『孤独の中の神の祝福』 中編
訊けば、雪華綺晶は私と同じ歳だという。彼女の落ち着いた雰囲気から、てっきり私より上だと思ってたけれど。それとも、まさか、私が子供っぽいだけとかじゃ……ないわよね。私たちは木陰の芝生に場所を移して、隣り合わせに腰を降ろした。ヤブ蚊が出るかと危ぶんだけれど、ここには幸い、いないようね。よかった。これなら、のんびりと話ができそう。 「あ、そうそう。ねえ、きらきー」 「きらきー?」 「言ってたでしょ、好きに呼んでもいいって。 だから、あなたは『天使きらきー』に決定!」 「……はあ。解りましたわ。よく分かりませんけど」雪華綺晶は、キョトンとした面持ちのまま、頷いた。そして、仕切りなおしとばかりに「ところで――」と、切り出す。 「初めに、なにか仰りかけてましたわね」 「あぁ、そうだったわ。ちょっと、教えてもらいたかったのよ。 あなたが歌ってた曲、なんていうの? 英語……じゃないわよね?」 「シューベルトの『アヴェ・マリア』ですわ。歌詞は、ラテン語で。 数あるアヴェ・マリアの中でも、特に知られた曲でしょうね」 「ゴメン、知らなかった。クラシックって、あんまり詳しくないから」 「でも、聴いたことはあるでしょう? テレビCMに、よく使われるし。 映画『エクソシスト』でも使われてましたのよ」それなら、見た憶えがある。と言っても、うろ覚えなんだけど。悪魔に憑かれた子供が、ベッドの上で両腕を広げ、歌っていたような……。まあ、いいか。いまは映画の話よりも、雪華綺晶のことを知りたいから。 「また、聴かせてくれる?」 「ええ。めぐのリクエストならば、いつでも」嬉しいことを言ってくれる。やっぱり、この娘は私の願いを叶えてくれる天使だわ。そうよ。あなたは、孤独だった私に神が与えてくれた、私だけの天使。 「ところで、きらきーは、いつから入院していたの? 私、随分と長くここに居るけれど、あなたのこと、今日まで知らなかった」 「それは当然でしょう。だって、入院したのは今日ですもの。 ――近々、手術をするんです。この、右目の」言って、彼女は白薔薇の眼帯を指差す。その声は、重たく沈んでいた。不安……なのかな。やっぱり怖いわよね。自分の身体を、他人任せにするのって。目の手術となれば、顔や頭部にメスを入れるかも知れないし……傷が残ったりとか。ああ、そうか。だから、私のところに来たのね。誰かとお喋りして、不安を紛らすために。 「すぐに、治りそう?」 「……いいえ。分かってるんです。自分の身体だから。 治らないものは、治らない――って」あ、それ、私と同じ考えよ。同志を見つけた喜びから、つい笑い出しそうになるのを、私はグッと堪えた。だって、笑うことが罪深く思えるほど、雪華綺晶は悲しい顔をしていたから。 「治らないと解っていながら、それでも手術を受けるの?」 「私の大切な人たちが、それを望んでいるんですもの」彼女の一言が、私のココロの片隅に、嫉妬の火種を植えつけた。この娘を大切に想っているのは、私だけじゃない。そんなの当たり前だ。雪華綺晶には、包み込んでくれる温かい家族がいる。私なんかと違って、独りじゃないのよね。 「あの――私、なにか気に障ること言いました?」声に振り返ると、心配そうに見つめる雪華綺晶の顔があった。私は微笑んで、取り繕う。なんでもないわ、と。むりやり作った笑みだったから、相当ぎこちなかったハズだけど。 「実はね、私も手術の順番待ちなのよ。ここの……ね」 「左胸…………乳ガン?」 「違うってば。心臓よ」故意にボケたのか、素で間違ったのかは判らない。でも、雪華綺晶のお陰で、私は素直な笑みを取り戻せた。 「私の心臓は、生まれたときから欠陥品なの。移植でしか、治る見込みがないって。 その手術が成功したところで、拒絶反応がいつ起きるか判らないから、 結局――病院とは縁を切れないワケよね。生きている間は、ずぅっと」それを思えば憂鬱だ。死ぬと決まっているならば、焦らさないで欲しい。いっそ、一瞬で燃え尽きて、真っ白な灰になれたらいいのに。そうしたら、私の身体は風でちりぢりになって、どこへでも飛んでゆけるから。 「ねえ、きらきー。あなた、本は読む?」 「少しは。目が疲れてしまうので、長時間つづけては無理ですけど」 雪華綺晶は口で答えながら、同時に、琥珀色の瞳で問いかけてくる。どうして、そんなコトを訊くのか……と。 「ずっと前だけど、暇つぶしに読んでた小説にね、こう書いてあったのよ。 未来は既に決まっていて、なるようにしか、ならないんだって」 「神様のレシピ?」 