『パステル』 -13-
静寂だけが随所に鏤められた、茫洋たる空間。凍てつくような夜の冷気に包まれて、ソレは、眠っていた。威圧的ですらある巨体に、数多の人間を呑み込んで、ひっそりと……。ソレの正式な名称は、有栖川大学病院、という。 重たい――としか喩えようのない、漆黒と気配に満ちた、1階ロビー。ハエの羽音のように、うるさく絡みついてくるのは、自動販売機のノイズ。彼女たちは硬い表情のまま、自販機の脇にあるソファーで身を寄せ合っていた。夜闇の中で、灯りに群がる昆虫のように、身じろぎもせず。 「大丈夫なのよ、きっと」 沈黙に押し潰されまいと、雛苺は両手をグッと握り、努めて明るく言う。だが、そんな気休めは却って、隣で項垂れている水銀燈のココロを逆撫でた。 「どうして、そう言い切れるのよ」 水銀燈は、僅かに顔を斜にして、雛苺を睥睨した。 「安っぽい慰めなんか、聞きたくないわ。苛つくわね」「うゅ……ごめんなさい、なの」 雛苺の胸に去来する、罪悪感。こうしてしまったのは、自分。独りよがりの、お節介だったのだろうか。真紅と水銀燈を、焦って引き合わせるべきでは、なかったのだろうか。こんなことに、なるくらいだったら―― じわ……。雛苺の目頭が、にわかに熱を帯びる。でも、泣いたら余計に、水銀燈を怒らせてしまいそうだから……雛苺は手の甲で、ぐしぐしと瞼を擦って、涙を堪えた。 そんな健気な様子を、横目に盗み見ていた水銀燈は、「謝らないでよ」俯いたまま、呟いた。気まずそうに。「謝られたら、もっと惨めになるから」雛苺は、ゆるゆると頭を振って、応じる。 「だけど、ヒナも無神経すぎたの」「そうじゃなくて……私のは、ただの八つ当たりよ。貴女は悪くないわ」 言って、水銀燈はアタマを抱え込み、無造作に髪を握りしめた。 「私って、いつも、そう。やっぱり、逢うべきじゃなかった」「ど、どうして?」 雛苺には、理解できない。「なんで、そんな風に言うの?」その問いに返ってくるのは、沈黙。真紅のこととなると、彼女の口は、途端に重くなる。 それが、あの大事故に端を発していることは、雛苺にも分かる。だが、そこまで意地を張るだけの理由、確執……それが解らない。真紅を愚かだと嘲っておきながら、水銀燈もまた、気に病み続けている。 「真紅と、仲直りしたいんじゃないの? ずっと一緒にって、約束したんじゃなかったなの?」 ぴくり。水銀燈が、背中を震わせる。「――だから、よ」なにが、だから、なのか。雛苺が問うより先に、水銀燈は続けた。「私は、疫病神だから……」 「そ、そんなの、一時の気の迷いなのよ! 真紅だって悔やんでるわ。ココロにもないことを言っちゃった、って」「……おめでたいわねぇ。そんなの、体の良い、後から取って付けた口実だわ。 あの子はどこかで、私を疎んじていたのよ。 だから、『疫病神』だなんて罵りが、即座に口を衝いて出たんだわ」 口は心の門と言うでしょう? 水銀燈の切り返しに、雛苺は言葉をなくした。なんで、ネガティブにしか考えられないの? その問いかけが、雛苺の胸中にだけ、虚しく谺する。 メンタルな後遺症。トラウマ。カウンセラーですらない雛苺には、どう慰めれば良いのかも解らない。言葉を尽くせないのなら、せめて仕種で……とは、思うのだけれど。 言いたいだけ言って、水銀燈はいじけたように、また上体を蹲らせた。その背中は、とても、とても、小さく見えた。誇張ではなく、その姿は無力な少女のようでさえあった。 なんとか、してあげたい。たとえ、独りよがりの、お節介だったとしても……それでも。今よりは、みんなが笑顔でいられる世界を、雛苺は望んだ。 (あの、パステルでなら――) 脳裏に閃いた電光が、雛苺の暗く沈んだココロに、明かりを灯した。自分にできるのは、絵を描くことぐらいだ。でも、それで、水銀燈の聞こえざる慟哭を和らげてあげられるのなら……そうすることに吝かでない。 「ねえ、聞いて」 そっ……と。雛苺は、水銀燈の背中を撫でながら、唇を開いた。 数日前、幼なじみの青年に、不思議なパステルを譲られたこと。ほんの気まぐれの旅が、真紅との邂逅をもたらしたこと。彼女に微笑んで欲しくて、モデルになってもらったこと。すべての経緯を、水銀燈に話して聞かせた。 「そしたらね、真紅は本当に、絵のとおりに笑ってくれたのよー。 あのパステルは、きっと本物の、魔法の道具なの」「だから……なに?」「ヒナが、描いてあげるの! 銀ちゃんを、笑顔にしてあげるのよ」 水銀燈は顔を上げて、雛苺の顔を、しげしげと見つめた。そして、ふっ……と。力なく鼻先で笑って、瞳を逸らした。