『パステル』 -11-
「ごめんなさいね。急いでいるのに」 騒音と熱気を吐き出すドライヤーに負けまいと、有栖川が心持ち、声を大きくする。彼女は今、三面鏡のついた年代物のドレッサーに向かって、洗い髪を乾かしていた。 「すぐに済ませるから、あと少しだけ待っててちょうだい」「気にしないでいいのよー。それほど、急いでないから」 気忙しげにドライヤーとブラシを揺らす有栖川に、雛苺は悠々と応じる。そうするように勧めたのは、雛苺だった。3月の夜は、まだまだ冷える。湯冷めをされては困るから――と。 「お友だちの家で、夕飯ご馳走になるから遅くなるって、メールしておいたし。 学生になってからは、門限とかね、かなり大目に見てくれるようになったのよ」「でもねぇ。女の子が夜遅くに帰宅するなんて、ご両親はいい顔しないでしょ」「平気平気っ。終電にさえ間に合えば、ヒナは困らないんだもの~」 だから、地図を書くのは、きちんと髪を乾かした後でいい。雛苺が告げると、有栖川もそれ以上はなにも言わず、鏡へと向きなおった。さて……。雛苺もまた、気持ちを切り替えて、ぐるり見回す。 彼女たちは今、有栖川の部屋にいた。先の勧めも、決して親切心からだけではなく、こうなることを期待しての発言だ。ここまでの展開は、まさに、雛苺の思惑どおり。 有栖川の部屋は、これが女の子の部屋かと驚くほどに質素で、家具が少なかった。ベッドとクローゼット、ドレッサー、一冊しか本が収められていないブックシェルフ。薔薇水晶のように、ポスターなどで飾りたてていないため、壁紙の白さが目立つ。そこへ、数少ない家具の落とす影が濃く浮いて、寂寞たる空気をいや増していた。彼女にとって、ここは寝起きするだけの場所、という認識なのかも知れない。 そんな殺風景にあって、ひときわ目を惹く異彩が、ふたつ。有栖川のパジャマと、ブックシェルフに横たわるボロボロの本の、背表紙だ。 その本に眼を注いだまま、雛苺は、薔薇水晶の話を回想していた。行き倒れていたとき、有栖川は小銭と一冊の小説しか、持っていなかったという。――最後まで手放さないほどの本とは、どんな内容なのだろう。宗教関係? 雛苺の好奇心が、強く刺激される。それに、黙々と待っているのも無言の圧力を加えているようで、落ち着かず……降って湧いた興味を、これ幸いと、徐に口を開いた。 「この本……」「え? なぁに」「見せてもらっても、いーい?」「――ああ、それ? ええ、どうぞぉ」 有栖川の許しを得て、雛苺は慎重に、ボロボロの本を手に取った。けれども、そこに印刷されていた文字は、日本語やアルファベットではなく、また、彼女が慣れ親しんだフランス語とも異なっていた。 見憶えが、あるような……ないような……。「うゆ?」眉間に皺を寄せた雛苺に、有栖川の微笑が、そっと向けられる。 「それ、ロシア語よ。私が唯一、愛読してる小説でね」「だったら、ヒナにはチンプンカンプンなの。これ、誰の、なんて小説?」「パステルナーク。『ドクトル・ジバゴ』って、知ってる?」「うーっと……タイトルだけは、なんとなく聞いた憶えがあるなの」「いろんな言語に翻訳されてるし、映画にも、なっているわよ」 有栖川はドライヤーを止め、髪にブラシを通しながら、続ける。 「激動の時代に翻弄されて、出会いと別れを繰り返す男女の物語でね――」 彼女の語るあらすじは大雑把で、お世辞にも、解りやすいとは言えなかった。が、内容は別として……有栖川の、この小説が好きだという想いは、漠然とではあるが、雛苺にも理解できた。この人はココロのどこかで、『誰か』との再会を夢見ているのだろう、と。 「お待たせぇ」 ことり、と。ブラシを置く、乾いた音。