湾岸 "Maiden" Midnight SERIES 1 「悪魔と天使と人間 Part 2」
桜田オートエンジニアリング。その屋根の下で、自分のRやファミリーカーに囲まれる中に、その車はいた。湾岸を300km/hで駆け抜ける、悪魔のZが。
湾岸 "Maiden" Midnight
SERIES 1 「悪魔と天使と人間 Part 2」
「これが……、真紅の言ってたZ……なのか?」「そうよ、これが私のZ」「そして、こんな呼ばれ方をしているわ」「何て……、呼ばれているんだ……?」
「……悪魔の、Z」
「悪魔の……、Z……」
悪魔のZと言う名を聞いて、ジュンは思い出す。昔、噂で聞いたことがあった。
湾岸を300km/hで駆け抜ける、S30Zが居るらしい。それは、悪魔のZと呼ばれているそうだ。
ただの噂話、都市伝説だと思っていた。そんな車が、存在するわけがない。S30Zは最終型でも、もう20年以上前の車だ。それが、300km/hのスピードを出せるなんて、夢にも思わなかった。だがその車は、ジュンの目の前に存在している。ジュンのRを、湾岸で置き去りにしていった事実は、ただの噂話ではなかったという証左。
「本当にこの車が、あの、悪魔のZなのか……」
思わず口からこぼれてしまう、現実に追いつけていない頭の言葉。
「そうよ、これが悪魔のZ」
ジュンの頭は、まだ混乱しているというのに、心は更なる熱を帯びてゆく。体内の中心から放たれる熱が、冷えた頭に熱を与えてゆく。考えているのではない、感じているのだ、悪魔のZを。
「それで、私のお願いは聞いてもらえるのかしら?」
一瞬忘れてしまっていた。そういえば、オーバーホールの依頼をされていたのだった。ジュンは、目の前の悪魔に魅入られていて、肝心の仕事などそっちのけの状態だった。だからこそ、頭で考えるよりも先に、心が言葉を紡ぎだす。
「ああ、僕がこの悪魔をオーバーホールしよう」
―――――――――
後悔先に立たず、か。勢いに任せて、あんなことを口走ってしまった。僕が悪魔のZをオーバーホールする?とてもじゃないけど自信がない。なんとなくわかる、あの車は、ただの車じゃない。とてもデリケートなチューニングカーは世の中に数多く存在する。僕だってチューナーのはしくれだ。チューニングカーを扱うのが怖いわけじゃない。だけど、あの車は違う。言葉にできない不安が襲いかかってくる。
やっぱり断ろう。誠心誠意謝って、帰ってもらおう。
確か昼ごろに来ると、真紅は言っていた。ジュンの気持ちは憂鬱だった。自分でやると言っておいて、結局断ることになる。プロ失格だ。自分に対して、どうしようもなく腹が立って来る。なんて無責任なんだ。もう子供のころじゃないんだ、いい歳した大人なんだ。それなのに、ぜんぜんあのころと変わってないじゃないか。ジュンは、工場の事務所の机に突っ伏したまま、真紅が来るのを待っていた。
音が聞こえた。少し調子を崩した、人間で言うと鼻声みたいな音。しかし、たとえ鼻声でも、周りの車とはっきりと違いのわかる音。ジュンは事務所から飛び出すように外へ出た。
真紅と、悪魔のZがいた。
「あら、準備がいいのね」「ああ、車を中に入れてくれ」
また、ジュンの心が勝手にしゃべりだした。
――――――――――
「それじゃ、見積書作るからちょっと待っててくれ」
違う。僕が言いたいのはそんなことじゃない。
「待って」「うん?」「このお店は、客にお茶の一つも出さないのかしら?」「ああ……、悪い、気が利かなかったな」
少し、考える時間ができた。ナイスアシストだ、真紅。さてと、お茶の葉はどこにしまってあったっけ?
