SEAVEN 第六話 「ピストル」
四十八時間の拘留。それが、彼への処罰だった。もし、解放罪が適用されたのであれば、この程度で済むわけはない。しかし、解放罪とはそもそも、適用の最も難しい法なのだ。空を開く。それは、どの時点で適用されるべきか。思想か、実行か、成功か。思想にしても、どの段階なのか。たいていの人間は、生まれて一度は少なくとも空を見たいと願うと言う。それに罪はあるのか。その思想を広め、誰かを嗾けることこそが、罪なのか。実行に対するものであっても、道具を用意した段階で罪なのか。行動を開始し、そのために必要な区間に侵入した段階で罪なのか。そもそも、この罪に関しては、本人が違うと言い張ってしまえば、また結果が変わる。そして、極法であるために、司法側としても、判決には慎重なのだ。そのため、施行されて以来、この法が適用されたのは823543件。これを、多いか少ないかで問われるとなると、意見が分かれるのかもしれない。彼――桜田ジュンは、精神不安定時に蒼星石容疑者により、空を開こうという思想を抱かされ、それを実行するに当たった。情状酌量の余地があり、不法侵入、器物破損の罪には問うことはできない。それが、警察の見解だった。SEAVEN第六話「ピストル」彼は悩んでいた。何が正しいのか。そもそも、空を開くとはどういう意味を持つのか。彼女は何故、空を願ったのか。あの時言ったように、それは逃避だったのか。それとも、純粋な羨望なのか。彼女のそれは、誰にとっての正義なのか。彼自身の正義とは何か。彼自身の本当の望みとは何なのか。四十八時間。それは、誰にとっても等しく平等な時間の長さではない。彼にとってはどうなのか。考え続けた。悩み続けた。迷い続けた。これからのこと。これまでのこと。答えは出ないまま、その与えられた時間は過ぎ去り、非日常から日常へと、戻されることになった。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――今日の天気は、雨らしい。雨と言っても、雨雲から降るそれなどでなく、スプリンクラーの整備点検のためのものという。実際なら昨日だけのはずだが、今日も延長してやらなくてはならなかったらしい。自宅から勤務先へは、いつも電車を用いている彼にとっては、あまり関係有ることではないのだが。この線路は旅客車両のみでなく、運搬車両も通る。別に新しく線路を引くべきではないかと言う声もあるが、この区間だと、そのスペースをうまく取ることが出来ないのだ。どうやっても、どこかのビルディングにぶつかってしまう。すでにあるこの線路ですら、いくつかのビルディングを通過しているのだ。病院、役所、警察署。これら全てにぶつかっている。わざとなのであろうが、結果、駅としての機能も持つこととなった。電車に揺られる。最近、電車テロが横行しているとはいうものの、通勤通学がある。さして普段と乗車人数が変わることはなかった。会社は人命より重い。首になる、と考えるとそれどころではないようだ。優先順位は社会の地位らしい。白崎もその一人なのだろう。警察とはいえ、会社は会社だ。あえてそういうことを忘れようとしているのか、音楽を聴いている者、本を読んでいる者、携帯をいじっている者が多く、何もしておらずただ乗っている者は少なかった。しかし、彼は何かをしているようには傍からは見えなかった。深く、思考の海に没頭していた。これからのこと、これまでのこと。空を開こうとした彼らのこと。そして、彼らを捕えた自分自身のこと。本当に、これが正しいことなのか。空を開くとはどういうことなのか。警察前に着いたというアナウンスを聞き、その思考を中断させる。その時すでに、彼はやるべきことを一つ見出していた。改札を出て、駅を出る。直接警察署内に繋がる出口はないのだ。これはこの駅を利用する多くの警官にとって、改善してほしいと思わせる点だった。例にもれず、彼も不満に思っていた。だが、改善される見込みもなくまた、このほうが安全であると思い、納得もしていた。もしも、武装勢力が乗り込んできたら。少しでも時間が稼げるのならこの方がマシなのかもしれない。