『孤独の中の神の祝福』 前編
ここから眺める世界は、とても見晴らしがいい。とりわけ、空が――きちんと、空として見えた。周りに、邪魔をする高い建物がないから……だから、この都会のビル街にあっても、味気ないパッチワークの一部にされることなく、空は今日も、天真爛漫に広がっている。 ここから見る景色は、とても気晴らしになる。ただ、ぼぅ……っと。飽きもせず、蒼穹に目を彷徨わせるだけ。そうしているだけで、意識はいつの間にか浮き雲となって、風の中を流離っている。何度も、数え切れないほど、想い描いてきた夢。ただ純粋に…………願っていた。空を飛びたい――こんな、息の詰まりそうな世界も、壊れた意識の器も、なにも要らない。いつか、この窓辺に訪れる天使に連れられて、どこまでも飛んでゆきたい――と。 ――声がする。私を呼んでる。だぁれ? 訊ねた言葉は、自分でも分からないほどに、呂律が回っていない。ならば……と。貼りついた瞼を、ムリヤリにこじ開ける。途端、あまりにも眩しい光に瞳を射抜かれて、目の奥が痛くなった。 「おはよう、めぐちゃん。具合の方は、変わりない?」 「……最悪」 私の答えに、看護士の佐原さんは、ふと眉を曇らせる。いつもと同じリアクション。どうせ、心の底では、厄介な娘だと思っているに違いない。仕事だからと割り切って、仕方なく相手をしているだけで。 「顔色が良くないみたい。熱があるのかしら。ちょっと体温を計――」 「構わないで。身体の調子は、別に悪くないから」 「でも――」 「いいから、出てって」まだ何事か言おうとする彼女を睨みつけて黙らせ、私はベッドから起き出した。検温したところで、なにが変わると言うの? 治らないものは、治らないのに。困り果てている佐原さんを置いて、タオルとブラシを手に、病室を出た。トイレの脇にある洗面所で、顔を洗い、髪を梳る。そして……鏡の中の私を見ながら、気づいた。あなただって、いつもと同じリアクションしか、してないじゃない。しばらくの間、私は、もう1人の私と見つめ合っていた。 「くたびれた顔してるわね、あなた」話しかけると、向こうも、同じ言葉を口にする。耳の奥で聞こえる声は、私。耳の外から聞こえてくる声が、あなた。まじまじと鏡を見ながら、思う。……そうね。いい加減、この生活にも飽きたし、疲れたわ。そう遠くない場所にある、終着点。見えているのに、そこへと辿り着けないのは、どうして?今なお、この世界に私を繋ぎ留めているのは、なんなの?無駄な努力を、延々と続けているパパや、病院関係者かな。それとも――私の中のあなたが、生への執着を以て、終着に至ることを拒絶しているのか。近づいてくる誰かの気配を感じて、私は胸裡に広げていた思索の本を閉じた。鏡から顔を逸らせ、タオルとブラシを手に、洗面台を離れる。――と、杖を突いたお婆ちゃんが、フラフラと入ってくるところだった。同じフロアに入院している人で、何度か、話をしたことがある。洗面所ではなく、トイレに用があるみたい。お婆ちゃんは私に気づくと、柔らかく笑って、軽く会釈する。私も小さく顎を引いて、難儀そうにしているお婆ちゃんに、手を貸してあげた。弱々しくて、掠れ調子で……でも、ピンと芯の入った声で。「ありがとう」お婆ちゃんは、しわしわの手で私の手を包み込んで、お礼を言った。別に、感謝されるほどのコトじゃないんだけど。個室の向こうに消えるのを見届けて、洗面所に引き返しがてら、私は手に残る感触から、亡くなった祖母のことを思い出していた。発作で苦しんでいるとき、いつも私の手を握って、歌ってくれたっけ。その歌を聴くと、不思議なほどココロが安らいで、胸の痛みが消えていった。あの頃はまだ、希望を持って生きてたように思う。少なくとも、私は今ほど、刹那的じゃなかった。でも、祖母が亡くなり、独りで居る時間が多くなって……いつしか、死ぬことが怖くなくなってた。楽になれるのなら、いっそ殺されてもいいとさえ思う自分が、確かに存在している。病室に戻った私は、ベッドに座り、窓を開けて、いつものように空を眺める。今日も、よく晴れていた。