『パステル』 -5-
「ふざけないでっ!」 突然の喝破に、雛苺は身体を震わせ、猫のように首を竦めた。不思議な『パステル』の効能について、洗いざらいを話し終えたときのことだ。 あのパステルを使えば、良かれ悪しかれ、真紅の人生を狂わすことになる。下手をすれば、一生の恨みを買うことにさえも。だからこそ、隠し事なんて、したくなかったのだ。いい返事を得たいがためと邪推されるのは、雛苺の本意ではなかったから。 半身を起こした真紅が、脚に落ちたタオルを掴み、雛苺に投げつけようと腕を振り上げる。その瞬間、夢で見た病室でのシーンが、脳裏に甦って――雛苺の怯えた瞳が、水銀燈の悲しげな眼差しと重なり、真紅の激情は急速に冷めていった。 「――ごめんなさい。お客さまに対して、声を荒げてしまうなんて…… ダメね、私。腕を失くしてから、たまに、自分を抑えられなくなるの」「風が吹けば、地面から埃が舞い上がるし、水面には漣が生まれるわ。 気持ちが激しく動くのは、真紅のココロが凍ってないことの証しなのよ」 だったら、いっそ氷結してしまえば、楽になれるのだろうか……。真紅は再び、ソファに仰臥して深く息を吐くと、雛苺へと頸を巡らせた。その表情には、もう一喝したときの険しさなど、欠片もなかった。 「ねえ、雛苺。貴女、本気で、私の右腕を元どおりにできると信じているの?」「う、うゆ……」「羨ましいほど幸せなのね。そんなのは、おとぎ話だわ。ただの夢物語よ」 描いた絵が現実になるパステルだなんて、童話じゃあるまいし。理性も分別もある大人なら、誰もが、馬鹿げたフィクションだと一笑に付すだろう。 真紅は苦労を重ね、社会的な成功を勝ち取ってきた、理知的な大人の女性だ。その課程で、無邪気なココロに、現実というヴェールを幾重にも被せてきたはずである。お気楽な子供っぽさを、弱さと思い込んで。 「貴女の気づかいは、嬉しく思っているわ。本当よ」 長い沈黙の末に、優しく紡がれた言葉。真紅は、余裕ある温かな笑みを、雛苺に向けていた。さながら、落ち込む我が子を宥めようとする、母親みたいに。 「でもね――私は、このままで構わないのよ。 一生、片腕のままで、自らを縛めながら暮らさなければいけないのだわ」「そんな……どうしてなの?」「贖罪だから。あの子を傷つけたことへの、私なりの罪滅ぼしよ」 穏やかではない単語に、雛苺は固唾を呑んだ。そこまでの覚悟をさせるほど、真紅は水銀燈に、酷い仕打ちをしたのだろうか。気にはなる。……が、これ以上、無思慮な真似もできなくて―― 「ヒナ……そろそろ、おいとましなきゃ。 紅茶、美味しかったのよ。ごちそうさまでしたなの」 雛苺はデイパックを手に、立ち上がった。ぺこりと一礼して、応接間を出ようとした、その矢先。 「お待ちなさい」 凛とした真紅の声が、小柄な娘を、その場に縫い止める。振り返ると、宝玉を想わす蒼眸に、ひた……と。雛苺は捉えられた。 「もし、よければ――なのだけれど」 そう呟く真紅の声音は、震えていた。よほど耳を澄まさなければ分からないほど、微かに。 「いまの私を、描いてみてちょうだい。ありのままの私を」「ホントに、いいの?」「ええ。でも、貴女の腕が確かならば……って条件つきなのだわ」「うい! それなら大丈夫なのっ。ヒナ、こう見えても美大生なのよー」「ウソ……てっきり、中学生の1人旅かと思ってた」「ぶー。失礼しちゃうなのっ。そりゃあ、ヒナはちっちゃいし、 子供っぽいって、みんなからよく言われるけど――」 普通、女の子は若く見られると嬉しいものだ。しかし、それも程度の問題。度を越せば、ただの侮辱になってしまう。顔を真っ赤にして反駁する雛苺を、真紅は神妙な面持ちで宥めた。 「ごめんなさい。確かに、不躾な言い種だったわね」「うんうん。解ってくれればいいのよー。えへへ~」 なんともまあ、気持ちの切り替わりが早い。真紅は文字どおり、舌を巻いた。そういう精神的な落ち着きのなさが、子供っぽさを助長しているのだが、当の本人は、それを自覚していないようだった。 「それで? 私はどういうポーズをとったらいいのかしら」「少し長くなるから、楽な姿勢でいいのよ。 うーっと、そうね……ソファの左端に寄って、肘かけに腕を乗せてみて」 「こんな風に?」と、ソファの背もたれに、ゆったりと身体を預ける。これなら肘と背中で支えられるので、たいして疲れないだろう。でも、あまり長引くようだと、腰が痛くなりそうね……と、真紅は思った。 「うい! それで、あとは深く座っててくれれば、バッチリなの」「解ったわ。こうね」 真紅が頷いてみせると、雛苺も首肯して、道具の準備に入った。 「表情も、ずっと変えずにいたほうがいいのかしら?」