SEAVEN 第七話 「忘却の空」
人々が空を忘れてから、どれくらいだろう。何年も、何十年も、何百年も、いや何千年も昔のことなのかもしれない。僕らは、空を捨てた。大きな戦争があり、地上は汚染され、地下へ逃げ込むしかなかったのだ。何世代も人が変わるにつれて、もはや、空とは人にとって、神話の世界へ変わってしまった。薄暗く、狭い地下室。それが、僕らにとっての全て。見上げても、そこには手の届くかもしれない天井ばかり。だけど、当り前の閉塞感。その中で、人々は更なる閉塞感を生み出した。階層社会。1stから7thまでの階級。これらは、職業により決定される。しかし、どうしようもなく、変えることのできない階級というのが存在する。1stと7th。この2つだ。生まれたときから、定められた階級。何故、この2つが固定されているのかなんて、知る由もない。ただ、僕らはここから逃げ出すことを決めた。SEAVEN第七話―prologue「忘却の空」落ちてゆく感覚。着地。流されてゆく。そして。頭部の痛覚が激しく存在を主張する。その感覚で彼は目を覚ました。視界が歪む。捻じれた様に。ベッドのそばの水差しから水を直接飲んだ。少しずつ痛みが引いていった。何か悪い夢を見ていた気がする。ふうと、息を一つ吐き、部屋を見渡した。白で統一された、シンプルで上品な部屋。ここの家の人間そのものだ、そう彼は思った。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――一日前。午前十二時半。警察の要請により、一つの貨物車が停止させられた。実際のところ、停止勧告はもっと早い段階から出されていたのだが、業務との折り合い、警察の捜査のし易さを考慮し、駅に停車するこの時間に止められたのだ。しかし、犯人、人質含めた三人はこの列車からすでに離れていた。午後一時。「ひとまず、ここまでくればいいかな……」桜田ジュンは呟く。そして、回収した鞄から元の服を取り出し、着替える。予定通りの場所に運ばれていたそれを回収したのだ。フォンブースの中。そこに鞄は無造作に置かれていた。そこに人の気配はなかった。「ここまで来たのはいいけど、これからどうするの?」蒼星石は尋ねた。それまでの警察の取り調べ、約一時間の不安定な列車の旅、逃亡によって疲れ果てている。「どうしよっか?」ジュンは力のない笑みで、返事した。「正直なとこ、お前を脱走させるだけしか考えてなかったんだ。その後のことなんてさ。こんなにうまくいくとは思わなかったよ」「嘘!?」「うん。ただ、助けたいと思っただけだったからさ。それ以降のことは何も考えてなかった」ジュンは視線を逸らす。笑っていた。彼女は。蒼星石は。涙まで出ている。それを指で拭いながら、「ばかだね。これから余計立場悪くなるって言うのに」と言った。「な!? これでも、必死に頑張ってきたんだぞ! それを――」「でも、ありがと」彼の言葉を遮る。「何よりもぼくを先に考えてくれたんだね」「な!? そ、そんなもんじゃない! ただ、借りを――」「そういうことにしておくよ」「でも、これでぼくらの旅は終わりだろう。楽しかったよ。ジュン君」「自首するつもりですか? 貴方達は」黙っていた白崎が口をはさむ。「正直、私としても残念ですよ。ここまで大胆なことをした貴方達がどこまで行けるのか、見てみたかったんですがね」本心なのかどうなのかは分からない。そう、口にした。「いや、考えというか策は確かにもうない」ジュンは告げる。「ここからは運なんだ。『また逢うことになる』って言われた。そう言ったやつがいるんだ」ジュンは考えを巡らせる。「彼女は、そう言った。信じてみるしかない」――そう思わせられるだけの魔力はあった。「もう、賭けだ。その言葉の本当の意味が違うのなら、僕らの負け。合っていたら勝ちだ」――機械じかけの神でも何でもいい。「白崎さん。怪我してるところ悪いけど、もう少し付き合ってもらうことになるかもしれません」――取り返しのないところまで来たんだ。 僕らを救え。