片想いの相手はお嬢様
馬鹿と思うぐらい正直に好きだということを伝えるべきか、それとも叶わぬ恋だと思って心の奥底に気持ちを秘めておくべきか。それは想いを寄せる相手の身分や立場、自分と相手の関係なども含めて考えなければいけないことだと、ずっとずっと思っていた。しかし、いざ片想いをしてみると。今まで僕が考えていた理屈たちはもろくも崩れさっていき、たった一つ、どうしても彼女に好きだと伝えたい、小さく純粋な気持ちだけが残っていた。ここまでくるとどうしようもない。彼女がいれば目で追ってしまうし、ほんの少しでも言葉を交わすと緊張の為か顔の筋肉が引き攣り、心拍数も異常なほどに上がる。片想い、こんなに辛いと知らなかった。いい加減、その片想い生活にもピリオドを打とうと考えたのは昨日。彼女に告白しよう、そう決心したのもつかの間。すぐに不安と恐怖が僕を襲ってきた。振られたらどうしよう、明日からどう暮らして、彼女に会えばいいんだ。いかにも恋をしたことがない奴が陥る事態に僕もはまってしまったのだ。どんどん心へのしかかってくるプレッシャーから逃げるように布団を被り、まどろみの中で彼女を呼び出す為の口実を考えていた。お嬢様、雪華綺晶。僕の片想いは果たして実るのか。それは全て明日にかかっている。いよいよ、決戦の日。すなわち今日が来てしまった。僕以外の人間にとってみれば、なんの変哲も無いただの木曜日。朝から緊張のあまり、がちがちになっている僕にとっては幸せの木曜日になるか暗黒の木曜日となるか、どちらかしかない。こういうときは頭をかきむしると気が紛れるって誰かが言ってたっけ。ああ、駄目だ。気を紛らわす前にお嬢様はやってきた。それもとびきり可愛い笑顔を見せて、「おはようございます、ジュン様」何事も不意打ちというものは驚くべき威力を持っている。まさに今のお嬢様は、世界最強。ひらひらと揺れるチェックのプリーツスカートからのぞく足は僕が見てきた女の人の中で誰よりも綺麗で。「おはよう。今日も……いい天気だ」本当は綺麗だね、なんてかっこつけてでも言ってみようかと思ったけれど、さすがにそんな勇気はなかった。すでにお嬢様の絶対領域のおかげで、勇気なんぞ粉々に砕けちっていたからだ。僕の裏の深意までは汲み取れなかったものの、不審な言葉の間にお嬢様は眉をひそめながらも輝く笑顔までは曇らせることはなかった。荷物を置きながら席へつくお嬢様を目で追いながら、一つため息をついた。ちらっと窓の方を見れば、外は雲ひとつさえ浮かんでおらず、青色の絵の具で塗ったような空色が広がっていた。青空に比例するように、僕の心もすうっと真っ青になっていった。「溜息をつくと幸せが逃げますよ?」「幸せは放し飼いでこそ育つものだ」ジュン様らしいです、そう言ってくすりと笑いを零すお嬢様。「なぁ」「なんです?」「今日、何か用事あるかな」自分でもびっくりするほど、すんなりと言葉が出てきた。無心というものはこういうときにありがたい。お嬢様は少し首を傾けてスケジュール帳を広げて、「……ありませんわね。どうかされたのですか」「話したいことがあってな」ちょっとした人生相談だよと冗談で言ってみると、お嬢様は何が嬉しいのかわからないけれど、やけに弾んだ声で「まかせてください」と張り切っていた。君のことで悩んでいるんだよとは言えず、ただただ苦笑いを浮かべている僕だった。お嬢様は終業のチャイムが鳴るまでずっとわくわくしていたのだろうか。終始笑顔を絶やすことなく――それも明日遠足に出かける小学生の様な無邪気なものだった――周りからは怪しいやら、可愛いやら、いろいろな言われようをしていた。 「何か変なものでも拾って食べたんじゃないの?」挙句の果てにはこんなことを言う輩が居る始末。もちろん、その不適切な発言をしたのはお嬢様の大親友である水銀燈である。「あのなぁ、お嬢様が拾い食いなんてしてたら恐ろしいだろうが」拾い食いなんぞお嬢様の品格に関わる大問題になりかねない。本人とその親友はさほど気にしていないようだが、こういうのは全く関係ない第三者が焦るだけ。まさに、僕だ。「きらきーにお嬢様の品格とかなんとかを求める時点で駄目よぉ。あの子が小学生のときなんて、それはもう……」「やめてくださいっ、これ以上言っては駄目です!」