『パステル』 -16-
2人に席を外してもらうと、雛苺はドアを閉めるだけに止まらず、施錠までした。ここは病院。看護士の入室すら拒むなんて、もってのほかと承知はしている。だが、闖入者の出現で気を散らされる嫌悪感のほうが、今は勝っていた。 覚悟はしてきた。雛苺なりに、熟慮だってしたつもりだ。けれども、いざ事に当たろうとすると、怖じ気づいてしまう。内側から肺腑を圧迫してくる怖れが、雛苺に歪んだ昂りをもたらし、手を震えさせた。 「なんのお構いもできないけど、ゆっくりしていってね」 のほほんとした口調は、雛苺の緊張を見抜いての心遣いか。めぐはベッドに仰臥すると、ひとつだけあるスツールを、雛苺に勧めた。 「ごめんね。あなたにも予定があって忙しいでしょうけど、少しだけ休ませて。 あーぁ、これしきで疲れるなんて……体力、かなり落ちてるなぁ」 了承のしるしに、雛苺が頷く。めぐの体調をなおざりにする気は、更々なかった。16歳の秋に倒れてから、もう4年――そんな長きにわたる入院生活を送っていれば、どうしたって筋力は衰えよう。 「大丈夫なの? お水かジュース、飲む?」「ううん……今は、いいわ」 スツールに座るなり訊ねた雛苺に、めぐは枕に預けた頭を、力なく振って見せた。容態は安定しているようだが、どうしても、血色の悪さが目につく。病苦による憂鬱のためか。あるいは、これこそが死相と呼ばれるモノなのか。 ともあれ、黙ったままで居ると、意気消沈の空気に呑まれてしまいそうで……雛苺は、努めて陽気な声をだして、水を向けた。 「ところで、めぐさんとジュンって、いつから交際してたの?」「えっ? ……いきなりね。そんなこと訊きたいわけ?」「ヒナだって女の子だもん。他の子の恋愛には、興味あるのよー」 興味があるのは確かだが、雛苺の真意は他にある。絵にココロを宿すため、めぐの人柄を、もっと知りたかったのだ。 「ジュンのこと、好き?」「もちろんよ。結婚を承諾するほどだもの」「彼の、どんなところを好きになったの?」「どんな……って、まあ、いろいろよ。意外性とか、包容力とか―― 例を挙げてたらキリないし、とても一言じゃ語り尽くせないわ。 知れば知るほど好きになって、好きになるから、もっと知りたくなるのね」 だらしなく緩んだ顔を見られたくなかったのか。めぐは窓の外へと顔を向けた。そうすることで、却って、朱に染まる耳が丸見えになるとも気づかずに。 「馴れ初めは、高校に入って、ひと月も経たない頃だったっけ……。 なにかの用事で――詳細は忘れたけど、放課後も遅くまで校舎に残ってたの。 それで、階段を昇ってる最中に、いきなり眩暈がしてね。 手摺を掴もうとしたけど、間に合わなくて。その直後、足を踏み外してたわ」「そのとき助けてくれたのが、ジュン?」「ええ。と言っても、彼は小柄だったから、私を支えきれなくって。 もつれ合いながら、踊り場まで転げ落ちちゃったわけ」 「うわ……危ないのよー」「まだ5段目くらいだったから、打撲と擦り傷くらいで済んだのね。 結局は、それが重い後遺症を残すことになったんだけど」 どういう意味か。頸を傾げる雛苺をよそに、めぐはクスクスと笑みを漏らす。そして、くるりと寝返りを打って、穏やかな笑みを雛苺に向けた。 「物の弾みって、ホントに不思議だと思わない? あんな、マンガみたいなことが、いきなり現実になってしまうんだもの」「うゆ……あんなって、どんな?」 なおのことワケが解らない雛苺に、めぐは自分の唇を指でなぞって見せる。 階段で、もつれ合いながら転げ落ちた。 マンガみたいなこと。そして、唇―― それって、もしかして。雛苺もようやく、ひとつの可能性に行き着いた。 「あんなもの、とてもキスと呼べるようなコトじゃなかったのにね。 でも、その……初めて……だったし、なんだか変に意識しちゃって」「ふえ~。そんな事件があったなんて、ジュンは話してくれなかったのよ」「話せっこないわよ。わざわざ言いふらすほどのコトでもないでしょ」 言ってしまえば、ただの事故。けれど、あまりにもショッキングな体験。少年と少女の青いココロは、些細な触れ合いから、微妙に絡みついてしまったわけだ。 「放課後のことだったし、誰に見られてたわけでもないんだけど……ね。 それから後、しばらくは人目を気にして、彼も私も素っ気ないフリしてたわ。 