しかし、階段は署の入口の目の前に降りるので、意味などないのかもしれないが。階段を降りたあと、署を見上げた。この署は他と比べ、おかしな構造をしていると常々彼は思っていた。土地の形は、五角形――駅に平行に横に伸びた長方形に、駅側に鈍角三角形が接続される。その三角形は、地面に足をつけているわけではなく、駅と一体化し、その上方に乗っかっている形だ。そして、立体で見ると、上を切り取った五角錘であり、直方体に接続した三角形は上部に行くほど鋭くなっているのだ。三角錐の裾には線路が走っている。もし、窓から何かを落としたら大惨事を招くかもしれない。そのため、そちらがわの窓は全面ガラス張りになっているものの、開けることはできない。署員としては、外から見えることもあり落ち着かないこともあるが、そのうち気にならなくなる。また、その姿を見せることにより、警察は怠慢していないと、アピールする効果も持てる。そのための形なのだろうか。しかし、それだけでは説明がつかない。もともと、深い意味はないのだろう。スプリンクラーの雨が降り注ぐ。彼は直接には見ていないが、警察署の窓を濡らし、その摩擦を減らしていた。上げていた視線を戻す。数人の警官とすれ違った。知っている顔もあり、向こうが気付き、挨拶をしてくれば、会釈を返していた。入口の自動ドアの前に立つ。ガラスであるため、向こう側は見通せる。ちょうど、一人の制服警官が出ようとしてくるところだった。また同時にこちら側も見えていることだろう。彼に気づいて、その男は真ん中に立っていたのを少しずらした。ゆっくりと開く。その制服はかぶっていた帽子を目深にする。どこかで見た顔だ。そう白崎は感じた。思わず彼は振り返った。しかし、どこで見た顔かは思い出せない。この警察署に人も多い。もちろん全員の顔を知っているわけではない。だからだろうな、と考え、その違和感を振り払った。頭の隅でこの違和感を消すなと叫ぶ彼自身ごと。胸のポケットにしまっていた警察手帳を取り出し、関係者以外立ち入り禁止と書かれた看板の奥にある改札にかざす。ピッと言う電子音とともにバーが開き、彼の入行を許可する。そのまま奥へと進み、登りのエレベーターに乗った。彼の所属する課のある回のボタンを押し、他が乗り込んで来ないことを確認し、閉のボタンを押し、扉を閉めた。エレベーターの中にも監視カメラは存在する。それに睨みつけられながら、数十秒。ポンと言う音とともに、ドアは開く。エレベーターから出て、課へと向かった。すれ違う人間と挨拶をしながら、自分のデスクに辿りついた。そこに鞄を置き、タイムカードを押したあと、二日前の事件の準備段階で、違和を申し出た若い刑事のところへ足を向けた。彼自身も抱くようになった、違和を話し合うために。そして、全ての真相を知るはずの人物と話すために。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――目の前で一人の警官が倒れた。死んではいない、気絶しているだけだ。彼の背後には、スタンガンを持った男。鼓動が激しくなっているのか、息が荒い。細身の中背、髪は短く茶色。顔立ちも離れてみると似ている。それが警官とその男の共通点だった。男は、警官の警察手帳を拾い上げ、名前と写真。その他の情報を確認した。梅岡。それが彼の名前らしい。男は、その書かれている情報を必死で覚えようとした。これからの行動は、何一つ失敗は許されない。彼の手は汗に濡れていた。ゆっくりと唾を嚥下する。まずは、この警官の制服を奪い、彼をどこかに隠す。それがこれからの手順だった。四分前。彼はA-2地区の公園前の交番を訪れていた。一度見て回ったが、公園の中に人がいる気配はない。左腕につけた時計をチラと見る。時刻は午前十時四十八分。眼鏡を掛け、帽子を被った黒髪の男はゆっくりと歩きだした。「すみません、道を教えていただきたいのですが……」彼は警官に道案内を求めた。何かを書いていた警官が椅子から立つ。「はい、どこでしょうか?」警官はにこやかに応対する。「ここから、病院までの道を教えていただきたいのですが……」「はい、了解しました。