紫水晶の瞳 第2話
夜。 昼間の熱気を多分に留めた空気は、季節特有の湿度の高さもあいまって人々の安眠を妨げる。 街外れにある小さな教会。その屋根の上に腰掛け、少女はその暗黒の大気を肌で感じていた。背後には、今にも傾きそうな細い尖塔。辺りには教会を見下ろすほどの木々があちこちに生い茂り、月明かりに照らされてぎざぎざとした不気味な影を三角屋根の上に落としている。 静かであった。街の中心部から距離があるとはいえ、あまりにも静か過ぎた。ぼろぼろに朽ち果てた十字架の下で、少女はいかにも退屈そうに夜空を見上げるのだった。「穢らわしい空……」 少女は呟いた。空には雲ひとつなかった。が、中心街の電燈やネオンの光が空に立ち上り、薄雲のようなヴェールとなって夜空を覆っている。星々はその中で息苦しそうにちかちかとか弱い瞬きを繰り返していた。少女は、瞳を閉じた。「だるぶし あどぅら うる ばあくる」 底冷えのするような低い声で、ひとつひとつ区切るように、謎の言葉を唱える。日本語には――いや、人間の使うどの言語にも存在しない発音も含まれているようだった。詠唱に反応するかのように木々がざわめいた。静寂は破られ、代わって背筋を凍らせるような不穏な空気が辺りを包み込んだ。「いあ いあ はすたあ」 少女は詠唱を続ける。左眼を覆う眼帯が、脈動するようにぴくりと動いた。少女の右眼が、開かれた。 星々は、相変わらず冷たい光を放ち続けている。その狭間にたゆたう闇を、流星のように細く鋭い光が幾筋も走り抜けていった。光の軌跡は、何らかの図形を描いているようであった。「そう……やっぱり、その子なのね。『鍵』を持っているのは……」 薄汚れた空に煌めく幾何学模様を見て、少女は頷いた。 風が、止んだ。古い教会の屋根を、再び静寂が呑み込む。 何事も無かったかの如く、蒸し暑い夜は更けていった。 * * * 日曜日。 午後3時30分、駅前広場。 ジュンは噴水の前で、水銀燈の紹介する人物と待ち合わせていた。 空には薄い雲がかかり、照りつける陽射しもその分和らいでいる。「……で、なんでお前らまでここにいるわけ?」「あら。来てはいけなかったとでもいうの?」 3人で会うはずの待ち合わせ場所には、真紅と金糸雀がさも当然のような顔をしてやって来ていた。「ふふん。カナの情報網を甘く見ないで欲しいかしら!」「どうせ水銀燈が気まぐれに誘ったんだろ……あれ? そういやお前、一昨日はどうして学校休んでたんだ?」「え?」 きょとん、と目を丸くする金糸雀。フリルの付いた黄色いブラウスが、西日を受けて眩しく映る。「えっと、金曜は……知り合いのオーケストラの演奏会に出演してたかしら」「はぁ? オーケストラ!?」 ジュンは目を見開いた。金糸雀の奏でるヴァイオリンの見事さは知っているが、オーケストラなどというと、どうも別世界の話を聞いているような感覚になる。「といっても、アマチュア団体だけど……人数が足りないから、どうしても出てくれって頼まれたかしら」「マジかよ……ていうか、学校休んでまで行くか? フツー」「だって初見で弾ける人は少ないし……それに、エキストラ出演料五千円の魅力には勝てなかったかしら~」「浅ましいわね。音楽を志す者が、そんなはした金に目がくらんで学業をおろそかにするとは」 訳知った顔で真紅が言う。「ブルジョワの真紅には分かんないかしら! カナみたいなフツーの女子高生にとって、五千円は大きいかしら」「まぁ楽器とかにも金かかるだろうしな……それにしても、遅いな」 水銀燈と待ち合わせた時間は午後3時ちょうど。すでに30分を経過したが、現れる気配はない。「いつものことではなくて? あの人のことだもの」「確かにそうだけどさ……」 時間にルーズで、学校でも遅刻の常習犯として名高い水銀燈だが、今日はその知人とも待ち合わせているのである。初対面の人間に会うのに30分も遅れるというのは、普通の神経とはちょっと思えない。(もしかして、水銀燈に輪をかけていい加減なヤツなんじゃ……) 急に不安になってくるジュン。