水銀燈の野望 烈風伝 ~幕府滅亡編~
<あらすじ>時は戦国の世。備前国に「薔薇乙女」と呼ばれる8人の姉妹がいた。天下統一の野望を抱く長女・水銀燈は、戦国大名となって上洛を果たし将軍・足利義輝の信頼を得る。足利義秋の陰謀により幕府と対立した水銀燈は、屈辱的な和議を提案されるに至って倒幕を決意。紀州にはびこる本願寺の残党を猛烈な勢いで討滅し、ついに幕府打倒の軍勢を京都へ向ける……――永禄九年三月。将軍・足利義輝は朝廷より勅許を得て、正式に水銀燈討伐令を諸国に発した。そしてその弟・左馬頭義秋を総大将とする五千あまりの軍勢が京を進発。手薄となっている槙島城の攻略を当面の目標とした。明智光秀もまた、足利家の武将の一人としてこの軍陣に加わっている。義秋「十兵衛よ、城攻めの指揮はそちに任す。槙島城の兵力はたかだか千人足らず、ひと揉みに陥としてやるのじゃ」光秀「はっ」だが義秋は、光秀の秘めたる決意を知る由もなかった。やがて幕府軍は法螺の音を合図に攻撃を開始。数的不利の城方は城門の守りを固め、必死の思いで寄せ手の進撃を阻んだ。一進一退の戦況の中、光秀は自軍を率いて前進する。誰もが光秀自ら前線に立ち、膠着状態を打破しようとしているのだと思った。が、思わぬことが起こった。光秀「我は明智十兵衛光秀なり! 思うところあって、これより左中将殿に味方いたす。志ある者は、我に続け!」高らかに宣言すると、光秀は部隊を反転させ、総大将である義秋の陣目がけて突撃を試みた。その動きに呼応し、付き従っていた諸将もまた次々に逆走を始める。出陣の前、光秀は雪華綺晶を通じて内応の確約をし、さらに義秋に不満を持つ幕臣にも呼びかけて寝返りを誘っていたのであった。突然の出来事に、義秋は床几から転がり落ちて仰天した。義秋「じ、十兵衛め、気でも違ったか!? あの実直な男が、まさか儂を裏切るとは……!」頼みとしていた光秀に寝返られ、義秋はほうほうの体で敗走するしかなかった。(水銀燈様、これにて御約束は果たせたでありましょうか……)沸き起こる勝鬨を聞きながら、光秀は重苦しかった何かから解放されたような気分を味わっていた。一方、播磨国。真紅の居城である姫路城を、雛苺が訪れていた。西国を預かる真紅たちに畿内の情勢を伝える役目を、水銀燈に託されたのである。雛苺の話を聞き終え、真紅は嘆息した。紅「和議を踏みにじって兵を進め、あまつさえ信長などと同盟を結ぶとは、水銀燈……いったいどうしたというの?」金「まさか、本当に幕府を滅ぼすつもりかしら……」蒼「水銀燈がそんなことするハズはないよ。きっと、何か考えがあってのことさ」そう言いながらも、蒼星石の表情にはいつもの落ち着きが見られない。翠「……あいつのせいです」翠星石が、重々しい声で呟いた。翠「あの爺ぃが、何か邪な企みを水銀燈たちに吹き込んだに違えねぇです」蒼「それって……松永弾正殿のことかい?」無言でうなずく翠星石。紅「本当にそうなの? 雛苺」雛苺はかぶりを振った。雛「確かに、だんじょう殿は京を攻めようって言ってたけど……でもでも、みんな怒ってたのよ? 『さまのかみ』のやり方に」ジ「まぁ無理もないよな。畿内の領地をほとんどよこせなんて言われりゃ」巴「でも、あからさますぎる挑発じゃない? 雪華綺晶が側にいながら、みすみすそんな手に乗るなんて」真紅は、嫌な予感がした。(水銀燈……もしかして、もう自分の野心を抑える必要を感じなくなっているのでは……?)今の薔薇乙女家の軍事力からすれば、足利幕府の戦力など問題にならない。天下を目指すと宣言した折の、野望に燃えた水銀燈の瞳が、鮮やかに脳裏に蘇ってきた。家臣「申し上げます! 京より細川兵部大輔(ひょうぶのたいふ)殿がお着きにございます」紅「まぁ、藤孝殿が……」夜を日についで駆けつけて来たという客人を、真紅は驚きをもって出迎えた。藤孝「無念にござる、式部殿……」式部大輔(しきぶのたいふ)は真紅の官名である。