Scene6:フラヒヤ山脈―山頂部―
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フラヒヤ山脈、山頂部。フラヒヤ山脈の頂上部は、ある程度の広さを持つ平地と、その平地の北部から更に伸び上がる急峻な断崖から成る。この急峻な断崖は、南部から登ることなどまず不可能。断崖東部にくり抜かれた小さな亀裂から北部に回り込み、その上でロッククライミングを二度敢行して、ようやくフラヒヤ山脈の頂上は制覇を許すのだ。そのフラヒヤ山脈頂上の一歩手前……最後の休憩所とでも言うべき岩棚に、彼女は佇んでいた。『ガルルガシリーズ』をまとう銀髪の少女は、傍らの紫色の毛並みを持つアイルーの報告で、口元を歪める。無論、不快感ゆえではなく、愉悦によって。『ガルルガシリーズ』で身を固める水銀燈の笑みは、このフラヒヤ山脈の吹雪に負けず劣らず、冷酷だった。「へえ……私達の撒き餌にかかったのは、翠星石と蒼星石? これはちょっと、予想外ねぇ」それが、水銀燈の率直な感想。紫のアイルー、メイメイは小器用に肩をすくめて、水銀燈に報告を続ける。「ちなみに雛苺は今村にはいないみたいだね。村を去り際にちょっと探りを入れてきたんだけど、どうやら雛苺のヤツは今、別の狩場に行ってるみたいだよ」「なるほどねぇ……。まあ、一網打尽にはできなくても、獲物の半分がかかってくれただけよしとするべきかしらねぇ」アイルー用に作られた『マフモフシリーズ』の防具をまとうメイメイ。彼女は陶磁器の容器が擦れ合う音のする皮袋を差し出し、水銀燈にそれを受け取るように促す。それを静かに受け取った水銀燈は、その中身が満載された『携帯食料』と『ホットドリンク』であることを確認し、メイメイの頭を静かに撫でた。「一応聞くけど、この撒き餌に真っ先にかかりそうな真紅は、どうしてこの依頼を蹴ったのかしら?ポッケ村にいない雛苺はともかくとして、あなたに持たせた例の『救援要請』には、わざわざ真紅を指名したのよ?お涙頂戴のお為ごかしが大好きなあの子なら、あの手紙に必ず食いつくと思ったのに……」頭を撫でられるメイメイは、しかし小さく首を横に振る。「悪いけど、そこまではあたいも分からなかった。あたいらは村にいた3人組と、そのアイルー達には面が割れてるんだ。いくら毛染めを使って変装しているからって、下手に深入りはできなかったのさ。ま、察するに真紅はフルフルのあの見た目にビビッて、半泣きになりながら依頼を断ったってとこじゃないかい?」知らず知らずのうちに、真相を突いていたメイメイの冗談。水銀燈は思わずくすくすと声を出して笑う。もちろん笑っていたのは声だけで、その色素の欠けた赤い瞳には、微塵の笑みもなかったのだが。「ふふ……真紅は昔から潔癖症だものねぇ。フルフルのあの見た目に怯えても、そこまでおかしくはないわぁ。あんなものに怯えるなんて、やっぱり真紅もお子様ねぇ」陰鬱に言う水銀燈。その足元を、白いものが這いずる。それは陸上を這って進める、白いオタマジャクシと言えばまず間違いはなかろう。しかしそのオタマジャクシの大きさは大人の握り拳ほどもあり、その巨大な口腔内には細かいながらも鋭い牙が生えた、実に生理的嫌悪感を催すような醜悪な姿をしていたのだが。水銀燈は、その白いオタマジャクシを直視することなく、頂上へ続く断崖に立てかけてあった『セイリュウトウ【烏】』の切っ先をくれてやった。『セイリュウトウ【烏】』の切っ先は、突き刺して使うには若干不向きな形状をしているが何ら問題はない。巨大オタマジャクシは『セイリュウトウ【烏】』で、ほとんど体を両断されるような形で串刺しになった。巨大オタマジャクシは耳障りな奇声を上げて断末魔の苦痛を訴えるが、水銀燈はそれを更に踏み潰す。「キーキーキーキーうるさいわよ。さっさとくたばりなさい」オタマジャクシの頭の部分が、ぶちゅっという不愉快な音を立ててぺしゃんこになった。『ガルルガグリーヴ』の足裏に、白と赤がまだらになったギトギトの汚物がへばりつくが、水銀燈は足を雪面にこすり付けて、それを強引に剥ぎ取る。赤と白の汚らしい水溜りの中ではまだ肉片が泳いでいたが、やがてそれもこの酷寒の中で水溜りごと凍りつく。ちょうど足元で動くものがなくなったのと同時くらいに、水銀燈はメイメイの顔を覗き込み、言った。「さて、作戦第二段階といくわよ、メイメイ。ご親切にも、フルフルにはちゃんと『ペイントボール』をぶつけておいてくれたようねぇ?」