「銀のスプーンでかき混ぜて」
考えてみると、姉妹や兄弟といった存在はなかなかに奇異と言えるのではないでしょうか?同じ親から生まれて、同じ性別で。他人でも親でもなく、では何かと聞かれれば、やはり姉妹や兄弟と言わざるを得ず。そんな自分との境界が不明瞭な相手を放置できるほど、人はお気楽に出来てはおりません。ですから姉妹や兄弟は、無意識に、かつ意識的に自分の立場を確立させるのでしょう。例えば年上がお兄さんお姉さんぶったり、年下が我が儘を言って甘えたり。あるいは仲が非常に良かったり、酷く悪かったり。自分の立場を演じる、と言うと聞こえは良くないかもしれませんが、間違ってはないと思います。人生は舞台だ、なんて言う人もいますしね。役者が揃い、演目が決まり、舞台に上がり。果たしてそこで行われるのは喜劇か悲劇か惨劇か。ところがこの舞台、時たま途中で失敗する事があります。役がその人に合っていなかったり、無理が積み重なったりなどの理由から続けられなくなってしまうのです。その後どうするかは、まさに役者や裏方さんの腕の見せどころ。役を変え、演目を修正し、舞台を直して。今までの自分の役を変えるのはそう簡単ではありませんが、そうすればきっと、今度こそ素晴らしい劇になるでしょう。だからどうか、破綻した演目を、壊れた舞台で、役に捕らわれながら踊り続けることのなきように。それは劇にすらならない、悲しい思い出の残滓でしかないのですから。《雪ら薔らと夢の世界樹》第2階層『雪ら薔らとアイビーリープ』第6階「銀のスプーンでかき混ぜて」ばきゅり…べちょ。「………」朝日が緩やかに差し込み、夜の静寂から一つ、また一つと熱を持って動き始めた世界樹の町。その静かな一角に佇む一軒家のキッチンにて、わたくしは朝食の準備へと勤しんでおります。 「…次こそは」ぐぐぐ…ばきゅり…べちょ。先程から不快な効果音が発生しておりますが…わたくし今、卵を片手で割る修行中でして。料理は得手であると自負するわたくしですが、どうしてもこの片手割りだけは一向に上達せず、アベレージも二割を越えてくれません。これではベンチにすら入れないでしょう。 「これで最後…」あくまでも練習ですから、いきなり熱したフライパンに落とすことはしません。まず手元のボールに狙いを定めます。必要なのは、思い切りと微細なコントロール。手の中で卵を転がし、しっかりと掴んだら中指と親指に力を込めて…「えいやっ」ばきゃあ!!木っ端微塵。爽やかな朝に実に似つかわしくない単語が頭に浮かびました。「…スクランブルエッグにしましょう」この練習の良いところは、たとえ失敗してもメニューが変わるだけということです。ボールに混入した殻を取ってから味を整え、溜め息混じりにフライパンに流し込むのでした。「むああ…んー、おはようですぅ~」「はい、おはようございます翠星石さん」一通りの準備が出来た頃を見計らうように、寝ぼけ眼でこの家の主である翠星石さんがやってきました。様々な運の巡り合わせからアイビーリープのチーム、ジェイドリッパーズのメンバーとなったわたくしと妹は、一昨日からこのチームリーダーであり、世界樹の原住民の末裔でもある翠星石さんの家に居候しています。 「なにやらいー匂いがしますが…何ですかぁ?」「何って、朝食ですわ」「朝食ぅ~?」どうやら翠星石さんは朝が弱いご様子。きっと朝食を取らない生活習慣なのでしょう。わたくし達姉妹はそんなことはありません。町娘は朝が肝心なのです。「一人暮らししてりゃー朝は適当になるですよぉ~」「はいはいわかりましたから、一度顔を洗ってきてくださいましね」「ほあぁあ~」ふらふらと壁や置物にぶつかりながら懸命に前へと進む翠星石さん。あれなら帰ってくる頃には目も冴えていることでしょう。