だが、誰も現れる気配はない。手を差し伸べる人物はそこにはいなかった。「それって、どんな人?」蒼星石は尋ねた。「えっと、印象でいいか?」「うん」「悪いけど、よく分からない。何故か外見は頭に入っていないんだ。あるのは、独特な空気だけ。 まずは妖艶な感じだった。服装が、じゃなくて雰囲気が。 声を聞くたびに蜘蛛の糸に絡まってゆくように。 あと、色で言えば、真白。全く何にも染まってないような白だった」眉にしわを寄せ、瞼を閉じてジュンは言う。「……。ごめん。全く分からないよ」蒼星石は答えた。「そりゃそうだよな。こんな雰囲気だけじゃ」体の力をふっと抜く。「あ! 右目に薔薇の眼帯をつけてた!」思い出すと同時に叫んだ。「そうだよ! なんでこんなこと忘れてたんだろ!」興奮してジュンは叫ぶ。妖艶、白、右目に薔薇の眼帯。そう何度も蒼星石は繰り返し呟く。そして、「思い当たる人物はいる。 でも、ジュン君。もしそうなら、君はとんでもない人に目を付けられたことになるよ」蒼星石は言った。「ここだよ」案内を終えた蒼星石は告げた。ジュンは来る途中に時計を見、その時針は、午後六時半を指していた。心当たりの人物を告げた時点で午後一時半。それからは、蒼星石とこれからのことを語り合っていたのだ。途中で白崎が茶々を入れながらも。不思議と、彼ら二人は白崎の拳銃を奪おうとは思わなかった。わざわざ奪わなくてももはや彼が抵抗することはない、そう確信していた。怪我のせいもある。素人目にも、右手薬指は骨折。左肩は腫れあがっていた。しかし、その怪我がなくても、彼はこの通りだったのかもしれないと、ジュンは思った。そして、十分に議論――という名の雑談を終え、ジュンが持ってきていた地図を片手に、警察が少ないであろうルートを辿っていた。このルートに関して白崎は何も口を挟まなかった。そして、辿りついた。目の前には翠星石の家に勝るとも劣らない大きな門がそびえる。監視カメラが彼らを捉えているが、そのことは重々承知していた。開き直りに近い心情だった。門はゆっくりと開き、彼らを招き入れる。それに従い、彼らもその中に入ってゆく。異様な空間だった。悪い意味などではない。ここは本当に地下なのだろうか、という疑問が三人の中に湧いていた。広い庭には、翠星石の家にもなかった緑が茂り、様々な鳥、虫がいた。ここは外壁がドーム状になっているが故、外から中が見えない。誰も、ここの中がこのようになっているとは思いもしていなかっただろう。余りにも、異様な景色だった。くすんだ地下とは隔絶された世界。隔絶されたはずの地下からさらに隔絶されたバイオトープ。そして、広い庭を抜けた先にある屋敷はくすみのない白。ジュンの記憶の中の彼女、そのものと言えた。そして彼らが感じたのは息苦しさ。美しく完全な世界を前とした自分自身の不完全さ、醜さ。羞恥、悲観、淀み、腐臭。かつて考えたことのある全てに彼らは後悔を覚えたのかもしれない。しかし、それらを振り払い、屋敷のドアの前に立った。音もなく開くドア。人が開けたわけではなさそうだ。中も白が眼に焼きつく。壁、床、何もかもが。唯一赤い絨毯が敷かれその色を強調する。そして、その絨毯の先に一人の少女がいた。笑みをその顔に浮かべている。「ようこそおいでました、ジュン様。蒼薔薇様。白崎様」全て、彼女は知っているのだろう。何もかも。「改めて、紹介させていただきます。私、雪華綺晶と申します。階級は1stですわ」はは、とジュンは乾いた笑いを洩らす。まさか、彼女が1stだったとは、予想していなかった。いや、薄々感づいていたのかもしれない。あの時、あの交差点ですでに。あの異常な時間。普通ではない座標。「ついにここまでたどり着きましたね。ジュン様」そう彼女は妖しく微笑み、ジュンを見つめた。見つめられた彼は、緊張の糸が切れたのか、膝から力が抜け、崩れ落ちた。あてがわれた部屋のベッドにジュンは腰掛け、もの思いに耽った。正直なところ、彼は何も持っていなかった。具体的な空までの道のり、方法。空を目指す理由。蒼星石を助けた理由。