『パステル』 -4-
◆ ◇ 「あはははっ! ねえ、見て! 真紅ぅ!」 アタマの芯にまで響いてくる、うら若い娘の、無邪気で嬉々とした声。「みんな元気に……いい感じに育ってくれてるわぁ」 ――ここは? はたと我に返って、真紅は静かに、ぐるり見回す。目に飛び込んできたのは、猫の額ほどの畑と、灌木の列――忘れるはずもない。水銀燈と2人で、山の中腹に拓いた、最初の茶畑だった。 「もう。どぉしたのよぉ、ボ~っとしちゃってぇ」 のんびりとした、それでいて気遣わしげな声に誘われ、ゆるゆると顎を引くと……「大丈夫?」と言わんばかりの顔をした銀髪の幼なじみと、視線がぶつかった。彼女は茶樹のそばに両の手と膝を突いて、茫然と立ち尽くす真紅を見あげていた。 また、なのね。真紅には口の中で、そう呟いていた。解っている。これは、女々しさというスクリーンに投影された、未練の夢幻。あの頃の記憶に、少しの希望を加味して再編集した、映画にすぎない。 ――不意に、目の前の景色が、原色の自然から、人工的な空間へと切り替わる。これも、いつものこと。辿り着く先が変わったためしは、一度としてない。ここは大学の、研究室。修士課程の論文作成に追われ、あたふたしていた、人生最悪のクリスマスのシーンだ。窓ガラスは、とっくに闇色に塗り尽くされ、星の代わりに、細かい雪が鏤められている。 折角のホワイト・クリスマスなのに、ね。真紅は机に頬杖をついて、降りしきる雪を眺めながら、小さく吐息した。ラブストーリーにありがちな、ロマンチックな状況なのに……ここには、そのカケラもない。無情だ、と嘆かずにはいられなかった。年頃の娘が、研究室に缶詰め状態だなんて。 時刻は、もう午後10時になろうとしている。教授や他の学生は、早々に引き上げてしまって、残っているのは真紅と水銀燈だけ。マウスのクリック音。タイピングの音。すきま風の、か細い声。それらが、手狭な感のある部屋の中で競い合い、自己主張を繰り広げている。 そこに、やおら「あーぁ」と。水銀燈の、溜息とも独り言ともつかない大きな喘ぎが、すべての雑音を支配下に置いた。 「ねえ、真紅ぅ。そろそろ、お茶しなぁい?」 さも倦み疲れたような、間延びした調子で言う。けれど、それは真紅も同じ。いい加減、肩が凝ったし、集中力も切れかかっていた。「悪くない提案だわ」真紅は賛意を口にして、くるりと椅子を回し、振り向く。その先では丁度、水銀燈が、持ち手つきの箱を机の上に置いたところだった。 「なんなの、それ? と言うか、どこから出したの」「細かいことは気にしなぁい。今夜はクリスマス・イブだからぁ……じゃじゃぁ~ん!」「ウソ……これ、デコレーションケーキじゃないの。それも7号サイズだなんて。 まさか、私たち2人で、これ全部たべるつもり? 呆れた食欲ね、まったく」「みんなで切り分けるつもりだったけど、ちょっと出しそびれちゃってぇ。 まぁ、いいじゃなぁい。アタマ使いすぎてクタクタだし、糖分補給しないとねぇ」 なるほど。確かに、水銀燈の言うとおり、脳が糖分を求めている……ような気がする。それに、よくよく考えたら2人とも、まだ夜食らしい夜食を摂っていなかった。いい加減、空腹だったところに美味しそうなケーキを見せられて、真紅のおなかが鳴る。水銀燈に、いやらしい笑みを向けられ、真紅は顔を赤らめ、無造作に前髪を掻き上げた。 「いつの間に、こんなもの買ってたの?」「夕方に、ちょっと抜け出して、ね。それより、早く食べましょうよぉ。 私はお皿とか用意しておくから、真紅は、紅茶を煎れてちょうだぁい」「……残念だわ。こうと分かっていたなら、上質の葉を用意しておいたのに」 真紅は本当に口惜しそうに指を噛み噛み、備え付けのコンロに、ヤカンを乗せた。いかにも、こだわり派の彼女らしい口振りだ。水銀燈は、幼なじみの背中に優しい笑みを投げかけて、ケーキを切り分け始めた。 真っ二つの半月型となったケーキと、湯気の立ち上るマグカップ。せめてものムードづくりにと、モミの木の代用として置かれた、アロエの鉢植え。それらを前に、2人――向かい合って、プレゼントの代わりに、引きつった笑みを交換し合った。 