たんこぶくらいオマケで付くかもですが。 しかし、翠星石さんの言い分もわからないではありません。特別料理好きでもない限り、眠い朝や疲れた時などは簡単な食事で済ませてしまうのは致し方ないかもしれませんね。 わたくしだってもし自分一人分の朝食ならこんなに気合いは入れませんもの。きっとトースト一枚とコーヒーで終わり、なんてこともあるでしょう。ならどうして眠い目をこすり、筋肉痛気味の体を動かしてまでしっかりとした朝食を作るのか。答えは簡単で、食べてくれる人がいるからです。待っててくれる人がいるからです。朝の運動に勤しむ妹に熱々の朝食を出す。これがわたくしの習慣であり、自らに課した義務なのですから。「んで、今日ばらきらはどーするですか?」どうやらたんこぶの生成は免れた様子の翠星石さんと、シャワーで汗を流してきた妹が揃ったところで食べ始めます。気合いを入れたと言ってもメニューはオーソドックスなモノなんですけれど。 「ばらしーちゃんは今日も一日中リープの練習ですか?」「むう」良く焼いたトーストにスクランブルエッグとポテトサラダを乗せ、そこにトマトケチャップとマヨネーズをこれでもかとぶっかけた代物にかぶりつきながらコクンとお返事。 礼儀作法云々より、果たしてそれが美味しいのか聞きたくなるのですが、口の端に赤と白の調味料を付けながら満足げに笑う姿を見れば…無粋な事はナシで。ちなみに昨日妹はリープの練習場に籠もり、わたくしと翠星石さんは朝一で大会の登録を済ませてから妹の練習に加わりました。今日の筋肉痛はその影響だったりします。 「きらきらは?」「ええと…昨日オフィシャルメディックの申請をしましたから、まずは槐先生の所へ伺おうかと。その後で時間があれば練習場に行く予定でいます」リープの練習は大切ですが、やはりその前にオフィシャルメディックになる方が急務ですから。安全面を考えれば、優先すべきはこちらでしょう。「りょーかいです。しっかし、空き部屋を掃除してくれる上に朝食まで出るとは、至れり尽くせりですねぇ」コーヒーを片手にまじまじと語る翠星石さん。「それはこちらこそですわ。無料で部屋を貸してくれる上にリープの指導までしてくれるのですから。持ちつ持たれつです」人付き合いでもうまい具合に利害が一致すると、驚く程の良質な関係が築けたりするものですよね。仕事しかり、友人しかり。だから、これで良いのでしょう。食後のお茶を飲みながら、かつて翠星石さんの正面であるこの椅子には誰が座っていたかなどという考えがよぎりましたが、会って数日のわたくしが立ち入って良い場所ではないでしょうから。「で、来てみたのは良いのですが…」もちろん来た場所というのはこの町唯一の医療施設でもある槐先生の診療所。診療所と言ってもこれがなかなかの大きさで、生傷の耐えないこの町で奮然する非常に頼れる場所です。 そして、何故わたくしがこうしてやや離れた場所から張り込みデカのようなことをしているかと言いますと、「どうしてまたこう、人が多いのでしょうか…」医療機関というのは清潔かつ清楚であるべきで、活気溢るる場所ではないハズです。それがどうでしょう、この騒がしさは。端から見るに集まっている人は患者半分リープの関係者半分といった具合ですが、酒場の常連さんもちらほらと見受けられ。別にやましい事をしているわけではないのですが、あまり大会に出る事を知人やお客様に知られたくないのです。なにせ素人同然ですし…恥ずかしくありません?そういうのって。 仕方ないので裏口に回ることにしました。槐先生とは顔見知りですし、なんとかなるでしょう。「あら?先生じゃありませんか」「ん?おお、これはこれは雪華綺晶さん」人目を盗んで裏手に回ったところで幸運にも槐先生にばったりと遭遇。診療所への扉を背に、階段で煙草を吸っていました。