きょろきょろと辺りを見回し、右の方へ顔を向けた時に視線が止まった。噴水の飛沫の向こう側に、制服を着た一人の女の子が立っていたのだ。 紫髪のツインテールが滑らかに揺れている。すらりとした長身から伸びた、しなやかな四肢。その手にぶら下げた古風な黒い鞄は、華奢な体つきには不釣合いなほどに大きく、重みを感じさせる。顔は角度的に左側しか見えないが、左眼を隠す黒い眼帯がある種異様な気配を醸し出していた。 急に、くい、と女の子の首が回った。紫色の宝石のような右の瞳が、ジュンの目を真っ直ぐに捉えた。慌てて視線を逸らすジュン。紫髪の女の子はゆっくりと首を戻し、その後は黒い鞄をぶら下げたまま微動だにしなかった。(まさか、な……) もしや――という予感を、脳内で必死に打ち消そうとする。その子がいつからそこに居たのかは判然としないが、もし水銀燈の言っていた子であればジュンの特徴くらいは知っていてもおかしくなかった。少なくとも、ジュンたちの方を窺うような様子を見せても良さそうなものだ。それが、ジュンには一瞥をくれただけでまるで興味を示さない。(やっぱり、違うよな……)そう思った矢先、どたどたという足音が耳に入ってきた。と同時に、ゴシック風の黒いワンピースを着た長身の女の子がこちらへ駆けて来るのが見えた。「ゴメ~ン、遅れちゃったぁ~!」「遅すぎなのだわ、水銀燈。約束の時刻をもう32分も過ぎてるじゃな……って、え?」 いきなり小言を展開しようとする真紅を無視し、水銀燈が駆け寄った先は紫髪の少女のもとだった。「銀ちゃん…………遅いよ」「ばらしー、ゴメン。今度何かおごるから、許してぇ?」「『プロヴィデンス』の、ペスカトーレ・セット……で、手を打ってあげる」「う~ん、それは……ちょっとキツイわぁ。イチゴパフェじゃダメぇ?」「…………却下」「そんなぁ~……ドリンクも付けたげるからぁ、ね?」「ちょっと!」 たまりかねた真紅が、声を張り上げた。「散々待たせておいて、私たちには一言の謝罪もないと言うの?!」「あら、真紅じゃない。いつから居たの?」「なっ……! 呼んだのは貴女じゃないの!!?」「冗談よぉ。そんなに顔真っ赤にして怒らなくたっていいじゃなぁい」 年上の水銀燈を遠慮なく睨みつける真紅。ジュンと金糸雀は、ぽかんと口を半開きにしたまま成り行きを見つめている。「あらジュン。どうしたの? 気の抜けたコーラみたいな顔して」 怒りに燃える真紅の視線を軽く受け流し、水銀燈はジュンに声をかけた。地を這うような風が水銀燈のスカートをめくり上げ、まぶしい太股が一瞬露わになったが、半ば茫然としているジュンの目には入らなかった。「こ、この前言ってた知り合いって……」「ええ、この子よ。ばらしーっていうの」「ばら……しー……?」 紫髪の女の子が一歩前に出、ジュンにお辞儀をする。「はじめまして……薔薇水晶、といいます」 そよぐ風に同化したような透明な声音が、ジュンの鼓膜を震わせた。 再び顔を上げたその表情は、にこりともしていなかった。 * * * やがて真紅の怒りもどうにか鎮まり、ジュンたちは場所を変えて話をすることになった。 駅からほど近いところにある、喫茶店「ウルタール」――水銀燈の行きつけのお店だ。ジュンも連れられて何度か来たことがある。茶色く塗装された木造の小さな店舗は、絵本に登場するお菓子の家を思わせるような独特の風情があった。 水銀燈が入口の木のドアをゆっくり開けると、きらきらと鈴の音が鳴った。すると、もっと小さな鈴の音がちゃらちゃらと響いて、薄暗い店の奥から小さな影が駆け寄ってきた。水銀燈が慣れた手つきでそれを抱き上げると、じつに嬉しそうな鳴き声をあげるのだった。「久しぶりねぇ、イリス。いい子にしてたぁ?」「いらっしゃい、銀ちゃん。随分ご無沙汰だったじゃないか」「ゴメンね、マスター。3年生ともなると、いろいろ忙しくってぇ」 マスターと呼ばれた30代半ばの男が、眼鏡の奥の目を細めた。