紅「畿内の有り様は雛苺から聞きました。お骨折りの儀、御礼を申しますわ」藤孝「なんの、幕府のためを思ってのことでもあったゆえ……しかし、今やすべては水泡に帰してしまい申した」紅「まだ諦める段ではございませぬ。明智殿もきっと、何か策を考えておいでなのだわ」藤孝「その光秀殿も早や、左中将殿のもとに降ったやも知れませぬ」紅「えっ」場の全員が驚愕した。明智光秀といえば、足利家にひたすら忠誠を尽くしてきた義理堅さで知られている。幕府が窮地に立たされた途端に、あっさりと見切りをつけるような人物とはとても思われなかった。紅「なにゆえ明智殿が……」藤孝「わかりませぬ。ただ左馬頭殿の暗躍が始まった頃からすでに、十兵衛殿には思うところがあったようでござる」紅「そんな……」藤孝「真紅殿、もはやこの情勢を救えるのは貴女しかおりませぬ。どうか……どうか、上様のお命だけでもお救いくだされ」深く頭を垂れ、懇願する藤孝。紅「兵部殿……どうか面をお上げくださいませ」真紅は優しく声をかけた。紅「将軍家を思う気持ちは、私とて同じこと。それに、これまで幾度も助けていただいた細川殿ですもの、恩返しをしなくては」藤孝「で、では……」紅「ようやく、この西国の軍勢を動かす時が来た……そういうことですわね」翠「も、もしや真紅……水銀燈を討つ気でいやがりますか!?」紅「安心なさい。私たちは、公方様をお守りするだけよ」蒼「でも万が一、水銀燈が上様の御首級を狙うようだったら……」紅「それはないのだわ。あの人が、そんなことをするハズは」その声は、確信に満ちたものだった。真紅は支配下の四ヶ国に号令を発し、およそ二万の軍勢を集め京へ進発。金糸雀はそれに先駆けて水銀燈のもとへ向かい、真紅の意を伝える役目を任された。一方、雛苺はそのまま真紅の軍勢に同行し、ともに京を目指した。これが後に、彼女たち自身の運命を決定付けることになる。その頃、紀州にいた水銀燈もすでに軍勢を整え、上洛の途に着いていた。倒幕軍の兵力はおよそ三万。畿内においてこれほどの大軍が動いたのは、ちょうど百年前に起こった「応仁の乱」以来ではなかろうか。両翼に雪華綺晶、薔薇水晶を従えたその軍容は、見る者には天より降りた神兵とも、また地獄から遣わされた悪鬼とも見えた。――永禄九年四月。水銀燈軍は山城国に入り、槙島城に到着。ここでは幕府を出奔した明智光秀が待ち受けていた。光秀「左中将殿……いや、水銀燈様。お久しゅうございます」銀「光秀殿、よく当家に来てくれたわぁ。アナタのような才人が味方になってくれるなんて、こんなに心強いコトはなくてよ」光秀「勿体なき御言葉。今後はこの命の続く限り、水銀燈様の御為に働く所存にござります」銀「期待してるわぁ。でもぉ……ホントの狙いは、別にあるんでしょ? アナタがすんなり将軍家を見限ったとは思えないもの」悪戯っぽく微笑む水銀燈。光秀「……やはり、見破られておりましたか」敵わない、というように光秀は苦笑した。光秀「拙者が当家へ参ったのは、半分は足利家のため。京攻めの軍に加わり、上様に危険が及ぶのを防ぐためにござりました」雪「その上様に、裏切り者の烙印を押されるのを御覚悟の上で……?」光秀「拙者は長く流浪の身にありました。この上いかなる汚名を背負ったとて、今さら大したことはありませぬ」源氏の長者にして征夷大将軍という高貴な身分にありながら、義輝は武芸の鍛錬を怠ることなく、また民を思う心も人一倍強い。そんな義輝の人柄に惹かれ、光秀は将軍家の家臣としてこれまで一心に仕えてきたのであった。悲壮な決意を胸にしながら、しかし光秀の微笑はそれを微塵も感じさせない。光秀「されど、もう半分は紛れもない本心。貴女様の上洛を目にしたあの日から、いつかお仕えしてみたいと思うておりました」銀「あらぁ、嬉しいコト言ってくれるじゃなぁい。たとえ気持ち半分でも、悪い気はしないわぁ。うふふ♪」雪「……」金「ちょおっと待つかしらぁー!!」