不安定なままでここまで来た。細いクモの糸を登ってゆくように、彼はここまで来た。そして、不意に、涙がこぼれ出した。彼自身、何も分からなかった。何も分からないからなのか、何も分からなくなったのか。それすら分からず。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――手錠を掛けられた彼は一人、あてがわれた部屋の椅子に座っていた。怪我した箇所は鎮痛剤をもらってうち、枕木を当て包帯を巻き、固定している。腫れて熱を持っているが、薬が効いてきたのか痛みはない。怪我の箇所が三日前のピエロの損壊場所を思い出させる。左肩と右手薬指の骨折。まさに同じ場所だった。あれは偶然なのか、必然なのか。それとも警告か。馬鹿馬鹿しい。偶然の産物だ、と彼は否定した。幸いなことに、複雑骨折でも粉砕骨折でもない、単純骨折だった。頭を後ろにそらし、背もたれにもたれる。ギシと椅子が鳴った。「私は何をしたいんだろうな」正しいと信じていたことと、正しいと信じていることの両方の行く先が、目の前に横たわっている。きっと、手を伸ばせば届くだろう。どちらの未来にも。保守か、革新か。その時、彼の銃はどこを向いている、誰に向けられているのだろうか。今はまだ、答えは出ていなかった。腰に付けられた銃を誰かに突き付けるという気が起きなかった。彼にも、彼女にも、彼女にも、自身にも。「なぁ、君は今どんな顔で僕をみているんだ?」――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――この屋敷には彼女以外いないのではないか。そう思えるほど、人気がなかった。ここを全て見て回ったわけではないが、それでも何かしらの気配はあるはずだ。午後八時、食事を振舞われた彼らは、また再び部屋に戻り、それぞれの思考を巡らせていた。基本的に全員、一人が好きなのだろう、誰も誰とも接触することはなかった。ジュンは靴を脱ぎ、ベッドに横たわり、天井を眺めてた。占術の如くそこから何を見出すわけでもない。おそらく、この愚行は家族に知れ渡っているのだろうな、と思った。父と母を彼は両親と認めていなかった。放任主義という名のネグレクト。仕事で別の地区にいることが多い、と言われてもそれでも戻ってくることは多いはずだろう。一番つらい時期でさえ、戻ってくる頻度は変わらなかった。確かに彼らと血は繋がっているが、それに何の意味はない。不満があるわけではない。もはや、それが当たり前の状態と化してしまったのだ。ただ、一人、肉親と認めた姉を思った。彼女には素直に謝りたかった。帰ってこれたら。無事に。その時、彼女はどのような表情で迎えるのだろうか。怒っているのだろうか、泣いているのだろうか、笑っているのだろうか。そのどれでもあり、どれでもないだろう。彼女の過保護ぶりには辟易していたものの、一人暮らしをしてみると、どれだけ依存していたかよく分かる。何をするにおいても、弟を優先していた姉。今、どうしているのか。帰ってきたら、電話の一つ、いや帰ってみようか。そう思いながら、彼の思考は眠りの海へ沈んでいった。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――どこかの、人気のない駐車場。そこに二人の男女がいた。口論している。いや、正確には女が何事かを叫んでいる。そして、銃を向け……――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――頭部の痛覚が激しく存在を主張する。その感覚で彼は目を覚ました。視界が歪む。捻じれた様に。ベッドのそばの水差しから水を直接飲んだ。少しずつ痛みが引いていった。何か悪い夢を見ていた気がする。ふうと、息を一つ吐き、部屋を見渡した。先ほど見た夢を思い出そうとするが、覚えていない。悪い夢だったのは確かだ。寝汗がひどい。何を持って悪い夢と判じたかすら、忘れ切ってしまっていた。腕時計をつけたまま眠ってしまっていたようだ。