夏にはまだ早いけれど、日射しが強い。木々の緑が鮮やかに映えて、目に浸みるほどだった。――ふと、風に乗って、微かな歌声が運ばれてきた。耳を澄ませる。どうやら、賛美歌みたい。とても響きのある、清らかな声。そう言えば……と、今更ながら思い出した。この病院の隣には、教会があったのよね。この歌は、その礼拝堂から聞こえてくるに違いない。曲のタイトルは知らない。でも、耳に馴染みのあるメロディーだった。私は空を眺めながら、気づけば、歌に合わせてハミングしていた。なかなかに気分がいい。日和もいいことだし、たまには外を散歩してみるのも、楽しいかもね。ほんの些細な酔狂から、私はそそくさと階下に降りて、病棟の正面玄関を出た。目当てはもちろん、教会の礼拝堂。まだ、あの歌は聞こえている。聞こえる……んだけど。 「あれ?」病院のフェンス越しに、礼拝堂が見える場所に来たものの、歌声は遠ざかっている。それに、さっきは下から声が届いていたのに、今は上から降ってくる感じだ。 「さては、どこかの病室の患者が、CDでも聴いてるのね」……なぁんだ。急に白けてしまって、私は礼拝堂に背を向けた。また、ぼぅっと空を眺めていよう。正面玄関へと戻るにつれて、また、歌声が大きくなっていく。どこの病室から聞こえるのかな? 声を辿って、病棟を見上げた、その先――5階にある私の病室から、まっすぐ2つ下の病室の窓辺に、人影があった。妙なるソプラノは、紛れもなく、その人が紡ぎ出していた。でも、美しいのは、声だけじゃなくて。私は目を奪われて、その場に立ち尽くしていた。注がれている視線に気づいた彼女が、艶然として見つめ返してくるまで、ずっと。地上と3階の距離なんかで、彼女の美貌を損なうことなど、できはしなかった。病棟の白壁も、彼女の肌や髪と比べたら、ひどく汚れて見える。なんて、綺麗な人なんだろう。いまだかつて、私はこんなにも美しい人に、出逢ったことがない。 ――天使?ウソでも冗談でもなく、私は確かに、予感めいたナニかを感じていた。この人こそが、私の求めていた『天使』じゃないかしら、と。 「あ、あのっ!」思い切って、話しかけてみる。でも、彼女は微笑んだまま、ぷいっと顔を逸らして……そのまま、室内に姿を消してしまった。もう、歌も聞こえない。やっぱり、そうそう簡単に、天使が顕れるワケないかぁ。少しばかりの期待は、10倍返しくらいになって、私を落胆させた。今日はもう、なにをする気にもならないくらい、ずどーん! とね。もう、いいわ。検温の時間まで、不貞寝しとこう。私が再び歩き出したのと、まさに同じタイミング。正面玄関を飛び出してくる人影が、ひとつ。さっきの彼女だった。長くて真っ白な髪を風に踊らせて、小走りに、こっちに向かってくる。あまりに突然のことで、茫然と突っ立っていた私の前に、彼女が立ち止まった。お互いの距離は約1メートル。相手を警戒させない、絶妙な距離だ。ここまで近づいてみて、初めて気づいた。彼女は、白薔薇を模した精巧な造りの眼帯で、右目を覆い隠していた。さっき見上げたときには、髪に挿してあるとばかり思ったけど……違ったのね。それにしても――近くで見れば見るほど、限りなく完璧に近い彼女の美貌に、私は圧倒された。彼女に見つめられていると意識するだけで、頬ばかりか顔中に、妖しい熱を感じた。 「初めまして」鈴の音のように澄んだ声が、私を現実に呼び戻す。 「私は、雪華綺晶」 「え? き……らき……すた?」 「きらきしょう、です」 「あ、ゴメン」 「構いませんわよ、好きに呼んでくださって。それで、貴女のお名前は?」 「柿崎めぐ」 「いい響きですわね。よろしく、めぐ」柔らかそうな桜色の唇が、私の名を呼んでくれた。その事実に、初対面の相手だというのに、警戒するどころか有頂天になって。 「ねえ。少し、お話しない? いいでしょ?」私はバカみたいに、はしゃいでさえいた。でも、仕方ないと思わない?だって――やっと私のところに、天使が来てくれたんだもの。 中編につづく
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