いつものように知的な笑顔で迎えてくれるのですが、その顔には疲労の色がちらちらと。何時ものパリッとした白衣もややしおれている感がします。「おっと、すまない。気が付かなかった」わたくしの観察をそう解釈したのか、すぐに煙草をグリグリと横の灰皿にこすりつけました。「あ、いえ、別に構わなかったですのに」「いや、これは僕の取り決めなんだ。人と話す時は吸わない事にしてる。普段も滅多に吸わないのだが、こう忙しいとつい、ね」「お疲れの様ですが…やはり、リープの?」「ああ。一応近場から医師を雇い入れてもいるんだが、この時期は何時も忙しい。準備や調整やらの怪我に選手の健康チェックにOMの指導に…。あと二週間ほどすれば落ち着くんだが、それまではこんな感じになる。家内にも応援を頼む始末だ」 今槐先生の言ったOMとはオフィシャルメディックのことでしょう。うーん…ちょっとした雑談のつもりでしたけれど、頼み辛い雰囲気になってしまいましたね…「雪華綺晶さんはOMの研修だね。そう難しくはないが、どの位かかるかは人によりけりだ。だが君なら問題ないだろう。今からするかな?」「え?え、あの…」「問題ない。もう休憩は終わりだ。そろそろお呼びもかかるだろう」あー、えとまあ、そっちも気にはなったのですが。「よくご存知でしたね?わたくしがオフィシャルメディックの研修に来ると」確かに昨日登録はしたのですが、その情報が槐先生に届くのは23日後くらいと踏んでいたのですが。だから今日のところは挨拶と今後の予定を大まかにでも話し合っておこうかと思ってましたのに、この対応の早さです。「それは…あー、アレだ。アレがアレでアレているからなんだが…」アレているって。「良くわかりませんが…出直した方がよろしいでしょうか?」「いや…こちらの問題は無いが…ああそうか、止めておくべきだったのか。気が回らなくて済まない」「はあ…」一向にこちらに届く情報量が増えないのも、語る事に関しては職人である先生がどもるのもらしくありません。「とりあえず一瞬に中に入ってくれ。予定その他はその後決めよう」「はい、わかりました」モヤモヤとした違和感と一抹の不安を抱きつつも、忙しい先生の時間を割くわけですから無駄手間を取らせるわけには参りません。最初出会った時より幾分精気を取り戻した先生に続き、消毒液の香り漂う室内へと足を進めました。 そこでわたくしは、地獄を見ることになるのです。「はいはいはーい!!寄ってらっしゃい見てらっしゃい!!みっちゃん亭情報誌『生娘』の号外!!我等がアイドルにして世界樹の町ローゼンメイデン期待の新人、雪ら薔ら姉妹のアイビーリープ初出場決定のお知らせよー!! はいそこ押さない押さない!!まだまだ部数はあるから持ってけ泥棒ー!!この後の私への質問タイムまで目ぇかっぽじって舐めまわすように熟読することぉー!!」槐先生に連れられて入った部屋は待合室でした。そのはずでした。そうでなければなりませんでした。待合室とは元来、病や怪我で苦しむ者達が今か今かと順番待ちに耐える場所であり、決して患者用ベッドを即席のステージにして、メガホンとハリセンを装備した白衣の女性が喚き散らす横で、号外が手元に来るのを今か今かと待つ場所ではありません。 そのメガホンとハリセンを両手に持った女性は右手のハリセンで眼前の中年男性のハゲ頭を叩きながらなおも衰えない声量で叫びます。「さらにぃ!!午後から予定してる生娘クイズ大会にもこの号外からの問題があるから心してリードしまくれぇー!!その優勝商品はなななんとー!!麗しの姉妹の使用済み靴下だぁー!!どうだ参ったかぁー!!」 うおおおおー!!と、その場にいた男性の方々のボルテージが沸騰しました。その部屋の体感温度が5度は上がったように思います。