ついでに確認する。針は六時を指していた。晩餐が午後八時だったのだ。どう考えても午前だろう。これはアナログ式なのだ。午前と午後の区別はつかない。何もすることがないが、部屋を出ても迷いそうだったので、彼はここにいることにした。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――「よく眠れましたでしょうか?」雪華綺晶は、集まった三人を見て、まずこう言った。「朝食は、食堂に運んでますわ。どうぞ、ご自由にお取り下さいまし」そう言って、扉の一つを示した。そこが食堂なのだろう。「それから、午後九時までここを離れないでくださいまし。あなた方が必要とする準備がございますので」彼女はそう言い残し、奥の部屋へと消えていった。ジュンと蒼星石は顔を見合わせる。「どうする?」「どうするも何も、ここは言われたとおりにする以外ないだろ?」「それはそうなんだけど彼女のこと、信じていいのかなって?」「もう信じる以外に無いじゃないか」そう言いながら、ジュンは雪華綺晶の真意を掴めずにいた。彼女は1stであり、この地域の統治に携わる者のはずだ。自分たちは空を開こうとしているのに。普通に考えると、何としてでも防ごうとするはずだ。だが、今現在、こうして逮捕されずにいる。昨日からここにいるのだから、チャンスはいくらでもあったはずだ。なのに……。「うん。とりあえずは彼女の言うとおりにしておこう」半ば自分に言い聞かせるように口にし、頷いた。そして、白崎の方を振り返る。彼は、ただ肩を竦めただけだった。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――「もしかすると、今日のが最後の晩餐になるのかもしれないな」ジュンは思ったことをそのままに口にした。蒼星石は、パンにバターを塗っていたその手を止めて彼を見る。「あ、何か悪い。変なこと言っちゃって」彼は慌てて、謝罪する。「いいよ。ぼくだって分かっていたことだからさ」蒼星石は笑って流す。彼女の食べ方は綺麗だった。マナーがいいだけではない。どことなく気品あふれるものに感じた。ジュンは、セブンでもこういう人間はいるんだな、と驚きを感じ、そしてそのような考えを持ったことを恥じた。知らず知らずのうちに、差別意識を持ってしまっている。会話に何の興味を示さない白崎をチラと見た。白崎は怪我のため難儀しているようだが、彼も上品な部類だ。もしかすると、一番汚いのはジュンなのかもしれなかった。それでも、世間一般だったら十分に綺麗な食事とみられるのだが。「でも、悪かったな。こんなこと言っちゃって」「仕方ないよ。ナーバスになるのも分かるさ」その時、白崎が咳をした。失礼、と詫びる。何故か、その唇は緩んでいるようにジュンには見えた。「毒は入ってなかったね」茶化して言った。失礼だとは分かっていながらも。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――何かやることがあるわけでもない。そのまま時は流れ、昼食、夕食を振舞われた。1stならば、豪勢な食事をとっているのだろう、とジュンは思っていたが、その考えを改めさせられた。質素。いや、食材は悪いものを使っているわけではない。味付けはどれも薄く、加工も最低限のことしかしてないように彼には感じられた。夕食は雪華綺晶も一緒であり、尋ねてみたので確実だ。彼女はベジタリアンなのか。肉はどこにも見当たらなかった。そして、彼女の食べる量にも驚かされた。少ないのではない。多いのだ。それも体のどこに入っているのか分からないぐらい。「それで、準備って何をしてた……なさっていたんですか?」夕食が終わり、ジュンは尋ねたが、間違いに気づき、慌てて言い直す。雪華綺晶はふふ、と笑う。「エレベーターの点検ですわ」「エレベーターって、最後のですか?」蒼星石が尋ねる。「ええ。そうです」にこりと。「ですが、あれって電力供給ビルに一旦行かないといけないのでは……」彼女の中の情報を元に疑問をぶつける。