けたたましい足音を鳴らし、金糸雀が息を切らして走りこんできた。銀「あら、金糸雀じゃない。久しぶりね。元気してた?」金「なんでそんな呑気でいられるかしら!? 幕府と正面切って戦うなんて、どういうつもりかしら!」銀「まぁいいじゃなあい、難しい話は後にして。長旅でお腹も空いてるでしょお? 卵焼きでも食べなぁい?」金「た、たまごやき……ジュルリ……って、釣られないかしら! とにかく、これを読むかしら!」金糸雀はそう叫んで、真紅がしたためた書状を突きつけた。仕方なくそれを読み始める水銀燈。そこには西国から軍勢を差し向ける旨と将軍家を重んじる真紅の心情、水銀燈の軽挙を戒める言葉とが書き連ねてあった。(相変わらずカタイ子ねぇ……そんな奇麗事で、この乱世を制することが出来ると思って?)一瞬そんな本音が口をついて出そうになったが、すぐに振り払った。金「ど、どうかしら? 少しは考えを改めたかしら?」銀「何を勘違いしてるか知らないけど……私は幕府を潰す気なんてないわよぉ?」金「ヘ?」側にいた松永久秀の眉が、ぴくりと動いた。銀「金糸雀も光秀も、安心なさい。私が倒したいのは、上様でも室町幕府でもない……左馬頭義秋、ただ一人よぉ」光秀「しかしながら、足利軍を潰滅させてしまっては、自然幕府も滅びましょう。上様とてあの御気性、御自害に及ぶやも……」銀「そうならないように、貴方たちがいるんじゃなぁい? お馬鹿さぁん」光秀「た、確かにそうでござるが……」金「うえぇっ!? か、カナもかしらぁ!?」銀「当たり前じゃなぁい。このまま軍勢に加わって、私の手足となってもらうわぁ」薔「逃がさない……よ?」金「と、とんだコトになっちゃったかしら……」――永禄九年六月。水銀燈率いる三万人余りの大軍が、津波のように京へと押し寄せた。もはや、その行く手をさえぎるものは何も無い。「あれが水銀燈か……初めて見たときはまだほんの小娘だったが」「でもあの時は本当に頼もしく見えたがねぇ。なにせ、あの三好党をあっという間に蹴散らしたんだから」「そうだったな。まったく、人間変われば変わるもんだ」「おい、あんまりじろじろ見ないほうが……目が合ったら殺されるかもしれないぜ」四年前、三好一党を倒し幕府の盾となるべく上洛した水銀燈が、今度は大軍をもってその幕府を潰そうとしている。かつては好奇と期待の眼差しをもって迎え入れた京の人々が、今や不安と畏怖に身を震わせながら同じ人物を見つめていた。薔薇乙女軍は陣列を崩すことなく粛々と歩を進め、やがて足利幕府の政庁である二条城へと迫った。義輝「とうとう来たか」報告を聞いた将軍・義輝は、静かに息を吐いた。自ら甲冑に身を包み、足利家に代々伝わる宝刀「鬼丸国綱」の柄を握り締め、来るべき決戦の時に備えている。足利軍はおよそ三千。人数の面では薔薇乙女軍とは比べるべくもないうえ、最後の拠り所の二条城は籠城戦に不向きである。くわえて寄せ手の総大将である水銀燈は戦闘力、統率力ともに優れ、その妹たちもそれぞれに能力が高い。義輝が頼みとしていた明智光秀も、今は水銀燈に従って寄せ手の軍勢の中に加わっている。足利軍に勝ち目は万に一つも無いと言ってよかった。義輝「来るべき時が来た、ということか。この日を招いたのも、ひとえに余の不徳の致すところであろう」義秋「何を仰せられます! すべてはあの水銀燈の汚らわしき野心のせいではありませぬか」義輝「しかし、そなたは謀略をもってその秘めたる野心をことさら煽った。余はそれを止めることができなかった……」義秋「い、いや、しかしそれは……」義輝「そなたを責めておるのではない。思えば余は左中将を頼り過ぎた。それがすべての過ちの始まりであったかも知れぬ」水銀燈が上洛してからの日々を、義輝は思い返していた。過ちとは言ったものの、薔薇乙女によって畿内が平定されていくのを見るのは胸躍る心地であった。