廊下で擦れ違っても、視線が交わりそうになると、すぐ目を逸らしたり」「つまり、咄嗟に知らんぷりしちゃうくらい、意識し合ってたのね」「可愛いものよね。だけど、いまでは後悔してるわ。もっと話しておけばよかった。 あの時期、あの年頃の感性でしか話せないコトって、あると思うから」 その年の秋――高校に進学して初参加の文化祭で、学年のプリンセスに選ばれたりもしたけれど、あの頃、めぐは確かに、人並みの青春を謳歌していた。ジュンと親しくお喋りすることだって、しようと思えば、普通にできたはずだ。 だが、夢のように楽しい時間ほど、いつの間にか失われているもので……彼女の華やかな高校生活は、無残にも幕を下ろされた。他の女の子たちみたいに、週末には友だちと遊んだり、部活に励むこともなく、たった独り、この病室に押し込められてしまったのである。 「この部屋――」ふと、遠い眼をして、めぐが吐露する。「広すぎて、ずっと嫌いだった」 苦々しく紡がれた、過去形。その意味するところは、雛苺にも、なんとなく察しがついた。触れ合えるモノがなければ、人は誰でも、不安になってしまうものだから。 「誰か――ジュンは、お見舞いに来なかったの?」「来てくれたわよ。入院して数日後の夕方、人目を憚るように、たった一人で。 様子を見にきただけだから――私と目も合わせずに、彼は言ったわ。 早くよくなって、学校に来いよ……ともね。あの言葉、とても痛かったっけ」 事情を知らない者ならではの、無責任な台詞だ。めぐは、どう答えたのだろう。無思慮な少年に、怒りをぶつけただろうか。雛苺が訊くと、彼女は照れ笑って、掴んだ毛布を口元に手繰り寄せた。 「腹は立ったけど、怒鳴ったりはしなかったわ。もう帰って。そう告げただけ。 そうしたらね、彼ったら去り際に、とても寂しそうな顔をするんだもの。 私も、なんか急に胸がキュンとなっちゃって…………ありがと、って。 来てくれて嬉しかった――彼の背中に、そう話しかけてた」 なんというノロケ。夕暮れの病室で2人きりというのも、青春ドラマにありがちな画だ。水銀燈がこの場にいたら、奇声をあげて床を転がり回り、背中を掻きむしったことだろう。恋愛には疎い雛苺でさえ、あわやスツールごとひっくり返るところだった。 「それから、ジュンは毎日のように?」「毎日ではないけど、頻繁に顔を見せてくれるようになったわ。 半年くらいは、そんな感じで……交わす言葉も、時間と共に増えていった。 彼は知的で、思いやりがあって、ちょっと繊細すぎる面もあるけど、 私が出逢ってきた男の子たちの中では、1番ステキだった」「ういー。ごちそうさまなのよー」 雛苺が、さも辟易した顔になる。素直な性格は、嫌味を上手に隠さない。如才なく振る舞えない辺り、大人になり切れていない証しなのだろう。めぐは察して、苦笑した。 「ごめんね、ノロケてばかりで。こんなもので、もう充分かな」「う……ううん。水を差しちゃって、ごめんなさいなの。続けて?」「続けてって言われても、ここから先は、あまり楽しくないんだけど」 それでも構わないから。雛苺が促すと、めぐも躊躇いがちに頷き、口を開いた。 「初めのうちは、彼の優しさが心地よかった。 一緒に過ごす時間が楽しすぎて、夢中に求めてしまうくらいに。 でも、私は、そんな関係にだんだんと不満と息苦しさを覚えていったわ。 だから、ある日、彼に告げたの。もう来ないで……って。 もし来るならば、そのときは……私と一緒に死んでよ、と」「……どうして?」「火に炙られた物が焦げるようにね、私のココロも爛れ始めていたから」 ジュンの訪れを待ち侘びる時間は、やがて、不安と苛立ちを生むだけとなった。来てくれると、次はいつ来られるのかと執拗に問い詰め、来てくれなければ、どうして来なかったのかと、ねちっこく詮索した。そんな自分の醜さと死への恐れ、募る寂しさから、毎晩のように慟哭したと、めぐは語った。 「あの頃の私って、とにかく嫌な子でね……私自身、自分が嫌いだった。 いつ壊れるとも解らない不良品の心臓を呪い、こんな身体に生んだ両親を怨んで―― 彼にだけは見られたくなかったのよね。どんどん醜悪になってゆく私を」 だから、扉を閉ざした。現実から目を背けて、逃げた。ジュンも辛かったのだろう。それからは、ぱったりと来なくなったと言う。そして、支えを失った多感な少女は、ますます情緒不安定になっていった。 