「そちらにも、協力して下さる方がいるのですか?」「いえ。違います」雪華綺晶は否定した。「そもそも、あれは嘘ですわ」「は?」ぽかんと口を開ける蒼星石。「ですから、嘘なのです。頭の言い方は上手く引っかかって下さいますし」悪戯に笑う。「あそこは元々、独立した電力で動いていますの。あそこはどこの地域のものではない、ということですわ」全てを否定した笑顔で笑う。不思議なことに、あの妖艶さは今は消え失せ、ジュンには年相応の少女にしか見えなかった。「じゃあ、準備って何を?」ジュンは話を戻す。「ですから、エレベーターの点検ですわ」教えてくれる気はないみたいだ。そうジュンは思った。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――時計が午後九時を示す頃、彼らの荷物はまとめられ、ここにいた痕跡も消えていた。ジュン、蒼星石のふたりにとってはここまで長居する予定などなかった。流されるままにいる。それまでの能動的だった彼らの行動とはかけ離れたものと言えよう。四人の集まった部屋は、屋敷の奥。廊下の突き当りにあった。明らかに隠そうという意思がある。ドアは周りの壁と同じ色で続き、ノブも注意してみないと分からないような突起だった。この部屋の照明は暗く、ぼんやりとしか四人の輪郭を映し出さない。その影の中で、雪華綺晶は一つの扉を指差した。「この扉の先は通路となっております。ずっと突っ切って行きますと、螺旋階段に辿りつきます。 その先に一つの部屋があります。そこには、いくつか扉がありますが、左側の四番目を抜けてください。 そこから再び、通路が長く続きますが――そうですね、歩いて三十分ほどですわ、最後の扉があります。 あとはおそらく、お分かりになるでしょうね。お二人は」そう言って、蒼星石と白崎を見る。「そこって、一か所以外、一本道なんですか?」蒼星石が尋ねた。ジュンも頷き、答えを求める。雪華綺晶は首肯する。「そうですわ。迷うことはございませんと思います」この部屋の照明はゆっくりと落ちて行き、廊下から零れる光だけがここを照らした。「ジュン様」雪華綺晶は背を向け出ようとしていた彼を呼びとめる。彼は振り返り、ぞくりとした。暗いこの部屋の中でも、分かる。彼女は、あの時の笑みを浮かべていた。あの、妖艶さを。「貴方は、呪いに掛けられたお姫様」あの時の言葉を再び吐く。照明の落ちたこの部屋で、白の彼女は妖しく笑んでいた。その唇は、形をかえ、優しげなものに変わる。そして、言葉を紡いだ。「貴方にかけていた呪いを、今、解きましょう」彼女が近づく気配。コツコツと靴音を立て。すぐそばに彼女の吐息を感じた。それが、ゆっくりと近づいてくる。そして、不意に唇が塞がれた。柔らかな感触が彼の唇を覆う。蠢き、それは一定の形に留まらなかった。彼の唇を何かの異物が割り込んでくる。歯で拒むこともできるが、それはしなかった。舌が絡み合う。唾液と唾液が混ざり合い溶け合う。二匹の蛇が頭を腹を擦り合わせる。彼の全身の性感帯、むしろ感覚は一斉に移動を行い、口内に集中しているかのようだった。唇が離れ、粘性を持った糸を引く。彼の中にはいまだ、その刺激が残っていた。彼女が一歩下がり、「では、さようなら。お気をつけてくださいまし。もう逢うことはないでしょう」そう言った。彼には、彼女の意味が全く分からなかった。呪い、そしてもう逢うことはない。突然の接吻。だが。「今まで、ありがとう。でも、また会いたい。もっと、話をしてみたい」思うままに口にする。「お前の言う呪いが何かは分からない。でも、きっと悪いものじゃない。そんな、気がするんだ」そして、背を向け歩きだした。振り向くことは、なかった。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――明かりの落ちた部屋。一人残った彼女は、去りゆく背中を見送る。その扉が閉まる頃、彼女は落涙した。愛しく想うのは届いていた人について。時折想うのは届いていた人について。