「待って」「今度は何だ?」「お茶といっても、緑茶じゃなくて、紅茶を用意するのよ」
相変わらず尊大な態度だこと。えっと、紅茶ってうちにあったかな?こういう時に限って、なんであいつはいないんだよ……。ああもう、どこにあるんだ、紅茶。
「ジュン、遅いわよ、早くしなさい」「ちょっと待ってくれー!、今探してるんだよ」
ジュンが慣れない作業に悪戦苦闘しているそのとき、事務所のドアが開いた。
「遅くなってごめんねー、ジュン……くぅん……?」「ああ、やっと帰ってきたか、遅いぞ姉ちゃん」「えっと、どなた……?」
ジュンに姉と呼ばれた人は、真紅を見て、目をパチクリさせていた。
「はじめまして、私は真紅よ」「あっ、はじめまして、桜田のりです。えっと……、真紅ちゃんは、ジュン君の……、コレ?」
そう言ってジュンの姉、のりは小指を出す。
「違あぁーう!」
ジュンが大声で叫んだ。
「えっ、違うの?」「お客さんだよ!お客さん!」「お客さん?だって……、ジュン君が女の子を連れて来るものだから、てっきりお姉ちゃんそう思っちゃうじゃない……」「ああもう、その話はいいから、紅茶を用意してくれ!」
ジュンとのりの、いきなり大胆な会話を真紅は軽く聞き流した。そんなことはどうでもいいから、早く紅茶を出して欲しいのである。未だ変な熱に浮かれるのりに、発破をかける。
「紅茶はまだかしら?」
事務所の中は、沈黙に包まれていた。のりが、見積書を作成するために、パソコンのキーボードをたたく無機質な音。真紅が、紅茶を口に含み、そしてカップを置く無機質な音。ジュンが、このあと、どう断ろうか悩んでいるときに出る有機質なため息。8畳程度の小さな部屋の中で、3人がそれぞれの音を出す。真紅が、紅茶について文句を言い出した。しかし、ジュンの耳には、真紅とのりの会話が入ってこない。何も聞こえない。何も見えない。何も言えない。そして、再びの沈黙。もう、見積書は出来上がりそうだった。言葉が出てこない、出てくるのはため息ばかり。心が言うことをきいてくれない。あの悪魔のZを目の前にすると、考えていたことがすべて吹き飛んでしまう。自分の心が、全身を支配してしまう、自分の意志とは無関係に。そんな感覚を、ジュンは感じていた。
結局、ジュンは断ることができなかった。真紅はもう帰って、工場には悪魔のZだけが残された。納車できる日がわかったら連絡する。そう言って、引き受けてしまった。心が、断ることを許してはくれなかったのだ。
工場内にたたずむ悪魔のZを眺めながら、一足先に昂る心を抑えられずにいた。不安はある。しかし、もう後戻りはできないのだ。こうなった以上、プロとして、与えられた仕事をするのみ。頭が覚悟を決めた。よし、やろう。僕がやろう。この悪魔のオーバーホールを。
そして、ジュンは電話をかけた。
「すみません、突然押し掛けちゃって」「構わない」
ここは、チューニング業界において、屈指の技術力で名を売ってきた「ガレージ槐」の工場。そして、ジュンと会話をしている彼は、ここの社長であり、1代でこの工場を築き上げた槐というチューナーであった。
「悪魔のZ、か……」「はい、そのことについて槐さんに聞きたくて」「そうか、僕もその名を聞くのは久しぶりだ―――」
簡単な説明を一通り受けたジュンは、帰りにひとつのスクラップ帳を渡された。
「この中に、僕が知っている悪魔のZのことについて書かれている。持っていって構わない」「いいんですか?借りちゃって」「ああ、ゆっくり読むといい。なにか参考になるだろう」「すいません、じゃあ、借りていきます。今日はありがとうございました」
そう言って、ジュンはガレージ槐の事務所を出て行った。そして、ジュンと入れ違いに、1人の男が事務所へ入ってきた。
「相変わらずご執心だね、彼に」「白崎か……」
白崎と呼ばれた男は続ける。
「薔薇水晶が不満そうにしていたよ、早く戻って来いってさ」「いい音だ……」「……へ?」
突然、槐が変なことを口走るので、白崎は混乱する。
「彼のRだ」
白崎は窓の外を見た。ちょうど、ジュンのRが暖機運転をしているところだった。
「ああ、確かにRのエキゾーストノートはいいね」「違う」「はい?」「エンジンの音だ」「エンジンの音?」