夜を憚ってか、有栖川は猫のように足音を忍ばせて、雛苺の正面に腰を降ろした。雛苺の眼差しが、水色のパジャマと、淡黄色のカーディガンの取り合わせへと惹かれる。 「そのパジャマ、とっても清楚な感じで、いい趣味なのね」 お世辞でもなく、雛苺は、そう思った。露骨に身体のラインを強調せず、と言って、子供っぽく地味な感じでもない。ただ、妙齢の女性にしては、少しおとなしすぎるだろうか。有栖川は、そんな雛苺の機微を見透かしたかのように、眼を細めた。 「もっと色っぽい、ピンクのネグリジェでも使ってると思ったぁ?」「んー。ヒナの見立てだけど、もっと似合いそうな色やデザインが、ありそうかなって」「とは言われても、肩身の狭い居候だものねぇ。分は弁えなきゃ。 それに、あれこれ着飾ったところで、家事の邪魔になるだけよ」 たしかに、フリルつきのドレスなんかを着ていては、マトモに洗濯などできまい。 「おしゃれに、まったく興味がないワケじゃあないのね」「そこは、やっぱり女の子だもの。ファッション雑誌だって流し読んだりね。 たまにはボディコンとか着て、颯爽と街を歩いてみたいとか、思ったりするわ」「スタイルいいものねー。黒のボンデージとかも、きっと似合うのよ」「はぁあ? や……やぁよ。そんなの着ないってば」 と言いつつも、自身のふしだらな姿を想像したらしく、有栖川は赤ら顔でイヤイヤをした。脳震盪をおこしてしまうのではないかと、雛苺が危惧してしまうほどに。けれど、倒れるよりも、疲れるほうが早かったようで。やおら顎を引いた彼女は、ひとつ吐息した。 「あーぁ、もぉ……バカみたぁい」 バカ、とは、雛苺の意地悪い冗談に対してか。それとも、一瞬でも淫らな想像してしまった自分への嘲りか。有栖川はカーディガンのボタンを玩びながら、唇に、誤魔化すような笑みを作った。 「ま、それはともかく。これね……ちょっとした思い出の品なのよ。 私が退院するとき、お祝いにって、もらった物」 そう言えば、と。雛苺はまた、薔薇水晶との語らいを、記憶から引っぱり出した。2年前――どのくらいの期間かは聞きそびれたが、有栖川は入院していたのだ。退院祝いとは、その時のことに違いない。 「ばらしー? それとも、槐さん?」 順当に考えれば、この2人か。もしくは、日用品を贈るぐらい親しい間柄の者だろう。しかしながら、退院の日にパジャマを贈るというのも、考えてみれば無神経な話だ。うがった見方をすれば、ずっと入院してろと暗に仄めかしているようではないか。 槐や薔薇水晶は、そこまで思慮に欠けていたり、性格の歪んだ人たちではない。ましてや、赤の他人である医師や看護士なら、気安くプレゼントなんか渡すはずがない。 では、彼ら以外の誰かが居たとして……それは、誰なのか?雛苺が問うより早く、その答えはアッサリと、有栖川の口から紡がれた。 「入院中にね、すっごく仲良くなった女の子がいたのよ。その娘が、くれたの」「やっぱり、患者さん?」「ええ。めぐ――あ、彼女の名前よ。ずいぶん長く入院してるみたいでね」 めぐ。その名はなぜか、雛苺の胸をドンと打ち、大きな波紋を残した。 「どんな女の子なの?」 その理由を知りたくて、雛苺が訊くと、有栖川は「そうね……」と。どこか芝居がかった仕種で、腕組みをした。 「身も蓋もない言い方をすると、イカレた子よ」 本当に、フォローのしようもない。どういうリアクションをすればいいのか。戸惑う雛苺をよそに、有栖川は辛そうに目を伏せ、続ける。 「でも、とても可哀想な子。生まれつき、心臓に疾患があってね。 子供の頃から、あんまり学校にも行けなかったんですって。 