『誰より好きなのに』 エピローグ
閉ざしたカーテンの向こうから、スズメたちのケンカする声が飛び込んでくる。私はベッドの中で、朦朧としながら、それを聞いていた。 「もう、朝……」よく眠った。夢さえ見ないほどに深く。そもそも、いつ床に就いたっけ?書き物をしていた記憶は、漠然と浮かぶけれど。それから後のことは……。……まあ、いい。これから紡がれる、新たな思い出に比べたら――すべて瑣末なこと。私はベッドを抜け出して、勢いよく、カーテンを開いた。窓辺にたむろしていたスズメたちが、驚いて、一斉に飛び立った。よく晴れてる。防波堤の向こう、遙かな沖合まで、すっかり見渡せる。1日の始まりとしては、申し分ない。 顔を洗い、着替えてから、お母さまの人形に、朝の挨拶をする。端から見たら、アタマの弱い子だって思われるだろうが、別に構わない。そうすることで、私は少なからず、安らぎを覚えているのだから。お父さまが、どういう意図で、この人形を作ったのかは判らないけど……今は感謝していた。ベーコンエッグとトーストの軽い朝食を摂るのは、そのあと。食器その他の台所まわりを片づけて、鏡台に向かう。髪を梳りながら、壁掛け時計と自分の写し身を交互に見つめ、「よし」と頷く。いつもどおり。この生活パターンにも、すっかり慣れたものだ。 身だしなみが済んだら、次は屋内外の掃除。サンダルをつっかけ、家の前を箒で掃いていると。 「おはよ」お隣の、めぐさんに声を掛けられた。私も手を止めて、会釈を返す。 「おはようございます」 「晴れてよかったわね。今日でしょ?」 「はい。午後になると思いますけど」あの嵐の夜から、早1ヶ月――お父さまは、今日、退院してくる。経過は良好だった。危惧されていた後遺症はなく、仕事にも、差し支えない。ただ、割れた骨を繋ぐ金具は入ったままなので、いずれ手術で外さないといけないけれど。それは、もう少し先のことになる。 「迎えに来なくてもいいだなんて、彼らしいわね」 「職人気質って言うんでしょうか……偏屈なところは、ありますね」 「もう大丈夫だってアピールしたいのよ、きっと」実際、お父さまは起きあがれるようになると、すぐにリハビリを始めた。私にも、見舞いは毎日じゃなくていいと、言い出すほどで。まあ、それでも私が訪れると、すごく嬉しそうな顔をしていたけれど。「ところで」めぐさんが話題を転じた。「原稿の方は、進んでる?」 「それなりに。順調では、ないですけど」 私は相槌を打って、昨夜までの進捗を、思い浮かべた。独りで過ごす夜の慰みに始めた、物語の執筆状況を。 キッカケは、白崎さんの家で夜食をご馳走になった、あの晩だ。初めて口にしたワインに酔って、お父さまの作業机で眠ってしまった、あのとき――私は夢うつつに、囁きかける声を聞いた。今なら解る。あれは、アリスが――もう1人の私が、話しかけてきたのだ、と。あの瞬間まで、『きらきしょー』が、アリスだと思っていた。でも、それは私の考え違い。《九秒前の白》で会った、真紅の姿をした女性こそが、本当のアリスだったのだ。『きらきしょー』は、見ることができなかった妹に、古いイメージを投影しただけの人形。言うなれば、私の、妄想の産物に過ぎなかった。なぜ、アリスが真紅へと変貌を遂げたのか。それは、きっと……私の、お母さまに対する羨望が、そうさせたに違いない。彼女のような、至高の存在になりたいと強く願う気持ちが、私の別人格さえも変えた。……そういうことなのだろう。以来、私は市販の大学ノートに、物語を書き始めた。『きらきしょー』という名の、女の子の物語を。なんとなく、夢見がちな私には相応しいと……そして、そうすることが、アリスを含めた私自身の慰めになると、思えたのだ。今では、創作の時間が、日常生活の時間を浸蝕しつつあった。 「いつか、出版とか、されるといいわね」めぐさんの声に、我に返る。私は取り繕うように笑って、また相槌を打った。 「そうですね。いつか……誰かに、ステキなイラストを描いてもらって……」 「イラスト? 