「パパとママも、多忙なスケジュールをやりくりして、お見舞いに来てくれた。 それなのに、私……あるとき癇癪を起こして、『死ね』だなんて―― 私がこんなに苦しんでるのは、全部、あなたたちのせいだ。責任とってよ、と」 雛苺に見られていることも構わず、めぐは、瞳と声を潤ませた。「なんで、あんなこと言っちゃったのかな、私…………どうして」 誰かのせいで――なんて、無力な被害者ぶるのは、イヤ。めぐは、そう言っていた。たとえ愚かな選択をして、傷ついたとしても、その結果を誇りたい――とも。あれは、いまも胸に蟠る彼女の後悔が、言わしめたに違いない。 雛苺は、か細く嗚咽するめぐの頭を撫でながら、真紅と水銀燈のことを回想していた。過失に囚われ、もがき苦しみ続けている姿が、彼女たちと重なったからだ。 みんな、それぞれに抱える悩みがある。人によって、その重さが違うだけ。そんな理屈は、雛苺にだって解っている。解ってはいるのだけど……やはり、親しい人の打ち沈む姿は、純真な彼女を、やるせない気持ちにさせた。 「もう泣かないで。ヒナが、悪い夢から覚ましてあげるのよ」 生きとし生ける者、悉く、死と肩を組んで産まれてくる。けれど、いつか死ぬから、なんだと言うのか。そんなもの、人生を諦めるに足る理由とはならない。どれだけ限られた時間であっても―― ――否。限りあるからこそ。雛苺は、しゃくり上げる幼子を宥める母親のように、そっと話しかけた。「だから……めぐさんも、ヒナに協力してね」 それに応えて、彼女はパジャマの袖で目元を拭った。 「……解ったわ。あなたの言うとおりにする」「うい。それじゃあ――始めるのよ こまめに休憩は挿むつもりだけど、疲れちゃったら遠慮なく言ってね」 病室のカーテンを閉じながら、雛苺は、めぐに微笑みかけた。 ~ ~ ~ 「疲れてない? もう少ししたら、ちょっと休憩なのよ」 描くことに集中しながらも、めぐを気遣うことも忘れない。けれど、おっとりした口調とは対照的に、めぐを捉える雛苺の視線は鋭かった。 こんなにも、じっくりと誰かに観察されたこと、いままであったかしら。めぐは、ぞわぞわした得も言えない感覚に戸惑いながらも、小さく頷いた。雛苺も満足そうに微笑み返して、また話しかける。 「……そう言えば、その後は、どうなの?」「どうって、なにが?」「ご両親とは、仲直りしたのかなぁって」「ああ、そのこと」 めぐの目元が緩む。唇にも、うっすらと笑みが浮かんでいた。けれども、それはどこか寂しげな気配を匂わせている。 「もちろん、謝ったわよ。電話で、だけどね。 彼と結婚するって決心したその日に、報告がてらに」「赦してもらえたの?」「さぁ……どうかな。パパは『そうか』とだけ。ママは、なにも言わなかった。 バカな娘だと呆れられて、愛想を尽かされたんだと、そのときは思ったわ。 いままでの所業を考えたら、それも当然だなぁって。 覚悟してたけどね、現実のものになると、やっぱり、少し落ち込んだわ。 でも、最近ふと気づいたの。泣くのを堪えてて、喋れなかったのかもって」 あれから一度も会って話してないし、電話もしないから、分からないけど。そう言った彼女の瞳が、雛苺には、心なし潤んで見えた。 「自分たちの娘を愛してない親は、いないのよ」 だから、めぐの見立ては、きっと正しい。雛苺は無垢な笑みを口元に湛えながら、デッサンの手を止めた。 「ふゆぅ~。ここで一旦、休憩するのよー。お疲れさまなの」「ん……思ったより緊張するものね、モデルって」 やや上擦った声で言いながら、めぐは、はだけたパジャマの上に毛布を被った。いきなりセミヌードになることを求められたときは焦ったものの、雛苺の真摯な眼差しに射抜かれている間に、動揺や羞恥心は収まっていった。 「ねえ、雛苺。進み具合を見せてもらっても、いい?」「ぜんぜん構わないのよー。こんな感じなの」 見せられたスケッチブックには、中央に、うしろ髪を掻き上げて佇む、めぐの姿。その右隣に、別の人影を見て、めぐはスケッチブックを取り落としそうになった。 あろうことか、彼女は絵の中で背後から抱擁され、口づけされかけていた。それも、なにひとつ身に纏うもののない骸骨によって。骸骨の左腕は、その見かけによらず、めぐの腰を力強く搦め捕っている。