「メリークリスマス、水銀燈」「メリークリスマス……って、なぁんかバカっぽいわねぇ。侘びしいわぁ」「気分の問題よ。どんなに愉しいことでも、楽しむ気が無ければ、話にならないわ。 私は、こんなクリスマスも面白いと思うけれど……貴女は、違うの?」「……ううん。そんなコトないわぁ。私も、楽しい。 真紅が居てくれれば、いつだって、どんな場所だって、私は楽しいわ」「そう。でも、なんだか複雑な心境ね。光栄ですわと、喜ぶべきなのかしら」「聖夜を孤独に過ごすよりマシでしょ。素直に喜んでおきなさいよ、おバカさん」「うるさいわね。バカって言った方がバカなのよ」 真紅は素っ気なく振る舞うことで、冷静な自分を、取り繕おうとする。が、フォークを持つ手の震えや、そわそわと落ち着かない肩に、動揺が現れてしまう。なんとなく気まずくて、水銀燈の顔を、まともに見られなかった。 水銀燈は、子供のように素直な気持ちで、慕ってくれている。今さっき彼女が口にした想いも、すべてが本心であることを、真紅は理解していた。『真紅が居てくれれば、私は楽しい――』それは、水銀燈が真紅に寄せる、深い信頼の証しに他ならなかった。 依存しすぎては、いけない。失ったときのショックが、計り知れないから。そのくらいは、水銀燈にも解っているだろう。彼女だって、いつまでも子供ではない。でも、やはり真紅を頼ってしまうのは、水銀燈が今なお病気に苦しみ続け、脆弱さを引きずっているからなのかも知れない。 「ねえ、真紅」 いきなりの、深刻そうな声音が、場の空気を一瞬にして緊迫させる。真紅は身じろぎを止めて、ひた……と、水銀燈を見つめた。 「どうかしたの? ケーキに虫でも入っていたのかしら?」「違うわよ。そうじゃなくって」「じゃあ、なに?」「……うん。なんて言うかぁ、そのぉ……私たち、ずっと今のままで―― これから先も、親友のままで、いられると思う?」 どうして、そんなことを訊くの? 真紅は小首を傾げて、考えた。卒業がいよいよ近づいて、ナーバスになっているとか……?その可能性は、大いに有り得た。なぜならば、彼女たちは既に、別々の企業から内定をもらっていたのだから。 たった独りで、未知の世界に放り出される恐ろしさは、幾ばくのものだろうか。水銀燈みたいな、生まれながらに重篤なハンディを背負った人々にとって、それが過酷な責め苦になるだろうことは、想像に難くない。 健常者には計り知れない、怖れ。その不安を、わざわざ煽って突き放したりするほど、真紅は悪趣味ではなかった。 「当たり前でしょう。いつまでも、変わりっこないわ」「……ホントぉ?」「本当よ。今までだって、そうだったでしょう。これからも、ずっと一緒だわ」「でも、卒業しちゃったら、離ればなれに――」 ありありと不安を滲ませ、涙ぐむ水銀燈に、真紅は「仕方のない子ね」と微笑みかけ、大まじめに、あっけらかんと告げた。 「だったら、簡単な答えだわ。同じ仕事に就けばいいのよ。 2人で会社を立ち上げましょう。商うのは……そうね。やっぱり紅茶がいいわ」 ――また、目の前にあった映像が、じわじわと隅の方から黒く塗りつぶされていく。シーンの変わる刹那、真紅は毎度のコトながら、苦笑していた。若かったとは言え、随分とまあ、向こう見ずな計画を打ち立てたものだ。 無論、口で言うほど簡単ではなかった。起業は、おままごとではない。土地の確保、それに伴う資金調達など、学生の身で準備するのは、なかなかに厳しい。祁門(キーマン)種の茶樹の品種改良も、いい結果を出せずにいたし……もう何度、挫けそうになったことか。 けれど……そんな苦労さえ、ささやかな喜びで、幸せな色に塗り替えてしまえた、あの頃。いまではもう、遠い日の夢物語。 真紅は、今更ながら思った。あと何回、この夢幻を見続ければいいのかしら、と。いつまでも、こうして、楽しかった日々の思い出に執着し続けて……目覚めるたびに、喪失感でココロが傷つくだけと、解っているのに。 でも……たとえ、ただの自虐でしかなくても――真紅は、それでも構わないと思っていた。これは懺悔。逆十字の烙印を刻まれた日から、死ぬまで終わることは許されない。だから、真紅はいつだって、喜んで足を踏み入れる。