「遠慮しとくわぁ」 どこまでも依怙地に徹するつもりなのか。これで良いのだと、自らのココロさえも騙し続けて……挙げ句、現実から乖離する虚像に縛られ、ずっと独りで泣き暮らす気なのか。 そんなのは、おかしい。間違ってる。美談でも、美徳でもない。雛苺は、猛然と食ってかかろうとした。しかし、機先を制したのは、やはり水銀燈だった。 「私なんかのために描く暇があるのなら、おまぬけ真紅でも描いたらいいわ。 描けば現実になるんでしょぉ? あの子の右腕を、元どおりにしてみなさいよ」 なるほど。やはり、禍根は、そこにある。水銀燈が恐れているのは、真紅に傷つけられることではなく―― 「真紅を、もう傷つけたくなかったのね」 訊ねた雛苺に、水銀燈は、なにも答えない。図星だから。彼女の沈黙は、正鵠を得たことの肯定に他ならなかった。 「姿を消して、別人に扮してたのは、自分を許せなかったから?」「……気に入らなかっただけよ。真紅に依存しきってた、無様な生活に嫌気がさしたの」「どっちにしても、自分に厳しい人なのね、銀ちゃんって」 雛苺の言葉を、水銀燈はいつものように、鼻で嘲り飛ばす。けれど、いつものような勢いは、そこにない。もしかして、彼女なりの微笑……だったのだろうか。 「仕方ないじゃない。子供の頃から、持病のせいで、ずっと疎まれてきたわ。 悪いのは、周りに合わせられない私なんだって思わされてたら、卑屈にもなるわよ。 独りのときは、いつも、メソメソしていたっけ」「だけど、真紅は違ったのよ。手を差し伸べてくれたのよね?」「……ええ。だけど、あのとき……疫病神と罵られたとき、私は気づいたわ。 私という存在は、真紅にとって、足枷に過ぎなかったんだって」「だから、それは――」 錯乱した真紅の、ただ一度の失言。声を出しかけて、雛苺は、徐に口を閉ざした。ぐるぐると、ただ虚しさが巡るだけ……。そう思ったからだ。 「銀ちゃんは、自分を責めすぎなのよ。そんなの……あんまりなの」 先天性の病を患ったことは、水銀燈のせいではない。真紅が右腕を失った事故にしても、諸々の不運が重なった結果だ。それなのに、彼女は、すべての非が自分にあるように思い込んでいる。ありもしない壁、錯覚の風景、進路を塞ぐ様々な幻影を生みだして、目に映る現実世界さえも、歪めてしまっている。 では、どうしたらいい? 考えても、妙案など思いつかない。やはり、彼女の願いを聞き入れて、少しばかりの慰めに縋るしかないのか。 「……解ったなの。ヒナ、真紅の右腕を、描いてみるのよ」 本当に? 水銀燈が、無邪気な子供のように瞳を輝かせる。雛苺も、満面の笑顔で、頷き返すが―― 「勝手に決めないでちょうだい!」 凛とした声に叩かれ、水銀燈と2人して、ビクンと肩を竦めた。そぉ~っと振り向けば、そこには、看護士に支えられた真紅の姿があった。 「なんの相談をしているのかと思えば、まったく…… 前にも言ったでしょう、雛苺。私は、今のままで構わないのだわ」 看護士が、夜だから静粛にと諫めるが、真紅は逆に「口を挟まないで!」と。桑田というネームプレートを着けた若い看護士は、気圧されて沈黙した。 「貴女もよ、水銀燈。私の右腕のことなんて、貴女が気に病む問題ではないわ」「だけど、真紅――」「片腕だって、誇りさえ失わなければ、気高く生きられるわ。 欠落したからと言って、すべてが終わるわけではないのよ」 真紅は、看護士を促して水銀燈の前まで歩み寄ると、左手を伸ばした。そして、水銀燈の頭を、愛おしそうに撫でた。 「だから、貴女も、貴女として生きなさい。胸を張って、誇り高く生きて」 水銀燈は、呆けたように真紅を見上げていた。その瞳が、見る見るうちに、潤んでゆく。 「だったら、私は真紅の右腕として、生きていくわ」「気持ちは、とても嬉しいわ。本当よ。貴女の想いは、なによりも尊い宝物。 それは確かに、私のココロにある。だから、もう充分なのだわ」「……私が側にいると、迷惑?」「そうじゃないわ。これ以上、貴女を縛り付けて、苦しめたくないの。 右腕の代わりとして生きれば、貴女にはずっと、呵責が付きまとうでしょう。 私はね、水銀燈……貴女には、あの頃みたいに…… もっと自由奔放な、美しいライバルであって欲しいと……そう思っているのよ」 水銀燈に注がれる真紅の眼差しは、聖母のような慈愛に満ちあふれていた。「だから、ね。もういいの。贖罪に人生を費やそうだなんて、考えないで」 それは、真紅自身にも向けられた言葉なのね。会話に耳を傾けながら、雛苺は、そう思った。