しばらくして、その場にいた人達に号外が行き渡るとステージの女性は高らかに質問タイムを宣言しました。おーし!!何か聞きだい事ある奴はいねーがー!!は?二人のスリーサイズ?女の子の秘密よバカ者!!え?好きな下着の色?私が知りたいわよバカ者!!うん?寝るときの二人?そりゃー姉妹仲良く同じ部屋で…何してるかって?うふふ、それは女の子のヒ・ミ・ツ☆こんな意味を成さない返答であってもその度に威勢良く湧く観衆の方々。まあ、あれだけハイになれば何を言ったってウケるのでしょう。さて、そろそろ頃合い(限界とも言います)かなと思ったわたくしはおもむろにステージの近くへと歩み寄り、少々声色を変えて質問してみました。「この号外って本人達の許可を取ってあるんですか?」壇上の叫び手はこちらを見ようともせずにメガホンとハリセンを振り回し、「あっはっはー!!なわけないでしょー!!ヒミツよヒミツ!!でなきゃブン屋は務まらないわ!!それにねー、ああ見えててきらきーちゃんは怒るとすっっっごく怖いんだから!!バレたら殺されちゃうかな~?あははー!!はい、質問した人わかりましたかー?」 わかりましたかと聞かれたら、答えてあげるのが世の情け。「ええ、わかりましたわ。マスター」もちろん、普段通りの声で。自分でも驚くくらいに抑揚に欠けたモノでした。すると、次の質問を取ろうとしていたマスターの動きが止まりました。動作の停止は瞬く間に伝染していきました。辺りが静まり返りました。ギギギ、とまるで錆びたゼンマイのような動きでこちらを向くマスター。その視線を受け、微笑み返すわたくし。永遠に凍りついたかに思えた待合室。マスターの絶叫が響くのに、三秒いりませんでした。どんな憤怒の念に駆られていても、哀れをさそう程の狼狽した姿を見れば溜飲も下がるというもの。今やマスターに先程までの面影は微塵も無く、しおれた風船のようにわたくしの前で正座をしています。「…と、言う事ですわ。わかりましたか?マスター」「…はい」ですがいくら冷静になったからと言って説教が免除されるかと言えば話は別で。仕事の邪魔にならぬようにとレントゲン室にて始めたお話は今ようやく一段落。「ん、終わったかな」その時を見計らったように槐先生がレントゲン室に顔を出しました。「うわーん!槐~!」「こ、こらっ、くっつくな」するとマスターは児童のように槐先生のお腹の辺りにべそをかきながら抱きつくというリアクション。ほほうこれは…と眺めるわたくしの前でマスターの両腕はするりするりと槐先生の背中を撫でてゆき… ヘッドロックの形で停止しました。「この薄情者ー!!どうしてきらきーちゃんが来てる事言ってくれなかったのよー!!なにもあの場に連れてくることなかったでしょうがぁー!!」「痛い痛いぞ締まる首が締まる痛い首が」ちょうどこちらを向いていた先生の目が痙攣しながら白目まで向いてしまいそうなので慌てて制止に入ります。「けほっ…だが、仕方ないだろう。今日彼女が来ることなど知らなかったのだから。大体彼女が近々OMの研修に来ることがわかっていながらよくあんな場所であんな事が出来たものだ」 「うっ…う、う、うるさいうるさーい!!」図星を付かれ顔を赤くしながらポカポカと両手を振るうマスターを手際よく対処する槐先生。それをじっくりと眺めつつ、ここでわたくしはようやく当たり前な疑問に気づきました。どうしてマスターはここにいるのでしょう?それは前マスターがリープの大会の手伝いをすると言っていたのでよし。ではどうしてマスターは白衣を着ているのでしょう?仮に手伝いだとしても酒場のマスターが医療行為を手伝えるわけはないのです。あと、二人の掛け合いや行動を見ていると、どうにもこう、なんというか…「ん?