『パステル』 -15-
そういう風に、口裏を合わせてもらったのだ――と。水銀燈は、なんの捻りもない事実を、自嘲を交えて語った。 「病院から連絡を受けて、お父さまが、すぐに駆けつけたわ」「怒られなかったなの?」「決まってるでしょ、おもいっきり撲たれたわよぉ」 まあ、当然か。けれども、それは愛情の籠もった平手打ちだったろう。愛娘に、愚かな考えを翻させるための、優しい暴力だったに違いない。槐の邸宅で世話になっていたのも、愛想を尽かされて勘当されたと言うよりは、リハビリ期間といった意味合いではなかったのか。雛苺に訊かれ、こくり……。水銀燈は、首振り人形のように頷く。 「私が、お願いしたのよ。別人として生きることを、許して欲しいって」「そこまでして、真紅から遠ざかりたかったの?」「今にして思えば、思考停止してたのよねぇ。逃げることしか考えてなかったわ」 そして、苦笑したっきり、水銀燈は口を噤んでしまった。 目指す病室のあるフロアまでは、階段で――多くの患者はエレベーターを使うため、階段は静かなものだ。各フロアから届くざわめきも、この縦坑に居ると、別世界のことみたいに感じられる。それらが2人の足音と混ざり合って共鳴すると、不思議な余韻が鼓膜に染みついた。 その途中、徐に、水銀燈のほうから話しかけてきた。 「真相を知っていたのは、4人だけ。お父さまと、主治医と、槐先生と、私。 水銀燈は行方不明って扱いのままにして、私は、有栖川アリスを名乗ったわ」「この病院に、ちなんだのね。でも、すぐにバレちゃいそうな名前なのよ?」 そう。あまりに幼稚で、安直すぎる。まるっきり、子供の『でまかせ』だ。しかし、その結果たるや、大方の予想を覆すものだった。 「これが意外にバレないものなのねぇ。2年もの間、別人を演じてたんだもの。 家事手伝いでいる間は、身元を証明する必要もなかったしぃ」「でも、保険証は? 病院の診察とか、お薬の処方には必ず使うでしょ?」「そこのところは、槐先生たちにも迷惑をかけて、申し訳なく思ってるわ」 その言葉どおり、水銀燈は、心苦しそうに息を吐いた。話の流れから察するに、健康保険証は、槐のものを使わせてもらっていたのだろう。主治医も共犯なのだから、薬は、薔薇水晶の名義で処方されていたに違いない。 その経費、見返りとして、どれほどの金額が動いたものやら……。雛苺は興味をそそられたが、プライベートなことだし、詮索しないでおいた。丸く収まりそうなことを、わざわざ箱に詰め戻して角を立てる必要もない。 「でも、かくれんぼは、もう終わり――なのよね?」「もう続ける意味ないわねぇ。正直、他人に成りきるのにも疲れてたのよ。 あの娘たち――めぐと薔薇水晶にも、謝っておかなきゃ」 言って、水銀燈は、少しばかり不安げに顔を曇らせる。怯えたのかも知れない。騙し続けてきた罪悪感と、それを責め詰られ、ココロを傷つけられることに。 だが、雛苺は、薔薇水晶については杞憂な気がしていた。彼女は、水銀燈の人間性を慕っているのであって、名前を好いているのではない。『アリスさん』ではなく『お姉ちゃん』と呼んでいたのが、いい証拠だ。 これから会いに行く柿崎めぐも、退院祝いにパジャマを贈るほど気安い相手だし、「なぁんだ」くらいに、笑って許してくれるのではないか。 案ずるより産むが易し、とは、けだし名言だろう。ずっと良好な信頼関係が続いてきたのであれば、些細なことで壊れたりはしない。それでも、もし仮に、ダメになってしまう関係ならば……どのみち、いつか終わってしまう仲だったと諦めても良いのではないか。 「じゃあ早速、めぐさんに会いに行かなきゃね」 雛苺は、水銀燈の手を握った。冷たくて、かさかさに肌荒れた手――家事ばかりが原因ではなく、常用している薬の副作用もあるのだろう。それを気にしてか、引っ込められる手を、雛苺は強く引き戻した。 「早く早くっ。善は急げーなのよ~」「……貴女、見かけによらず強引ねぇ」「うよ? やっと気づいたの?」「まあ、知ってたけどぉ。改めて、そう思っただけよ」「えへへー」 無垢な笑み。天使のような、という形容そのままの。