「顔は最後に描き込むから、その時だけ集中してくれたらオッケーなの。 それまでは、普通にお喋りしてても構わないのよ」 雛苺は2Hの鉛筆を手にして、スケッチブックを開いた。さすがに失敗の許されない状況で、パステルでの一発描きなんて冒険はできない。ある程度の当たりを付けてからが本番だ。 しん、と静まり返った室内に、紙面を走る鉛筆の音だけが、微かに聞こえる。静かすぎるあまり、却って気が散りそうになった雛苺は、「あ、あのね……真紅」手を止めて、上目遣いにブロンドの乙女を見た。 「少し立ち入った話、訊いてもいい?」「それは、私を描くために不可欠なこと?」「不可欠ではないけど、絵にココロを宿すためには、大切なコトなの。 ヒナはいつでも、描く対象に気持ちを近づけてるのよ」「絵に、命を吹き込む……という意味?」「そんなに大それたコトじゃないけど、だいたい、そんなところなの。 だから――ヒナに真紅や水銀燈のこと、教えて欲しいのよ」 イヤなら話さなくてもいいけど、と締め括って、雛苺はまた手を動かし始めた。結果、聞けずじまいになったとしても、さっきの雑談から、ある程度のことは推し量れる。それで、真紅の胸にある悲しみを、絵に反映しきれるかどうかは、怪しいところだが。 ――暫し。沈思黙考がなされた。 「なにから話せば、いいのかしら」 さり気なく紡がれた台詞は、了承の証し。いま、真紅の中では様々な想いが、ぐるぐると廻っていることだろう。情報が茫漠としすぎていて、話題を搾りこめない苦しみが、雛苺にも伝わってきた。 「それじゃあ――」 だからこそ、雛苺は核心を衝いた。「真紅が右腕を失った理由を、聞かせてなの」それこそが真紅と水銀燈を隔てた理由であり、彼女の苦悩を生みだしている元凶に違いないと、目星がついていたから。 真紅は、悲しげに睫毛を伏せて、深く息を吐いた。気持ちの整理をするためには、誰であれ、多少の時間を要する。その間、雛苺はスケッチを続けながら、真紅が口を開くのを待っていた。 「事故だったのよ」やおら、真紅の語りが始まる。「ちょうど、梅雨時でね。連日、激しい雨が降り続いていたわ」 それが、長いモノローグの始まりだった。 このままでは、新たに開いた茶畑が、流されてしまうかも。案じた真紅と水銀燈は、真紅の運転する車で、巡回に向かった。こんなことで……たかが雨ごときで、夢を潰えさせてなるものか。2人はレインコートを着て、茶畑の補強に全力を費やした。 「でも、悪いことって重なるものなのね。 見回りの最中だったわ。水銀燈が発作を起こして、倒れてしまったのは。 あの子、苦悶で顔を歪めて……涙ながらに繰り返すのよ。 『真紅……助けて』と、私の腕に縋りながら―― いつ発作が起きてもいいように、彼女は薬を持ち歩いてたのだけれど…… でも、その時は、どんなに探しても見つけられなかったの。 もしかしたら、作業中に落として、気づいてなかったのかも知れないわ」 一刻の猶予もない。真紅は、なんとか水銀燈を助手席に押し込み、車を発進させた。豪雨。ぬかるんだ林道。容赦なく降りてくる夜の帳。その中を、2人を乗せた車は、泥水を撥ね散らしながら、猛スピードで駆け抜ける。 「あのときの私は、もう……とにかく、水銀燈を助けたい一心で。 他には何も、考えられなくなっていたのね、きっと」 ほんの一瞬の判断ミスで、真紅の運転する車は、崖の下へ―― 「車が宙に浮いたとき、これで死ぬんだ――って思ったわ。 今際に走馬灯が甦るって話ね……あれ、本当よ。 私も、見たの。子供の頃から、水銀燈と歩いてきた日々の記憶を。 そうしたらね、なんだか……達観したような、不思議な気持ちになったのだわ。 このまま、水銀燈と一緒に人生を終えるのも、悪くないかなぁって」 そこで意識が遠退き、目覚めたら病院のベッドに横たわっていたと、真紅は語った。右腕を失い、両脚にも酷いケガを負っていたのだ、と。 「つまり、誰かが事故の現場を見てて、救急車を呼んでくれたのね」 言って、安堵の笑みを浮かべた雛苺に、真紅は「いいえ」と。苦渋に満ちた表情から、更なる悲愴を滴らせながら、首を左右に振った。 「居なかったわ。私たち以外には、誰も」「うゅ? それじゃあ……」「――ええ、そうよ。私を運んでくれたのは、水銀燈なのだわ。 激しい雨に打たれ……苦悶に喘ぎながら……それでも、私を担いで歩き続けて。 麓の病院まで辿り着いたとき、彼女もまた、息も絶え絶えだったそうよ」 後から看護士に聞かされたのだけれど――真紅は、指が食い込むほどにソファの肘かけを強く握り、顔を伏せた。 「あと少し治療が遅れていたら、私は失血死していたんですって。 私が、今こうしていられるのも、水銀燈のお陰だったのよ。 