SEAVEN side - J 「飛行船」
靴音が響く。side -J「飛行船」何時間経ったのだろうか、一時間? 二時間? それとも一日?彼らにそれを知る術はなかった。だが、流石に日付が変わっていると言うことはない。エレベーターに乗り込んだのが、午前5時。上に着くまで、およそ一時間。それらを考えると、流石に日付が変わっていると言うことはあり得ない。だが、彼らは疲弊し、全ての感覚がマヒしていた。終わりの見えない階段を上り続ける。すでに、限界を超えていた。先ほどの螺旋階段と違い、この大階段は無駄が多いと、彼は思っていた。一つの四角い大きな部屋の四辺の壁に沿ってかね折れ階段が伸び、延々と四方を回り続けなくてはならない。段差は今度はそうきつくないが、その分上昇できる速度が遅くなっていた。一ブロックの階段の端から端までの長さはおよそ二十メートルと長い。だが、壁から手すりまでは約五メートルとかなり広いので、ある程度はましと言えた。何度も何度も休憩を入れる。それでも何度も、階段から転げ落ちそうになった。ジュンは、吹きぬけから下を見下ろしてみる。結構上まで来たみたいだ、もう下が見えない。彼はそう思った。もともとそれまで以上に照明は暗かったが、その暗さに眼はもう既に慣れ、辺りは大体見えている。そういう状態でも下が見えないのだった。そしてそのまま今度は見上げた。終わりは見えてこない。どこが終着なのか分からなかった。彼は、壊れて動かない時計を見る。そしてため息とともに再び歩き出す。隣にいる蒼星石を眺めた。俯いているため、その表情は読み取ることが出来なかった。彼らの目の前にあるのはただ、闇。闇は明るく風に乗って。何故だか、これまでのこと全てを思い出していた。生まれてから、今までのこと、全てを。コツコツと、靴音が冷たく響く。少年は、ここまで辿り着くなんて、思いもしてなかった。美しき追憶の中、この照明は消えていくよ。人影が一つ、照明の中に浮かび上がっていた。延々と続く階段。唯一の異物。彼ら二人は仕方なく、それに近づいてく。階段の上。踊り場にあるのだ。近づくにつれ、その正体ははっきりとしていった。ピエロだ。それもかなり古い。一体どれほど昔のものなのか、埃が積もり、汚れはこびり付いていた。外見においても、大きく差が認められた。手足は現在より太く、筋肉ゲルの量が多いらしい。また、身長が高かった。おそらく、これが使用されていた当時の平均身長はこれぐらいだったのだろう。カラーリングも現在のように派手ではなく、服を着せられていた。それでもしかし、顔は現在とそれほど変わってはいないようだった。いや、目玉部分のライトが、現在のは二つであるのに対し、これは一つ――モノアイだった。彼ら二人が目の前に立っても、動く気配はなかった。腰にはホルスター、胸元にはナイフポシェットを身に付けていた。警官と言うより、軍人と言った風貌だ。そして、どこか人間味を彼らには感じられた。服装のせいもあるかもしれない。「たぶん、これ軍服だよね?」ジュンは尋ねた。「そうだと……思うよ」彼女は自信なさそうに答えた。そして、頭に積もっていた埃を払ってやる。「彼は、どれだけのことをしたんだろうね? 地下への避難だけじゃないかもしれない。 それ以外にも治安維持に当たったはずだ。 その結果がこれだったら、少し……寂しいかもね」彼は、何も答えない。このピエロにどこか懐かしさを感じ取っていたのだ。重い足を引きずり、体を無理やり前へと運ぶ。先ほどのピエロはそのままだ。装備品を奪うことは、遺体を弄ぶ、追い剥ぎのように感じられて彼らは嫌だった。