つられて、水銀燈も口元を綻ばせた。 「お気楽なのか、おバカさんなのか……どっちにしても、たいしたものね」「ん? なにが?」「貴女は、逃げようともしない。目の前に、困難が立ちふさがっているのに」「あぁ、めぐさんのコト?」 水銀燈が頷くのを見て、雛苺も、声のトーンを落とした。 「確かに、すごく難しい問題なの。どんな絵を描けばいいのかも、分かんない。 ヒナは神さまじゃないんだもの」 雛苺が、繋いだ水銀燈の手を、ギュッと握りしめる。 「でもね―― 大切な毎日を、大切な人たちを、ずっと守りたいって思えるから…… だから、ヒナにできることなら、してあげたいの。それだけなのよ」 優しい子だ。水銀燈は、手の痛みとともに、ココロに温もりを感じた。さもしい打算や姑息さなんて、まったくない。その精神は本来、高潔なものとして賞賛されるべきものであろう。 まあ、雛苺については、世俗の汚濁を知らないだけの、いわゆる『世間知らず』な面が濃厚そうだったが。 「つくづく人が好いのね。世が世なら、修道女にでもなってたんじゃなぁい?」「えー? たぶん、それはないのよー」「どうだかねぇ」 いつもの、からかい口調はそのままに、水銀燈が朗らかに笑う。ニヒルな笑みを浮かべることの多い彼女にしては、珍しいことだ。雛苺の純朴さに、ちょっぴり感化されたようだった。 事実、水銀燈は上機嫌だった。こんなにも晴れ晴れとした心境は、久しぶり。今ならば、すべてが巧く収まってくれそうな……そんな予感を覚えていた。 「さぁて、と。おしゃべりも大概にしときましょ。 どんなに素敵な理想を語っても、行動しなきゃ始まらないわ」 水銀燈は言って、雛苺の手を握り返した。「いっときの夢でもいい。めぐに希望を見せてあげて」 ――316。それが、病室の番号。併記されているのは『柿崎めぐ』の名前のみ。1人部屋だった。 雛苺は、ちょこんと首を傾げた。これは、どういうことだろう。重病なのだし、集中治療室みたいに、おおくの医療機器が運び込まれているのか。それとも――およそ考え難いが、言動甚だ粗暴につき隔離中……とか。 後者だったら、どうしよう。雛苺の背中が、ぞぞめく。ほとんど交流がなかった相手だけに、勝手な想像が独り歩きしつつあった。そうだったとしても、水銀燈も同伴しているし、酷くは荒れないだろうけれど。 「はぁい、めぐぅ。起きてるぅ?」 雛苺の不安を察してか、水銀燈がノックもなしに病室のドアを開いた。すると―― 「……あ、有栖川さんね。いらっしゃい」 こんな不意討ちには慣れっこなのか、ドアの前を覆う薄いカーテンの衝立越しに、鈴の音を思わす若々しい声が返ってきた。柿崎めぐ、その人だろう。 「どうぞ入って。いま動けないの」「なぁに? 点滴でもしてるわけぇ」「あう。銀ちゃん、待ってなのー」 水銀燈は、遠慮もへったくれもなく、ズカズカと衝立を回り込む。雛苺も、彼女の背に隠れるようにして、小走りに追いかけた。そして遂に、この部屋の主との対面を果たした。 彼女――柿崎めぐは、日射しが溢れる窓辺のスツールに座って、雛苺もよく知る青年、桜田ジュンに、美しい黒髪を梳いてもらっていた。なるほど、これでは動けないはずだ。めぐは、水銀燈の服装を見るなり、陽光にも負けないほどの眩しい笑顔を湛えた。 「そのパジャマ、着てくれてるのね。あなたも、検査入院?」「違うわ。ちょっとワケありでねぇ。で、あのぉ………… 実は、私……めぐに謝らないといけないんだけど」「なぁに? お見舞いのケーキ買ってくるの忘れちゃった、とか?」「……ウソ吐いてたのよ。私は、有栖川アリスなんて名前じゃないわ」「え、そうだったの? じゃあ、本当の名前は?」「水銀燈、よ。ずっと騙してて、ごめんなさい」 水銀燈。その名詞を、めぐは何度か口の中で繰り返し、ふ……と、眼を細めた。「いい響きね。あなたのイメージに合う、素敵な名前だと思う」 拍子抜けして、呆気にとられた水銀燈が「なんで怒らないの?」と訊ねれば、めぐは、それこそ意外そうに訊き返した。 「おかしい? 誰にだって、秘密にしておきたいことくらいあるでしょ。 