病院ですね? ここからだと、一番近いのは有栖川病院ですね」「そうですか。あの、地図も見せていただけませんか?」「分かりました。ちょっと待っててくださいね」そう言って、警官は奥へ引っ込もうとした。資料は入口にはない。少し奥のところに本棚があるのだ。そこに地図はある。そこへ地図を取りに行こうと彼はし、角を曲がる。バチ、と激しい音。彼の背後には道を尋ねて来たはずの男がいた。その手にはスタンガン。気づかれないように音を立てず近づいていたのだ。彼を見下ろし、ゆっくりと息を吐く。男は辺りを見渡し、洗面台を見つけた。蛇口をひねり水を出す。目の前には鏡。そこの台に、身につけていた眼鏡を置く。すぐそこにタオルがあることを確認し、流れる水で頭を洗った。底が深いわけではない。正直なところ、苦しそうな首の曲げ方をしていた。丹念に髪を揉み解す。流れる水は黒く染まっていた。満足したのであろう、男はゆっくりと頭を上げた。鏡に映ったその髪は茶色。水にぬれているため、顔に髪が張り付いている。眉毛は整えられ細く、髭は全くと言っていいほどない。口はほんの少し開き、無表情に自身の顔を見つめている。桜田ジュン。その人だった。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――午前六時。四十八時間の拘留ののち、彼は解放された。彼一人で。蒼星石はいない。未だに、彼は迷っていた。何を信じるべきなのか。いや、もう答えは決まっていた。しかし、怖かったのだ。裏切られることが。真実が、あの刑事――白崎の語った通りであるかも知れないことが。そのあと一歩が踏み出せないまま、四十八時間は過ぎたと言ってもいい。彼にとっては短すぎたのだろう。警官には聞かれたまま、ありのままのことを伝えた。もともと、彼は人と話すのが得意だったわけではない。むしろ苦手であった。中学生のころはいじめを経験し、ひきこもっていた時期もある。だが、何かを変えなくてはならない。そう思い立ち、なんとか自立した。もしもあの頃に戻れるのなら、と何度も願った。しかし、何も変わらなかった。結局、どこかで耐え、我慢してゆくしかないことを知った。その頃なのだ。この事件が起こったのは。何かが変わってほしかった。そして何かが起きて、巻き込まれた。彼は何だかんだと、嬉しかったのだ。だが、思う以上にその変化は辛く、厳しいものだった。どこかゲーム感覚だったのだろう。俯瞰から眺めていたのかもしれない。現実味は彼にとって薄く、逮捕されるまで実感が持てなかったのかもしれない。それまでに形成された人格と言うのは、誰かが思う以上に深く根を張り、行動に鎖を、風景に靄をかける。病のように巣食った過去に縛られる。彼にとっていじめと言う経験は何より深いものだった。それは彼自身の無意識の海の領域を侵し、感覚を歪にさせる。いじめの原因は身勝手な善意、正義から発したものであった。誰にも知られたくない秘密はある。それが土足で犯されたのだ。その原因となった人物を信頼していたという感覚があったわけではない。だが暴露された瞬間、裏切られた。その感覚は確かに存在していたのだ。裏切られたくない。それだけだった。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――桜田ジュンは、屋敷の前に立っていた。再び、彼女に会うため。答えが出せるとは限らないが、何もしないよりかは遥かにマシである。インターホンで応答を済ませ、彼女が出てくるのを待つ。彼が予想したより早く、ドアは開いた。「待っていたですよ」そう、翠星石は口にした。「そして、ジュンはどうしたいんですか?」彼の話を静かに聞き終えた後、彼女はそう尋ねた。ジュンは驚いていた。前に会った時より、遥かに翠星石が“大人”になっていたことに。一度しか会ったいないのだが、その時より断然顔つきが変わっていたのだ。「僕は……。蒼星石を信じたい……。でも、真実を知りたい気持ちと知りたくない気持ちが一緒になってるんだ」「それなら、何で私のところに来たですか? ・・・・・・もう、答えは出てるでしょう?」