水銀燈の野望 烈風伝 ~血戦前夜編~
――永禄九年八月二十日。その日、艶やかな薔薇の花弁が、真っ二つに切り裂かれた。「水無瀬の戦い」と世に言われる合戦である。赤と黒。二輪の薔薇が、史上最も激しく、最も哀しい戦いの火蓋を切ったのだった。黒い薔薇の紋の主、水銀燈。圧倒的な統率力をもって京に薔薇乙女家の旗を打ち立て、天下に覇を唱えようとした女傑。赤い薔薇の紋の主、真紅。道を違えた姉に引導を渡し、薔薇乙女家の新たな当主として野望を引き継がんとする麗女。赤と黒。二輪の薔薇の軍旗の下に「つわもの」たちが集い、畿内は戦乱の巷と化した。美しい少女たち――同じ血を分け、かつてともに戦った姉妹――が、互いに刃を交え、殺し合う。この痛ましい戦乱を、後の世の者たちは「玄紅の乱」(げんこうのらん)として次代に語り継いだ。知られざる歴史の一頁。乙女たちの、血塗られた物語。第二の幕が、まもなく開かれようとしている――<第二部開始時の情勢>事の起こりは、永禄九年七月の「永禄の変」である(※1)。水銀燈配下であった松永久秀の企てにより、前将軍・足利義輝は非業の最期を遂げた。これを水銀燈自身の陰謀であると見た近畿の諸将の間に、動揺が走る。特に西国の薔薇乙女家被官や、将軍家への忠誠心の篤い者らは水銀燈から離反する動きさえ見せ始めた。この情勢を見て、当時水銀燈援護のため播磨から二万の軍勢を進めていた真紅は、急遽方針を転換。翠星石、蒼星石の二人に一万の兵を預け、久秀を討たせると同時に、自らは京へ進軍。実姉であり、主君でもある水銀燈に宣戦を布告し、自らが新たな当主となることを宣言したのであった。一方、久秀追討の準備をすすめていた水銀燈だが、主力は近江にあったため兵力は五千程に過ぎなかった。数的不利ながらも、雪華綺晶、薔薇水晶ら精鋭を従え、真紅を迎え撃つため京を出撃する。八月二十日。真紅、水銀燈両軍は摂津国北部の水無瀬に陣を敷き、遂に激突。水銀燈軍は圧倒的な突撃力で真紅軍の陣形を崩し、真紅を負傷させるまでに追い詰める。が、数に優る真紅軍は粘りを見せ、翠星石、蒼星石両軍との挟撃体勢をとり反撃に移った。合戦が長引けば、双方が自滅の道を辿る――水銀燈は撤退を決意した。南近江まで全軍を退かせ、その結果京周辺の要所を真紅に明渡すこととなったのである。真紅はその後、摂津国にまで勢力を伸張。さらに義輝の弟・足利義秋(※2)を京に迎え、朝廷へ働きかけて将軍位に就かせることに成功する。薔薇乙女家の分裂により、周囲を取り巻く大名たちとの関係も大きく変化した。西国の雄・毛利元就は水銀燈と断交し、新たに真紅との同盟を宣言。一方美濃を手中に収めた織田信長は、水銀燈との盟約の遵守を約束し、真紅に対して共同戦線を張ることとなる。ここに、二つの薔薇乙女家による対立の構図が出来上がった。「紅家(こうけ 通称・赤薔薇)」将軍義昭の京都二条城周辺を固め、摂津、播磨、備前、備中、備後、美作の六ヶ国を有する真紅。これに従うは翠星石、蒼星石、雛苺、柏葉巴。さらに将軍家臣である細川藤孝も真紅から所領を受け、実質的に真紅の配下となった。同盟者は足利将軍家、中国五ヶ国を治める毛利家、丹波の波多野家である。「玄家(げんけ 通称・黒薔薇)」南近江・観音寺城に本拠を置き、大和、和泉、河内、紀伊の五ヶ国を支配する水銀燈。従うのは雪華綺晶、薔薇水晶、金糸雀。加えて、義昭の元を離反した明智光秀が正式に家臣として従うこととなった。同盟を結んでいるのは尾張、美濃、伊勢を領する織田家と、北近江の浅井家である。この年九月以降、両家は国境で小規模な衝突を繰り返したものの、大きな合戦には至らなかった。花弁の乱れ散るが如き争乱の気配は、この翌年・永禄十年に訪れることとなる――*詳細は、第一部「決別編」を参照のこと。