黒猫のイリスはこの店主が飼っているのだが、名付け親は水銀燈だった。この猫が初めて店にやって来た時、たまたまカウンターに居たために名前をつけることになったのだという。「水銀燈にしては、なかなか可愛くて意味深い名前を考えたのだわ」 真紅がかつてそう言ったことがある。“iris”=“虹彩”を意味する言葉だと推測したからだろう。 確かにイリスの瞳はビードロのように不思議な色彩を帯びて特徴的であり、そういう理由で名前を付けてもおかしくはない。だがジュンは知っている。水銀燈が、ある特撮映画に出てくる怪獣からその名を拝借したのだということを――水銀燈はホラーや怪獣映画にかけてはやたらと詳しかった。「マスター……カプチーノ、ひとつ…………銀ちゃんのおごりで」 慣れた口調で早々と注文をする薔薇水晶。彼女もこの店の常連であるらしかった。胸元にイリスを抱いたまま、水銀燈が頭を抱える。 ジュンたちは窓際に置かれた大きな木のテーブルを前にして座った。ジュンの両脇には真紅と金糸雀が座り、水銀燈と薔薇水晶の二人と向かい合う格好になっている。 やがて、それぞれの注文した飲み物が運ばれてきた。「さて……改めて紹介しようかしらね。ばらしー?」「薔薇水晶、です。……よろしく」 水銀燈に促され、薔薇水晶が深々と頭を下げる。「その制服……『アリス女学院』なのね?」 真紅の質問に、こくん、と頷く薔薇水晶。 「アリス女学院」といえば、この周辺では有名な私立の名門女子校であり、毎年有名大学へ何十人もの生徒を送り出す進学校としても名を馳せている。「『アリス』の制服……憧れだったかしら~」 薄紫色のセーラー服を食い入るように見つめ、目を輝かせる金糸雀。 学費が非常に高いことでも知られる「アリス」だが、毎年の入学希望者は膨大な数に上る。しかし、それらの多くは独特のハイレベルな入試問題の前にことごとく涙を飲む運命にあった。「アリス」に入れるというのは、このエリアの女子中学生にとってはまさに夢のような話なのだ。「あ、あのさ、その左目……どうしたんだ?」 薔薇の紋様が刻まれた黒い眼帯を見つつ、おずおずと尋ねるジュン。 「アリス」の生徒であるというのも驚嘆すべきことなのだが、やはりジュンには左眼を隠す眼帯が強烈な印象を与えたようだ。 じっとジュンの目を見たまま、薔薇水晶は動かない。呼吸も止まっているかのようだった。「…………見たい?」「え……?」 やがて耳に届いた言葉に、思わずジュンは反問した。薔薇水晶の囁く声音には、名状しがたい、ぞっとするような響きが含まれていた。「……この眼帯の、下……どうなってるか……見たい?」 口唇の端をかすかに歪ませ、ほくそ笑む薔薇水晶。一瞬、背骨が氷柱と化したような寒気をおぼえて、ジュンは怖気をふるった。「い、いや…………で、それで、水銀燈は薔薇水晶の、その……優秀な頭脳を借りようってことなのか?」 助けを求めるように、水銀燈に話を振るジュン。「ま、それもあるんだけどねぇ」 水銀燈は曖昧に言葉を濁す。「じゃ、そろそろ本題に入ろうかしら。ばらしーには、だいたいのあらましは話してあるんだけど……真紅と金糸雀には、まだ何のことだかわかんないわよねぇ」「当然よ。ただ、巴が倒れた件についての話だという以外、聞かされていないのだわ」「カナは一昨日休んだから、それさえピンと来ないかしら。これじゃ、校内一の情報通の名がすたるかしら……」 口々に不満を唱える二人。どういう名目で水銀燈はこの二人を呼んだのかと、ジュンはいぶかしんだ。「とにかく、張本人のジュンの口から説明してもらわなくては、話が見えてこないのだわ」「そうねぇ。じゃ、とりあえず三日前に起こったことと、一昨日のこと。もう一度詳しく話してもらえるぅ?」「ああ」 真紅と水銀燈に促され、ジュンは語り始めた。三日前、校門前で巴と別れた時の時刻、様子、翌日の巴の容態、そして翠星石と蒼星石の不自然な態度に至るまで、詳しく話して聞かせたのだった。真紅と金糸雀は時折軽く質問を交えながら、ジュンの説明に耳を傾けた。