『七夕の季節に君を想うということ』
「今年も、見れなかったね」 夜空を見上げながら、君は呟いたんだ。つまらなそうに。でも、ちょっとだけ嬉しそうに。そんな天の邪鬼ぶりが、いかにも君らしくて……あの時、僕が浮かべた苦笑いに、君は気づいていただろうか。 「うん。結局、晴れなかったな」 僕も、隣に佇む彼女に倣って、想いを虚空に放った。病院の屋上から、どんよりと曇った夜空へと。 「折角、ここまで天体望遠鏡を担いできたってのにさ。とんだ草臥れもうけだ」「ごくろうさま」 彼女――柿崎めぐは、いつになく優しい笑顔を作った。自然に生まれただろう微笑なのに、僕には、それが文字どおりの作り物に見えた。やっぱり、天の川を見ることができなかったから、フラストレーションを持て余しているのかな。そのときの僕は、まだ人間的に幼稚で、そんな野暮な見立てしかできなかった。 「ねえ、知ってる? ここ数年、七夕の夜は曇ってばかりなのよ」「そうだっけ? 去年は曇ってたって憶えてるけどさ」「去年も、一緒に見ようとしたものね」 そう。だから、はっきりと憶えていたんだ。水銀燈を……共通の友人を介して知り合った僕らが、初めてデートっぽい事をした記念日だったから。あれから、もう1年が経ってるなんて、つくづく不思議な気分がしたものさ。そして同時に、こうして1年後も一緒にいられる奇跡に、感謝してもいたよ。 「本当に、残念だよ」 僕は心から、口惜しく思っていた。めぐに天の川を見せてあげられないことを。まあ、昨今の日本は夜空が明るすぎて、見える星の数は、高が知れてるけど。それでも、好きな女の子のささやかな願いさえ叶えられないのは、男として辛い。 吐息混じりに言った僕の左手を、君は、そっと握ってくれたよね。そして、静かに肩を寄せてくれた。冷えてゆく夜気の中で、君がくれた温もりを、この左肩はいまも憶えている。 「でも……これはこれで、いいと思わない?」「どうしてさ。柿崎だって、楽しみにしてたじゃないか」「そりゃあね、見られるに越したことはないわよ」「だったら、なおさら――」「言わないで」 繋いだ君の手に、ほんの僅か、力が込められた。「もう、いいのよ。これで、いいの」 だって、と。君は嘲るように、鼻を鳴らした。『類は友を呼ぶ』と言うけれど、その仕種は、水銀燈とよく似ていたよ。いまなら解る。それが、センチメンタルなことを言う照れ隠しだったんだと。 「なにが、だって――なんだ?」「1年に一度きりの、恋人たちの逢瀬だもの。そっとしておいてあげたいじゃない」「……まあ、な。野次馬に邪魔されたくないだろうし」 恋人と呼べる人を得てから、めぐは変わったし、僕も変わった。自分たちが幸せになって初めて、心から他人を思いやれる余裕が生まれたんだろう。あるいは、もう僕らは、それが長く続かないだろうことを悟っていたのかもしれない。だからこそ、変わらなければならなかったんだ。残された日々を、素敵に過ごすために。 「織姫と彦星も、今頃は再会して、触れ合える喜びを満喫してるかもな」「その言い方……なんか、やらしいね」「邪推しすぎだっつーの。って言うかさ、そういう発想自体、やらしいと思うぞ」「あははっ。そうだよね……私、やらしいなぁ」 朗らかに笑う君を見ていたら、胸に募る想いを止められなくなって。僕は、めぐを抱きしめて、その薄い唇を塞いでいた。つきあいだしてから1年目にして、初めてのキスだった。奥手すぎるにも程があるよな、まったくさ。今日日の高校生だって、もっと積極的だろう。 しかも、僕としては、文字どおりのファーストキスだったんだぜ。正直、不安で胸が潰れそうだったよ。上手にできているのかさえ、解らなかったし。それに……君はものすごく強く、僕の左手と服を握りしめていたからね。まるで、全身全霊をもって、僕の想いを受け止めようとするみたいに。 「初めて……だったの」 めぐは、離れたばかりの唇を指でなぞりながら、はにかんだ。 僕もだよ。そう言ってしまいたくなる衝動を、すんでの所で抑えつけた。男が言うセリフじゃないよな、なんて……ケチなプライドかもしれないけど。そのくらいは、カッコつけさせて欲しかったんだ。めぐ……君の前ではね。 「桜田くんに逢えて、よかった」 君は、後に言ったよね。いいムードなのに、恥ずかしがって気の利いたことも言えない僕に痺れを切らしてたと。 まったくもって、弁明のしようがないよ。僕は、君が水を向けてくれるまで、キッカケさえ見出せないほどウブだったんだ。