届いていた愛について。「届かなかった、でも愛していて」そう思わなかった日はない。願いは脆いものだと思っていた。でも、違った。何度めの輪廻か。彼と出会えたのはこれで四度目だ。忘れていると思っていた。でも、届いていた。始まりは、私は彼を非日常へと連れ去った。次は、彼の敵であり味方であり、理解者だった。三度目は、彼が私を非日常から救おうとしてくれた。これで最後にするつもりだった。別れを言おうと思っていた。私が切った糸を、彼は容易く繋いでみせた。きっと、終わりなどないのだろう。全てにおいて、終幕などない。一つの大きな流れの中で、何かが繋がっている。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――彼女の屋敷の隠し通路の中で、蒼星石と白崎の二人は待っていた。「じゃあ、行こうか。桜田君」彼には、彼女の言葉が何故か棘を持っているように聞こえた。「なぁ、どうしたんだよ? 蒼星石」「知らない」振り向かず答える。その様子を見て、白崎は笑いの発作をこらえていた。通路はひんやりと冷たかった。しかし、湿気は全くない。壁に結露はなく、床も湿ってないので歩きやすい。ざらざらとしたコンクリートの壁の、床から30cm程の所にこの通路を照らす明かりが取り付けられていた。間隔はおそらく3m。ただ、この照明も強いものではなく、ぼんやりと空間を示す程度の物だった。無言で歩く三人。一番前に蒼星石、その次に白崎。最後はジュンという並びだ。一応のために白崎の腰には紐が括りつけられ、その先をジュンが握っている。まるで、容疑者の護送のようだった。ただし、実際の立場は真逆なのだが。しばらく歩いていると、彼女の言ったとおりに階段が見えてきた。半径、2mほどの螺旋階段。この階段の先にあるはずの扉は目視できなかった。見上げてみると、案外高く延びていた。階段の段差も大きいのでそのせいもあるのだろう。「うへぇ。結構きつそうだな」ジュンはそう漏らした。そう思ってはいるのだろうが、口にすればさらに長く感じてしまうと考えたのか、誰も返事しなかった。彼らは手すりに手をかけながら、ゆっくりと登り始めた。螺旋階段の支柱部分に電燈が通っているのだろうか、そこから淡い光が漏れる。しかし階段を登れば登るほど、辺りは次第に暗さを増し、彼らの不安感を煽った。下が見えてしまうせいもあるだろう、最初に叩けていた軽口も減り、今ではカンカンという足音しか響いていない。段の数は百を超え、二百を超え、三百を超え、もはや数えることを放棄してしばらくしてからようやくゴールが見えてきた。螺旋階段の果てに多少の平坦な床が続き、その先に壁に付けられた観音開きの扉があった。この階段は途中から接続される道はなく、つまり一番下からしかここには辿りつけないようだった。先頭の蒼星石は錆びたノブを握り、押しあけた。ノブがさびていた割に、簡単にドアは開き、彼ら三人をその先へ招き入れた。扉を開けるとそこは、見たこともない景色が広がっていた。見たこともないほどに、美しい景色が。けど、どこか懐かしいとさえ思える、そんな景色。あたり一面に緑が広がり、その色が風に揺れ、規則正しく流れを象る。何処までも続く、広い世界。気がつけば、扉は消えていた。彼の近くには、ただただ大きな樹。樹なんて、生まれて初めて見た。地下には、決して育まれることのない、その命。見上げれば、そこには赤。沈みかけの光輝く球。あれが太陽なのか。視線を下ろすと、そこはその赤さに染められていた。ただ、違和感のあるものが。黒く、名前もなにも書かれていない、墓。いや、それが墓なのかどうかさえ分からない。何となく、そう思っただけだ。そして、触れているはずなのに、感触のない草。それに気がついた瞬間、世界は色を変えた。目の前に広がっていたのは、薄暗く、ただただ広い空間。いや、その他のものもあった。先ほどの景色の中にあった大樹。そして、墓のような黒い何か。それは一つじゃなかった。墓のように思えたのは、整然と並んでいたからなのだろう。