どうかしたのばらしーちゃん」気が済んだらしいマスターが肩で息をしながら自分達を凝視していたわたくしに気づいたので、「いえ、その、お二人は随分と仲がよろしいなと思いまして」ストレートに思った事を聞いてみました。するとまず二人は意味がわからないといった面持ちでわたくしを見て、次に相当の至近距離で互いに見つめ合った後に、ずばんっとマスターが槐先生を両手ですっ飛ばしました。おお、あれは痛い。 「あ~…その、えとね…」「何だ、話してなかったのか?」理不尽にすっ飛ばされた槐先生がガラガラと瓦礫の中から生還を果たし、お尻をさすりながら実に軽い口調にておっしゃったのです。「僕の妻だ」それはいつもの、槐先生らしい簡潔な返答でした。すぐ近くで、ぼふんという音がしました。顔を赤く染めたマスター。首を傾げるわたくし。妙な沈黙に支配されたかに思えたレントゲン室。わたくしの絶叫が響くのに、三秒いりませんでした。「何やら、午前中だけでとても疲れました…」その後、槐先生に流石にあの状況下での研修はマズかろうと気を効かせていただき、今後の予定だけを話して帰宅させていただきました。ところであの二人ですが、数年前まではマスターも看護師として診療所で働いていたそうで。それが当時酒場の主であったマスターのお父上が急病で倒れられたのをきっかけに、今のような生活になったらしく。 お互い仕事が忙しくなかなか会えないから例え仕事でも一日中近くに居れるこの時期がちょぴり楽しみで~、とマスターがノロケ始めた所で退散したので詳しくはわかりませんでしたが、思い返してみればまぁ…心当たり、ありますね。色々と。 しかし、人妻です。しかも、仕事の為に別居中です。そうして改めてマスターを見ると、どうしてあの破天荒ぶりが違った印象を持つから不思議じゃありませんか。むむむ、わたくしには未知の領域、預かり知らぬ場所ではございますが… 「末永くお幸せに、マスター」とりあえず、そう願っておきました。さて、槐先生の診療所から翠星石さんの家に戻って来た時はまだお昼前でしたので、リープの練習に向かう時間はまだ有りそうです。昼食を食べてからいきなり運動するのも躊躇われたのですが、そろそろ栄養補給しないと腹の虫が宿主に対して不満をぶつけかねないのでキッチンに立つことに。まあ一度軽めに食べて、サンドイッチなどを持って向かえばよろしかろうと。そんなものを食べる気力が残っていればいいですけれどね。「これでよし、と…あら?」半人前のペペロンチーノと妹と翠星石さんの分も考えて作ったサンドイッチが出来上がった時、玄関で鍵の開くガチャガチャという音が。チャイムでもノックでもなくいきなりの開錠。翠星石さんか妹ならば何の問題も無いのですが、どうにも違う予感がします。その音の主は玄関から真っ直ぐこちらのリビングへひたひたと足音を立てながら向かってくる様子。違う、あの二人ではない…あの二人ならこんな静かな足音ではないハズ… 身の危険を感じたわたくしは出来もしない臨戦態勢に入ろうと、とにかく手探りで何か武器になるものを――固い手応え。とっさに体の前へ。そして、ガチャ。「ねえ翠星石。何か食べるもの…」「………」部屋に入った途端硬直してしまった黒い長髪の女性と、サンドイッチの入ったバスケットを突き出してへっぴり腰のわたくし。何とも言えない沈黙が流れます。しかし悲しいかな、この静寂を打ち破ってくれる人はこの場には誰一人として居ないのでした。「…誰?」何分か経った頃、黒髪の女性が声を出してくれました。「あ、ええと、わたくしは…」自分も声を出せた事と相手の声を聞けた事でなんとかわたくしの頭が回り始めます。まず、誰と聞くからには彼女は本来ここに居ても良い人間で、わたくしが翠星石さんの家に居候して居る事を知らないということ。 