ttp://www9.atwiki.jp/rozenmaidenhumanss/pages/3909.html(脚注)※1……史実では永禄の変は永禄八年に起こった。※2……将軍就任を機に「義昭」へと改名。史実では将軍就任前に改名している。――永禄九年十月。南近江、水口城。ある朝のこと。一人の男が城内の一室を訪ねようとしていた。男の名は明智十兵衛光秀。官は日向守。この城の主である。水無瀬の戦いからおよそ二ヶ月、薔薇乙女玄家――水銀燈の家臣として国内整備に日夜努めていた。幸いにしてあの戦い以来、紅家――真紅軍との大きな衝突はまだ起こっていない。しかしながら二つに割れた薔薇乙女家の今後を思うと、気の休まらない日々が続くのだった。「失礼つかまつる」光秀は立ち止まり、襖の向こうへ声をかけた。襖を開けると、入り口に背を向けて部屋の隅に一人座る少年がいる。来訪者に気づくと、少年は光秀のほうに向き直った。表情は硬い。瞳には決して薄くはない警戒の色が見えた。「気分はいかがにござるか、桜田殿」光秀は、少年を敬称で呼んだ。襖のすぐ手前に座り、深々と一礼する。「気分がいいと思うかい? こんなところに一ヶ月も閉じ込められて」少年は低い声で答えた。「ご無礼は幾重にもお詫び申し上げる――さりながら、これは水銀燈様の命にて」「それが分からないんだよ。金糸雀に僕を攫わせて、その上一月も軟禁するなんて……どういうつもりなんだ」「申し訳ござらぬ」再び、深々と頭を下げる光秀。歴戦の武将である光秀が、ニ十近くも歳の離れた少年にここまでの礼をとるのは、理由がある。少年――桜田ジュンは、かつて姫路城の城主であり、水銀燈が絶対の信頼をおいた行政官であった。現在真紅が支配している西国の拠点は、ことごとくこの少年が築き上げたものといっても過言ではない。「恐らくは、桜田殿の御器量を右京大夫様にみすみす渡したくはなかったのでござりましょう」右京大夫(うきょうだいぶ)とは、真紅の新たな官名である。「馬鹿言うなよ、僕なんか……もしそうだとしても、もっと他にやり方ってものがあるだろう?」ジュンは徐々に激し始めていた。光秀は静かに目を閉じた。「これ以上は、拙者からは何も申せませぬ。御本人にお尋ねになるのが一番にござりましょう」「何……?」「まもなく、お見えになりまする。今しばしお待ちくだされ」光秀はそう言うと、静かに立ち上がり部屋を出て行った。ジュンは、怪訝な表情のまましばらく動かずにいた。「僕なんかに……何の用なんだ」およそ半刻後。前触れもなく襖が開き、寝転んでいたジュンは慌てて起き上がった。「ジュン……久しいわねぇ」聞き覚えのある声――何年ぶりかで聞いたかに思える、不思議な響きのする声であった。顔を上げると、艶々とした銀髪が強烈に視界を支配した。かつて夢を託し、持てる能力のすべてを捧げた存在が、再びそこにいた。切れ長の瞳は、いくらか憂いを帯びているようにも見えた。「……何の用だよ」胸に迫りそうになるものを抑え、ジュンは努めて平静な表情を取り繕った。「悪いコトをしたわね」幾分うつむき加減で、水銀燈は言った。「……」「でも、アナタを真紅の手から解放するには、こうするしかなかったの」「解放だって?」眉を寄せ、あからさまに怪訝な表情になるジュン。「アナタは、本心から真紅に味方する気ではなかった。ただ状況が、アナタにそれを強いた――違って?」「どうしてそんなコトが言えるんだよ。解放だなんて、もう少し気の利いた言い訳はないのか?」「じゃあ、私に刃を向ける覚悟はあったというコトよね?」「う……」ジュンは言葉に詰まった。「真紅、翠星石、蒼星石、雛苺、巴……皆それぞれに戦う意志を固め、私たちと袂江を分った。でも、アナタは違う」「……」「あの戦場に居合わせなかったアナタは、姫路城主という立場上真紅に従わざるを得なかった。