『パステル』 -8-
双子の姉妹に連れられ、訪れた山腹の茶畑――そこは、雛苺の予想を遙かに超えて広く、また風光明媚な世界だった。 きりりと澄んだ空気の向こう。冬晴れの高い空と、山の斜面に広がる茶樹の緑。その取り合わせは、さぞや写真うつりも良かろう。雛苺の素人目にさえ、そう思わせるものがあった。 彼女たちを乗せてきた軽トラックは、茶畑に横付けされている。その車内で、雛苺は冷気に指がかじかむのも構わず窓を全開にして、一心不乱にスケッチをしていた。 「おチビ――っ!」 スケッチブックに走らせていた鉛筆を止めて、雛苺は顔を上げた。よく通る声で呼んだのは、双子の姉の、翠星石。この広い茶畑でも、彼女の声量なら、普通に会話ができるに違いない。 見れば、灌木の列を間に挟んで、姉妹がゆっくりと歩いてくる。蒼星石が手を振っていたから、雛苺もトラックの助手席から降りて、手を降り返した。 「お帰りなさいなのっ。ふたりとも、中休み?」「はぁ? おめーは、ナニ言ってるですか」 雛苺としては、至って真面目に訊いたのだが、翠星石に呆れられてしまった。蒼星石が、姉の言葉の足りなさを補うように、腕時計を掲げて微笑んだ。 「もう、お昼だよ。絵を描くのに夢中で、気がつかなかったのかい?」 そう言われて、雛苺も、体調の変化を思い出した。胃の辺りが心許ない。冬の乾燥した空気を吸い続けていたせいか、喉もヒリヒリする。 「おにぎり握ってあるですよ。おばば直伝の味ですぅ」「わーいっ! ヒナ、おなかペコペコなのよー」「それじゃあ、休憩所に行こうか」「近くですから、歩いていくですぅ」 3人は軽トラックをそのままに、駐車場へと続く未舗装の農道を歩きだした。 駐車場を横切り、細い林道を渡ってしまえば、作業員のための休憩所がある。外観は、避暑地にありそうな、ペンションばりの二階建て。ガスはプロパンだが、上下水道は整備されていた。もちろん、トイレも水洗だし、テレビや携帯電話も、受信可能ときている。 「山の中なのに、すっごい設備なのね。これなら普通に生活できちゃうのー」「ったりめーです。その目的で、作られてるですから」「ここは宿泊施設でもあるんだよ。1ヶ月に1度、持ち回りで夜勤の週があるんだ」 蒼星石は、コトも無げに言った。訊けば、翠星石たちの勤務形態は、基本的に週休二日なのだけれど、2名が常駐するように休暇を割り振るため、カレンダーどおりには休めないと言う。しかも、夜勤は1人きりで6日勤務。5人で持ち回って30日になる計算だ。 「でも、どうして夜勤なんて必要なの?」 翠星石お手製おにぎりを頬張りながら、雛苺が疑問を口にする。 それについて、翠星石の語るには、獣害や人害、自然災害から茶樹を護るためだとか。獣害とは、この山に棲むシカやイノシシによる食害。人害とは、茶葉の盗難や、産廃の不法投棄による土壌汚染など。自然災害は、主に風雨。この季節だと、霜による若芽への被害も警戒しているらしい。 翠星石は、籐編みのバスケットから魔法ビンを取り出すと、それぞれのカップに深紅の液体を注いだ。立ちのぼる湯気とともに、得も言えない薫香が、辺りに広がる。その香りには、雛苺も憶えがあった。ここで栽培されている『ローザミスティカ』の香りだ。 「……ふぅ。気持ちが落ち着くですぅ」「ホントに、いい香りなの。これって、翠星石たちが生みだした香りなのね」「私たちの手柄じゃねーですよ」 双子の姉妹は、ちらと顔を見合わせて、小さく頷いた。 「この紅茶は、真紅と銀ちゃんの夢の結晶ですから」「ボクたちは、彼女たちの手伝いをしているだけさ」 彼女たちは言う。それでも……たとえ手伝いに過ぎなくても、この仕事を誇りに思っているのだ、と。だから、夜勤だって辛いと思ったことは、一度としてない――と。 「だけど、女の子ひとりで夜勤なんて、危なくないのー?」「それについては、真紅も案じてるところでね。 近く、ここに住み込みで常駐できる人を、雇う予定らしいよ」「雇用条件が、20歳から40歳くらいまでの夫婦でしたねぇ、確か」 随分と年齢幅が広いが、その条件なら、案外すぐに希望者を見つけられるかも知れない。