水銀燈はエスプレッソを飲みながらそのやり取りに聞き入り、薔薇水晶はカプチーノの表面の泡をふうふう吹いて遊んでいた。「――つまり、巴の身に起こったことについて、あの双子が何か関わっているかもしれないということね」 ジュンの話を総括するように、真紅が言った。「うん。少なくとも、翠星石は直接的に何か知ってそうな雰囲気だったな」「その子の写真…………持ってる?」 唐突に、薔薇水晶が口を開いた。出し抜けな問いにジュンは唖然としたが、代わりに横から金糸雀が口を挟んだ。「カナと一緒に撮った写メで良かったら、持ってるかしら」「液晶じゃ、完璧じゃないけど…………見せてくれる?」 金糸雀は頷いた。携帯電話を開いて写真画像を呼び出し、やがて薔薇水晶の前に差し出した。 去年の学園祭の時に撮った写真らしい。画面中央で微笑む金糸雀。その左側にはぎこちない笑顔を作る翠星石、右側には無表情な蒼星石の顔が明瞭に映し出されている。「…………」 右眼を見開き、ディスプレイを凝視する薔薇水晶。しばしの間、何者をも寄せ付けないような張り詰めた空気が場を支配した。(あのさ……この子って、霊感が強いとか、そういうのなのか?)(ちょっと違うけど……まぁ今はその認識でいいんじゃない?) 凍てつくような空気を纏った少女の横で、ひそひそと話すジュンと水銀燈。 やがて薔薇水晶は携帯を置いた。か細い息を吐いた。「…………つかれてるわ、この子」 疲労したような声で、薔薇水晶が呟く。「あぁ、なんか部活とかで忙しそうだからな……疲れるのも当然だろ」「そうじゃ、ない…………憑かれてるの」 向かい側に座る3人はとっさに意味が分からず、互いに顔を見合わせた。が、やがて意味が分かると「まさか」と言い出しそうな表情になり、再びその顔を見合わせた。「あ、あの……『憑かれてる』って、悪霊とかに……?」「霊じゃない…………アクマ」 「アクマ」という発音が妙なイントネーションを伴っていて、ジュンはまたも一瞬意味を察しかねた。真紅はというと、明らかに機嫌を損ねたようにぷいと横を向いてしまっている。「ばらしーはね、そういう方面に詳しい子なの。上手く言えないけど……魔術とか、人知の及ばないある種の力に……私も、以前何度か助けてもらったことがあるわぁ」 フォローするかのように、水銀燈が言葉を繕う。だが真紅の表情はますます憮然とするばかりだった。「どんな子を連れて来たのかと思えば……魔術だの霊だのと、そんな話に付き合わされるなんて、私はまっぴら なのだわ」「まぁお待ちなさいな。ばらしーの話、最後まで聞いておく価値はあると思うけど? 真紅ぅ」 すっかり興を削がれた様子の真紅を、水銀燈が落ち着いた口ぶりでなだめようとする。が、真紅はかぶりを振るばかりだった。「私がそういう類の話を受け付けないということくらい、知っていると思ったのだけど……水銀燈。金糸雀はともかく、どうして私までこの場に呼んだのか、聞きたいものね」「アナタと金糸雀を呼んだのは、実は私じゃないの。ばらしーの提案なのよ」 水銀燈の言葉に、はっとしたように視線をスライドさせる真紅。そこには一直線に視線を送る薔薇水晶の右眼があった。真紅はたじろいだ。一瞬、薄紫の透き通った瞳に、何もかも吸い込まれてしまうような感じがした。反射的に、目を逸らした。「これを……見て」 薔薇水晶は、金糸雀の携帯電話を向かいの3人にかざして見せた。「なんだ……これ?!」 有機ELディスプレイに映し出されていたのは、何処とも知れぬ荒野の風景だった。空は冒涜的なまでに赤黒く、化け物のような巨大な黒雲がのたうっている。赤茶色の暗い大地。白骨のような枯木の群れ。その只中には、この場に居る5人と翠星石・蒼星石の姉妹、そしてひどく小柄で幼い印象を与える金髪の少女の姿がはっきりと浮かび上がっていた。「えぇっ?! カナの画像フォルダには、こんな写真、無かったかしら……」「ここは……」 驚愕の表情を浮かべる真紅と金糸雀。