そう言って、翠星石はジュンの手を握る。彼女は正しかった。そして、彼はその一言を聞きたかった。弱い背中を押してくれる、その一言が。「じゃあ、作戦を立てるです!」そう意気込んで、翠星石は言った。「いや、作戦は大方練ってあるんだ」「へ?」肩すかしを食らった形になる翠星石。「ここに来たのは、資料をもらうためなんだ」「何の資料です?」「結菱って警察署の設計もしたはずだよな? 署内の見取り図と、手に入るのであれば、警官の制服と手帳」「確かに設計もしたはずですが、探すのはちと時間食いそうです。 制服は手に入ると思うですが、多分手帳は無理です。他に道具は何か必要じゃないですか?」「道具は……、スタンガンかな。拳銃は調達出来ると思うし。やっぱり手帳は無理か……。 なら、警察署のパソコンにハッキング出来ないかな? 今から言う交番のシフト表が欲しいんだ」「スタンガン……。取り寄せられると思うですけど、多分直接買いに行った方が早いですよ。 あと、ハッキングですか……。ジュンは知識あるですか? 一応、機材的にはいいのがあるですけど」「多少なら出来ると思う。知識もあるし、何度か試したこともある。……暇人だったからね」翠星石は笑った。「こりゃあいいです! 元自殺志願者と、元犯罪者の暇人タッグですか!」ジュンもつられて笑う。確かにそうだ。ひとしきり笑った後、ジュンはもう一つ尋ねた。「あと、この緩衝材の性能についても聞きたいんだ。どこまでに衝撃を抑えられるかって……」――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――頭の中でジュンはもう一度これからの予定を整理した。交番の奥のトイレに気絶した警官は制服を奪われ、縛られて放置されている。もう一人が返ってくるまでが勝負だ。戻ってきたら、全ての署に連絡が行きわたり、この手帳は使えなくなってしまう。制服は一度試着してみたが、ぴったりと合っていた。問題ない。ただ、腰についた拳銃が落ち着かない。もう遊びではないのだ、と言い聞かせる。そう。これから彼は大きな罪を犯すのだ、と。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――「ジュンは時計持ってるですか?」「時計? 持ってないな。普段からつけないし」「そーですか。ちょーど、腕時計が一つあったですから、これ。持ってけです」「え? いいのか?」「計画、失敗したらヤですからね。あくまで計画のためです。勘違いしないでです」段々と早口になっていく翠星石。彼女の視線はジュンを捕えていない。それにジュンは気付かず、腕時計を見て、感謝を述べた。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――プシュウと言う音がして、電車の扉は開いた。電車の中でも何度も見ていたが、再び左腕につけた時計を確認する。背中に負ったカバンが重い。時刻は十一時三十二分。時間帯のせいであろう、ここで降りる乗客はほとんどいなかった。ジュンは電車を降り、辺りを見渡す。警察署前。ホームに人は数人しかいないようだ。登りと下りのホームは別となっている。そのためなのだろうと、彼は判断した。そして駅の中にあるトイレを見つけ、向かった。ベンチ、自動販売機。ここにあるのはそれぐらいのものだ。WCと書かれたプレート。入るとそこにはすぐ、大きな鏡があった。洗面台のためのものだ。小便器は全部で七つ。個室は全部で四つあった。入口から三番目の個室トイレのドアを開き、中に入る。ドアの板は中が立ったままなら見えないほど長い。背負ったカバンを便器のふたの上に下ろし、中身を取り出す。制服だ。警官の。手に持って、まじまじと見つめた。眉にしわがよる。そして、上着を脱ぎ、着替え始めた。シャツは着替えていない。彼にとって革靴を履く、そして帽子を被るのは久しぶりだった。上着と、穿いていたジーンズ。そして、シューズを鞄に詰め、その個室トイレの天井――何かしらの工事のためであろう、蓋を押しあけ、その中に隠した。