「そうそう! それよ。なぁんだ、あなたも読んでたのね」 「偶然ですわね」他愛ないこと。ただ、同じ本を読んでいただけのこと。冷静に考えれば、たいして面白くもない。それなのに、私たちは顔を合わせて、自然に笑い合っていた。 「ねえ、でも、それってとても文学的で、美しいと思わない?」 「そうでしょうか?」 「私は、そう考えてるわ。この状況も結構、気に入ってるの。 治らないものは、治らない。なるようにしか、ならない。 それなのに、漫然と何十年も生き続けるなんて、私はイヤ。 一瞬だけ強く輝いて……潔く、パッと消えちゃいたいわ」 「本心ですの、それ?」雪華綺晶の口元には、相変わらず、笑みが湛えられている。けれど、返してくる口調は硬く、裏に憤りを隠していた。 「めぐ……私には貴女が、自棄になっているだけに見えます」 「な、なに言って――」 「では、なぜ最初から諦めてしまうの? 神様のレシピ? なるようにしか、ならない? 貴女はただ、他人の言葉を盾にとって、逃げているだけ」違う。私は私なりに、前向きに生きている。向かっている先に、たまたま死があるだけであって、死を逃げ道にしてるワケじゃない。だいたい、それを言ったら手術してまで生き延びるほうが、死から逃げてるだけだわ。そう反駁すると、雪華綺晶は言葉を呑み込み、溜息を吐いた。 「――詭弁。ですが結局、どちらでもないのかも知れませんわね。 主観の相違が呼び名を変えているだけで、物事の本質は、なにも変わらない。 でも、やはり私は……めぐの生き方は、間違っていると思います」面と向かって信念を否定されれば、誰だって癪に障るというもので。私もご多分に漏れず、腹立ち紛れに顔を背けた。……が、すぐに雪華綺晶の両手に頬を挟み込まれて、グイと向き直らされる。 「お聞きなさい、めぐ。この世界は決して、魂の牢獄などでは、ありません。 神様という看守がレシピどおりに作ったエサを、与えられるまま貪る場所ではないの。 自分たちの摂る食事は、自分たちでメニューを決めて、準備する自由がある。 なるようにしか、ならない……って、裏を返せば『為せば成る』ということよ」 「でも、あなただって、治らないものは治らないと諦めてたじゃない」 「確かに。でも、元どおりになることと、治ることは、必ずしも同じではないのです」私には、雪華綺晶の言っていることが解らない。こういう禅問答みたいなのって嫌いだわ。熱が出そう。額に手を当てて、げんなりして見せると、雪華綺晶は、ころころと笑った。でも、小馬鹿にするような、嫌味な嗤いではなく……本当に愉しそうな、こっちまで楽しくなるような笑い声だった。つられて、私も笑い出す。おなかの底から、楽しい気持ちが噴き出してくる。なんでだろう? よく解らない。解らないんだけど、それがまた可笑しかった。 ~ ~ ~雪華綺晶と知り合ってから、私は変わった……らしい。と言うのも、あまり自覚がないからだけど。他の入院患者さん、看護士さん、会う人みんな、機嫌よさそうだねと言う。私、いままで根暗だった? そりゃまあ、以前は日がな一日、独りで空ばかり眺めてたけど。たった1日2日で、人の印象って変わるモノなのかしらん。 「どうかした?」右隣りに座る雪華綺晶が、親しげに、私の横顔を覗き込んでくる。ここ数日、時間さえあれば、私たちは木陰の芝生でお喋りをしていた。いつの間にか、ここが2人の待ち合わせ場所になってた。考えてみたら、同い年の子と1日の大半を過ごすのって、久しぶり。病状が悪化して、入院を余儀なくされたのが、小学生の頃だから――かれこれ7年ぶり? ううん……もっとかな? 忘れちゃった。 「なんでもなーい。それより、きらきー。明日なのよね、あなたの手術」 「ええ。正直、ちょっと怖いです」 「ふぅん。あなたって結構、不敵というか、怖いモノ無しって感じだけど」 「私だって、女の子ですもの。虚勢を張り続けられるほど、強くない」沈んだ声で、そんな言い方をされたら、二の句が継げなくなってしまう。私が黙っていることで、雪華綺晶も、黙ったままで。埒のあかない時間が、無駄に過ぎてゆく。 埒のあかない、無駄な時間。ココロに、その言葉が谺する。それって、私の人生そのものじゃないの?普通に暮らすことも、死ぬこともできずに……いつまで私、ここにいなきゃいけないの?急に、胸がムカムカして、吐き気がこみ上げてきた。いつもの発作とは違う。でも、とんでもなく気持ち悪いのは同じ。心臓はメチャクチャなリズムを刻み、耳の奥で不愉快な旋律が奏でられる。 