いつか見た夢へ
麦を粉にする水車がゆっくり廻る。雲の隙間から射す光が小さな村を照らしていた。村を見下ろす位置にある小高い丘の頂上には、一本の木。サァ…と、風が吹く。なだらかな丘に生えた草が、そっと揺れた。「……絶好のフライト日和かしら! 」木陰から村を見下ろしていた少女は、小さな体に風を受けながら大きく息を吸い込む。風よけのゴーグルを首からぶら下げたまま、彼女は両手を精一杯に広げた。火照った頬に感じるのは、冷たさが心地よい風。隣には、自転車に翼とプロペラをつけた、自作の飛行機。少女は期待感に頬を緩ませながら、自らの製作した愛機へと視線を向けた。木製のハンドルに指を這わせ、羽にコツンと額を当てる。「……ピチカート……今日こそは……一緒に……自由な大空に…… 」まるで友人にでも話しかけるように、彼女はお手製の試作機に話しかけた。額を当てたまま、まるで思い出を振り返るように少女は目を瞑る。丘の上で動くものは、風に揺れる木と、草と、彼女の髪だけ。景色に溶けてしまいそうなほど淡い緑だけが、静かに存在していた。 やがて少女は静かに目を開き、ゴーグルを目に当てる。そして自転車にまたがり……ハンドルを握り締めた。その瞳が見つめるのは、遥かなる目的地……どこまでも青い空。「ピチカート!いざ、出発かしら! 」小さな足がペダルを力強くこぎ始め、なだらかな坂を翼を付けた自転車が走り出す。プロペラが回り、翼がその風を受け止める。景色が流れるように過ぎ、やがて細い線のように見え始めてくる……――――やがて、速度は限界まで達し……「今こそ……才女・金糸雀の名前が歴史に刻まれる瞬間かしらっ! 」ゴーグルの奥で目を輝かせながら少女が叫び……――― 空はどこまでも果てしなく広がっていた。 ―※―※―※―※― 【 いつか見た夢へ 】 ―※―※―※―※― 「牛さん!カナが緊急回避と言ったらお食事は中止!パパッと避けるかしら! 」金糸雀は擦りむいたヒザを摩りながら、のんびりと草を食べる牛のお尻を軽く叩いた。牛はというと、そんな少女の事など気にも留めず、うるさそうに尻尾を動かしながら口を動かすだけ。「……もう!カナが咄嗟の判断で避けなかったら、大惨事になってたのに…… 」金糸雀は頬を膨らませながら、視線を自分の足元……ひしゃげ、折れてしまったプロペラや翼へと向けた。今回こそは、うまくいくと思っていたのに……ちょっと悲しそうに、倒れた自転車を起こす。それから、目元をゴシゴシとこすり……今度は屈託の無い笑みを、傍らで草を食べる牛に向けた。「ともあれ!怪我が無くって何よりかしら! あんまり食べ過ぎると、まん丸に太って美味しく食べられちゃうから気をつけるかしら! 」牛に向かってブンブンと手を振りながら自転車にまたがる。そして、ちょっとだけ歪んだタイヤに四苦八苦しながら、今度はゆっくりと坂道を降りていった。のんびりと食事を続けていた牛は……一度だけ顔を上げ、彼女の背中に鳴き声を送ると……再び、ゆっくりと草に顔を近づけた。彼女が住む村は、小さな、のどかな、そんな村だった。100にも満たない民家と、それを見下ろす小高い丘。少女がたった一人で暮らしている領主の屋敷と……あとは、どこまでも広がる畑。そんな小さな、そして平和な村。 気を抜けばすぐにバランスを崩してしまいそうな自転車に乗りながら、金糸雀は村の通りをのんびり走る。パン屋の店頭に立つ看板娘に手を振り、小さな川に架けられた橋で一休み。清流の中に小魚を発見し、収穫が終わったばかりの麦を粉にする水車の回転を目で追いかける。壊れかけの自転車を手で押しながら、唄を口ずさんでみる。雲ひとつ無い、綺麗な色をした空を眺めながら、ゆっくりと歩いた。「やっとこさ、無事に帰還かしら! 」金糸雀は自宅の横に設けられた倉庫に自転車を入れながら、やっと一息ついたかのように大きく息を吸い込んだ。鼻腔をくすぐる、鉄とオイルの匂い。立て付けの悪い倉庫は、所々壁から光が漏れており……薄暗いながらも、隅々まで見渡せる。乱雑に積まれた、金属片。書きかけの図面。昼間では何の意味もなさない、天井からぶら下がった電球。そして……中心には、布をかぶった巨大な物体。やがて、その布の一部がゴソゴソと動き出し……鼻にオイルの汚れを付けた女性が姿を現した。「やっほー、カナ。今日はどうだった? 」女性はそう言うと、金糸雀へと近づき……「って怪我してるじゃないの!?嫌ァァァァアア!カナァァ!死んじゃ駄目ェェェ!! 」叫び声を発しながら、自分の半分ほどしかない少女を力いっぱい抱きしめた。 「み…みっちゃん……苦し……やめ……! 」金糸雀は苦しそうにうめき声を上げながらも……それでも、どこか楽しそうな表情をしていた。……………やがて、落ち着きを取り戻した女性、みっちゃんと二人で、金糸雀は倉庫の隅に置かれた木箱へと腰掛けた。「……だから、牛さんが邪魔さえしなければ、きっと成功していたに違いないかしら! 」本日の飛行計画の顛末を語りながら、温かな湯気の昇るココアのカップを握り締める。そんな金糸雀の姿に、みっちゃんは楽しそうに目を細めながら答えた。「ふふ……やっぱりカナは才能があるわね 」「……でも、みっちゃんがいっつもお話をしてくれる人は、カナと同じ歳にはもう飛んでいたかしら! 」褒められたにも拘らず、思うように結果を残せなかった金糸雀は、不満げに頬を膨らませるばかり。「いっつも話してる人って……飛行機王・ローゼン? 」分かりきった質問を、金糸雀の頬を突っつきながらみっちゃんは聞き返してみた。『飛行機王・ローゼン』その名が出た瞬間、金糸雀の目はキラキラと輝き始める。「そう!まさに憧れの的かしら!……ああ……一度でいいから、会ってみたかしら…… みっちゃん!また飛行機王さまの伝説を何か聞かせてほしいかしら! 」金糸雀は目を輝かせたままみっちゃんを見つめ、お話をねだった。 みっちゃんは、ちょっとだけ目を瞑り、記憶を探る。そして……静かに、口を開いた。大西洋を横断した話。エンジントラブルで砂漠に落ちてしまった時の話。みっちゃんは金糸雀の髪を撫でながら、楽しそうに物語を続ける。金糸雀はココアのカップを横に置き、静かにみっちゃんの話に耳を傾けていた。やがて射す光も西日へと変わり始め、弧を描く月が村の隅に建つ倉庫の上を横切る。小さな電球が灯った倉庫では、いつまでも楽しそうな二人の語らいが続く。時に騒がしい声が漏れ聞こえる扉の隙間からは、大きな布に覆われた黄色い翼が顔を出していた。そして……暫しの時が流れる……
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