彼女もまた、水銀燈への贖罪の意識を引きずりながら、今日まで生きてきた――どれほど時が経とうとも、決して癒えることのない痛みと苦しみを抱いて。でも、もう終わり。一緒に重荷を捨てましょう。真紅の瞳が、そう語っていた。 「でも、それでは貴女の気が済まないのであれば、そうね…… ときどき、気が向いたらでいいから、ティータイムに付き合ってちょうだい。 取り留めのないお喋りを、一緒に愉しんでくれると、嬉しいのだけど」「…………やぁよ。誰が、そんな、おままごとなんかに」「ダメなの?」「そ、そんな哀しそうな顔したって…………ああ、もぅ。しょうがないわねぇ。 だったら、ときどきと言わず、毎日でも遊んであげるから、覚悟しときなさいよぉ」 どうして、覚悟しないといけないのか?涙を堪えて強がろうとするあまりに、支離滅裂になっている様子だ。真紅も、雛苺も、看護士の桑田さんも、言った水銀燈本人でさえ、失笑を禁じ得ず。暗かったロビーを、束の間、華やいだ空気が満たした。 「それで」 ひとしきり和んだ後、頃合いを見計らって、雛苺が切り出した。「検査の結果は、どうだったの?」 歩いて、会話できるほどなのだから、大過ないことは確かだ。真紅は微笑み、しっかりと首肯して見せた。 「大きな異常は、見つからなかったわ。ホーリエが受け止めてくれたお陰ね。 ただ、大事をとって2、3日ほど検査入院することにしたけれど」「じゃあ、着替えとか要るのね。場所さえ教えてくれれば、ヒナが――」「ありがとう。でも、それは朝になったら、サラに電話して頼んでおくわ」 話は、それでおしまい。真紅たちは桑田さんに連れられて、静まり返る病棟へと向かった。 ~ ~ ~ 割り当てられた病室は、4人部屋だった。……が、患者は、真紅だけ。 「なんだか、広い部屋に独りぼっちだと、寂しい感じなのー」「あら。私にとっては、普段と大差ないわよ」 気兼ねがなくていいわ。ベッドの上から、真紅が素っ気なく言う。なるほど、ものは考えようだ。他の患者がいたら、こんな風に、夜中の会話もできなかっただろう。 「ところで、さっきから考えていたのだけれど」 と、真紅。いたって真剣な口振りに、雛苺と水銀燈は、なにごとかとベッドを覗き込んだ。 「雛苺の持っている、不思議なパステル……まだ使えるのかしら」「うい。でも、あの――もしかしたら、なんだけど」「なにか気懸かりなことでも?」「効力は、3回までかも知れないのよ」 とかく、旨い話には、限度とペナルティが存在するものだ。ありがちな話だと思ったのか、真紅と水銀燈は、黙って頷いた。 「試しで使って、その後に私を描いたから、残りは1回という計算ね?」「そうなの。なにを描くかは、まだ決めてないのよ」 さっきは真紅の右腕を治してみると言ったが、ああも本人に反対されては描けない。それについては、水銀燈も納得しているようで、異存は出てこなかった。 真紅は、「よかったわ」と吐息すると、瞑想するように、瞼を降ろした。「それなら、最後の1回で、描いて欲しい絵があるのだけれど」 なにを? 小首を傾げて、雛苺は、水銀燈と顔を見合わせる。目を閉ざしたままの真紅が、2人の奇妙な様子を、気にするはずもなく。 「あのパステルで、水銀燈の病気を治してあげられないかしら?」 これには、雛苺も、水銀燈も、眉間に皺を刻まずにいられなかった。 「んと……。ヒナもね、銀ちゃんには元気になってもらいたいのよ。 でも、お医者さんじゃないから、どんな絵を描けばいいのか、解らないの」「真紅ぅ……貴女、やっぱり頭を打ってたんじゃなぁい?」 ――などと。水銀燈は、あからさまに眉を曇らせ、真紅の額に手を当てる始末だ。 「いつにも増して、おバカさんに輪が掛かってるわ」「うるさいわね。バカって言った方がバカなのよ」「あらぁ。久々に聞けたわねぇ、その子供じみたリアクション」 からかいながらも、「まぁ……確かに、バカはお互い様だわねぇ」と。水銀燈は、ふと口元に自嘲を浮かべて、雛苺へと眼を向けた。 「折角だけど、謹んで辞退するわぁ。薬さえ服用していれば、私は平気だし。 真紅が今のままを貫くのなら、私だって、ありのままに生きてみせるわよ。 その代わり――と言っては何なんだけどぉ」 もし、できるのであれば……。くどいほどに前置いて、水銀燈が切り出す。 「あの娘を……めぐを、救ってあげてちょうだい。 たとえ完治させられなくても、せめて、もう少しだけ猶予を与えてあげて。 今、めぐに必要なのは、時間なのよ」 -to be continued-
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