蓋を戻し、時計を確認した。時刻は午前十一時二十四分。個室を出る。トイレを出る時、鏡に警官の姿が映り、体が強張ったのだが、それは彼自身の姿だった。改札を出て、駅を出た。スプリンクラーの雨が降り注いでいる。濡れないように小走りで行く。目の前の階段を下りて、警察署の前についた。彼は不安だった。本当にこの服装だけで騙し切れるのかどうか。ままよと、彼は腹を括った。数人の警官とすれ違った。制服、スーツ、私服。どれともいたが、誰一人として彼の行動を怪しむそぶりを見せなかった。入口の自動ドアを通り抜け、関係者以外立ち入り禁止と書かれた看板の奥の改札まで行ってから一つやり残していたことを思い出した。周りを見回しても、目的のものは見つからなかった。軽くため息をつき、玄関へ戻る。自動ドアの前に立つ。丁度目の前に、入ろうとしている人間がいることに気づき、一歩右にずれた。ドアは開き、その男と対面する。その時彼は気付いた。――自身を逮捕したあの警官、白崎だ。予想外のことに緊張が走る。思わず帽子のつばに手をかけ、目深にしてしまった。そのまま、すれ違う。振り向くなと、言い聞かせた。きっと振り向けば、全てが水泡に帰すと。背中に視線が突き刺さるのを感じた。そのまま速度で歩き続ける。すぐそばの通りの角を曲がり、一息ついた。心臓の鼓動は全力疾走したかのように激しく脈打つ。ある程度落ち着いてから、辺りを見回した。あった。彼は警察署から離れる位置のそれに向かう。フォンブースの扉を開け、中に入り財布を取り出し、受話器を持ってから小銭を投入する。そして、番号をプッシュした。プルルルというダイヤル音が数回。ガチャリという音で相手は応答した。「はい、結菱です」「翠星石か?」「ジュン? 今どこです?」「警察署の前。制服も着てる」「了解です。じゃあ、信頼できるやつをそっちに向かわせて、鞄を回収させるですよ」「ありがとう。場所は駅の男子トイレ。入口から三番目の個室の天井だ。でも、本当に信頼できるんだよな?」「大丈夫です! 任せるです!」「分かった、ありがとう。事が上手く運べばまた電話する」「合点承知の助です。では、健闘を祈るですよ!」会話は短い。それもそうだろう。予定の時間と言うものがあるのだ。それを逃してしまったらどうしようも無くなってしまう。フォンブースを出、再び警察署へと向かった。今度は別の見覚えのある男とすれ違った。見覚えのあるジャケットを着ている。その男はジュンに気づいていないようだ。当り前か。前とは服装が違うのだから。「いいジャケットだね」その男はびくりとして振り向く。例の公園のホームレス。ここまで来ることもあるらしい。少しジュンは落ち着きを取り戻し、彼に心の中で感謝を述べた。再び、警察署前に立つ。こうして見ると、彼が思っていた以上にこのビルディングは大きかった。歩き出す。自動ドアを通り、改札へ向かった。震える手で懐から警察手帳を取り出し、かざす。ピッという電子音とともに、バーは開いた。彼は足早に通り抜けた。手帳を懐にしまいながら、エレベーターのスイッチを押す。重力の狂う感覚。エレベーターが到着するのが、彼には長く感じた。足が震えている。ポンという音がした後、ドアは開いた。その中に入り、階数スイッチを押す。監視カメラはその様子を無機質にとらえ続けていた。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――緊急警報が署内に鳴り響く。白崎は取り調べていた容疑者から目を放し、スピーカーを見つめた。「刑事さん。言った方がいいんじゃないの? 事件だってさ」容疑者は笑いながら言った。「いえ、貴女の取り調べの方が先です。あれは別の方に任せますよ。心配どうもありがとうございますね」今、取り調べ室には白崎、婦警、容疑者の三人だ。鳴り終わり、再び書類に目を向けようとした途端、また警報が鳴り響いた。今度は別の場所らしい。しかし、先ほどの内容とほぼ同じだ。それが鳴り終わった後、三度警報が鳴り響く。さらに別の場所で同じ事件が起こったという知らせだ。しかし、それだけでは終わらなかった。