リストラで再雇用もままならない中年の夫婦なら、応募するのではないか。 「さて、と――」 蒼星石は、紅茶を飲み干して、腕時計に目を留めた。 「ボクたちは、夕方まで仕事していくけど……キミは、どうするんだい?」「うっと……。もう下書きはできたから、戻ろうかと思ってるのよ」「それなら、麓まで送ってやるですぅ」「あ、ううん。2人は、お仕事しててなの。ヒナ、歩いて帰りたいから」「でも、だいぶ距離あるよ?」「平気なのよ。まだ早いし、一本道だもの」 彼女たちの気遣いと、案内してくれたことに謝意を述べて、雛苺は茶畑を後にした。雨の心配もなさそうだし、のんびりと、森林浴でもしながら降りればいい。そんなつもりだった。 足音が、とても大きく聞こえる。ここには、街の雑踏も、人々の賑わいも、行き交う車やバイクの騒音もない。 頭上からは、風に揺れる葉擦れが降ってくる。足元からは、遠く、沢の水音が湧いてくる。ささやかな森の息吹は、都会の雑音みたいに不快ではなく、とても心地がよかった。 こんなところで暮らすのも、悪くないかも。翠星石たちと茶畑を見守りつつ、空いた時間は絵を描いたり、お菓子づくりをしたり。そんな妄想のヴィジュアルを脳裏に広げていると、不意に――ひとつの選択肢が、雛苺の中で生まれた。 ――もしも、誰かと結婚したら。あの雇用条件を満たせたとしたら、真紅は雇ってくれるのかしら? 愚にもつかない思いつきだ。雛苺は自嘲した。そもそも、恋人さえいないと言うのに。 「んー。恋人……かぁ。考えてみたら、男の子の友だちって少ないのよー」 パッと思い浮かぶのは、幼なじみの桜田ジュンくらい。あとは、彼の友人の笹塚くんとか、ベジータとか。だが、彼らとは親しいと言っても、友人以上、恋人未満の間柄でしかない。政略結婚じゃあるまいし、雇用条件を得るためだけに所帯を持つなんて、絶対に後悔する。 ならば……いっそ、あのパステルで自分のウェディング予想図でも描いてしまおうか。雛苺は一瞬、本気で、そんなことを考えた。新郎の顔は、理想の男性像を描けばいい。あのパステルの効果が本物ならば、それさえも現実になるはずだ。 けれど結局、馬鹿げているとの結論に行き着いて、肩を落とした。絵に描いた餅、とは違うが、紛い物という点では、絵に描いた幸福も同じこと。幸せそうに見えるというだけで、所詮、現実に幸せなワケではないのだから。 しばらく歩くと、林道は下りながら、急なカーブにさしかかった。真新しいガードレールが、嫌でも雛苺の目を惹く。真紅が事故を起こした場所だ。なんとなく、忌まわしい雰囲気に、ざわざわと胸が騒いで……雛苺は顔を背け、足早に、その場を通り過ぎようとした。 ――が、そんな彼女を邪するように、車が1台、徐行しながら林道を登ってきた。やたらと平べったくて、異様な風貌をしたスポーツタイプ・クーペだ。雛苺は知らなかったが、それは『オロチ』というマシンだった。完全受注生産のため、納期までが長く、価格も一千万円はする代物である。 林道は、軽トラックでさえ、窮屈に感じるほどの道幅である。そこに幅の広い車が来れば、どうなるのかは、自明の理というもので。 「うゆ……これじゃ通れないなの」 崖っぷちの路肩に寄って、通過まちをする雛苺の2mほど手前で、その車は停まった。運転席のドアがスライドアップして――意外にも、うら若い女の子が降りてきた。その娘は、白銀っぽい艶やかな長い髪の持ち主で。一瞬、雛苺は、もしや水銀燈ではないのかと息を呑んだ。 しかし、違う。真紅の家で見せてもらった写真の水銀燈とは、まったくの別人だった。左の眼を、紫色のアイパッチで覆った、押し迫るような威圧感を放つ娘だ。 「こんにちは」 言って、彼女は、棒立ちする雛苺の警戒心を解こうとしてか、笑い掛けてきた。だが、眼帯の威圧感ゆえに、逆効果。無駄に『なんだか怖そうな人』という印象を、植え付けただけだった。 「ねえ……貴女。ちょっと、道を教えて。店を……探しているの」「う、と。