そうよねぇ?」水銀燈の言うとおりであった。ジュンには、水銀燈に心底敵対する意思などあろうはずもなかった。ただただ、真紅の下した判断に戸惑いつつも、従うしかなかったのだ。「私は、アナタに会ってその意志を確かめたかった。けど、真紅の領内にいるアナタに会いに行くコトはもはや無理だった……」水銀燈は溜め息を吐いた。ふっと障子に目を向け、その隙間に切り取られた空を垣間見た。一瞬、京を目指して遮二無二突き進んでいた日々が脳裏を矢のように過ぎていった気がした。「だから、こうでもするしかなかったの。アナタが、必要だったから――」ジュンはどきりとした。他人に「必要」とされているなんて、面と向かって言われたことなど、これまでにあっただろうか。「どうして、僕なんかにそこまで……」「もちろん戦力としてではないわ。合戦に限って言えば、アナタなんて戦力外もいいところよ」(そりゃそうだ……)自明のことだが、こうはっきり言われると生きているのが嫌になる。「私に必要なのは、真紅と戦うための戦力じゃない。むしろその逆よ」「ってことは――」「ジュン。アナタには薔薇乙女家を再びひとつにするための掛け橋になってもらいたいの」「掛け橋……」「それが出来るのは、アナタしかいないわぁ」明瞭な声で、水銀燈は言った。「このままじゃ私と真紅、どちらが勝ったとしても薔薇乙女家に未来はないわ。真紅もそれは分かっているハズ」「だったら、会って話せばいいじゃないか。本心が同じなら、分かり合えるだろう?」「それが出来たら、アナタを攫ったりしないわよぉ……」水銀燈の視線が俯く。「一度刃を交えた以上、簡単に後には退けないもの。私たちについた多くの武将を納得させることは出来ないわぁ」数多くの所領と家臣を抱える、大名にしか分らない苦悩だった。「二つに割れた薔薇乙女家をひとつにする――口で言うほど簡単じゃないのよ。時間はかかるわぁ」「確かに、そうだな」ジュンは頷いた。かつて領内整備を驚異的な速さで進めた頭脳が、再び回転を始めようとしていた。「アナタを一月も閉じ込めておいたことにも、理由はあるの。この城で、私と真紅のやるコトを見ていて欲しかった」水口城は南近江と山城の国境に近い。自然、国内の様子と同時に真紅の動きに関しても情報が入ってくる。城主の明智光秀は、そうした話がそれとなくジュンの耳に入るよう仕向けていたのだった。この一ヶ月、水口城周辺は光秀の指示により急速に整備が進み、領民からの評判も上々であった。一方国境付近では、真紅の軍勢が小規模ながら活発な動きを見せ、近江を窺う姿勢も見られた。実際、真紅軍の偵察部隊と明智勢との間で何度か小競り合い程度の衝突も起きている。「成程な……」「ジュンはどう見た? このところの情勢を」水銀燈の目が、光った。「真紅が本気で戦争をしようとしてるかどうかは、まだ分らないな。ただ」「ただ?」「この近江の動きを真紅が見ているとすれば――二輪の薔薇が、もう一度同じ場所に花開くことは有り得ると思うよ」「そぉ……」目を細める水銀燈。心底ほっとした表情に見えた。「やっぱり、アナタを攫ってきて正解だったわぁ。どぉ? 私の誘いに乗ってくれるぅ?」「――仕方ないな。こうなったら」溜め息をひとつ置いて、ジュンは答えた。諦めと安心が入り混じったような、複雑な微笑であった。「ホントぉ? うふふ、ありがとぉ♪」顔一杯に溢れる笑みを浮かべ、水銀燈はジュンの頭を撫でまわした。「お、おい? よせよ……」仰け反りながら本気で照れるジュン。「じゃ、早速論功行賞をしてあげるわぁ。桜田ジュン、アナタをこの水口城の城主に任じてあげる」「えっ? じゃあ、今の城主の明智殿は……」「心配しなくてもいいわ。光秀には宇佐山城に移ってもらうのよ。