同じことが数回繰り返され、ようやく静かになった。彼は混乱していた。彼だけでない、署内全体が混乱していた。思い当たる節があるのだ。五日前の7th組織、一斉摘発。その残党の仕業なのかもしれないと。もしそうなら、ますます大変なことになる。完全に組織を潰せていなかったことにより招いた混乱は警察の信頼は失落させ、治安は悪化する。署内は大急ぎで、人員を集め、担当している課だけでは足りず、それ以外の別の課からも人を呼ぶはめになっていた。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――目的の階に着いたことを知らせる音が鳴り、ドアは開いた。署内の地図は頭に叩き込んである。迷いなく、監視・アナウンス室へと向かった。ドアをノックし、入る。そこには男女の警官、二人がいた。彼は懐に隠していたスタンガンを左手に持ち男の警官に、背後から押し付けスイッチを押した。通電し、びくりと体は仰け反る。彼は口から空気が漏れるような悲鳴を上げ、そのまま倒れた。その音に驚いた婦警に、右手に持った拳銃を向ける。彼女はとっさに何かのスイッチを押そうとしたが、それを阻んだ。そのスイッチは押し間違えのないように、プラスチックのカバーがしてあった。それを割るには割ったが、ほんの少しだけスイッチを押すまでの力が足りなかったようだ。間一髪。彼は防いだ。ジュンのこめかみを一筋の汗が伝う。銃口をそらさず、スタンガンをしまい、左ポケットから一枚のメモを彼女に手渡した。「これを、読み上げろ。緊急入電だ」汗は顎から、滴となって落ちた。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――緊急入電に白崎も大急ぎで、廊下に飛び出す。「状況はどうですか!」要件を伝えに来たであろう、すぐ外にいた警官に尋ねる。「人員は大丈夫そうです! 白崎刑事はここで指示を、とのことです!」「了解です! お気をつけて!」そう白崎は返す。要件を伝え終えた警官は駆け足で去っていった。取り調べ室に戻り、容疑者と向き合う。「残念ですが、ここで一旦中断させてもらいますよ。すぐに戻ってきますので」「残念だったなぁ。そろそろ話そうかと思ったのに」「……。代わりの者が来ますのでその方にお願いします」「いやだね。ぼくは、あなたなら話すよ」白崎は迷った。そして、椅子に再び腰を掛ける。部屋にいたもう一人に、指示は別の警官に少しの間、出させることを伝えるよう命じた。部屋に残ったのは、二人だけ。「では、お願いします。蒼星石さん」――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――婦警の持っていた手錠で彼女自身を拘束した。気絶している警官も同様だ。ジュンは監視カメラで慌ただしい署内を見つめる。「見つけた!」彼は思わず叫んでしまった。「これはどの部屋!?」監視カメラの映像を指差しながら婦警に尋ねる。「と、取り調べ室です」彼女はすっかり脅え切ってしまっていた。「何階?」「一つ上!」彼はそのまま急いで、部屋を飛び出した。だが、出る直前に立ち止まり、婦警に向かって彼の出来る最大限の笑顔で安心させようとするために感謝を述べた。「ありがとう。桑田さん!」彼女の胸のネームプレートに書かれていたその名前を呼んだ。ひい、と彼女の悲鳴が残り、彼は予想外の結果に首を傾げながらも走り去った。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――「では、お願いします。蒼星石さん」白崎は彼女に向きなおる。本来なら、女性に取り調べをするときには、婦警も同伴しなければならないのだが、場合が場合だ。「じゃあ、何から話そうかな?」蒼星石は言う。その時、ガチャリとドアは開き、制服警官が入ってきた。「どうしました!?」白崎は驚いて尋ねる。その男は後ろ手でドアを引き、閉めた。カギはない。そして、拳銃を突きつけ、「お久しぶりです。白崎刑事」と口にした。「ジュン君!?」「桜田!?」二人同時に驚きの声が上がる。「どうしてここに!」