「ど、どうしたの?! めぐ! 顔色が悪いわ。気分が優れないの?」雪華綺晶が、心配して呼びかけてくれてるのに、返事をする余裕もない。ぎゅぅっと左胸を押さえて、抗う。けれど、遠退いてゆく意識を捕まえることは、できなくて……目の前の景色が、世界のすべてが、回る。ぐるぐると、廻る。 「めぐっ! めぐっ! 待ってなさい、誰か呼んできますわ!」肩を支えてくれていた腕が離れて、足音が遠ざかる。行かないで。そう叫んだけれど、したつもりになっただけで、おしまい。頬を刺す芝生の感触と、青臭い草の香と、土の臭い。私の周りには、それしかない。 私……また…………独りぼっち。 ――歌が聞こえる。誰かが、手を握ってくれてる。 ――おばあちゃん? ――違う。しわしわの手じゃない。すべすべで、柔らかくて、温かい手。 ――それに、この歌は……。真っ白な世界を漂っていた私の意識が、なにかに引っかかった。それは私の魂と、意識の器が、ハーネスで結ばれた瞬間だったのかも知れない。お母さんと赤ちゃんが、へその緒で繋がってるみたいに――目を醒ますと、私は見慣れた空間に居た。もう何年も暮らしてきた病室。使い続けてきたベッドと枕。ずっと空を眺めるだけだった大きな窓からは、仄かな残照が射し込んでいる。私にとっては、いつもどおりの、見飽きた景色だった。狼狽えた雪華綺晶の声を聞いたことは、なんとか憶えている。駆け出してゆく足音に、待ってと言おうとしたことも。そこから先の記憶は、すっぽりと抜け落ちていた。もしかしたら、まだ夢の途中なのかな……なんて、思ったりする。でも、これが夢ではない証拠も、ちゃんとある。私の手を包み込んでいる、温もり。私のために歌ってくれていた唇は、いま、圧し殺した嗚咽を漏らしていた。 「ずっと付き添って……歌っててくれたのね。 夢の中でも、聞こえてたわ。あなたの歌う『アヴェ・マリア』が」あなたは、やっぱり私の天使よ。そう告げると、雪華綺晶は泣き顔を赤らめて、ふるふると頭を振った。 「私は、天使になんか、なれない」 「じゃあ、今からなってよ。私の……私だけの天使に」 「なったところで、奇跡なんか起こせませんって」 「そばに居てくれるだけで良いのよ。お喋りしたり、歌とか歌ったり――」 「それは天使ではなく、友だちの役目ではなくて?」呼び方なんて、どうでもいいの。あなたは私に、大切なモノを与えてくれて、大切なコトを思い出させてくれる。その事実こそ――2人が出会えた奇跡こそが、偽りない本質なのだから。 誰かはソレを、絆とも呼ぶでしょうけど。私は、雪華綺晶の手をギュッと握り返して、言う。 「まあ、とりあえず。あなたは涙を拭いて、鼻をかむべきだと思うの」 「……でしたら、手を放してくださいよぉ」ごもっとも。誠に失礼いたしました。私が苦笑しながら手を放すと、彼女は唇に笑みを作って腰を上げ、病室に備えつけの洗面台で、ざぶざぶと顔を洗った。それから、私たちは病室で一緒に、夜食を摂った。毎度のことだけど、病院食は味気なくて。 「これ、食べられたもんじゃないわよね」 「贅沢は言いませんけど……量も少なくて、いっつも欲求不満になります」 「2階の売店で、お菓子とかパンを買い溜めてたりする?」 「もちろん。でも、私の病室は4人部屋なもので…… 他の人の迷惑になるから、夜中に間食できないんです。しくしくしく……」 「あー解る解る。消灯時間が過ぎたら、ちょっとポテチは食べづらいわね。 だったら、抜け出してきなさいよ。ここで食べればいいじゃない」 「めぐ、ナイスアイディア」――などなど。アレが食べたいコレが食べたい、とか。更に発展して、駅前のもんじゃ焼き店の『げろしゃぶ』ってメニューが美味しいらしい、とか。私たちは、絶えずスナック菓子に手を伸ばしながら、消灯時間まで盛り上がった。久しく忘れていたけれど……やっぱり、友だちっていいな。他愛ないことでも、なんとなく楽しくて、安心できて、幸せで……。人生に友は必須だわ。でも、たくさんは要らない。振り回されるのは嫌いだから。こういう気持ちって、いろんな呼び方があるけれど――コトの本質を宗教的に現すならば、きっと『神の祝福』なんだと思う。誰もが孤独だから、寂しい者同士で温めあえる術を、与えられたんだわ。なるように、なるように。 後編につづく
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
1文字以上入力してください
本文は少なくとも1文字以上必要です。
1文字以上入力してください。