でも、あなたは打ち明けてくれた。だから、許してあげるのよ」「だけど……それじゃあ、私の――」「気が済まない? だったら、ずっと私の友だちでいてね。それでチャラよ」 なんとも、さばさばしたものだ。案外、話しやすい娘かも知れない。雛苺は、思い切って水銀燈の背後から進み出て、会話に割り込んでみた。 「おはようなの。いきなりお邪魔して、ごめんなさい」「あれ? やっぱり雛苺か。似た声が聞こえたから、もしやと思ったけど……」「ヒナね、めぐさんに会いに来たのよ。ジュンは、朝からお見舞い?」「面会時間は午後3時からなんだけどな、特別に入れてもらってるんだ」「あらぁ……婚約者ともなると、かいがいしいわねぇ。ちょっと妬けるわぁ」 からかうように水銀燈が話の腰を折っても、ジュンは、「まあな」と。とても雛苺と同じ歳とは思えない、大人びた微笑みで応じた。 「あれ? 3人とも知り合いなんだ?」めぐは訊ねて、雛苺を見つめた。そして、おや? という風に眉を上げた。 「えっと……間違ってたら、ごめんなさい。あなた……どこかで会ってた?」「うい。高校で、一緒の学年だったのよ。お話したことは、なかったけど」「…………あ! あー、はいはいはい。思い出した。憶えてるわよ」「ホントに?」「あなた、6組だったでしょ。私は1組で、顔を合わせる機会は少なかったけどね。 お人形さんみたいで可愛い子だなって、思ってたものよ」 多少なりとも憶えてもらえていたことが嬉しくて、雛苺ははにかんだ。水銀燈に『イカレた子』だと聞かされていたから、どれだけ怖い人かと思いきや――なんのことはない。温厚で、気さくで、優しそうな女性だ。 もしかすると、めぐもまた、変われた存在……呼んでくれる声に気づいて、過ちを正すことができた一人なのかも。だとしても、本題を切り出せば豹変しないとも限らない。雛苺は、より親好を深めておこうと、先手を打った。 「改めて、自己紹介するのよ。ヒナはね、雛苺っていうの。よろしくね」「よろしく。私、柿崎めぐ。呼び捨てで構わないから」「じゃあ、ヒナのことも、雛苺って呼んでなの」 ジュンに髪を三つ編みにしてもらいながら、めぐは静かに頷いた。 「それじゃあ、雛苺――そろそろ、ご用向きを教えてくれない? あなた、言ってたわね。私に会いに来た……とか」 期せずして、めぐの方から切り出された。表情は穏やかなままだが、彼女の瞳に宿る訝しげな光は、刺さりそうなまでに鋭い。 「絵を描かせてもらいたくて……その、お願いに」 遅かれ早かれ話すことだ。雛苺は意を決して、本来の目的を告げた。ジュンが同席しているのも幸いと、デイパックから、パステルの箱を取り出す。 「おい、雛苺。それって、金曜日にあげたヤツじゃないのか」「え、なになに? あなた、私以外の女の子にプレゼントなんてしてたの? まさか……信じられない。挙式もしない内に、もう浮気だなんて」「冗談はよせよ。そんな甲斐性ないって。めぐだけで手一杯だしさ」「あら、そう? じゃあ、浮気できないように、もっと迷惑かけなきゃね」「はいはい。身を尽くしてお仕えしますよ、プリンセス」 いつも2人は、こんな風に、気安く軽口を交わしているのだろう。仲睦まじく、端で見ている者に、ちょっとの羨望と嫉妬心を抱かせる関係。雛苺と水銀燈は、互いに顔を見合わせて、やれやれと言わんばかりに苦笑った。 ジュンは、そんな2人のゲストなど気にも留めず……三つ編みにした彼女の髪に、紅いリボンをあしらって、手鏡を差し出した。 「よしっと。こんな感じで、どうかな」「……ん。いい感じよ。ありがと、またお願いね」 お安いご用さ――なんて。ジュンは、めぐの耳元で囁き、彼女の肩を揉みほぐしてあげたりする。あまりのラブラブっぷりを見せつけられ、とうとう、水銀燈が痺れを切らした。 「あーもうっ! ベッタベッタベッタベッタ、鬱陶しいわねぇ。 居心地悪すぎて、やってらんなぁい。さっさと、めぐを描いちゃってよ」 と、水銀燈は、雛苺の手にある木箱を指差す。それを受けて、ジュンの顔が、あからさまに強ばった。 