(そちはどのような激しい戦の時でも、余の前ではいつも微笑を絶やさなかったのう……)一昨年の正月の宴の折、酔いに頬を染めた水銀燈の、艶めいた表情が目に浮かぶ。(思えば不思議な娘であった……水銀燈よ。十も年下であるそちに、余は知らず知らず心惹かれておったのやもしれぬな……)義輝は目を閉じ、その残像の甘美な残り香にしばし浸った。が、振り払った。両眼をかっと見開いた。義輝「義秋。敵が来る前に、そなたは城を出て落ち延びよ」義秋「さ、左様なこと! 兄上を残して落ちるわけには……!」義輝「そなたまでがここで命を落としては、八幡太郎義家公以来の足利氏の血筋が絶える。それだけは避けねばならぬ」義秋「兄上……」日頃は策が多く疑い深く小心な義秋も、この時ばかりは兄の決死の形相に打たれ、熱いものがこみあげた。義輝「もはや幕府の命運もこれまで。だがその前に、左中将……いや、水銀燈に、せめて一太刀浴びせてくれようぞ!」(上様……まさか、この城を私の手で攻める日が来ようとは……)二条城本丸を見上げ、水銀燈が想うは――初めて上洛を果たした、四年前のあの日のこと。居並ぶ武将たち、特に雪華綺晶と薔薇水晶はその胸中を敏感に感じ取っていた。薔「銀ちゃん……」雪「姉上。私たちの敵は、あくまで左馬頭義秋ですわ」銀「わかっているわぁ。そんなコトくらい」その義秋がすでに城を脱出していることを、彼女らは知らない。だが、たとえ知っていたとしても、将軍のいる眼前の城を見過ごすわけにはいかないだろう。望む望まざるを論じる段は過ぎた。もはや、後に退くことはかなわないのだ。銀「各将の配置を決めるわぁ。大手の指揮は私ときらきー、搦手はばらしーと金糸雀と光秀。弾正は後詰として待機して頂戴」光秀「ははっ!」久秀「……はっ」外様である二人の武将の反応は対照的である。京へ近づくにつれ、水銀燈は久秀への警戒感を強めていた。幕府を倒し、名実共に水銀燈が天下人になるべきだという主張を、久秀は一貫して説き続けている。将軍家の血筋と名誉を重んじる光秀が家臣に加わったことで、その考えはかえって加速したようであった。京都までの行軍中も、先の方針を巡って光秀と久秀は衝突を繰り返していた。その久秀に先鋒を任せれば、どのようなことを仕出かすか分からない。銀「立ち塞がる者に容赦は無用よぉ。ただし、潔く降伏する者に乱暴をはたらくことは許さないわぁ」つとめて平静な声で、水銀燈は配下に言い渡した。銀「ところで金糸雀……あっちの方はどんな様子かしらねぇ?」水銀燈にとってのもう一つの懸念――それは西国の軍勢を率いて上洛を目指す真紅の動きであった。金「どうやら、まだ摂津のあたりにいるようかしら。どうやっても二条城の落城までには間に合わないかしら」銀「そう……ありがと」真紅は水銀燈の上洛前に洛中を固め、身を呈して幕府を守ろうとしていたようだが、進軍速度は勢いに乗る水銀燈が勝っていた。(真紅も余計なコトを……この私が、上様の首を取るとでも思っているのかしらねぇ)そして明朝。戦いは始まった。大手攻めの水銀燈、搦手攻めの薔薇水晶は合図により一斉に城門へ襲い掛かる。だが必死を覚悟した足利兵の抵抗に遭い、なかなか門を突破することができない。雪「鉄砲隊、前へ! ……放てっ!!」雪華綺晶が叫んだ直後、大手門に轟音が響き渡った。足利兵A「うぐっ……! む、無念……」足利兵B「かはっ! ぐっ……う、上様ぁ……っ!」鉄砲の一斉射撃の前に、ばたばたと倒れていく幕府兵。その屍を乗り越えつつ、雪華綺晶は開放された城門をくぐり突入していった。(なんだか、心が痛む戦いですわねぇ……)一方、搦手では金糸雀の活躍が際立っていた。配下の忍びを率いて城壁を乗り越え、内部から城方を切り崩したのである。城門は内側から破壊され、薔薇水晶と光秀が城内へと雪崩れ込んでいった。光秀「金糸雀殿、かたじけない!」金「こうなった以上は、もう破れかぶれかしら! 水銀燈を信じて、前に突き進む以外に道は無いかしら!」足利兵C「申し上げます! 