もしかすると、先ほどの景色の中、これの前に手向けられたように花が揺れていたのかもしれない。「これが、空なんだろうね」白崎はいつの間にか、大樹の根元に腰掛けていた。「それで、これからどうするつもりだい?」彼は天井を見上げた。「君が、空を目指す理由ってなんだったのかな? 桜田君」白崎は、ジュンを見た。「僕は……。僕は……」彼は戸惑う。「空を見たいだけなら、これで十分だと思うんだ。偽りの空でも、こんなに青い。 忘却の空は、もっと綺麗かも知れない。でも、汚いかもしれない。 私たちは、空を箱に閉じ込めて、再び箱の中で生活する方がいいのかもしれないね。 幻滅、したくないのなら」白崎はジュンから視線を外し、今度は蒼星石を見た。「君は、理由があるのか。けど、結局空を開いたところで、何も変わらないのかもしれない。 私たちは、飛べないんだ。どこまで行っても、逃げられない。 逃げられないんだよ……」そう、俯いた。何かを思い出したかのように、悲痛な表情で。白崎は笑った。だが、その声は乾いていた。「じゃあ、行こうか」部屋が暗いため、彼の表情は二人からは見えることはなかった。雪華綺晶に言われたとおりの、左から四番目の扉を開ける。その先は、先ほどまでの通路と同様だった。何もなく、薄ぼんやりとした照明が辺りを照らしていた。
コツコツと響く靴音がジュンにとっては耳ざわりだった。先ほどの言葉、空を目指す理由を彼は考えていた。言われるまで、気づかなかった。ただ、蒼星石について来ていく。今まで、それだけだった。そこに彼の意志は存在していたのか。その思考は延々とループし続け、答えが形になることはなかった。そして、無言の行進は例の最後の扉に出会うことにより、終わりを見せた。「開けるよ」そう蒼星石は言う。頷くジュン。そして、扉はゆっくりと開き――その先に広がる景色はジュンにとっては何の変哲もない道であった。だが、二人には違ったようだ。「あぁ、ここか……」蒼星石は独り言のように呟く。白崎は、何を思い出したかは分からないが、苦い表情を作っていた。そして、蒼星石は右へと歩きだした。何もない一本道。先ほどより、幾分か明るく、そして広かった。壁にはパイプが走り、天井には電気を運ぶためであろうケーブルが下がっていた。ここで挟まれたらどうしようもないな、とジュンは思った。通ってきた道を除けば、一つも逃げ道がなかった。身を隠すものもない。こちらの持っているカード――人質の白崎がどこまで通用するのか不安に思える。もしかすると、人質ごと撃たれるのかもしれない。どうすればいい?――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――「正直なところ、出たとこ勝負としか言いよう無いんじゃないかな?」僕は思ったままを口にした。「それに、こっちには君がいる。立場を利用するみたいで悪いけどね」「そうよね。どうせ、もう包囲網は敷かれてるだろうから、後は天使様のみぞ知る、ね」彼女は、“神”より“天使”の方が好きらしい。僕と出会ったことも、彼女に言わせれば、天使様の御業だそうだ。ひたひたと、冷たい通路を歩く。僕らの影には、これまでのような悲壮感はなかったと信じている。どこかで、吹っ切れたのだ。手痛い裏切りを、悲しい決別を経験して。この旅の終わりがどこにあるのかは、分からない。空を開いて、その先にも何かあるのかもしれない。もしかすると、終わりなどないのかもしれない。絶望を経験した子供は、成長するのか、感覚が鈍感になり痛みを忘れるのか、分からない。僕らの旅は、まだ答えを見いだせていない。正直なところ、今だに僕らは子供のままでいるんだと思う。そしてその時の僕には、大人への一歩目が見えていたような気がしている。僕らは、何かに抗うため、運命から逃れたいがために、空を目指した。嫌な話にはなるが、彼女には生殖機能――子供を産むことが出来ないらしい。先天的化、後天的なのかは分からない。それでも……。明日がなくても、未来がなくても、形がなくても。