あ、あのね。ヒナも、この辺のことは、あんまり詳しくないなの。 でも、この先には、お店なんて無いのよ」 眼帯の女の子は、ぽりぽりとアタマを掻いて。「あちゃ……困った」そう言いながらも、たいして困ってそうもない風情に、雛苺は笑いを誘われた。見た目が怖そうなだけで、根は陽気な人らしい。 「どういうお店なのー? 名前は分かってるの?」 雛苺は、あまり力になれないことは承知で、訊ねてみた。いざとなったら、この娘の車で茶畑まで引き返し、翠星石たちに訊くつもりで。……が、現実には、そんな必要すらなかった。 「紅茶を売ってる。確か……ジェイソン……とか」「もしかして、ジョナサン?」「あ……それよ、それ。ジョンソン」「だから、ジョナサンだってばっ。ワザと間違えてるんじゃないのー」「ソンナコト、ナイヨ?」 からかっているのか、それとも、大まじめに間違っているのか。雛苺には判断のしようもなかったが、ここで会ったも他生の縁だ。 「よかったら、ヒナが案内してあげるのよ?」「ホント? じゃあ……乗って」 眼帯娘は、細い顎をしゃくって、雛苺を助手席へと促す。そして、雛苺がシートに収まり、シートベルトを装着するや―― 「いくよ」 短く言って、彼女はアクセルを踏み込み、車を急発進させた。こんな細く曲がりくねった林道で、時速70kmオーバー。雛苺は肝を潰した。 「びゃっ?! は、は、早すぎなのーっ! 落ちちゃうーっ!」 恐怖のあまり蒼白となり、慌てて停めようとするが、すべて無駄な足掻き。 「ふ…………くふふっ」「ふきゃ――っ?!」 眼帯娘は壊れた笑みを浮かべながら、愛車を爆走させ続ける。あっと言う間に、茶畑の駐車場に着いた途端、いきなりサイドターン。スリップ音を聞きつけ、顔を上げた双子姉妹に砂煙を浴びせて、今度は来た道を引き返す。 とんでもない運転だ。ハリウッド映画じゃあるまいし、なんて車に乗ってしまったのか。雛苺は自分の迂闊さを呪い、四肢を突っ張って、ただただ対向車の来ないことを祈っていた。 ~ ~ ~ 喫茶店ジョナサンに着いたとき、雛苺は抜け殻のようになっていた。腰も抜けてしまって、すぐには、車から降りられなかった。まず間違いなく、数年分は寿命が縮んだろう。 「……平気?」「ちょっとチビった……じゃなくて。だ、大丈夫なのよー。へへぇ~」 強がって作り笑うものの、膝まで笑っていては締まらない。仕方なく、眼帯娘に引きずり出されるかたちで、車を降りた。 「あ、ありがとなの。えぇっと――」「薔薇水晶……私の名前」 貴女は? と訊かれ、雛苺も名乗ったついでに、話題を振った。 「薔薇水晶は、どうしてジョナサンに?」「紅茶を買いに来たの。お父さまに……飲ませてあげたくて」「へえぇー。お父さま想いなのね」「ええ。大好き」 言って、薔薇水晶は頬を染める。その仕種に、雛苺は親子の愛情というより、恋慕に近いものを感じた。いったい、なにが彼女に、そこまで父親を慕わせているのか。 試みに水を向けてみると、薔薇水晶は語った。彼女が小学生にあがる直前に、母親が亡くなったこと。それからは、父親が男手ひとつで、今日まで育ててくれたのだ、と。 「小さな頃から、私……家事とか、お料理とか……ずっとお手伝いしてきた。 友だちと遊ぶ時間もなくて…………人づきあいが苦手になっちゃったけど…… でも、そのことで、お父さまを責めるつもりなんて、ない。 お父さまのお役に立てることが……私の生き甲斐だから」「一途なのね」 父1人、娘1人。様々なものを共有し、互いを支え合いながら、生きてきた。そういった環境が特別な感情を育むのも、ある意味、当然と言えよう。どこかの誰かが決めた倫理なんてルールでは、決して引きちぎれない絆だってあるのだ。 まるで、長年連れ添った夫婦みたい。雛苺は、ふと頭に浮かんだ感想に、ハッとした。あの茶畑の休憩所に、住み込みで働いてくれる人を、真紅は探していた―― 夫婦という条項には反するが、薔薇水晶の親子では、どうだろう?脈がありそうなら、真紅に引き合わせてみるのも、いいかも知れない。 