敵は早や本丸に迫る勢いにござります!」義輝「そうか……御苦労であった」いったん城門が破られれば、寄せ手の勢いは加速する。城方の善戦もむなしく城内の櫓はほぼ占拠され、すでに落城は時間の問題となっていた。義輝は「鬼丸国綱」の鯉口を切り、その研ぎ澄まされた刃に自らの眼光を映した。義輝「いよいよ最期の刻か。意外と、早いものだな」そのうち、義輝の居室にいくつかの荒々しい足音が近づいてきた。鋭い金属音、轟く悲鳴。義輝はいったん剣を鞘に納め、身をかがめて息を殺した。この部屋に一番に踏み込んできた者を、居合の一撃で斬り捨てるつもりである。だが次の瞬間聞こえてきた声に、その殺気はかき消された。光秀「上様っ! ご無事であらせられまするか!?」義輝「……十兵衛か」ぱちり、と刀を完全に納め、義輝は溜め込んだ息をゆっくりと吐き出した。部屋に入ってきた光秀も血に染まった刀を捨て、義輝の前に跪く。光秀「上様! こたびはかような仕儀とあいなり……この光秀、申し開きもござりませぬ!」義輝「面を上げよ。そちの本意は、余もわかっておるつもりぞ」涙を浮かべて詫びる光秀に、義輝は優しく語りかけた。義輝「そちが左中将に降ったのは、余を助けようと思うてのことであろう。情誼に厚いそちの考えそうなことよ」光秀「う、上様……」義輝「だが、余もまた一個の武人。この期に及んで自分だけ生き残ろうとは思わぬ。余の首を刎ねよ」光秀「上様っ!!」絶叫し、かぶりを振る光秀。義輝「そちに討たれるならば本望ぞ。遠慮はいらぬ。余の首を取り、そちの手柄とせよ」光秀「でっ、出来ませぬ! 左様なこと、この光秀に出来るわけが……」義輝「そうか。ならば……そちを斬らねばならぬな」立ち上がり、すらりと刀を抜く義輝。もとは北条得宗家の重宝であったという銘刀が、青白い光を放って光秀の顔を照らし出した。光秀は、動かない。こうなることも予想し、その時は黙って斬られる覚悟で水銀燈の陣に加わったのであった。義輝「許せ、光秀」光秀「……」銀「上様! お待ちください!」突如、凛とした声が響いた。光秀「水銀燈様!」義輝「左中将……」水銀燈は、いつのまにか光秀の背後に立っていた。黒と銀の甲冑に身を包み、口元にはわずかながら微笑を浮かべている。銀「本当に斬りたいのは、この私……違いまして?」流麗なるその眼差しを一目見て、義輝は懐かしさとも淋しさともつかぬ、奇妙な感情に包まれた。義輝「……」銀「さぁ、この裏切り者を……水銀燈をお斬りください。ただし……私も、容赦は致しませぬ」愛刀「迷鳴」を抜きつれ、八相に構える水銀燈。光秀「水銀燈様!?」その動きを見て、義輝もまた青眼に構え直す。塚原卜伝より奥義伝授を受けた、歴代将軍最強の剣客の肉体が、さながら一本の白刃と化した。義輝「……そなたとは、一度手合わせしてみたかった。よき冥土の土産となろう」光秀は、引き下がった。二人の眼光はすでに殺気を帯び、宙空で何度も交錯しつつ火花を散らしている。(もはや、私には止められぬ。この二人は、剣を交えなければ収まらぬ……)「鬼丸国綱」の雷光のような鋭い輝きと、「迷鳴」の禍々しい妖気のような冥い光。激闘の続く城内の喧騒から切り離されたように、室内の空気は凍りつき、静寂が痛いほどに耳についた。長く、重い、無限にも似た沈黙。大きく息を吸い、水銀燈が間合いを一歩踏み越えた瞬間――二つの影は目にも止まらぬ速さで交錯した。刃がうなり、稲妻のように閃いた。鈍い金属音が光秀の耳に届いた時には、二人はすでに振り向きざまの一撃を同時に放っていた。光秀「……!」片膝を立てて剣を伸ばした水銀燈。義輝の喉元に突きつけられた「迷鳴」の切っ先。義輝の手に握られた「鬼丸国綱」は、空中に斜めに掲げられたまま。義輝「……見事だ」両手を下ろし、全身の力を抜いて立ち尽くす義輝。二人が踏み込んで撃ち合った最初の一撃は、互角であった。しかし、すれ違い、振り向きざまに放った斬撃は、水銀燈の逆袈裟の剣がわずかに速かったのだ。