水銀燈は「ご親切にも」の部分を意味ありげに強調。この鼻に届く匂いは、山脈下部のフルフルにこびり付いた、『ペイントボール』のものに間違いない。にやにやと笑うメイメイは、手の中で予備の『ペイントボール』を弄びながら、水銀燈を肯定する。「それに関しちゃ抜かりはないさ。これで翠星石と蒼星石の動きが読みやすくなるね」ハンターの鼻を以ってすれば、このフラヒヤ山脈の中腹東部に、今一頭の大型モンスターが存在していることが容易に察知できよう。言うまでもないが、メイメイがこんな真似をしたのは、フルフルの狩猟を助けようという親切心ゆえではない。水銀燈は、その整った鼻梁をもう一度夜空に向けて、口を真一文字に結ぶ。吹雪に混じって、その匂いが水銀燈の鼻を刺激する。「山麓東部に2つの匂い……ハンターの位置確認用の香料ね。『落陽草』を元にしたものと『げどく草』を使ったもの……それぞれ翠星石と蒼星石かしら。あの子達も、愛用の香料は昔から変わらないのねぇ」「水銀燈、連中はどっちに動いてる? フルフルの方か……それとも『ランペ』の方かい?」水銀燈は、鼻梁と共に突き出された顎を再び引き戻し、一瞬の間を置く。出した結論は、慎重なものだった。「ここからじゃ、あの子達とフルフルの位置の関係から、まだ断言は出来ないわねぇ。けれども、あの子達の最初の目標が分かり次第、打ち合わせ通り動くことにするわよぉ」じゃきり、と水銀燈は右手の中で金属音を立てた。いつの間にか、水銀燈の指の間から4本のナイフが現れていた。ハンターが見れば、そのナイフはもみ合いの際に使われる凶器の類ではなく、狩猟に使われる投射用のものであることが分かるだろう。そして『光蟲』のランタンの光を受ければ、表面に毒々しい紫色の液体が塗られていることは、誰にでも分かるはず。水銀燈は4本の紫色のナイフの手応えを確かめてから、アイテムポーチにそれらを収める。もともとアイテムポーチに収納されていたものを合わせれば、この紫のナイフは5本。アイテムポーチの中に入る上限まで、このナイフは用意してある。白色の巨大オタマジャクシの体液で汚れた『セイリュウトウ【烏】』。その切っ先を雪原にこすりつけ、適当に汚れを落としてから、水銀燈は肩に背負い直す。足元に転がらせたままのランタンを拾い上げることも、忘れない。「それじゃあ、ひとまずこの場からは離れて様子見よ、メイメイ。まさかとは思うけど、オトモアイルー用の香料をいつもの癖で付けて来た……なんてことはないわねぇ?」「そういう水銀燈こそ、背中の方から『ハンターの香料をプンプン匂わせている』じゃないのさ?」メイメイは、本来なら愛玩用のパートナーも兼任するはずのアイルーとは思えない、邪悪さすら漂わせるイントネーションで、水銀燈の背後に目をやった。頂上に続く断崖の元で、一つのガラス瓶が砕け散り、中身の液体をぶちまけていた。寒冷地でも凍結しないよう、特別な調合が施されたその液体からは、間断なく匂いが放たれる。その砕けた瓶に興味を示しでもしたのだろうか、新たな巨大オタマジャクシが、その元に這い寄る。その光景を見ることなく、水銀燈とメイメイは目前の崖から飛び降りていたのだが。崖の表面を固いものでざりざりとこする音がしばらく続き、その後にどずん、と雪原に何かが落ちた音が続く。「それじゃあ、しっかりあの子達をおびき寄せるのよ、『ランペ』……うふふふふ……」水銀燈の呟いた意味ありげな言葉と共に、さくさくという雪原を蹴りつける音が雪山に響く。水銀燈の声と足音が、フラヒヤ山脈の夜風の中に徐々に溶け込みゆく。巨大な白色のオタマジャクシ……すなわちフルフルの幼体である『フルフルベビー』は、砕けたガラス瓶の周囲を、わけもなく蠢いていた。ガラス瓶に張られた文字を読むことが出来ない『フルフルベビー』は、このガラス瓶に貼られた、その小さな紙片の持つ意味を生涯知ることはないだろう。そこに書き込まれた文字は、この大陸の言葉で「ランペ・メルクリウス」という女性の名を表していた。ランペ・メルクリウス……すなわちとある言語で、「伝令神の灯火」という意味を持つ、この名前。それは水銀燈が必要に応じて用いる偽名だと、この時知っていた者は、このフラヒヤ山脈にもポッケ村にも、本人達を除いてはまだ存在しなかった。
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