それなのに、私は…… 右腕を失ったショックと、絶えず全身を襲う激痛に、苛立つばかりで。 愚かにも、理不尽な憤りを彼女にぶつけて、突き放してしまったのだわ。 私が、バカだったばかりに!」「いまからでも謝って、仲なおりするコトはできないの?」 誤解は、誰にでもある。どんな聖人君主だって、過ちを犯す。そのくらいは水銀燈だって解っているだろう。謝れば、真紅を許してくれるはずだ。雛苺は、そう信じていた。ずっと一緒に……と誓い合った2人なのだから。 けれども、俯いた真紅の瞼からは、大粒の雫が、ぽろ、ぽろ……。それは、あの日の豪雨のように降り続けて、彼女の胸元を濡らしてゆく。 「できないの。もう……手遅れなのよ」「どうして?」「水銀燈は、病室を出たっきり、行方を眩ませてしまったから。 マンションは引き払われ、携帯電話も解約されていて、連絡も取れない―― どんなに手を尽くしても、あの子の消息は、杳として掴めなかったのよ」「病院は? 持病を患ってるんだから、通院しなきゃ大変なのよ」「その線も辿ったわ。だけど……かかりつけの病院にも行っていないの」 身辺を整理して、持病を抱えているにも拘わらず、薬も持たずに出奔。どうしても、雛苺の胸に、嫌な想像が広がってしまう。そうなるとココロの動揺が誘発されて、スケッチする手にも乱れが生じた。 「いまの私にできることは、毎日、駅に行くことだけ。 いつか……あの子が帰ってきてくれるのではないかと…… 改札を出てくる水銀燈の姿を思い浮かべながら、待つことしかできないのよ」 そこで、雛苺と真紅は、巡り会ったというワケだ。ただの偶然と言ってしまえば、それまでだけれど。女の子の心情としては、どうしても、そこに一抹の運命を見出したくなる。 知り合って間もないが、雛苺には、真紅の人柄がよく理解できた。健気で、ある意味、愚直な性格を。片腕でいることを、贖罪と……彼女なりの罪滅ぼしと言っていたけれど。――違う。真紅は水銀燈のために、欠落することを望み、現状を甘受しているのだ。 雛苺の中で、揺らぎは収束するどころか、なおも増幅してゆく。いつにも増して、鉛筆が重い。芯先も、うまく滑ってくれない。だが、線画だけなら、大まかな構図はできている。雛苺は息を吐いて、手を休めた。仕上げは後にしよう、と。 「少し休憩するの。ヒナ、ちょっとアタマが重たくて」「もしかして、風邪? ベッドで横になったほうが――」「ううん。ソファーでいいのよ。ちょっとだけ、休むだけだから」「それなら、なにか掛ける物を持ってくるわね」 言って、真紅が腰を上げる。その背中を見送って、雛苺はドサリと、ソファーに倒れ込んだ。 ◆ ◇ 夢を見ているのだと、雛苺は、すぐに自覚できた。彼女の前には、真紅の屋敷になかったものが、存在していたからだ。 大きなテーブルと、ウサギとネズミ、それに、男が1人。それが何であるのか、思い当たるモノがあって、雛苺は「あっ」と声をあげた。よく読む『不思議の国のアリス』の中でも特に好きな、奇妙な茶会のシーンだ。 キチガイウサギ、居眠りネズミ、帽子屋――雛苺は、おかしな3人の茶会に迷い込んだ、アリスの役だった。どうして、こんな夢を?茫然と立ち尽くす雛苺を気にも留めず、居眠りネズミが、ぼそぼそと語り始める。 「ずぅっと昔の話だよ。井戸の底に暮らす、3人の姉妹が居たんだよ。 彼女たちは絵を習っていてね、いろんな絵を、たくさん描いてたんだよ」 雛苺の胸が、ドキリと一拍した。いろんな絵を描いてるなんて――雛苺のことを言っているみたいではないか。 そこに、帽子屋が横槍を入れてくる。彼は自分の帽子から、トランプのカードを一枚だけ抜きだして、ニヤリ……。「おやおや、クローバーの3だ。なんと奇遇な」 こんな描写あったっけ? 雛苺は首を捻って、ふと――あることに気づいた。おかしな3人。井戸の底の3人姉妹。クローバーの3。更に、キチガイウサギは3月ウサギとも呼ばれるし……帽子屋が時間とケンカしたのも、確か、3月だった。 悉くに、3が絡んでいる。なにかを示唆しているのか。それとも、ただの偶然?3という数字が、雛苺に童話の決まり事を思い出させる。 「叶えてもらえるお願いは、3つだけ……なの?」 呟くなり、どういうワケか、パステルの箱書きが瞼に浮かんできた。虫食いになっていて判読不能だった、あの部分。あそこに、3度までと記載されていたかも知れない。 もし、そうであるならば―― ◇ ◆ 浅い眠りから帰還した雛苺は、真紅に声を掛けて、すぐに絵の仕上げを始めた。これで、2度目。仮定が正しければ、残された猶予は、あと一度のみ……。 -to be continued-
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