そして、それに背を向け、歩きだした。「なぁ、ピエロに性別にあるのか?」ジュンは問いかけた。「さっき、“彼”って言ってたけど……」「え? そうだっけ? 覚えてないや」蒼星石は見上げ、言った。その視線の先には、階段の裏側しかない。「多分、無意識で言ったんだろうね。それにさ、あのピエロ、どう見ても男性的じゃない?」「まぁ、そりゃそうだけどさ。……うーん。逆に女性っぽいピエロって想像つかないな」「そうだね」二人は軽く笑った。「あのピエロ、何か見覚え――っていうか懐かしいんだよなぁ……」彼は感慨深く口にした。「どっかで見たわけもないし……。何で何だろ?」「さぁね。気のせいじゃない? サーカスかなんかで見たんじゃ?」「いや、サーカスは見たことないんだ。あの空間が苦手でさ。 姉ちゃんに行こうって言われたことはあるけど」「え? お姉さんいるの?」「うん……あれ? 言ってなかった?」「初耳だよ。どんな人なの?」「三つ上でさ、お節介過ぎんだよ。あの頃は、鬱陶しくて嫌だったな。 でも、一人暮らし始めてから少し変わったかもな。 今となっちゃ、あの鬱陶しさが懐かしい」遠い目をしてから、笑う。「そっか、離れてから変わったんだ、ジュン君」「そうかもな」「僕にも姉はいるけど、あんまり君のお姉さんと変わらないかもね」「そうだ、蒼星石にとって、翠星石はどんな感じだったんだ?」「離れて暮らしていた時間の方が、長いけどね。 少なくとも、大好きだった。つい最近まで、ちょっと恨んでたこの口が言えた義理じゃないけどね。 一緒に暮らしていたころは……、やっぱり君のところと同じでお節介だったね。 今みたいに人見知りだったけどさ。 人がいたらぼくの後ろに隠れてしまうんだけど、いつも先に動くのは彼女だった。 ぼくの手を引いてね」「はは、そうか」一息ついたのを見てから、彼は言った。彼女は薄く笑った。それを見て、彼も笑った。「何か、音……しなかった?」しばらく進んでから、彼は物音を聞いた気がした。「うん。ぼくも聞こえた……」彼女も同意する。そして、その音は今も連続的に聞こえてきていた。まるで、何かが走ってきているかのように。急いで二人は階段から身を乗り出し、見下ろして、その音源を捜した。そしてそれはすぐに見つかった。一つ。大きく揺れる影。「なぁ、あれって……」「うん、多分……」二人とも同じ予想をしたようだ。そして、あれに追いつかれてはまずい、そう思った。走り出す。出来る限りの速さで。彼らにとって、幸いなことはあれが古いものであり、その全盛期の力を発揮出来ないことに尽きる。もし、その真価を発揮出来ようものなら、ものの三十秒もしない間に追いつかれていただろう。だがそれでも、少なくともその速度は成人男性の平均ほどはあった。疲労困憊した彼らに追いつくのはそう先のことではないだろう。ぜぇぜぇと荒い息で、階段を駆け上がる。こけてしまいそうになるが、寸でのところで堪える。肩が激しく上下し、その視界には涙がにじむ。鼓動は絶えず耳の奥で響き、心臓は破裂しそうなほどに痛い。どこか遠くで、少女が祈った。そこからの記憶は彼には残っていなかった。気がつけば、ドアの前にいた。一瞬だった。記憶に残らないほど我武者羅に走っていたのだろう。蒼星石がそのドアに飛びつき、開けようと悪戦苦闘している。ジュンも開けようと手伝ったが、思いのほか重い。ピエロの姿はもう、すぐそこだった。二分の一階層分の距離しかない。ジュンは、ドアからいったん離れ、今だ持っていた拳銃を構えた。威嚇射撃に効果はないだろう。持ち上げるのもやっとの腕で、狙いを定め、撃つ。引き金が重い。腕は震え、照準など定まるわけがない。一発目の弾丸はピエロの遥か右で壁を削るだけだった。もう一度、狙いを付け、撃った。今度は、ピエロの真上を通過した。三度目の正直もなかった。見当違いのところに消える。もう既にピエロは一つ下の踊り場にいた。焦りが出てしまった。ろくに照準が合わないままに、引き金を引いた。かすりもしなかった。