しかし二人の驚きの色あいは微妙に異なっていた。「この景色……アナタは、見たことある……ハズ」「なっ、何のことなの?」 薔薇水晶に見つめられ、あからさまに動揺する真紅。他の3人は携帯画面に釘付けとなり、その様子に気がつかないでいた。「いったい、どういうものなんだ? この画像は……」 ジュンが問う。「これは……近くて遠い、カコの鏡像。それでいて、遠くて近い、ミライの写し絵……」「わ、わけがわからないかしら……」 オカルト好きの金糸雀も、さすがに混乱し眩暈をおぼえそうになる。「巴の身に起こったコトは、直接的にはあの双子が関係しているみたいだけど……それだけじゃない。私たちにも 何か深く関連のあるコトらしいわぁ。そしてこれは、始まりに過ぎないみたいなの」 薔薇水晶の断片的な言葉をまとめるように、水銀燈が言った。今度は真紅も異論を挟まない。静かに、もとの椅子に座り直した。「……ま、まぁ、単なるインチキな画像ではなさそうね」「巴は……大丈夫なのか? これ以上、何か危険な目に遭ったりはしないのか?」 ジュンの問いに、こくり、と頷く薔薇水晶。「今のところは……大丈夫。しばらくすれば、ココロも元に戻るハズ」 大きく息を吐き、安堵するジュン。「でも、これからいったい、どうすればいいんだ?」「あの双子の過去……調べてみた方が、良さそうね。けど、今、一番心配なのは…………この子」 そう言って、薔薇水晶は細い人差し指でディスプレイの一点を指した。 そこには、周りに比べて際立って小柄な女の子の姿があった。「雛苺、か……」 * * * 翌日。 月曜日。午後5時。 昼下がりの街を駆け抜けていく一人の少女。「トモエ……トモエ……!」 これから会おうとする人物の名前を、走りながら呟き続ける。息を切らしていながらも、その名を連呼せずには心の平静が保てないようであった。 少女は、両親――本当の両親ではないが――を恨めしく思った。熱を出して寝込んでいたのは確かだったが、実の姉のように慕っている人の異変について、何も知らせてはくれなかった。知ることで、少女が余計な心配をして熱をぶり返すかもしれない――両親のそうした気遣いであろうことは、幼く見えるこの少女にも分かっている。背丈は小学生と間違えられるほどに低いが、彼女ももう高校1年生なのだ。 でも、恨めしい。巴の身に大変なことが起こっているなら、とても寝込んでなどいられないのに。 少女は、幼い頃に実の両親を亡くした。 遠戚である柏葉家に引き取られ、巴とは本当の姉妹のようにして育った。近所に住むジュンは、兄のような存在だった。 小学生の頃は病弱で欠席が多く、学校に行ってもたびたび保健室のお世話になった。 中学生になるとまもなく、クラスメイトから陰湿ないじめを受け、登校拒否になった。 他人と会うことも、言葉を交わすことも、怖くてしかたがなかった。 けれど、巴は、いつだって側にいてくれた。胸の奥に閉ざされた繊細な心を、いつも暖かな目で見守ってくれた。 今日、熱が平熱に下がったところで、初めて両親から巴のことを打ち明けられた。目の前が、一瞬にして闇に包まれたような気がした。気がつくと、火の玉のように家を飛び出していた。 会いたい。その思いだけが、病み上がりでひ弱な少女の身体に力を与えていた。 やがて、病院が見えてきた。小さい頃、自分も通っていたことのある病院だ。勝手は知っている。受付で巴の病室を聞き、階段に向かって走り出した。エレベーターのボタンを押すのももどかしかった。「静かに」と注意する看護師の声さえ、耳には届かなかった。 やっとの思いで3階まで駆け上がった。病室の前まで来た。体力は限界に近い。倒れそうになりながら、ドアを開けた。「はぁっ、はぁ……! トモエ……!!」 手前のベッドの上に、優しい巴の姿がたたずんでいる――はずだった。「はぁ、はぁ…………あ……れ……?」 少女は拍子抜けした。というより、全身の力が足の裏から抜けていくような気がした。 看護師が教えてくれたベッドの上には、誰も居ない。