定期テストも、病室にわざわざ担任の先生が来て、受けてたそうよ」「じゃあ、友だちは――」「少ないわよね、当然。義務教育課程は、なんとか修了したらしいけど。 高校の卒業式にも出られなかったって。今も、ずっと独りで病室に――」 雛苺には、考えられない生活だった。いや……想像もしたくない世界だった。子供の頃から、独りぼっちにされることを、なにより恐れていた彼女にとっては。 雛苺が絵を描き始めたのは、ある意味、現実逃避だったのだろう。空想の世界を描いている間だけは、けっして独りではなかったから。そんな妄想癖は、大学に進んでもなお、彼女の中で大きなウェイトを占めていた。 でも、ここ数日で、彼女の創作にかける意気込みは、大きく変わりつつある。自己満足のレベルから、誰かの歓びを生みだせる絵を描きたいと、思うようになっていた。 「めぐさんは、もう何年、そういう生活をしてるの?」「ついこの間、二十歳になったと言ってたから……少なくとも、2年ぐらいかしら」「二十歳? ヒナと同じ年なのね」 瞬間、また――雛苺の胸裡が波立ち、顧みもしなかった深い部分に、綻びが生まれた。『めぐ』と言う名の、同い年の娘。なにかを、思い出しかけている。けれど、記憶のどこに光を当てればいいのか分からず、思考は堂々めぐりをするばかりで。 「フルネーム、教えてなの」 せめてもの手懸かりを求めて訊ねると、すぐに答えが返ってきた。 「柿崎めぐ、よ。もっとも、そう呼ばれるのも、あと少しなんだけど」「え? それ、どういう……」 まさか、戒名になるからだなんて不謹慎なことを、言うつもりなのか。表情を硬くした雛苺に、有栖川は、ひらひらと手を振って見せた。 「やぁね、誤解しないで。縁起でもない意味じゃないわぁ」「うよ? じゃあ、なんなの?」「名字が変わるのよ。彼女、もうすぐ結婚するから」「と言うことは、もう普通に暮らせるぐらい、快復したのね! めでたしなのー」 てっきり、めぐが退院するのだと思って、雛苺は小さく手を打ち鳴らした。しかし、対する有栖川は、息苦しそうに顔を俯けた。 「そうじゃないわ。めぐは……治ってなんか、ない」「え? でも――」「彼女も、結婚するつもりなんか、なかった。どうせ死ぬんだから、って。 私や彼を含めた周囲に辛く当たって、自ら遠ざかろうとまでしたのよ。 でも、バレバレなのよねぇ、ただの虚勢だってことは」 人一倍の寂しがりなクセして、おバカさんなんだから。有栖川は毒突いて、その割には、どこか嬉しそうな面持ちで続けた。 「結局、熱心に通いつづけてくれる彼の想いに絆されてね……決めたんだって。 残された時間のすべてを、彼を信じつづけて生きていくと」「そんなにも想われて、めぐさん、幸せなのね」「……そうね。呼んでくれる声に気づけた人は、とても幸せだわ」 言って、有栖川が、自嘲めいた笑みを浮かべる。雛苺には、なぜ彼女が、そんな風に微笑むのか解らなかった。 「有栖川さんは、めぐさんの彼氏さんに、会ったことあるの?」「ええ、あるわ」「どんな人? かっこいい?」「パッと見、さえない男よ。私より背が低いし、オタクっぽいメガネ君だしぃ。 だけど、質実剛健……って言うのかしら。芯の強い感じはしたわねぇ」「めぐさんも、きっと、そういうトコに惚れたのね」「かもね。最近じゃあ、お見舞いというより、ノロケ話を聞かされに行ってるわ。 柿から桜に生まれ変わるのよ――とか。ほぉんと、バカみたいよねぇ。 なに言ってるんだかってカンジぃ。そう思わなぁい?」 有栖川は、肩を竦めて同意を求めてくるが、雛苺には、そんな余裕などなかった。柿から、桜。その一言が、点々と散らばっていた記憶を、電撃的に結びつけたのだから。 