この夢幻が、悪夢の底なし沼だろうと、躊躇わずに。 再び、真紅の視界と意識は、山の中腹に拓いた小さな畑に戻っていた。水銀燈は、相変わらず、心配そうな顔で彼女の様子を窺っている。 「ごめんなさい。なんでもないわ」 汚れることも厭わず、真紅は幼なじみの娘と並んで、地に膝を突いた。土の臭いと、水銀燈の髪から靡いてくる匂いが、グッと強まる。その瞬間、懐かしさが弾けんばかりに膨らんで、胸の奥がキュッと痛くなった。 「本当に、よく育っているわ。すべり出しは順調ね」 すくすくと伸びゆく茶樹の苗木に、希望と慈しみの眼差しを注ぎながら、真紅は、幼なじみの左手に、そっと自分の手を重ねた。もう彼女が失ってしまったはずの、右手を。 「ここまで来られたのは、貴女のお陰よ……水銀燈」すんなりと口を衝いて出る、嘘偽りない気持ち。 「貴女が、品種改良を成功させてくれたからこそ、今があるのだもの。 私ひとりでは、きっと辿り着けなかった。 一緒に歩いているつもりだったけれど、貴女が私を、ここに連れてきてくれたのね」「なによぉ、いきなり…………気持ち悪ぅい」 ばかばかしい。険を孕んだ返事は、不器用な彼女の、ひねくれた照れ隠し。長い付き合いだ。以心伝心の真似事くらいは、真紅にもできる。挑むように悠然と微笑みかけると、水銀燈はバツ悪そうに、そっぽを向いた。 けれど、それも寸閑のこと。素直な言葉に絆されたのか、水銀燈は仄かに赤らめた顔を、真紅へと戻した。 「ごめん……今のウソ。お礼を言わなきゃいけないのは、私だわ」 子供の頃から、ずっと――病気のせいで、学校を休みがちだった。それが元で、疎外されたり、陰湿なイジメを受けるようになって……自分が選んだ道だけれど、水銀燈は学校に行くことを苦痛に感じていた。 そんな日常において、真紅だけは、水銀燈の味方だった。いつだって、嫌な顔ひとつしないで、なにかと面倒を見てくれた。もっとも、彼女が庇えば庇うほど、水銀燈への風当たりは強くなったのだけれど。 「小学校も中学校も、体育の授業は、いつも見学だった。 校庭や体育館の隅っこ、プールサイド……私の居場所は、いつだって蚊帳の外。 勉強も、服用してる薬の作用で集中力が続かなくて、ロクな成績じゃなかったし」 「そうだったわね」真紅のあっさりした相槌に、ひとつ頷いて、水銀燈は続けた。 「みんなのペースに着いていけないから、だんだんと疎まれ、敬遠されるようになって……。 私、いつも思ってたわ。どうせ嫌われてるんなら、早く死んじゃいたいなぁって。 その方が、私も、みんなも、スッキリするじゃない。ねぇ?」「あの頃の貴女は、常に陰りを背負って生きていたわよね。 だから――私は、貴女から目を離せなくなったのよ。 放っておくと、いつの間にか物陰に溶け込んで、居なくなってしまいそうだったから」 「そうだったわねぇ」と、今度は水銀燈が、真紅と同じ相槌を口にした。 「真紅はいつだって、こんな私と、歩調を合わせてくれてたわよねぇ。 そして、引っ込み思案だった私に、勉強とか、いろいろなコトを教えてくれたっけ」「美味しい紅茶の煎れ方……とかねぇ」 2人は、クスクスと笑い合って、ほぼ同時に手元の苗木に視線を向けた。 「私にとって……真紅の存在は、いい刺激になってたのねぇ、きっと。 長生きできないって言われてたのに、こうして今も生きてるんだもの。 そりゃあ、定期検診は受けてるし、薬も飲み続けてるけどぉ、 でも、それだけじゃないって思う。だから……ありがとう、真紅。貴女のお陰よ」「別に――お礼を言われるほど、大したことはしていないわ」「そう言うと思った。相変わらず、変なとこで強情ねぇ。バカみたい」 しみじみと語らいながら、真紅たちは、これからの展望に想いを馳せていた。この茶樹が充分に育ったら、次は挿し木で増やしていく予定だ。勿論、初めての試みだけれど、失敗するなんて考えてもなかった。2人一緒なら、望みどおりの未来を掴めると、信じていたから。今までも。そして、これからも―― ――脳内のスクリーンが漆黒になった。この妄想映画は、いつも、ここで終わる。真紅も、それに合わせて、意識の扉を閉ざした。そうすれば、深い眠りに落ちてゆけると、知っていたから。 