以前から本人にも伝えてあるしぃ」(宇佐山って……最前線じゃないか)宇佐山城は琵琶湖を挟んで観音寺とは反対側にある。真紅から見れば、京を北から窺う位置にあった。「加えて、ジュンは近々従五位上武蔵守に任じられる予定よぉ。朝廷にはもう交渉済み♪」(何もかも予定通りかよ……)「ふふ。今後はもう『僕なんか』なんて台詞は吐かないコトね。もし言ったら、また軟禁状態にしてあげるわよぉ?」「……わかったよ」いつまで経っても、水銀燈にはかなわない――と思うジュンであった。「……お茶」突然、背後から囁くような声が聞こえた。「うわあぁぁっ!?」「話がまとまったようだから……一服、如何?」振り向くと、そこにいたのは薄紫の小袖を纏った隻眼の少女だった。「なんだ、薔薇水晶か……おどかすなよ」「ばらしー、気が利くじゃなぁい。頂くわぁ」いつの間にか用意されていたお茶を、二人は味わいつつ喫した。(この味、どこかで飲んだコトあるような……)それが一度だけ飲んだことのある真紅の茶に似ていることに、ジュンはまだ気がついていなかった。一方その頃。京都、二条城。真紅は将軍・足利義昭と面会していた。義昭はこのほど正三位大納言に叙任され、その祝いの挨拶に訪れていたのである。「上様。こたびの昇任、まこと祝着至極にございます」「ん。これもひとえにそちの働きのおかげじゃ。礼を申すぞ」無表情で答える義昭。将軍となり足利幕府を再興できたのも、大納言に昇進したのも、すべては真紅の後ろ盾があってこそだった。しかし、いまひとつ素直に喜ぶことの出来ない気持ちを義昭は拭いきれずにいる。(確かにすべてはこの者のおかげ……だが、この者は――)義昭は、水銀燈こそ兄・義輝の仇と思っていた。畿内において将軍家以上の実力を蓄え、幕府を脅かし、衰亡へと追い込んだ張本人――それが水銀燈であった。真紅は、その実の妹である。水銀燈に叛旗を翻し、いかに義昭のために力を尽くそうとも、心から信用することなど出来ようはずもない。(如何なることを企んでおるのか……いずれは、この者に対しても手を打たねばならぬな)しかし今は真紅の力を借りなければ何事も成すことが出来ない。義昭の心境は屈折していた。「時に、右京大夫よ――余が水銀燈の首を拝めるのは、いつの日になるかのぅ?」試すような義昭の口調であった。「今のところは、なんとも……しかし、遠からぬ日に必ずやかの者を討ち果たし、首級を御見参に入れたいと存じます」静かな、それでいて燃えるような意思を秘めた眼差しで、真紅は答えた。「うむ。頼もしく思うぞ」やや気圧されたようにそう言うと、義昭は奥へ下がっていった。「ふぅ……」退出した真紅は、大きく息を吐いた。重い溜め息であった。右腕を軽く押さえながら、控えの間に向かう。水無瀬の戦いで光秀に狙撃された傷は、まだ治りきっていなかった。「浮かねぇツラですねぇ。あの腹黒大将軍にまた何か言われたですか?」控えの間で待っていた翠星石が声をかけた。「しっ! 声が大きいのだわ……そうね。早く水銀燈の首を取れと、催促されたわ」「相変わらずえげつねぇ奴です。それで、どう答えたんです?」「近いうちに、必ず――と」「……まさか本気じゃねぇですよね?」不安げに真紅の顔を覗き込む翠星石。「本気よ」「ええぇぇぇー!!?」「それくらいの気持ちがなければ、あの水銀燈に勝つことなど出来ないのだわ」「ま、まぁそりゃそうですけど……」本心から実の姉妹を殺したいと望む者など、いようはずもない。特に雛苺などは露骨に玄家――水銀燈軍との戦を避けたがっていた。「とにかく、出来るだけ早く水銀燈との戦いにケリをつけること――そうしなければ、前には進めないわ」「ですね。せっかく復活した幕府も、今のままじゃ張子の虎同然ですしぃ」幕府を中心とした秩序の回復を目指すという点では、真紅と翠星石の考えは一致していた。