そして会い鍵を持っているほど、一人暮らしの翠星石さんと親密な仲にある人と言えば…「あの、もしかして柿崎めぐさんではありませんか?」「!」いきなり質問で返すという無礼を働いてしまいましたが、どうやら反応を見るに正解のようです。ならば、するべきことは一つでした。「自己紹介が遅れて申し訳ありません。わたくし、この度翠星石さんのアイビーリープのチームに加入させて頂きました雪華綺晶と申します」「………」「あと一人、妹も同時に加入しておりますが、また後程改めてご挨拶に伺いさせていただきますので、どうかよろしくお願い致します」「………」「それで、今わたくしと妹は翠星石さんの家に居候させてもらっていまして、その翠星石さんですが恐らくまだ妹とリープの練習場にいるか、と…」「………」「…えと…」「………」ああ沈黙!ああ沈黙!流石に限界でした。特に、こちらの自己紹介が終わってからの沈黙はいかんともし難いものがあります。かと言って、サンドイッチを突き出したこの状況で次にどういうリアクションを取れば… ん?サンドイッチ?「あの、もしよろしかったら…」「………」おずおずと、ライオンに生肉を差し出すがごとく慎重にバスケットを彼女に近づけると、彼女の視線もバスケットを追っていきます。これは、もう一息…!「ちなみに中身は、卵、ツナ、ポテトサラダに、オイルサーディンとなっておりますが…」わたくしがメニューを一つずつ口にする度、彼女の喉元がぴくりと動きます。そして、「さ、どうぞ」「………うん」やりました!遂にやりました!苦難を乗り越え、ようやく餌付け(違います)に成功致しました!!ちょっとした達成感に浸っていたわたくしに、ずっとサンドイッチに置かれていた彼女の視線が動き、わたくしもそれに気づき見つめ合う形になった時、「あなたは、いい人ね」そう無表情に呟くと、くるりときびすを返し、彼女は去っていってしまいました。なんともイレギュラーでアブノーマルなチームメイトとの初対面でしたが、それでも、成果並びに思う所は幾つかあったように思われます。きっと、あの人も悪い人ではないとか。コミュニケーションには食べ物が一番だとか。妹とも上手くやれそうな感じだとか。やっぱり、ペペロンチーノがノびてしまっている…とか。世界樹に登っているわけでもないのに何の祟りかいつになく気ばかり疲れる今日この頃ですが、それでもリープの練習へ向かうわたくしはなかなかの努力家でしょう。練習場に付くとそこはかなりの人数が練習に参加している様子で、パッと見では妹と翠星石さんを見つける事が出来ませんでした。もしかするともう世界樹で練習しているのかしら…まあ、特に問題もありませんか。わたくしは基本の基本からやらねばなりませんし。 と言うわけで邪魔にならないよう運動服に着替えてから練習場の隅っこに用具一式を持ち込み、いそいそと装着します。「では」昨日教えてもらった基本体制をとり、姿勢を正し、足に力を入れて、床を蹴り飛ばしました。ここで、アイビーリープというスポーツの基本動作を説明しましょう。まず、競技者であるリッパーがどうしてああも人並み外れた跳躍力を得ているのか。それは足に装着した『シューター』という特別な靴によるものです。このシューターは世界樹で採ることができる特殊なバネ(材料は弦やゴム質や粘液など)が底に取り付けてあり、このバネは縮む時はさほど力は要らないくせに、伸びる力が非常に強いという常識外れの一品。 このバネが土踏まずからつま先にかけて上手い具合にセットされていて、軽く地面を踏み込めば瞬く間に体をすっ飛ばしてくれるワケです。そしてそれに連動して、膝に取り付ける『バンパー』という装着(これは人工です)が跳躍力を足全体に行き渡らせ姿勢よく、かつ膝の負担を軽減しながら跳ぶことが出来るのです。 