そして、生気のカケラもない右腕は、はだけられた胸元のふくらみへと―― さっきまでの、雛苺の鋭い視線――もしかして、常人の目には見えないモノを、視ていたとでも言うのか。おどろおどろしい空気に気圧されながら、めぐは嘆息した。 「これ、どういう意味?」「死のイメージ。めぐさんの左胸を、鷲掴みにしようとしてるのは……」「心臓を――ってコトね。なるほど」 言って、めぐは思わず、自分の左胸に手を宛った。ちょっと強めに押し当てると、微かな鼓動が、一定のテンポで掌に伝わってくる。この描かれた骸骨が、その目的を遂げたとしたら……どんな感じかな?やっぱり、キュッと心臓が縮こまって、そのまま停まってしまう? めぐは奇妙な想像をしながら、スケッチブックを雛苺に返した。 「あなたの絵、初めて見たけど……とても上手ね。骸骨とか、本物みたい」「いっぱい練習してきたんだから、当たり前なのよー。 骨格とか筋肉の仕組みを知らなきゃ、躍動感のある、ココロの宿る絵は描けないわ。 ただ闇雲にデッサンを繰り返しても、空っぽの器を粗製濫造するだけなの」「そういうもの?」「うい! と言っても、ヒナの勝手な解釈に過ぎないんだけど。えへへ……」 絵を描かないめぐには、釈然としない説明だったらしい。けれども、もっと雛苺の描く絵を見てみたいと……純粋な興味を芽吹かせるには、それでも充分な様子だった。 「どれくらいで完成しそう?」「まだ鉛筆での下書きなのよ。パステルの出番は、それが済んでからなの。 とりあえず……あと30分くらい頑張ってね」「そんなもので描きあがるわけ? もっと掛かるかと思ってたけど」「下書きが終わるまでの時間よ。着色するのは、午後になっちゃう。 でも、今日中には完成させるから、任せといてなの」「……そう。楽しみにしてるわ」 微塵も不安を感じさせない、相手を信用しきっている者の口ぶり。めぐは、肩に掛けていた毛布を脇に除けて、挑むように雛苺を見つめた。 「さぁ、そろそろ再開しましょ」 「具合は、平気? 辛いようなら、先にジュンを描いてくるけど」「問題ないわ。気にしないで、始めて」 まったくの強がりでもなさそうだ。描き始めより、めぐの顔色はよくなっている。……が、彼女の体力を思えば、手早く終わらせるに越したことはない。雛苺は表情を引き結んで、使い慣れた鉛筆を手に取った。 それから20分ほどで下書きが終わるや、めぐはグッタリと横たわった。同じ姿勢のままでいるのも、これでなかなか、くたびれるものだ。ましてや、長期にわたる入院で筋力の衰えた彼女なら、なおのこと。 「ホントに、お疲れさまなのよ。ゆっくり休んでね」「……ん。ちょっと頑張りすぎちゃったみたい。少し、眠るわ」「解ったの。それじゃ、また後で」 雛苺の労いに、めぐは唇に薄い笑みを作って応えると、瞼を閉ざした。せめて楽しい夢に浸ってほしい……眠っている間だけでも。もう一度だけ、ベッドに同情の眼を向けてから、雛苺は316号室を後にした。 「おかえりなさい。もう終わったの?」 入室するや話しかけてきた真紅に、雛苺は「半分だけ」と、曖昧に頷く。水銀燈も、ジュンも、真紅の病室に場所を移し、語らいながら待っていたらしい。雛苺の帰りを知り、腰を浮かせたジュンを、雛苺は急いで呼び止めた。 「あ、待ってなの。めぐさん、少し眠るって」「そうなのか? じゃあ、邪魔しないほうがいいな」「うんうん。それでね、いまのうちに、ジュンも描いておきたいのよ」「僕も?」 ジュンが、怪訝な顔をする。水銀燈は、呆れたように鼻を鳴らした。 「おバカさん。もう忘れたのぉ? めぐが言ってたでしょ。 私と彼の未来を描かせてあげる……って」「あ、ああ……そうか。僕も含まれてるんだよな」「うい! ここで描いちゃうから、用意してなのよー」 めぐの代役は水銀燈に頼んで、雛苺は、ジュンにポーズの注文をつけた。それだけすると、彼女は人が変わったように、鉛筆を走らせ始めた。気持ちを高めたりとか、精神集中するなどの前振りは、一切なし。 めぐが目を醒ますまでに、完成させたい――まるで、噴火を彷彿させる雛苺の熱意が、居合わせた人々の口を噤ませる。端で見守る真紅でさえ、絵のモデルになったかのように、身じろぎもできなかった。 -to be continued-
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