柿崎めぐ――高校一年生の頃――色白で楚々とした、制服の似合う女の子。文化祭のイベント――そして……たった一度きりの――学年のプリンセス。クラスが違ったから、それほど親しくはなかったけれど。思い出してしまえば、閉ざした瞼の裏に、苦もなく彼女の顔を描けた。卒業アルバムの片隅に、独りだけ外れて載せられていた、少女の微笑みを。 今にして振り返ると、あの娘を見かけなくなったのは、文化祭を過ぎたあたりから。友人でもない子のプライベートに興味はなかったけれど……こうなれば話は別だ。入院の時期も重なるし、同姓同名の他人という線は、かなり薄い。 ――ジュンが、あの娘と交際していた。結婚するくらいに、親密だったなんて。そのことに今まで気づきもしなかった自分の鈍さを、雛苺は軽く嫌悪した。 「あら、やだ……すっかり話し込んじゃって。 ごめんなさぁい。急いで、駅までの地図を描いてあげるわね」 有栖川は立ち上がりかけて、ふと。「ところで、お住まいは、どこだったかしらぁ?」雛苺が、家からの最寄り駅を告げると、彼女はコミカルなほどに、目を丸くした。 「ちょっと、ウソでしょぉ! 電車一本じゃ帰れないじゃないのよ、それぇ。 今からだと……ああ、ダメだわ。どんなに急いでも、乗り換えの終電に乗れない」「……え? え、えええっ?! ホントにー?」「ごめんなさい。最初に、訊いておくべきだったわね。 あらかじめ知っていたら、暢気に髪なんか乾かしてなかったのに」「謝らないで。ヒナが、ちゃんと時刻表を確かめてなかったのが悪いんだもの」 我がことのように落胆する有栖川を宥めたものの、雛苺だって内心、穏やかではない。電車で帰れないのであれば、別の交通手段に頼るか、明日の始発まで待つか、だ。始発に乗るとなると、往路の時間から逆算して、今度はアルバイトに遅刻する。タクシーなら、駅前から乗れるだろうが、どれだけ料金が嵩むことか。自転車を借りて、夜通しサイクリングという手段も、単独では危ないし、怖かった。 こうなったら、夜中だけれど家に電話して、父親に車で迎えに来てもらうしかない。ただ、もう晩酌をすませて、寝てしまったかも知れない。その可能性は高かった。ちなみに、雛苺の母親は、車輪のついた乗り物なんか、まったく運転できない人だ。 「うー。どうしよう……困っちゃったのよ」 ココロが痛むけれど、薔薇水晶を叩き起こせば、車で送ってもらえそうだが……雛苺は、気が進まなかった。もしも居眠り運転なんかされたら、それこそ困る。 いっそ、バイト先には明日の朝、急病で休むと電話してしまおうか。ふとした思いつきが、急速に本気度を増してゆく。両親は怒るだろう。食事するとは伝えたが、外泊するとまでは言ってないのだから。 しかし、だ。そうしたら、電車の運行ダイヤに振り回されずに済む。病院に立ち寄って、柿崎めぐと面会する時間だって作れる。そう思ってしまうと、雛苺の気持ちは、ズル休みへと大きく傾いた。 「あの」今夜は、泊めてもらおう。雛苺が、頼もうとした折りもおり―― 「仕方がないわね。せめてものお詫びに、私が、家まで送ってあげるわ」「……え? ど、どうやって?」「車で行くに決まってるじゃない。私の運転でね」「免許、持ってるの?」 訊くと、有栖川は頷いて。「半分だけ当たり。更新しないまま、失効しちゃったけどねぇ」茶目っ気たっぷりに、ちらと舌を見せた。つまりは、無免許運転。 「だ、ダメなのっ! 有栖川さんが捕まっちゃったら、ばらしーが悲しむのよ」「大丈夫よぉ。こんな夜中に、そうそう検問なんか、してないだろうしぃ」「で、でも……」「気にしない気にしなぁい。善は急げ、よ」 有栖川は手をひらひらさせ、快活に笑いながら、雛苺のデイパックを掴みあげた。