『Vater』
柿崎めぐの病室は陽当たりの良い、それでいて風通しも良いという入院にはいい環境にあった。ちょうど私の病室の上に位置していて、これならば私の病室から彼女の歌が聞こえるのではないか、とも思った。「ゆっくりしていって。まぁ、病人同士でゆっくりしていってなんて嫌な話なのだけど」めぐはそう嘲笑うと彼女のシンプルなベッドに腰掛けた。ベッドの横の小さなテーブルにはりんごが剥いてあったのだが、彼女があんなに均等には剥けるスキルあるはずが無いので看護師の方が剥いたのだろう。 「何もない部屋でしょ、私がモノを投げるから何もなくなっちゃたの」確かに、彼女の病室には良く言えば無駄なものが無く、悪く言えばお洒落なモノが何一つもない殺風景なものだった。モノを投げる事は悪い癖だが林檎が無事だったことは誉めてあげよう。私は彼女が座った脇、ちょうど林檎が手に取れる場所にあるパイプ椅子に腰を掛けた。「さっ、夜まで私に付き合って」「他愛無い話で良ければ」右手で林檎をつまみながら、私は皮肉のつもりで言ったのだが、彼女には私が控えめなつもりに見えたのだろう、乾いた笑みをこぼした。もしかしたら、彼女には重い人生観の話なんかより、めぐのような年頃の女性が話す、本当に他愛無い話を望んでいたのかもしれない。夜。漆黒の闇、なんて表現が正しいかは分からないが、私は、暗い、暗い教会のドアを叩いた。昼間、めぐとの会話で彼女から、水銀燈の知られざるあんな姿やこんな姿の不埒な事を聞いたのだが、そのことはまた時間のある時にでも思い出すとでもしよう。「あらぁ、来たのね」水銀燈の声が教会の奥から響く。嗚呼、なんて美しい声だろうか、身震いがする。「お姉様、ご機嫌麗しゅう」「雪華綺晶、大丈夫なようね。心配したわぁ」教会の中は蝋燭の淡い灯り包まれており、水銀燈は正面の、ちょうど十字架の下の方に立っていた。上からは聖母が私たちを見つめている。「銀のお姉様、実は私、貴方に謝らなくてはいけないことがあるのです」「……ネックレスのことでしょ。昨日、雛苺から聞いたわぁ。よく私のあげたもので……残留思念でしたっけぇ、幽霊に効いたわねぇ」不敵な笑みを浮かべている彼女がそう話すのも無理はない。彼女は教会に住んでいるとはいえ、神に仕えるシスターではない。逆に彼女は神に反する立場にあるのかもしれない。私は彼女の深い闇に包まれたようなドレスに刺繍された逆さ十字を眺めながらそう思った。 「けど、貴方は雛苺を救いたくて私があげたネックレスを犠牲にした。何かを達するには犠牲を払わなくてはいけない。それは貴方が一番知っている事でしょ」はい、とだけ私は答えた。何かを達するには犠牲を払わなくてはいけない。それは決められた事。生きるために他者を殺すように、他者を生かすために自分を犠牲にするように、それは人の“性”神が、生きるものに下した罪なのかもしれない。「まぁ、今回は犠牲が“モノ”だったから良かったわぁ。またあげられるから……しかし本当に」と、水銀燈は私をいとおしそうに見つめた。それは逆に考えれば哀れみに近いものだったのかも知れないが。「本当に貴方ばかりが苦しむ。私達、姉妹の罪をすべて背負っているような、そんな気さえ思うわぁ。薔薇水晶の時だって」「お姉様、その事はもう……」私は呟いた。眼帯に隠れた瞳が疼くような気がして、それと同時に薔薇水晶のあの時の虚ろな表情がフィートバックする。痛みで顔が歪んでいるのが分かる。「……ごめんなさい。あの事はもういいわね。貴方と薔薇水晶は姉妹だもの。まるで『本物』の姉妹ように」水銀燈のお姉様は目を伏せた。聖母が微笑む下、沈黙の教会で、静かに口を開く。「……私は貴方達姉妹を愛しているわ。もちろん私達が姉妹と知った時は戸惑ったわぁ。けど、ズル賢い金糸雀も、うるさい翠星石も、生真面目で馬鹿正直な蒼星石も、私をジャンクと笑った真紅も、子供な雛苺も、彼女らを私は愛する事は出来ても心から憎むことはできなかった。やっぱり私達は姉妹なのね、と痛感したわ。姉妹が互いに憎み、恨みあったりはしないのよ、出来ないのよ。家族だもの、出来るはずが無い。だけど、だけどただ罪深い私が望むことを許されるのなら」 水銀燈は私を抱き締めた。それはまるで聖母のように優しい抱擁だと私は思った。「なぜ、なぜお父様は私達を離れ離れにしたのよ。私は普通に暮らしたかった。私はあの子達と姉妹として暮らしたかった。なぜ、そんな事すら神は許してくれなかったの」 水銀燈は泣いていた。決して泣き声なんか上げなかったが、彼女は泣いていた。それは、姉妹の長女として何も出来ない自分への嫌悪、そして、彼女、そして私たち姉妹が愛して止まないお父様へのただ一つの嫌悪。 私は、静かに涙を流す彼女に対して私は、ただただ、強く抱き締め返すしか出来なかった。嗚呼、お父様。なぜ、彼女を苦しめるのですか。嗚呼、お父様。なぜ、私達を苦しめるのですか。嗚呼、愛するお父様。なぜ、私達をこんな形にしてしまったのですか。私達が憎いのですか。私達が嫌いなのですか。私達はこんなに貴方を愛しているというのに。嗚呼、お父様。私は、雪華綺晶は、貴方を恨みます。愛すべきお父様。貴方を、私は許すことはないでしょう。ですからお父様。今すぐ水銀燈を抱き締めてください。雪華綺晶を抱き締めてください。金糸雀を、翠星石を、蒼星石を、真紅を、雛苺を、抱き締めてください。そして、これは悪い夢だよと涙を拭ってください。それだけでいいのです。ただ、それだけが私がお父様に願う事なのです。願う事なのです。
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