雨降る夜に
こんな事なら、一次会で帰っておけばよかった。 降りしきる雨を見上げながら、もう何度目かの溜息を吐く。 雨音と雷鳴が響く駅の出入り口に、ひとり佇む私。 「あの傘、けっこうお気に入りでしたのに」 一次会の会場が蒸し暑かったから、ついお酒を飲み過ぎてしまった。 二次会の店に傘を忘れてきたと思い出したのは、ついさっき。 改札を出たところで、やっと気付いたのだ。 「はぁ……どうしよ」 アルコールのせいで朦朧とする。頭の回転が鈍い。なにもかもが億劫に感じられる。 家までは歩いて三十分ほど。 傘ならコンビニで買えるけれど、だからといって歩く気にはなれなかった。 バスだと寝過ごしてしまいそうだし、やっぱりタクシーが無難かしら。 それが最も現実的な選択だと思う。料金は高めだけど仕方ない。 「えと……乗り場は……?」 見慣れてる景色なのに、酔いのせいか、それとも夜の暗さのせいか―― タクシー乗り場が、なかなか思い出せない。 頭がガンガンして、思わず額に手を当てた。とても火照っている。 それに、冷えたせいか急に尿意を覚えてしまった。 ……ふらふら。まっすぐ歩いているつもりだけど、どうも歩けてないらしい。 対向する人波が、厄介ごと嫌うように左右に逃れて、背後へと流れていく。 私は頭上に掲げられているガイドを頼りに、どうにかトイレに辿り着いた。 個室に籠もり、髪が床につかないよう気を付けて屈み込む。 更なる災難に見舞われたのは、その直後だった。 眩い閃光が走った瞬間、照明が消えて、換気扇のファンが減速していく。 「え? ……ウソ。まさか、停電?」 独りごちたのとほぼ同時に、ものすごい轟音がして、私は身を竦ませた。 落雷による停電。それしか考えられない。 閉ざされた真っ暗な箱の中に、私の生み出す、はしたない水音が木霊する。 目が見えないから余計に音が気になってしまうのか。なんだか、とても恥ずかしい。 用を済ませた私は、そそくさと個室を出て手を洗い外に出ようとした。 そして―― 壁を手探りしながらトイレを出たところで、私は何かにぶつかって弾き飛ばされた。 「きゃっ?!」 「ぅわっ?!」 闇の中で発せられた、私と男性の声。私の中で鳴り響く、警戒警報。 相手の男性がチカンや変質者ではないと、どうして言い切れようか。 私は屈んで口元を手で覆い、身じろぎもしなかった。物音を立てるのが怖かった。 「いやあ……申し訳ない。真っ暗で、なにも見えなかったので」 沈黙に堪えかねたのか、男性は陽気な口調で語りだした。 「近くに雷が落ちたかナニかで、停電したらしいですねえ」 それでも私が黙っていると、向こうも察したらしい。 ……ぽりぽり。頭を掻いた音だろうか。そんなものが聞こえた。 「いやはや。かさねがさね申し訳ない。 こんな状況で、どこの誰とも判らない男なんかと話したくないですよね」 そう。とても気を許せる状況ではない。 男性は、さながら独り芝居みたいに大きな溜息を吐いた。 「たぶん、もう暫くすれば非常用電源に切り替わるでしょう。 それまで、ここでジッとしてると良い。じゃ、僕はもう行きますから」 擦り足で進む音が、ゆっくりと遠ざかっていく。 すると急に心細く感じてしまうから、不思議なもので。 私は足音のする方向へ声をかけていた。 「あの……」 「はい?」 「もし、ご迷惑でなければ……明かりが点くまで、傍に居てもらえませんか」 女の子の心情としては、男性に居てもらう方が心強い。 「いいですよ。僕で良ければ、お安いご用だ」 「あ、ありがとうございます」 「なぁに。取りたてて急用もない暇人ですから」 「まあ」 私たちの忍び笑いが、廊下に響く。 どういうわけか、私たち以外の誰も、トイレ来る気配はなかった。 「お仕事の帰りですか?」 「僕かい? うーん。仕事中……になるのかな。使いの帰りでね」 「お使いで、こんな遅くまでなんて。大変ですのね」 「慣れれば、あまり疲れないかな。手の抜き方を憶えるからね」 「あらま。誠実そうな声だけど、実は腹黒?」 「どうかなぁ。否定も肯定もしないでおくよ」 男性が快活に笑う。案外、あけすけで付き合いやすい人らしい。 そんな彼に、そこはかとなく好感を覚えて。 「ねえ。お名前を――」 訊ねようとした矢先、一斉に照明が点された。眩しくて目を細めた。 それも束の間。ずっと付き添ってくれていた男性に、私は笑顔を向けた。 ……が。それは瞬時に凍てつくこととなる。 「ま、まあ! 白崎っ!」 「ぉおっ?! お嬢さま!」 優しそうな人だと思っていたのは、誰あろう我が屋敷に仕える執事、白崎だった。 私はここで初めて、今朝のことを思い出した。 彼が出かける、と言っていたことを。 「いやあ……参ったなぁ。ちっとも気が付きませんでしたよ。 これでは執事失格ですかね」 白崎はいつものように、ヘラヘラした笑みを浮かべる。 こういう気安い感じ、私はどうも気に入らない。 でも――ちょっとだけ、好きになれたかも。 「いいわ、別に。さ、帰りましょう」 弾みをつけて立ち上がると、酔っていたのもあって立ち眩みがした。 あわや倒れそうになったところを、白崎が抱き留めてくれた。 彼は、ふと眉間に皺を寄せて、くんかくんか鼻を鳴らした。 「随分と聞こし召したみたいですねえ。臭いますよ、アルコール」 「しっ、失礼ですわね! それがレディに向かって言うこと?」 前言撤回。やっぱり私は、こんなデリカシーのない男、好きにならない。 白崎は眉を八の字にして困っている。 そんな彼の様子に、少しばかりの意趣返しができたと、私は気をよくした。 「でも、まあ。とりあえず肩を貸してくださらない。足元が覚束なくて」 「かしこまりました、雪華綺晶さま」 ソツなく、如才なく。ときどき、この男が分からなくなる。 さっき、暗闇の中で語らってくれた彼もまた、紛れもなく白崎なのだ。 「不思議な人――」 「は? なんです?」 「……別に。それより、傘を店に忘れてきてしまったの」 「じゃあ、タクシーを捕まえますよ」 「ええ、よろしく」 雨降る夜の、ちょっとしたアクシデント。 こういうのも、たまには面白いかもしれない。 そう。酔狂だ。いま私の胸にある、この気持ちも……たぶん。 おしまい
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