「それに、私が一緒のほうが、帰りが遅くなった言い訳もしやすいでしょ」 たしかに、両親の怒り顔を思うと、独りで帰宅するのは腰が引ける。雛苺は、有栖川の配慮に、ちからなく頭を下げた。「お願いします……なの」 連れ立って一階に降りると、雛苺は暇乞いのため、照明が点きっぱなしの応接間を覗いた。そこには槐が居た……が、彼はソファーに横たわり、寝息を立てていた。テーブルには、ウイスキーのボトルと、錫とおぼしい白銀のタンブラー。水割りを呑んでいたのだろう。タンブラーには、角の丸まった氷が残されていた。 「やぁね、先生ったら。こんなところで寝てると、風邪ひきますよ」 口を『へ』の字にしつつも、揺さぶり起こす気などは、まったくないらしく。有栖川は、隣室から毛布を持ってきて、そっ……と彼に被せた。 「これで、よしっと。さ、行きましょ」 言って、彼女はさも当然のように、テーブルに置かれたキーケースに手を伸ばした。ブルガリのロゴが入った、牛革製のキーケースだ。槐の私物に違いない。慣れた手つき。どうやら、酔っているのを幸いと拝借した前科がありそうだ。けれど、雛苺は咎めなかった。それができる雰囲気でもなかった。 ガレージのシャッターは、よほど手入れが行き届いているようで。ほとんど軋むことなく、巻き上げられていった。夜の静寂にあっては、エンジンのアイドリング音のほうが、喧しいくらいだ。車道まで徐行して、一旦停止。車中からのリモコン操作で、シャッターは静かに閉じた。 「今夜、降るなんて言ってたかしらぁ」 カーナビに目的地を入力しながら、有栖川が独りごちる。「夜の雨って、嫌いよ」雛苺は、濡れだすフロントガラス越しに暗い世界を凝視したまま、相槌を打った。 「こんな中を、駅まで歩いてたら、きっとズブ濡れになってたなの。 あ、そうだわ。帰りの道順は、ヒナの言うとおりに行ってもらっていい?」「近道とか、抜け道を知ってるわけ?」「ま、そんなとこなのー。まっすぐ進んで、大通りに出たら左ね」 その説明に、有栖川は怪訝な顔をする。「でも、それじゃ方角が逆よぉ?」しかし、雛苺は「いいのいいのー」と微笑むだけ。自信に満ちた笑顔に押し切られるように、車は進みだした。 だが、指示どおりに車を走らせるうちに、有栖川の表情が硬くなり始めた。彼女にも、見当がついてきたらしい。雛苺が、どこに向かおうとしているのか。 「ねえ。本当に、こっちで間違いないのぉ?」 訊ねる有栖川の声には、ありありと緊張が滲んでいた。それに対する雛苺の返答は、まったく脈絡のない質問。 「どこまで……逃げ続けるつもりなの?」 ――沈黙。有栖川は舌を抜かれたスズメのように、押し黙っている。雛苺はさらに、2人の間に横たわる溝を埋めるべく、言葉を並べた。 「いつまで、有栖川アリスを演じているの? 過去から目を背けてるの? 妄想という偽りの夢に浸っているのは、たしかに心地いいものだけど。 でもね、貴女がどれほど夢に逃れようとも、アリスにはなれないのよ。絶対に」 ハンドルを握る手が、僅かに震えた。車体が緩やかに横揺れする。走行中の車内でも、有栖川の喉が鳴る音が聞こえた。 「…………なんの話ぃ? 意味が、よく解らないわ」 懸命に冷静をよそおい、紡ぎだしたであろう掠れた呟きに、雛苺もまた反論する。 「じゃあ、はっきり言ってあげるの。貴女、水銀燈でしょ? ヘアスタイルを変えたり、整形したり……それまでの自分を壊すのは、勇気の要るコトよ。 だけど、本気で別人になりたかったのなら、躊躇ったりしないハズなの」 それなのに、最も目立つ外見を、変えてすらない。 