(あの将軍はいけ好かねぇことこの上ねぇですけどね……)義昭に諸大名をまとめる実力が本当にあるのかどうか、翠星石は疑わしく思っている。「そのためにはそろそろ戦果を挙げなくてはならないわね。上様に安堵していただくためにも」二人は二条城を出ると、細川藤孝の居城である勝龍寺城へ向かった。重臣らと共に今後の戦略を練るためである。山城国、勝龍寺城。二ヶ月前、松永弾正久秀が壮絶な爆死を遂げた城である。現在では元々の城主であった細川藤孝の手に戻り、急速に改修作業が進められている。本丸は未だ改修中であるため、軍議は二の丸の広間で行われることになった。軍議には真紅と翠星石のほか、城主の藤孝、蒼星石、巴も姿を現した。雛苺は摂津での一向一揆討伐のため出陣中であり、この場には参加していない。「――というわけで、そろそろ本格的に兵を動かす時機だと思うのだわ」真紅は将軍義昭の言葉を一同に伝え、意見を求めた。「されば年内にも宰相殿の領内へ攻め込む、ということにござりまするか?」藤孝が問うた。「宰相」とは参議の別称であり、正四位下参議に昇進した水銀燈のことを指している。「そういうコトね」「では、いよいよ近江の観音寺城に攻め入ると……?」「それは時期尚早じゃないかな? 水銀燈の本拠をそう容易く落とせるものじゃないと思うよ」重臣の一人の発言に、蒼星石が反論する。「蒼星石の言う通りね。観音寺城は名だたる堅城。それに岐阜の織田信長の援軍も考えられる――容易なことではないわ」「では、何処を攻めるのです?」翠星石が尋ねたとき、廊下を駆けて来るけたたましい足音がした。「申し上げます!」「騒々しいわね……軍議の最中よ? 一体何事なの?」「恐れながら、桜田ジュン殿の居所が判明いたしてござりまする!」「何ですって!?」ジュンの名前を聞いた途端、顔色を変える真紅。行方知れずとなって以来、ずっと心の定まらない日々が続いていたところなのである。「いったい、何処に――」「それが……近江国水口城に居られるようにて――恐らくは宰相様の陣営に与されたものと思われまする!」「何ですとぉ!?」今度は翠星石が声をあげた。「おのれ水銀燈……ジュンを攫った上にたぶらかして自陣に加えるなんて、破廉恥極まりないのだわ!」立ち上がり、叫ぶように言い放つ真紅。その両目は怒りの炎に燃えたぎっていた。「すぐに軍令を! 集められるだけの兵を集め、すぐにでも水口城へ攻め入るのよ! 私が陣頭指揮を執るのだわ!」「待って、真紅!」真紅を制したのは巴だった。「さっき、近江を攻めるのは簡単ではないと言ったばかりでしょう? ここは落ち着いて策を練るべきよ」「そうだよ! 水口城にジュン君が居るのに、水銀燈が何の対策も打っていないハズがないじゃないか」蒼星石も同調する。水口城のすぐ北には水銀燈の本拠・観音寺城があった。その気になればすぐにでも万単位の兵を送ることが可能なのである。たとえ首尾よくジュンを取り戻すことが出来ても、逆襲を受けるのは必至であった。「状況が変わったのだわ! みすみすジュンを奪われていながら放置するなんて、士気に関わることよ!!」何としても自論を通そうとまくし立てる真紅。握り締めた拳を震わせ、目には薄く涙を浮かべているようにも見えた。「真紅! おめぇの気持ちもわからねぇではねぇですが……ここは冷静になるです!!」翠星石も必至に押し留めようとする。が、真紅の意志は揺るがなかった。「貴女たちには事の重大さが分からないというの!? こうなれば、私一人でも出陣するのだわ!!」「うろたえめさるなっ!!!」凄まじい怒号が響き渡った。静まり返る一座。声の主は、細川藤孝であった。幾多の修羅場を潜り抜けてきたことを思わせる、凄みを含んだ一喝だった。「皆の申す通りにござる。