患者の氏名が記されているはずの名札も、空欄になっている。「ど……して……?」 がくりと膝をつき、真っ白い布団の上に思わず突っ伏してしまう少女。そこには身を案じて一目会いたかった人の匂いが、わずかばかり残っているような気がした。「たいいん、したの……?」 そんなはずはない、と思う。受付では確かに、この病室にいると言っていた。つい今しがたの話だ。第一退院するというなら、両親のもとに何の連絡もないということは有り得ない。「どこ、行っちゃったの……? トモエ……っ……うぅ…………」 少女のつぶらな両目に、涙が溢れた。もう、立ち上がる体力も気力も、残されていなかった。 胸の奥から感情の奔流がこみ上げ、表情を歪ませる。高校生らしからぬ声をあげて、号泣する寸前――何かが、枕元からはらりと落ちるのが目に入った。白い、メモの切れ端のような一片の紙だった。「う……ゅ……?」 発せられる寸前だった泣き声が、喉の奥に引っ込んだ。メモを取って見てみる。ボールペンで急いで書いたと思われる、小さな文字の羅列が目に入った。『がっこう おんがくしつ たすけて』 乱れてはいるが、明らかに巴の筆跡だった。少女の胸が、不穏な鼓動を打ち始める。すべて平仮名で書かれているのは、抜き差しならぬ異変に巻き込まれたことの現れだろうか。 巴の身に、今度は何が起こったのか。今、いったいどんな怖い目に遭っているというのか。 それを思ったとき、少女は疲れを忘れた。「トモエっ!」 少女は、立ち上がった。まずは、この病院の医者か看護師に知らせなければ。 * * * その日の放課後。 ジュンと真紅、金糸雀の3人は病院へ向かった。巴を見舞うためだ。 病室に入ると、ほのかにオレンジ色を帯びた西日がカーテン越しに差し込んでいた。沈んでいく太陽を見守るかのように、巴はベッドに腰掛けて窓の外に目を向けている。「巴?」 その細い背中に、真紅が声をかけた。相変わらず反応はない。容態に変化はなさそうであった。「巴がこんなことになってたなんて……もっと早くにお見舞いに来るべきだったかしら」 自分がいない間に起きた事の大きさを、今さらながら実感する金糸雀。「でも、精神的なショックを受けているとはいっても、深刻なダメージではないのでしょう? 外傷もないし…… それがせめてもの救いなのだわ」 少なくとも肉体的には健康に見える巴の様子を見て、真紅はひと安心したようだった。 その時、扉が開いた。入ってきたのは看護師の若い女性だった。「あら、桜田君。今日は賑やかね。みんなでお見舞いに来てくれたの?」「ええ、まぁ……あの、巴の具合は?」「今のところ、変化はないわ。当初の見立てより、少し時間がかかるかもしれないわね」「そうですか……」「後遺症が残る恐れはないから、心配はいらないけど……あ、そうだ。さっき雛苺ちゃんが来てね」 その名を聞いて、3人が一斉に看護師のほうを見た。「変なこと言ってたわ。『トモエがいなくなっちゃったー!』なんて……ちょっと検査で別の部屋に行っただけだって言っても、聞かないのよ……こんな紙切れ、手に持ってね」 ジュンはメモのような小さな紙片を受け取った。真っ白い紙の表面には、何も書かれてはいなかった。「それで、雛苺は何処に!?」 急き込むようにして、ジュンが尋ねた。「さぁ……そのまんま病院飛び出して行っちゃったから……」 その時、ジュンの携帯電話が鳴った。メールの受信を知らせるメロディだ。 携帯を開いて画面を覗き込むうち、ジュンの顔色が見る見る変わっていく。「ちょっと、ジュン? 病院では携帯の電源は切っておくのが常識……」「それどころじゃない!!」 日頃出すことのない声量で一声叫ぶと、ジュンは乱暴にドアを開けて病室を飛び出した。「ジュン!?」 慌てて後を追う真紅と金糸雀。 残された看護師は、ただ茫然と、騒がしい若者たちの後姿を見送るしかなかった。
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