もう一度、引き金を引いた。カチリと言う音がしただけだった。弾切れだ。この拳銃はレボルバータイプ。装弾数は六発。この階段に辿り着くまでに、二発撃ってしまっている。ピエロは、跳んだ。その手にはナイフが握られている。スタンガンを出す余裕などない。ピエロの跳んだ先には蒼星石がいる。いまだにドアは開いていない。考えるよりも先に、彼の体は動いていた。両手を広げ、彼女への道を塞ぐ。彼の体は揺れた。右下腹部から液体が流れる。しかし、その量は思ったほど溢れてはこなかった。ナイフ自体が蓋となっているのだろう。不思議なことに、彼は痛みを感じなかった。そして、彼の体を見下ろす、彼自身がそこにいた。死ぬと言う感触はない。ただそこに残ったのは、刺されたという事実だけだった。右腕でピエロの体を抱きしめる。余った左手で、上着の左ポケット入っていたスタンガンを取り出した。そしてゆっくりとそれを握った左手をピエロの背中に回した。その先端を彼の背中に押し当てた。「お疲れ様」心を籠めて、囁く。火花が飛び散るような派手さがあるわけではない。ただ、体が痙攣を起こし、跳ねた。その電撃は桜田自身にも流れ込む。二人の体は離れる。ジュンの体にはナイフが刺さったままで。ピエロの目玉部分である一つのライトがジジと強弱を変える。ゆっくりと後ずさって行き、その背中が手すりにぶつかる。ジュンは、彼に手を伸ばす。届かないと分かっても。そして、落ちた。そのときになってようやく、蒼星石が彼の名を叫んでいることに気づいた。その眼には涙が浮かんでいる。「どうしたんだよ。蒼星石」「ジュン君! ナイフが!」「大丈夫だよ。先に進もうよ」震える足で立ち上がり、ノロノロとドアノブを握る。「何してんだよ、蒼星石。手伝ってくれよ」そう言って、微笑んだ。彼女は無言で頷き、ドアに手をかけた。今度は――と言っても先ほどまで蒼星石が格闘していたからだろう、あっさりと開いた。眩しい光が暴力的に流れ込んだわけではない。その先には一つの広い階段と、その最上段には装置があっただけだった。その階段の先には天井があった。しかし、ただの天井なわけではない。ドームのように半球を描いており、よく見たら、そこに小さな裂け目がついていた。そこが開閉するのだろう。ジュンは、ふら付いた。慌ててその体を蒼星石は受け止める。彼女は彼の腕を肩に回し、支え、そっと歩きだした。「この選択の先は、破滅しかないとしても」ジュンは呟いた。「そう思ってたんだ」蒼星石の頷く動きを彼は感じた。「でも、多分、待っているのはそうじゃない」一息吐く。「狂おしい空白だろう。あとは希望に満ちているさ」そう言った。彼を階段の端の壁に腰掛けさせる。彼女は、その装置をいじり始めた。とはいっても、スイッチが四、五個あるにすぎなかった。「最初は、誰でもよかったんだ」背を向けたまま、彼女は言う。「手助けしてくれる人なんて、誰でも」一つ一つゆっくりと押していく。「でも、今は違う」全ての思いを込めて押してゆく。「君でよかったよ。いや、君じゃないと駄目だったんだろう。ぼくには」彼女は振り向いた。「ありがとう。ジュン君」首を少しかしげ、微笑んでいた。ゴゴ、と音が鳴り響く。ゆっくりと、その天井は開いている。「僕もさ。連れてってくれてありがとう。蒼星石」その声は、彼女に届いたのかはわからない。木の葉が一枚、ひらひらと落ちてきた。そして、それはジュンの太股に乗っかった。二人は、見上げた。初めて見る空。でも、どこか懐かしい空。汚染された遺伝子にも、この空は見覚えがあるらしい。ただ、空は、いつまでも変わらずに、そこに浮かんでいた。side -J「飛行船」了SEAVEN 終
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