蒼星石は怒る。「借りを返しに来たんだ。君が逮捕されたのは僕のせいかもしれないしね」「ふざけないで! なんでそんなことのために来たのさ!」「落ち着けって。今は急いでここを出るぞ。立てこもる手もあったけど、やっぱりやめた」銃口は白崎に向けられたままだ。「白崎刑事。あなたは人質です。ついてきてください」そう言って彼の首に左腕を回し、右手に持った銃をこめかみに突き付ける。「行こう」振り返り、言った。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――エレベーターが三階についたことを示すランプがともった。扉が開く。彼らはデジャビュを感じた。しかし、今回は銃口が待ち構えてはいなかった。だが、警官達はいた。移動前だったのだろうか。「どいて下さい」ジュンは言いながら、拳銃を軽く振った。人だかりは割れ、道が出来る。その間を三人は素早く通った。そして、白崎を盾にするように向き直る。エレベーターの先には何もない。彼は警戒しながらゆっくり移動し、一つのドアの前に立った。フロアを仕切る壁は全てガラスでできており、外から見通せるようになっていた。その彼の選んだ部屋は、最も多くの警官がいた。一目で分かるほどにだ。自動ドアは開く。左右をよく見ながら、ジュンは蒼星石を背後に移動させ、警戒しながら窓に近づいていった。「もう、やめにしませんか?」人質の白崎が口にする。ゆっくりと警官たちは近付いてくる。「逃げ場はありませんよ」ジュンも蒼星石も答えない。「あなたはここまで、よくやりました。いまなら罪は軽いですよ」ジュンは腕時計で時間を確認し、「そろそろだな」と呟いた。そして、拳銃を振り向かず真後ろの窓に向けて撃つ。ジュン以外、その音に身をすくめた。ガラスは激しい音で幾つもの破片に砕け散り、地面へ落ちてゆく。綺麗にその枠のガラスは全て無くなった。よく外の音が聞こえる。「諦めましょうよ」白崎の声。ガタンゴトンと音がする。「ね、まだ間に合いますから」その音は近付いてくる。そして――。ジュンは蒼星石をそこから突き落とし、自身も白崎を掴んだままそこから落ちていった。落ちてゆく彼らの視界に急いで窓枠に近づく警官たちが映った。自由落下ではない。この建物の斜面に沿って落ちてゆく。ガタンゴトンと音は近付いてくる。ジュンは白崎を掴んでいた手を放した。雨にぬれて、摩擦係数は減っている。この警察署の形は五角錘だ。ガタンゴトンという音の先頭は通り過ぎた。蒼星石と白崎は落ちまいと必死に何かを掴もうとするが、あるのはガラスの窓ばかり。抵抗は些細で、頭の向きを変えるのみだ。二人はすぐに待ち受けるであろう未来を想像した。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――「あと、この緩衝材の性能についても聞きたいんだ。どこまでに衝撃を抑えられるかって……」「分かったですけど、何ですか?これ」「貨物車のコンテナの下に使われているやつなんだ。人をうまく受け止められるかどうかが心配でさ」「……?どういうことです?」「簡単にいえば、ここ目がけて落下するつもりなんだ」「ほあ!? 何寝ぼけたこと言ってるですか!」「大真面目だ。確か、この素材は最も優れているって聞いたからね」「ま、まぁ、調べてやらんこともないですが……」「よろしくお願いな」――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――彼らはコンテナの詰まれていない貨物車の上に落下した。その緩衝材の性能は確かだったらしく、着地した位置で彼らの体は止まった。ただ、白崎は着地の仕方が悪かったらしく、痛みに呻いている。しかし、結果として誰ひとり命を落とすことなく、ジュンは目的を達成した。この地域の特色として交通の面では、クモの巣のように張り巡らされた鉄道が完全にダイヤ通りに動いていることが挙げられる。SEAVEN 第六話「ピストル」 了
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