僕ら二人は子供を残すことが出来る。希望。それが、僕らの子供だ。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――囲まれていた。その数、前に三十人、後ろに二十人と言ったところか。警察だけではない、軍も出動しているみたいだ。それはピエロが配置されていることから分かる。それはそうだろう。ここまで来てしまったのだから。厳重な警戒をくぐり抜けてきた人間に、油断なんて出来やしない。それだけでなく、その中の一人は警察から容疑者を脱走させたのだから。こんなに危険な人物たちはいない。「はは。これで、終わりかな?」白崎を盾にしたジュンは呟いた。「どうだろうね?」蒼星石は、曖昧な返事をし、構えた拳銃を牽制のため、別の角度に向けた。こめかみに銃を突き付けられた白崎は無言を通す。彼の腰もとのホルスターに拳銃は蒼星石に奪われたため、なかった。三人はゆっくりと前へ進んでいく。エレベーターの方へ、ゆっくりと。一歩ずつ。警戒を緩めずに。だが、包囲も徐々にだが、狭まってきている。彼らの逃げ道を奪うように、徐々に。二人とも、分かっていた。もう、どうしようもないことが。「構え!」警察、軍隊の持つ無線機から、中年男性のどすの利いた声が響く。その声の主、猫田は決意をした。“白崎ごと撃つ”と。もともと彼らは知らない仲なわけではない。同じ釜の飯を食った仲間、むしろ、戦友と言える。四日前の桜田と蒼星石を逮捕した時の司令官。それが彼だった。彼は、白崎にかつて命を救われたことがあった。そして、彼のためなら命さえ軽いと思っていた。しかし、上層部の判断は冷たかった。止められないのなら、人質の命もやむなし。命をかけて借りを返したかった親友を殺せ。冷酷な宣告。この時、彼はこう心の中で呟いた。『涙なら、白崎の墓前で流す。そして、この職も辞そう』「私の右ポケットの中のライターを掲げて」白崎はジュンにだけ聞こえるように小さな声で言った。怪訝な顔でジュンは彼を見る。「いいから早く。合わせてください」彼は急かす。ジュンは彼の右ポケットをまさぐり、硬い感触のある物を取り出した。色は黒く、ライターとしては、結構大きなものと言えた。それを見て、白崎は驚いたような顔をする。ジュンは訳が分からなかった。「桜田! やめろ! ちょっと撃つのは待って下だい! 彼らは、爆弾を持っています!」そう白崎は叫んだ。どよめきが広がる。当り前だ、そんな情報など聞かされていなかったのだから。そして、この作戦も爆弾を所持していないことを前提に立てられている。その隙を見て、蒼星石は、エレベーターへ一気に走った。ジュンも慌ててついてゆく。その人の壁に突っ込む前に、蒼星石は天井に向け発砲を行った。人の並みが一瞬だけ割れる。その隙間に飛び込む。目の前に柵が置かれていたが、彼女は蹴り倒した。エレベーターには扉がついてない。もともとそういうものだったのだ。面積はおよそ一辺二十メートルの正方形というかなり大きなものだった。材質は石のようでも金属のようでもあり、見てすぐには分からない。二十センチほどの段差があり、中央には操作のパネルがある。四隅には柱があり、天井を支えていた。また、壁は左右にしかない。ある種、祭壇のような宗教めいたものも感じることが出来たであろう。外から見ても分からないのだが、これはワイヤーでの移動ではなく、磁力によるものだった。雪華綺晶が電気を止められないと言ったのはこれに起因する。彼らは転がるように乗り込んだ。その時、二体のピエロが飛びかかってきた。ジュンと蒼星石の二人は構えていた拳銃の引き金を引いた。ピエロ二体とも似たような吹っ飛び方をした。彼らの放った銃弾は、奇跡的にピエロの頭部――目のようなライトの部分に当たり、貫通していった。蒼星石は急いで起き上がり、真ん中のパネルを操作する。ガコリ、と言う音がしてエレベーターは上昇を始めていった。To side ‐S
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