦闘しか…」梅「いいか、敵編隊に突入する時も、貴様は俺と笹塚の後にしっかり付いて来い!分かったな」蒼「は!」勢い込んで返事をしたものの、実のところ蒼星石は不安だった。彼女が今まで経験してきたのは、超低空で進入する敵グラマンを死角から奇襲したりなどの戦闘であり、編隊戦闘は訓練以外ではやったことが無かった。しかし、そんな不安も、突然湧き上がってきたあの心地よい震えに掻き消されて失せた。この高揚感こそが彼女の強烈な生の実感となってここにあった。やがて…編隊のはるか下方に、爆撃を終えて帰還する最後の敵集団と、それを護衛する戦闘機隊が現れた。午後の太陽でキラキラと輝く海を背景に飛ぶ沢山の機影。紫電改の大編隊は、一斉に増槽(使い捨ての機外燃料タンク)を捨て、ゆうゆうと帰路につく敵に襲い掛かった。鵜来基地。三機の紫電改を見送った桜田は、白崎・槐両少尉、雪華綺晶・薔薇水晶両整備兵としばらく空を見上げたまま立ち尽くしていた。ジ「本土の軍港も爆撃されるようになったか…」槐「…沖縄がどうなるかは考えたくもありませんね」白「特攻作戦も本格化しだすでしょう。そうなった場合、この基地も中継基地となる可能性が出てきます…」一同は黙り込んだ。
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