ただし、世の中上手い事ばかりではアリマセン。出力の起点が土踏まずからつま先ですから、跳ぶ方向に体の重心を持っていく必要があります。でないと氷で滑ったように足だけ飛び上がってすってんころりんあいたたたーです(実証済みです)。 要するに前屈みになれという事なんですが、問題は跳んだ後、つまり着地の体制。これが厄介なのです。さて、気付かれたでしょうか?高々と飛び上がり、着地した時足に履いているのは勿論先程のシューター。衝撃はバンパーが和らげてくれるも、その運動エネルギーはモロにバネに伝わり、バネがそのエネルギーを倍増し… エラい事になるわけです(実証済みです)。初日にわたくしがやらかしたのがコレ。ええ、死ぬかと思いました。しかし当然の事ながら、シューターは着地する時の事も考えて作ってあります。土踏まずからつま先までに倍増のバネが付けられている一方、踵の部分にはこのバネとは真逆の性質をもつエネルギー吸収タイプのバネが付けられているのです。 つまり、一人前のリッパー達はつま先で跳び上がった後、着地(時には壁)の際踵から降りて勢いを殺し、再びつま先で跳ぶ、という動作を繰り返しているわけでございます。 さて。「ああぁあぁぁ…うおふっ」着地失敗。実にエレガントではない言葉を発しマットにヒップドロップをかまし、そのままの体制にて伸びるわたくし。皆さん、わたくしを運動神経無しのヘタレと言いますか?それならばやってごらんなさい。その場でいいですから、つま先でちょっと跳ねて、踵から降りる恐怖を。「…着地以前に…足が震えてしまいますね…」いくらバネがあるからと言っても、頭ではわかっていても…数メートルの高さから踵で着地するのは、大変な事であったのです。少なくとも、わたくしには。「ねえアナタ、ちょっといいかしら?」練習開始から幾度と知れぬ失敗に次ぐ失敗ですっかり体力的にも精神的にもヘタレてしまい、部屋の隅っこで膝を抱えていたわたくしに声を掛けてきた女性が一人。「はい…何でしょう?」休むにしても隅っこだったので邪魔だと怒られることは無いハズ…とは思いつつ小動物のような仕草で答えるわたくし。ところが話し掛けてきた女性は何を言うでもなくこちらをじいっと見ているので、せっかくですから(何が?)こちらも相手を観察する事にしました。まず目に付くのは後ろでまとめられた美しい銀髪。顔立ちも整った…と言いますか、大変な美人さんです。スタイルも文句無し。切れ目な分目つきが少々キツいですが、それがまた雰囲気に合っていると言うか… 「立ちなさい」「はいっ!」わたくしの使用人気質を刺激すると言うか。ああ真紅様、一度は貴女に忠誠を誓った身でありますが、世の中は広うございますのです。と、バカな事を考えているうちにつかつかと近付いて来たその女性はなんの躊躇いもなくわたくしの腰に手を回し腕を掴み自分の肩に回し「ってええ!?」美人さんに横から抱き付かれました。体はカンペキに密着。気持ちいい…もとい痛いくらいにしっかりと固定されてしまいました。あら?わたくし、拘束されてません?「いいこと?降りる時は恐いでしょうけど、足首ではなく膝をとにかく意識する事。慣れるまではつま先は反り上げる位でいいわ。膝から下は棒だと思いなさい。足首の意識は捨てて、膝だけに集中するのよ」 動揺するわたくしに目の前で始まった指導に驚く暇も答える余裕もありません。「じゃあ最初は垂直跳びよ。私の体制を真似してみなさい。はい、3、2、1…」ここまで強引ならばかえって諦めも付くというもの。ここはとにかく言われた通りの事をすることに集中して…「ジャンプ!」力を入れすぎてブレたわたくしの体をその女性はしっかりと抱えてくれ、何とか垂直を維持します。その高さは3メートル程。