「ね、薔薇水晶のお父さまって、どんな仕事してるなの?」「人形師。その業界では有名」「うゅ……ごめんなさい。ヒナ、よく知らないなの。お仕事は忙しい?」「かなり忙しい。海外で何泊かすることも……よくある。 私も、たまに出張のお供して……お手伝いしてるの」 そういう状況では、とても住み込みの管理人など務まるまい。雛苺は諦めて、薔薇水晶を店内へと誘った。 「いらっしゃいませかしら~!」 ドアを開けるや、耳を右から左へ突き抜けるほどの、元気のいい声が出迎えた。あの、カウボーイ風の制服に身を包んだ金糸雀が、トレイ片手に歩いてくる。しっかりとした足取り。今朝方のローテンションが、ウソのようだった。 「あら、雛苺。早速、お友だちにも、この店を紹介してくれたのかしら?」「違うの。この子がジョナサンを探してて、道に迷ってたから、案内してあげたのよ」「そうだったの。ま、理由はどうあれ、新しいお客さんは大歓迎かしら。 駆けつけ三杯じゃないけど、お茶はいかが?」「折角だから、ヒナは寄ってくのよー。薔薇水晶は、どうする?」「じゃあ……私も」「まいど~! 2名様ごあんなーい、かしら」 なかなかに客引きが巧い。あるいは、自分のペースに引き込むのが巧い、と言うべきか。名は体を表す――と言うが、金糸雀は、人を寄せる歌を謡えるようだ。 しばし、雛苺たちは紅茶とお喋りを楽しみ、席を立った。薔薇水晶は、レジの隣にある販売コーナーで、本来の目的だった紅茶を選んだ。 このとき初めて雛苺も知ったのだが、紅茶『ローザミスティカ』には、発酵の度合いによって、7種類の番号が付けられていた。金糸雀の説明によれば、店で出している紅茶は、味と香りに定評のある5番だと言う。結局、薔薇水晶は85g入りの缶を、それぞれ2缶ずつ買った。 「やっと……手に入れた。ローザミスティカ……お父さまのために」「インターネットで通販もしてるから、そっちのご利用も、よろしくかしら!」「……それだと、価値がない。苦労して手に入れるから……価値があるの」 そんな彼女のこだわりも、偏に、愛情の表れなのだろう。楽して得た物を、想いの代名詞にするなど、プライドが許さないのだ。きっと、バレンタインデーのチョコレートや、誕生日のケーキも、自作しているに違いない。 「あの……今日は、ありがと」 店を出たところで、薔薇水晶が、消え入りそうな呟きを投げかけてきた。「え?」と、雛苺が振り向くと、彼女は気恥ずかしげに顔を逸らして、続けた。 「私、友だちが少ないから……こうして、お茶するのって……滅多にない。 だから……とっても、楽しかった」「ヒナも、楽しかったのよ。ドライブは、ちょっと怖かったけど」 雛苺の陽気な声が、再び、薔薇水晶を振り向かせる。 「ヒナでよければ、お茶ぐらい、いつでも付き合うなの」「ホント? 友だちに、なってくれる?」「うい! メアド交換する?」「あ……うんっ」 携帯電話を操作する薔薇水晶は、本当に嬉しそうだった。 「いつでもメールしてなの。それじゃ、また――」「あっ……待って」「うよ?」 別れようと思った矢先に呼び止められて、雛苺が怪訝そうに振り返る。その先では、なにやら思い詰めた感じの薔薇水晶が、じっと雛苺を見つめていた。 「もし、よかったら……ウチに来ない?」「今から?」「お父さまに、紹介したいの……友だちだから。ダメ……かな」 明日は、月曜日。アルバイトに行かなければならない。だが、次に放たれたセリフが、雛苺に『ノン』と言うことを躊躇わせた。 「お姉ちゃんにも……会って欲しいし」 一人っ子ではなかったのか。訊ねようとした雛苺を制して、薔薇水晶が「この人よ」と、携帯電話を突き出す。 小さなディスプレイの中で、ひとりの女性が、優しい微笑みを浮かべていた。陽光に輝くロングヘアーは、美しく鮮やかな銀色。雛苺は憑かれたように、その緋色の瞳に魅入っていた。 -to be continued-
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