けれど、今日に限って、夢幻の幕は降ろされなかった。彼女の眼前が不規則に明滅したかと思った途端、次なるシーンが映し出された。 白い蛍光灯の列。白い壁。窓から容赦なく射し込んでくる、初夏の眩い光。風に舞う白いカーテン。白いシーツ。白いベッド。そして――リノリウムの白い床に跪いて項垂れた、幼なじみの姿。真紅は、病室のベッドに半身を起こして、顔を伏せる水銀燈を冷たく見おろしていた。 白すぎる。瞳に映るこの世界は、あまりにも白々しい潔癖に溢れていて……なにもかもが、くだらない『おままごと』のようだと、真紅には感じられた。胸に生まれた白けた感情が、雪崩の如き暴力となって、迸りそうになる。 いやよ……やめてちょうだい これから起こることを思い出して、真紅は必死に、自らのココロを鎮めようとする。だが、再現フィルムは回り続ける。止められるものなら止めてみろと、嘲笑うように。白い世界に眼を向けるほど。項垂れた水銀燈を、見れば見るほど。真紅の右肩は疼き、ココロの中で沸々と、得体の知れない物質が障気を燻らせる。彼女の正気を失わしめる、障気を。 「貴女のせいよ」 その言葉が、自分の口から吐き出されたものだなんて、真紅には信じられなかった。それほどまでに、彼女の声音は醜く変わっていた。 やめて! 言わないで! 聞きたくない。言わせたくない。けれど、彼女の叫びも虚しく、血を吐くように怨詛は迸る。 「貴女が、私を――こんな身体にしたのよ」 もう黙って! お願いだから! 「私は、不格好だわ。不完全だわ。貴女のせいで―― 貴女なんかに係わったせいでっ!」 真紅は自分の中にある、理性の堤防が壊れる音を聞いた。溢れてゆく。身体の中にある、なにもかもが流れ出して、思考が真っ白になってゆく。 「この疫病神っ! 出ていって! 二度と顔も見たくないわ!」 真紅の放つ石礫のごとき硬い言葉が、驟雨となって、水銀燈に降り注いだ。この白々しい空間で、真紅のココロだけは、燃え盛る紅蓮の炎となって……気づいたときには、側にあった花瓶を左手で掴み、水銀燈に投げつけていた。 固いもの同士がぶつかる、鈍い音。「あぁっ」という、悲痛な叫び。花瓶は床に落ちて砕け、生けてあった花と水を、水銀燈の周りに撒き散らした。ややも待たず、水銀燈の額に、紅い雫が流れ落ちてくる。それを眼にして、真紅の激情は、一瞬のうちに燃え尽きて、真っ白な灰に変わった。 なんてことを、してしまったのか。真紅は、かつてないほど動揺した。気が動転して、なにを言ったらいいのか、まったく分からなくなってしまった。そんな幼なじみを、水銀燈は……跪いたまま、スカートが濡れるのも構わず、流れる血を拭いもせずに、じっと見つめていた。 その瞳に宿るのは、傷つけられたことへの怒りでも、裏切られた憎しみでもなく。もっともっと深い――きっと、一生かけても奥底まで辿り着けないほど深い闇だけ。純粋な哀しみと怯えが、真紅に向けられていた。 「ごめんね…………真紅」 ――ぽつり、と。血の気を失って白みがかった唇が、喘ぐように言葉を紡いで……伏せられた長い睫毛の隙間から、悲しみのカケラが零れ落ちた。そして、水銀燈は静かに立ち上がり、ふらふらと病室を出ていった。 真紅は、引き留められなかった。口を開けども、声を出せずにいた。咄嗟に伸ばした左腕だけが、所在なさげに揺れ……失意と共に、ガクリと下がる。さながらゼンマイの切れた人形みたいに、彼女は疲憊して、項垂れた。 「こんな事なら――」 独りごちた声が、微かに震えている。打撲と擦り傷で思うように動かせない脚を包むシーツに、温かな水滴が、ひとつ……ふたつ……。真紅は唇をキュッと噛みながら、大粒の涙を落とし続けた。 「こんな事になるなら、いっそ左腕も、なくしていれば良かったのだわ。 そうしたら……あんな真似は、できなかった。あの子を傷つけずに済んだのに」 言いながらも、それが詭弁だと解っていた。だが、詭弁にでも縋らなければ、気持ちを抑えきれないことも、また、理解していた。あまりにも未熟な、子供の癇癪となんら変わらない、感情の暴走。そんな瑣末なモノに翻弄されて、コツコツと築いてきた2人の信頼関係を、壊してしまった。