(足首は固定、膝に集中…足首は固定、膝に集中…)みるみる近づくマットの地面。どんどん上がる落下速度。(足首…膝…!)何度も心の中で繰り返す言葉。でも、(ああっ…!)恐い。痛そう。無理。また失敗する――「ひざぁ!!」どすん。「……あぁ…」非常に長く感じられた落下は、終わってみればあっけないもので。寸前にかけられた言葉とへっぴり腰を押された事で、なんとかわたくしの着地は一応の成功を見せました。「ほら、出来るじゃなぁい。バネとバンパーがあるから案外膝も使わなかったでしょう?」「は、はい…」「じゃあ次。もう一度垂直跳び」そう言って今度は腰に回した手をほどき、二人手を繋ぐ形で並びます。「やり方は全く一緒よ。さっきのイメージを強く意識して。はい、3…」そして今回も、わたくしは着地に成功したのでした。「なぁんだ。妙な跳ね方してるからどんなグズかと思ったけど…そうでもなさそうねぇ」「は、はい…」一応断っておきますが、余りに必死だったためにこうしか答えれないんです。「じゃあ前方跳びもやりましょう。このコツは跳んだ後、着地する前の姿勢の取り方よ。一度やるから腰の辺りよく見てて。まずは…」こうして、いきなり強引に始まった個人レッスンでしたが、その指導は実に的確で分かり易く、自分でも驚くくらいにわたくしはシューターとバンパーを使い慣れていったのです。 垂直跳び、前後左右、着地してから跳ねるクイックに、壁跳びなど。親切丁寧かつ理論的で、それでいて実践向きの指導がその美しい体躯と声から発せられ、わたくしは夢中でそれを飲み込もうと必死に手足をバタつかせました。「ふう…じゃあ、とりあえず今日はここまでかしらね。お疲れ様」「はーっ…はーっ…はひぃ…」「ふむ、そうねぇ…アナタの場合、運動センスは悪くないのに、普段怠け過ぎてるせいで筋肉が意識についていけないのよ。日頃から少し強めの運動をして、さっき教えたリッパー用のウォーキングを日頃から続けていれば、大会までには形になるハズよ」 「はぁ、はぁ…どうも…」激しい運動を自制しているわたくしには時間を忘れる程の集中指導は大変つらく息も絶え絶えでしたが、わたくしは名も知らぬその女性に本当に感謝していました。何故ならわたくしが大会に出れなければ妹のストッパーの役割を果たせないのです。なのに恐怖に怯え、その場で跳ねることすらままならなかったわたくしを、数時間で初心者なりの所まで押し上げてくれたこの女性。 ああ、わたくしはこんな彼女に対してどんなお礼を…お礼を…お礼を。お礼?「ねえ、アナタ」いきなりの強制指導からここまで、まともに考えられなかった頭に、ようやく酸素が回り始めます。そして、それを察知したかのように、あの女性がわたくしに言うのです。 「私は、アナタに三時間以上付きっきりで指導してあげたし、私が借りたスペースも使わせてあげたし、このインストラクターが出払って後は報酬目的の余所者に頼るしかない時期でタダで教えてあげたわ」 運動したからではない汗が、背筋に流れたのを感じました。あれだけの技能を持ったリッパーが、部屋の隅っこで膝を抱えていた馬の骨に付きっきりで、しかも無償で指導したというこの異常事態。そして有無を言わせずに一方的に指導するというスタイル。これでは…これではまるで…「だから…ねぇ、雪華綺晶さん?」ギギギ…と、名も知らぬ女性の方へ頭を動かします。視界に入ったその女性。その表情、その笑顔は柔らかく、美しく、魅力的で、まるで。まるで、獲物を捉えた補食者のような。「ちょっとお時間、いただけるわよねぇ?」ああ…ごめんなさいばらしーちゃん。今日のお夕飯は、作れそうにありません。
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