かばかりのことで我を忘れていては、この先天下を率いることなぞおぼつきませぬぞ」ふっといつもの穏やかな表情に戻り、真紅に語りかける藤孝。「せめてその傷が癒えるまで、自ら戦場に立つのはお控えなされ」「しかし……しかし兵部大輔!」「桜田殿が存外近くに居られたのは好都合ではありませぬか。いつでも取り戻せまする」「……そうね。確かに私は逆上していたかもしれないわ」そう言うと、真紅は静かに座りなおした。顔の紅潮が見る間に引いていき、普段の冷静な表情に戻っていく。「礼を言うわね、兵部。諫言、肝に銘じることにするわ」「恐れ入り奉る」畏まって一礼する藤孝。「さて――話を元に戻さなくてはね。水銀燈を攻めるに当たって――まずは何処を崩そうかしら?」「翠星石が思うにはですねぇ――」一座の視線が翠星石に集まる。「どいつもこいつも、本拠地の近江に目を奪われ過ぎなのです。他にも水銀燈の拠点はあるじゃねぇですか」「例えば?」「それは――大和です」どよめく一同。「確かに、大和は水銀燈にとって重要な軍事拠点だね。紀伊へ通じる軍道も整備されているし」「ええ。それに大和を攻め取れば、水銀燈本軍と紀伊や河内、和泉の軍勢を分断できる」頷き合う蒼星石と巴。「そのとおりですぅ! この翠星石は、おめぇたちとは目の付け所が違うんですよ♪」「とすれば、まず攻めるべきなのは――ここね」目の前に広げられた地図の一点を、真紅はとん、と竹棒で叩いた。一同の注目が、その一点に集中する。「伏見城――」山城国南部に水銀燈が築き、一時期居城としていた城である。京から大和へ抜ける軍道の途上にあり、大和へ攻め込むには是非とも制しておかなくてはならない城であった。「決まりだね」「それしかねぇですぅ」「名案だと思うわ」「異存ござらぬ」「では、決まったわね」一同の意見をまとめ、真紅は立ち上がった。「これより、諸国に軍令を発するわ。攻撃目標は伏見城。総大将は翠星石、副将は蒼星石よ」「承知ですぅ!」「必ず役目を果たして見せるよ」やがて畿内全域を焼き尽くす業火の火種は、こうして生まれたのであった。――永禄九年十二月。翠星石、蒼星石に率いられたおよそ七千の軍勢が、伏見城を目指して猛進した。伏見城主・筒井順慶はこの報に驚き、近江へ援軍を要請するが間に合わず、城を包囲されてしまう。二千程の手勢で城を守らざるを得なくなった筒井勢は、奮戦するも支えきれず撤退。翠星石軍は目論見どおり伏見城を陥落させたのであった。「真紅ぅ……やってくれたわねぇ」観音寺城で伏見落城の報せを受けた水銀燈は、苦りきった表情を浮かべた。「思ったよりも早く動きましたわね。真紅姉様、なかなかにやるものですわ」淡々とした口調で雪華綺晶が言う。「感心してどぉするのよぉ。これで当面、和談なんか出来なくなっちゃったじゃなぁい」「ですわね。伏見を取られたとなれば、こちらも相応の行動を起こさなければ示しがつきませんわ」「反撃の時……来たる」薔薇水晶の隻眼が、ぎらりと光った。(仕方ないわねぇ……)今度の一戦は、今までの小競り合いとは明らかに性質の異なるものだった。軍勢の規模が大きいうえに、京に近い重要拠点をあっさりと奪われてしまっているのである。領主として、放置しておくことは到底出来ない事態であった。「きらきー、ばらしー、両名に命ずるわ。一万の軍勢を率いて出陣しなさぁい。直ちに伏見城を奪還するのよ!」水銀燈は凛とした声で命令を下した。苦渋の決断と言えた。「承知いたしましたわ」「……らじゃー」すでに臨戦体勢とも思える気配を放ちながら、二人は水銀燈の前を辞していった。(やはり、こうなる運命だったのかしらねぇ……)水銀燈は嘆息した。血戦の火蓋が切られるその日まで、あとわずかである。
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