まさに紙一重の勝負であった。銀「上様こそ、流石の御腕……今回は、私の運が良かっただけですわ」水銀燈の顔に、笑みが戻る。が、呼吸の乱れは収まらない。額にはおびただしい量の汗が滴となって浮かび、「剣聖将軍」との一騎討ちの凄まじさを物語っていた。義輝「いや、勝ったのは数々の戦場を切り抜けてきたそちの剣。さ、早ようこの首を刎ねよ。これでそちの望みも果たされよう」銀「……そんなコト、出来るわけ……出来るわけないでしょおっ!!」水銀燈は、いきなり絶叫した。握り締めた刃が、小刻みに震えている。義輝「……?」銀「こうして刃を向けているだけでも、私がどれだけ辛いか……お分かりにはならないでしょうねぇ……」水銀燈は、刀を取り落とした。肩が震え、目には大粒の涙が浮かんでいる。義輝も光秀も、妹たちでさえ目にした事のない、水銀燈の涙であった。銀「上様……貴方に出会ってから、私の野望は霞んでしまった。貴方が名実共に天下人となる日が来るなら、それで良いと……」義輝「……」銀「でも……戦乱の世は、それを許さなかった。義秋の策略、久秀の野心、そして三好、本願寺、織田との戦い…… 合戦の日々は私の秘めた野心を目覚めさせ、周囲もそんな目で私を見るようになった。そして私は、止まれなくなった……」義輝「水銀燈……」銀「貴方を斬ったら、私は私ではなくなってしまう……私は、天下が欲しい。でもそれは私利私欲じゃない、それだけは……」光秀「水銀燈様……」義輝「ようわかった。そちの想い、ようわかったぞ」義輝は、優しく微笑んだ。義輝「だが、こうなったうえは余もこのままでは済まぬ。隠退せねばなるまい」銀「えっ……」義輝「余は将軍職を退く。後のことは万事そちに任そう。そちが望むならば、自ら将軍職に就けば良い」銀「そんな……! 左様なことは、思いもよらぬこと……」義輝「いずれにせよ、これで幕府は幕を下ろすことになろう。この期に及んで幕府を名乗っても、もはや従う者はおるまい……」義輝の決意は固い。今度は光秀が涙を流す番であった。二条城は陥ちた。足利義輝は征夷大将軍の職を辞し、自ら隠居の身となった。ここに足利尊氏以来二百三十年近く続いた室町幕府は事実上滅亡し、代わって水銀燈が洛中の支配者となったのである。その後明智光秀の懇願により、水銀燈は義輝のために山城国内に領地を割き、あれほど憎んでいた義秋の身も安堵することとした。これによって足利家は、細々ながらその命脈を保つことになる。一方、京都へ向かっていた真紅らは摂津国高槻城においてその報に接した。紅「とうとう、間に合わなかったのだわ……」思わず落胆の溜め息を漏らす真紅。藤孝「いや、しかし上様の御命と足利の家名は守られ申した。拙者もひとまずは安堵いたしておりまする」ジ「幕府の終焉も義輝公の意思だっていうしな……まぁ仕方ないだろ」蒼「弾正殿の策略も、巧く抑えたようだしね。さすがは水銀燈だよ」翠「……」真紅と翠星石の表情は、なおも硬い。あくまで守り抜こうとしていた幕府の滅亡に接し、無力感を禁じえない真紅。翠星石は京攻めの際に目立たなかったという松永弾正の動きに、奇妙な胸騒ぎをおぼえていた。――永禄九年七月。水銀燈は朝廷より正四位下参議に叙せられ、公卿に列することとなった。洛内は落ち着きを取り戻し、薔薇乙女家の軍勢も畿内の各所へ移動を始めている。足利に次ぐ新しい世の到来を、京の人々もようやく実感しはじめていた。そんなある日の夜のこと――前将軍・義輝の住む屋敷に、宵闇に紛れて近づく幾つもの影があった。「あの御方も、まだまだ甘い。天下を奪うに将軍や幕府など、いかほどの価値があろうか……」素早い影の動きに目を配りつつ、ほくそえむ一人の男。やがて、屋敷に火の手が上がる。それは京ばかりか畿内全域を混乱に陥れる、巨大な戦乱の火種となるのであった。
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