水銀燈の減らない口を慌てて塞ぎ、悍ましい過去の汚点を否定するかのように首を振って喚いたお嬢様の顔は茹で蛸までには及ばないものの、十分赤くなっていた。そして、思いがけない驚きの一言を、水銀燈は発してしまった。「だぁい好きなジュンには聞かせたくないからってそんなに必死にならなくてもいいじゃない」帰りのSHR前、ざわついていた空気が一瞬のうちに静まり、今までに感じたことのない雰囲気が僕とお嬢様と水銀燈を包んでいく。なんてことを言ってくれるんだ、こやつ。「前言ってたでしょ、ジュンのことが好きって……」この空気だというのに、水銀燈は相変わらずのいたずらっ子の笑みを浮かべて満足げに身振り手振りで語っている。僕は奇妙な敗北感が体中を支配していくのをひしひしと感じながら、横に居るお嬢様をちらっと見てみた。そこには、さっきより比べ物にならないほどに顔を赤くさせて――それも耳の先まできっちりと――ぷるぷると小さく体を震わせる姿があった。お嬢様はうなだれた頭をゆっくりと上げて、一瞬。時が止まったのではないかと覚えるほどに、耳をつんざく大声で叫んだ。「銀ちゃん……なんてことをしてくれるんですかぁああああ!!!」品格もなにもかもを全て吹き飛ばす決死の叫びは僕の敗北感さえも拭い去っていくのだった。教室の開け放たれた窓から、夕日のオレンジ色をのせた少し冷たい春風が吹く。「さっきは取り乱してごめんなさい」春風はお嬢様の髪の毛をふわりと舞い上げて、遊んでいる。「いいよ、煽った水銀燈が悪いんだし。きらきーのせいじゃない」「私のせいなのぉ?」当たり前だろ、そう戒める視線を水銀燈に向けると、ぷいと他の方を向かれた。自分の否を認めないところはさすが薔薇乙女の一員といったところか。「でも私のおかげできらきーはジュンに好きって言えたじゃない! それは悪くないわよねぇ」悪いも悪くないも、それ以前の問題としか考えられない。しかし、お嬢様はぎこちない笑みを浮かべながら頷いている。「ほぉら」それを見て、勝ち誇った表情をする水銀燈。「それでジュンはどうなの。きらきーのことどう思ってる?」目を潤ませて僕を見るお嬢様と、口の端を上げてにやつく水銀燈を見て、「僕はずっと……うん、きらきーのこと好きだったから」変な形ではあるけれど、お嬢様に対する気持ちを告白することが出来た。そんな僕を見て、さらに水銀燈はにやつく。「きらきーさえ良ければ、僕と付き合ってくれないかな」言い終えたと同時。お嬢様は勢い良く立ち上がった。そのせいで椅子ががたんと音を立てて転がる。何をされるのかと、心の中で悲鳴を上げてしまった。それほどまでに威圧感が今のお嬢様にはあった。「ジュン様のことずっとずっと好きでした。私なんかでよければ……お願いします」白く輝く八重歯をちらりと覗かせながら、お嬢様は見たことも無いとびきりの笑顔で。たったそれだけで、僕の心は一瞬のうちに捕われる。もうお嬢様から離れることができないくらい、きつく、そして優しく、心を締め付ける。「さぁて、邪魔者はお先に退散することにするわぁ。また明日ね」勝手気ままな水銀燈はひらひらと手を振って、教室のドアを閉めた。がらんとした教室はいつもより広く見えて、ぽつんと立っているお嬢様が大きく感じる。「そういえば、用事があるって仰ってませんでしたか?」ふと思い出したようにお嬢様は口を開いた。「あー、あれはもういいや。だって、こうなったことだし」「ジュン様?」僕も立ち上がり、お嬢様の華奢な肩に手を置いて、「きらきーのこと、誰よりも大好きだってこと言おうと思ってたから」目の前で薄いピンク色の髪の毛が舞うのを見る。どうやら春風は可愛い女の子に目がないらしい。誰でもかれでも悪戯をする癖がある。だが、お嬢様には、春風にさえも渡す気はさらさらない。「ジュン様のことは私が絶対に幸せにしてみせます!」手をぐっと握りしめてそう言い放つお嬢様はかっこよくもあり、可愛く見えた。僕はちょっとずれたこのお嬢様のことが大好きでたまらない。だから、こうしてキスの不意打ちなんてやってしまうのは仕方の無いこと。全部、春風のせいにしてやろう。
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