それにしては、いきなりキスだなんて、思い切ったことをしたもんだけどさ。案ずるより産むが易し。けだし名言だよなあ。 「僕も、そう思ってる。柿崎と出逢えて、よかったって。 でも…………もう、やめないか」「……なにを?」 僕が切り出すなり、笑っていた君の瞳に、険しい光が宿った。君の想いの強さを測りたくて、誤解させるようなことを、わざと言ったんだ。あのときは、ごめん。ちょっと意地悪が過ぎたよな。 僕は、焦らすように長い沈黙を並べた。そして君も、黙りこくっていた。僕の瞳を、ぐっと睨み付けたまま。見つめ合ったまま夜明けを迎えるのも悪くなかったけれど、君の身を案じて、僕は口を開いた。 「やめるっていうのは、その……そういう意味じゃなくてさ」「じゃあ、どういう意味? はっきり言ってよ。ぐずぐずしたのは嫌いなの」「つまり、他人行儀なのは、もうやめようってこと。 僕らは恋人同士なんだよな? だったら、名前で呼び合っても、いいんじゃないか」 そう告げたときの、君のポカンとした顔ったら、傑作だったよ。どうしてカメラを持ってこなかったのかと、本気で悔やんだくらいさ。だけど……結果的には、よかったのかもしれない。呆気に取られた君の表情は、美しいまま、僕の記憶に焼き付けられたから。 「なぁに、今更。ばかみたい」「ホントにね、我ながら、ばかみたいだって思うけどさ。やっぱりイヤなんだよ。 親しみが感じられないって言うか、よそよそしいって言うか」「ふぅん……そこ、拘るんだ?」 拘るに決まってる。好きな女の子のことなら、なおさらじゃないか。もはや開き直って、僕は君の痩身を掻き抱いた。 「大好きだ。柿…………めぐ」 人の習慣は、そうそう変えられるものじゃないらしい。慌てて言い直したことで、却って、君の失笑を買ってしまった。 「まったく。そんな調子で、大丈夫なのかしら」「あ、当ったり前だろ。いまのは練習だからノーカンな」「ずるいのね」「キニシナイったら、キニシナイ」 歌うように茶化して、仕切り直し。僕は、抱きしめたままだった君の耳元に、そっと囁いた。 「大好きだ、めぐ」「……私も。大好きよ、ジュン」 どうして、君は一度目でさらっと言えてしまったのかな。女の子だから?それとも……独りきりのときは、僕を名前で呼んでくれていたのかな――なんてね。いまでもね、ちょっと自惚れては、独りでニヤついているんだよ。 ▼ ▲ あれから、ずいぶんと月日が流れたよ、めぐ。君と僕が、とんでもなく遠く隔てられてから、もう7年が経ってしまったんだ。17歳だった僕は24歳になって、駆け出しの社会人さ。 1年に一度、この七夕の夜に、僕はここを訪れる。めぐが入院していた、有栖川大学病院の屋上に、天体望遠鏡を担ぎながら。あの頃とは比べ物にならないほど高性能の望遠鏡だ。 「よく続くものねぇ。ホぉント、呆れるわ」 僕の傍らで、腕組みしながら吐息するのは、めぐの一番の親友だった女の子。いまでは立派な看護士になって、有栖川大学病院に勤務する水銀燈だ。僕が、毎年こうしてここに来られるのも、彼女の協力あってのこと。 「水銀燈には、感謝してるよ。言葉じゃ安すぎるくらいにね」「あっそ。別に、興味ないわぁ」 まーた始まった。昔から素直じゃなかったけれど、最近は、ひねくれ度合いが増してる気がする。僕は苦笑しながら、水銀燈へと向き直った。 「今年は、すっきりと晴れて見られそうだよ、天の川」「……そう」 水銀燈は、ふっと長い睫毛を伏せた。「めぐにも、見せてあげたかったわね」それは、言わずもがな。だからこそ、言うべきではない。 「一緒に見ないか」「……えっ?」「見て欲しいんだ、誰かに」「私は――」 言い淀んだセリフをかなぐり捨てるように、水銀燈は望遠鏡を覗き込んだ。そして、「綺麗ね」と。同じ感想は、繰り返されたとき、湿り気を帯びていた。 三度目はなくて――身を翻し飛び込んできた水銀燈を、僕はしっかりと胸で受け止めた。それから、憚ることない彼女の嗚咽に紛れて、僕も少しだけ泣いた。 星の川が流れる夜空の下で。僕たちは、涙の川を流し続けていた。 めぐ――僕らもいつか、織姫と彦星のように再会できると、信じてるよ。ただ……それは、断言できないけれど、まだずっと先の話になると思う。もしかしたら、寂しさに負けて、君の親友と浮気をしてしまうかもしれないけどさ…… そのときは、赦してくれよな……めぐ。 『七夕の季節に君を想うということ』
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