絵本とか、童話なの?」 「……さあ。どういうカタチに収まるのかは、私にも解りませんけど」事実、私のアタマの中には、終わりまでの展望など描かれていない。その都度、ノートを開く度に、世界が綴られていくのだ。いわば、私もまた旅人――『きらきしょー』の同伴者だった。そう告げると、めぐさんは、ふぅん? と。小首を傾げ、興味深げに、瞳を輝かせた。 「いいわね、そういうの。私、好きよ」 「めぐさんも、創作に携わったことが?」 「……んー。長く入院してた時期があって、その頃に、ちょっとね。 黒い天使の話なんだけど」 「その物語は、今も?」 「ううん。退院してから、それっきりね。現実の忙しなさに、追い立てられちゃって。 ほら、誰だったかの歌にもあったでしょ。夢みる少女じゃいられない……ってね」 「それでも……めぐさんは、幸せ?」問いかけると、彼女は一瞬、キョトンとして。また一瞬の後に、破顔していた。「そうね。幸せよ。彼も、とても良くしてくれるし」 そんな日が、いつか私にも、訪れるのだろうか。現実の世界に喜びと幸せを見つけて、夢は夢と割り切るように、なるのだろうか。そのとき、アリスや、きらきーは――あの《九秒前の白》は、どうなってしまうのかしら。弾けて、泡と消えてしまうのならば、それは、とても悲しいこと。 『ここには、私たちしか居ないわ。私たちしか入れないのよ』 『貴女は生きて、歩き続けなさい。そして、此処を守るのだわ』あの言葉――あれは、アリスの切望だったのかも知れない。私が物語を綴りだしたのも、彼女の意志が、強く介在しているのかも。ならば、私は書き続けよう。ずっと……いつまでだって。もちろん、この世界での幸福も、しっかり手に入れるけどね。 「めぐさん。私、そろそろ」 「あ……ごめんね、引き留めちゃって。 それじゃ、槐くんが戻ったら、今夜はウチで退院祝いしましょうね」 「はい。ありがとう」私たちは微笑み合って、互いに手を振った。 「さて、と。次は、お店の掃除しなきゃ」独りごちて、家に入り、店の窓を開け放つ。毎日、掃除をしているけれど、いつの間にか埃は積もっているもので……ショーケースの上を、はたきがけすると、舞い上がった塵で、鼻がムズムズした。2、3発、クシャミすると、今度は鼻が垂れてくるから、始末に負えない。ティッシュで鼻をかんでから、ハンカチを対角線に畳んで、マスク代わりにした。そして、ショーケースを拭こうと、雑巾を手にした、そのとき。店の前で、甲高い軋めきが生じた。車のブレーキノイズだ。それが意味するところを察して、私は雑巾を放りだすと、ドアに駆け寄った。果たして、予感は的中。午後になると、思っていたのに――停車したタクシーから、支払いを済ませたお父さまが、ボストンバッグを抱えて降りてくる。私は気持ちを抑えきれずに、ドアをくぐり、彼の前に立った。すると…… 「なんだい、その古いギャングみたいな格好は?」いきなり大笑いされた。私は慌てて、口元を覆っていたハンカチを、襟首まで降ろした。 「だって……お掃除中……だったから」 「――そうか。いろいろと、苦労をかけたね」 「ううん。私こそ……いろいろと、ごめんなさい」本当は、もっと言いたいことがあったけれど。声が詰まって、思うことが話せなくて。 「いいんだよ」どさり――と。お父さまは、ボストンバッグを脇に落として、私を抱きしめてくれた。 「もう、いいんだ」 「…………うん。ありがとう」私は、爪先立ちをして、やっとの想いで、その広い胸に頬を寄せた。 「だいすき」 「ああ、僕もだよ」それは、父親として、娘を好きだと言ったのだろう。だけど……やっぱり、私は――この想いを、止められない。だから、今、伝えようと思った。 「あの、ね」 「うん?」 「私…………どうしても、伝えたいことが……あるの」
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
1文字以上入力してください
本文は少なくとも1文字以上必要です。
1文字以上入力してください。