「待てよ、おい……おまえ、なにを言ってるんだ? それが、どんな代物か、知ってて言ってるのかよ」「もちろんよ。描いた絵が現実になるパステル、でしょぉ?」 ここぞとばかり、水銀燈が胸を張る。2人のやりとりに興味をそそられたらしく、めぐは雛苺に目を向けた。 「面白そうな話ね。本当なの?」「う、うい……ホントよ。描いたとおりになるの。ヒナ、確かめたのよ」「へぇ~。まるで、おとぎ話ね。そういうの、割と好きよ」 並んで立つ雛苺と水銀燈を、交互に見つめ、真意を察したのだろう。「つまり、こういうコト?」めぐは徐に、唇を開いた。 「その魔法のパステルで、私の病気を治す絵を描いちゃおう……と」「話が早いわねぇ。そのとおりよ」 なんて安直な発想。ジュンは、苦虫を噛み潰したような顔をした。もちろん、めぐを病苦から救ってあげたいと願っているのは、彼とて同じ。 しかしながら、ジュンは、どちらかと言えば現実主義者だった。1枚の絵を描くだけで、20年も患い続けてきた病気が治る――そんなオカルトめいた話には、強い抵抗を感じずにいられない性分だった。 ならば、めぐの意志はと言うと。 「いいわ。描いてみてよ、私を」「お、おい! ちょっと待てよ、めぐ! よく考えるんだ」 気が気でないのは、ジュンだ。「あんな得体の知れないもの、アテになるもんか」語気を強めて、将来を誓い合った女性に再考を求める。 「めぐの身にナニが起きるか、分かったものじゃないんだぞ」「あら。なにが起きるか分からないのは、いまだって同じでしょ」「そうだけど…………まかり間違えば……」 ジュンの危惧は、真っ当なこと。それが最愛の女性についてのことなら、尚更だ。めぐは、自らの肩に置かれた彼の手に、そっ……と、手を重ねた。 「解るわ……あなたの気持ち、あなたの怖れは。でも、私だって怖いのよ。 やっと幸せな日々に巡り会えたのに、もう終わりだなんて、考えたくもない」「僕だって、そうさ。でも、だからって、こんな博打みたいなこと――」「それを言ったら、人間の一生なんて、博打そのものだと思わない? チャンスを捉えて勝ちを拾うか。危ない橋は渡らず、適当に惰性で生きるか」「……いまが、めぐにとっての勝負時だって言うのか」「断言なんて、できないけど……なんのリスクもない人生なら、私は要らないわ」 リスクだらけの人生を送ってきた彼女の感性は、麻痺しているのかも知れない。だが、どうあれ、彼女の意志が揺るぎそうもない以上、ジュンも決断を迫られた。 「…………解ったよ。僕も、未来を賭ける。めぐと一緒に」「ありがとう。あなたは、そう言ってくれるって信じてた」 信念と呼べるほど強くはないけれど、ジュンは我を折った。めぐは、満足そうにジュンに笑いかけて、その視線を2人の乙女に転じる。 「水銀燈も、雛苺もね……ありがとう」「ん? ヒナは、まだ何もしてないのよ」「絵のモデルなら、私の写真で事足りるでしょ。でも、そうしなかった」「だって、めぐさんの気持ちを聞かなきゃ、絵にココロを宿せないもの」「その想いが、結果として、私に選択権をくれた。だから……お礼を言うのよ」 どういう意味なのか。小首を傾げる雛苺から、めぐは目を逸らせた。 「誰かのせいで――なんて、無力な被害者ぶるのは、イヤ。 誰かに変えてもらえるのを、ただ呆然と待っているのは、もうたくさん。 私はね、自分で選んで、自分で決めたいの。誰のせいにもしたくない。 たとえ愚かな選択をして、傷ついたとしても、その結果を誇りたいのよ」 だから――めぐの、鬼気迫るほどに真剣な眼差しが、雛苺を射竦める。 「描かせてあげる。私の……いいえ、私と彼の未来を」 雛苺を、極度の緊張が支配する。固唾を呑むことさえ、ぎこちなかった。どんな絵を描けば、めぐの病気を治せるのか……イメージは、まだ浮かばないけれど。いよいよだ。ちらりと唇を舐めて、雛苺は、戦慄く声を絞り出した。 「銀ちゃん、ジュン……。悪いんだけど、めぐさんと2人きりにしてなの」 -to be continued-
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