ずっと一緒だと言っておきながら――それを自らの手でブチ壊しにしたのだ。情けなくて、口惜しくて…… 「無様な疫病神は、私の方だわ。私……なんて、嫌な女――」 今日ほど、自分を嫌悪したことはなかった。真紅は左手にシーツを握り締めると、自らの顔に、強く押しあてた。そして、誰に憚ることもなく、声を上げて泣き続けた。子供のように、泣きじゃくった。 ◇ ◆ 真っ白な闇――なんてモノが存在するかは、定かでないが、真紅は、そうとしか表現できない物体に包まれ、横たわっていた。あるいは、ヨーグルトの溜まりに沈んだら、こんな感じなのかも知れない。 どれほど目を凝らそうと、瞳に映るのは、白、白、白。左手を、顔の前に翳しているはずなのだけれど、何も見えない。 ――と思った直後。いきなり、姿の見えない何者かに手を握られて、真紅は短い悲鳴を上げた。引っ張られる。もったりとしたナニかの中を、身体が浮き上がってゆく感じもする。ここに至ってようやく、真紅は『夢』という水底に横たわっていたことを悟った。ならば……底があるなら、どこかに水面も存在するはずだ。夢と現実の境界が。 真紅は、腕を引かれる方へと、自分から浮上していった。……やおら、水面を割って、顔に空気を感じた。真紅は深く息を吐き、双眸を開いた。 まず眼にしたのは、不安そうに窺い見ている女の子の顔。よく見れば、彼女は両手で、真紅の左手を包み込んでいた。 「真紅っ! やっと目を醒ましてくれたのね。ああ……よかったなの。 写真を見て、急に泣き出したと思ったら倒れちゃうんだもの。ビックリしたのよ」「そうだったの……ごめんなさい。お客様に迷惑かけるなん――」 言いながら、真紅がアタマを上げると、額から濡れタオルが滑り落ちた。彼女は、応接間のソファに横たえられていた。 「急に動いちゃダメなの。もう少しだけ、休んでるのよ」「でも……」 と、渋る真紅を、雛苺は静かに――しかし有無を言わせない力強さで、寝かし付けた。これでは、どちらがこの家の主だか分からない。 けれど、真紅は表情を和らげて、雛苺に従った。右腕のないハンディを克服しようと、強がりながら生きてきたけれど、雛苺の前では、鎧を脱いだ素の自分に……ただの女の子に戻ってもいいような――不思議と、そんな気持ちに、させられていた。 「あのね、真紅」雛苺は、そばに置いた洗面器でタオルを絞りなおして、真紅の額に乗せた。 「さっき……眠ってるときね、すっごく魘されてたなの。 汗もビッショリだし、ホントに病気なんじゃないかしらって―― もう少し起きるのが遅かったら、ヒナ、救急車を呼ぶとこだったのよ」「……ちょっと、嫌な夢を見ていたから」「水銀燈、の?」 途端、真紅の目が大きく見開かれた。「どうして、分かるの?」「だって」と、雛苺は即答した。「ずっと呼んでたもの。水銀燈……って」 過去、2人の間で何があったのかなんて、雛苺には解らない。しかし、真紅の右腕を奪い、水銀燈との仲を裂いた事件が、今もって悪夢を生みだしていることは、彼女にも察しがついた。 雛苺の脳裏に、あの『パステル』が思い浮かんでくる。真紅を――他人を実験台にすることには、どうにも抵抗があるけれど。 絵を描くことは、平面の向こうに更なる世界を創りだすこと。平面を扉と化すること。その扉の先に、真紅や水銀燈にとって、幸せな未来が続いているのであれば、……やってみる価値は、充分にあると言えよう。 描くべきか、描かざるべきか。それが問題だ。 ……いや。問題でも、なんでもない。雛苺の中で、答えは、もう出ていた。たとえ、それが人道に悖る手段であったとしても――やらない善より、やる偽善。真紅がココロの苦しみから救われるのなら、それで、いいのではないか? 「こんなときに、こんなお願いするのは失礼かも知れないけど。 あのね、ヒナがこの町に来たのはね、絵を描くためなの。 だから……」 ひとつ深呼吸して、雛苺は、決然と切り出した。 「ヒナ、真紅の肖像画を描きたいの! 貴女の右腕が、ちゃんとある姿を、ヒナに描かせて!」 -to be continued-
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