工場の喧騒にまぎれて、ジュンのRの音が響いてくる。メカニックたちは、ほとんどジュンのRに目もくれず、仕事を続けていた。その中で、槐はわずかに聞こえるその音に、耳を傾けていた。
「彼には才能がある、持って生まれた才能が。だが、経験が足りない」「最近はチューニングの仕事がないらしいからね、彼」「それでも、僕は彼の組んだエンジンの音が、とても心地よいと感じている」
ジュンのRは、暖機運転を終えて工場を出て行った。
「もし、彼に十分な経験が備わったならば、そのエンジンはどんな音を出すのだろうか」「なるほど、彼に期待しているわけだ」「そうなのかもしれない……。ところで、何の用だったんだ?」「おいおい、人の話はちゃんと聞いてくれよ……」「それで?」「薔薇水晶が」
その言葉と同時に、槐は無言で立ち上がり、そそくさと工場内へ消えていった。
「まったく、娘と彼とどっちが大切なんだか……」
僕は、結局槐さんにオーバーホールの話はしなかった。独り占めしたかったのかもしれない。今になって思えば、ちゃんと話しておくべきだったと思う。槐さんから借りたスクラップ帳。まるでだまし取ったような気分だ。だけど、せっかく貸してもらえたのだから、きちんと読んで返そう。そして、返す時に言おう、悪魔のZのことを。
僕は、工場に戻ると一心不乱に読み漁った。悪魔のZ。その成り立ちを。
まずエンジン。これはL28を3.1Lまでボアアップし、ツインターボ化させたもの。600馬力、トルク80kgf-m以上を発生させる。槐さんにも聞いた話だが、あのZがわずか600馬力というのには驚いた。湾岸には、600馬力以上のマシンがごろごろ存在する。というか、それ以上出ていて当たり前の世界だ。僕のRだって700馬力までチューニングしたんだ。それを、いともたやすく抜き去るとは信じられないが、現実がそれを証明している。
次に、悪魔と呼ばれる所以だ。あの悪魔のZを作り上げたチューナーは、ローゼンというらしい。ドイツ出身のチューナーということ以外は、人物に関する詳細があまり知られていない。ただ分かっているのは、80年代のストリート、つまり東名、第三京浜、首都高を走る車を手掛けてきた伝説のチューナーであること。そして、彼の作り上げた車は、とびきりの速さを誇っていたが、同時に乗り手を選ぶ車でもあったということ。彼のマシンは次々と事故を起こし、何人もの死者を出した。ゆえに、伝説のチューナーであると同時に、悪魔のチューナーとも呼ばれた。決して表舞台に出ることはなく、ストリートにこだわり続けた。彼の作る危険な車は客を減らし、やがて工場は倒産。以後行方不明となっている。そんな人が昔いたなんて、知らなかった。ページをめくる手が震えてきた。もっと知りたい。僕自身が、悪魔のZを欲している。
ローゼンの作り上げたチューニングカーのなかでも、ずば抜けた速さを持っていた7台の車がある。悪魔のZもその1台だ。国産ターボカー黎明期に、600馬力ものパワーを与えられたその車は、特に幾度となく事故を繰り返した。次第に、この車は悪魔のZと呼ばれるようになる。それでも、この車を求める者が絶えず、そして死んでいった。この現代において、悪魔のZの行方は知れず、廃車になったのか、新たなオーナーの手に渡ったのかはわからない。
そんな、いわくつきの車だったとは、思わなかった。そんな、危険な車を、真紅が運転しているなんて、思わなかった。そんな、魔力を持った車を、僕がオーバーホールしようとしているなんて、思わなかった。
それなのに、それなのに……、心が弾む。
僕はいつの間にか、悪魔のZの前にいた。外は、すでに夜になっていた。
この悪魔に乗ってみたい……。
真紅からは、自由に乗ってもいいと、預かるときに許可はもらっている。なのに、なんだろうか、この背徳感は……。べつにやましくも何ともないじゃないか。現状把握のためのドライブだ。時間もいいころじゃないか。そうやって、言うことを聞かない頭を無理やり納得させる。
そして、僕は悪魔のZのキーを回した。
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