「貴女は、水銀燈であることを、捨てられずにいるのね。 なぜなら、それは貴女にとって、なによりも大切な――」「うるさいっ! 人違いよ! 私は有栖川アリスだってば!」「……ヒナね、真紅に見せてもらったなの。学生の頃の、貴女たちの写真を」 「他人のそら似よ」わななき、力なく言い返した唇は、寸暇も待たず開かれる。「……なんてね」 そのあとに、諦念を色濃く滲ませた溜息が、長く続いた。もしかしたら、それは、やっと偽りの仮面を脱げた安堵の吐息だったかも知れない。 「最初っから、私を連れていこうって魂胆だったのね。真紅のところまで」「貴女が、そうしたいんじゃないの? 運転してるのは、水銀燈なのよ。 イヤだったら、いつでも引き返せるのに、そうしないんだもの」「……それもそうよね。じゃあ帰りましょ」「んもぅ……依怙地なんだから」 雛苺に言われるまでもなく、水銀燈には解っていた。自分が、どれほど意地っ張りなのかを。たった一度だけでも会いたいと願っていながら、二の足を踏んでしまう、臆病なココロも。たった一言、声が聞きたいのに、イタズラ電話をよそおうことさえできない。ときどき、こんな風にこっそりと、真夜中のドライブをしてみたけれど。真紅の家までは、いつだって行けずじまいだった。 薔薇水晶にローザミスティカのことを教えたのも、僅かばかりの接点を欲したから。いま、こうして雛苺の言いなりに車を走らせてきたのも、実は―― 運命的な再会をした、ジバゴ青年とラーラみたいに。誰かのお膳立てでもいい。胸裡のどこかで、そんな偶然を期待していた。だから、どれだけアリスに成りきろうとしても、姿だけは変えられなかった。 「バッカみたい。どうかしてるわ、イカレてるわ」「……それが、本心なのね」 雛苺は、柔らかい微笑みを、水銀燈に向けた。 「そうそう。ヒナ、真紅の家に忘れ物しちゃってたの。だから、途中で寄ってね。きっとよ」 ~ ~ ~ ソファに横たわっていた槐は、ゆっくりと身を起こした。最初から、眠ってなどいなかった。酔ってさえも。すべては、2年も続けてきた『家族ごっこ』に、終止符をうつための演技。本当の幕切れとなるか、ただの幕間になるのかは、彼にも分からなかったけれど。 みし、みし……。階段を降りてくる、忍び足。応接間のドアが、そっと開かれ、薔薇水晶が顔を覗かせた。子犬を思わす頼りなげな眼差しが、なにかを求めて彷徨う。そして、「行ってしまったのね」と。震える声。潤んだ瞳。 「……あの人が、本当のお姉ちゃんだったら…………よかったのに」 振り絞るように言って、鼻を啜り、唇を噛みしめた娘を、槐が手招きする。「おいで」薔薇水晶は素直に、彼の隣に腰を降ろした。槐は、そっと……壊れ物を包み込むかのごとく、娘を抱き寄せた。 「傷ついた動物は、それが束の間であっても、安住の場所を求めるものだよ。 だけど、その傷が癒えれば、また旅立ってしまうんだ。彼女も……ね」「じゃあ……また傷ついちゃったら、戻ってきてくれる?」 不穏な気配を滲ませて、薔薇水晶が呟く。また、傷ついたのなら――そこまで思い詰めるほどに、娘は彼女を慕っていたのだと知って、槐は胸を痛めた。だからこそ、より強く薔薇水晶を抱きしめ、柔らかな髪に頬をすり寄せた。 「これっきり、じゃないよ。彼女だって、君を忘れはしないさ。きっとね。 だから、追いかけて捕まえようとしては、いけないよ。 黙って見送ってあげよう。君の、素敵なお姉さんを」 ……こくん。槐の腕の中で、薔薇水晶は小さく、だが、しっかりと頷いた。 -to be continued-
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