Heart Share Mansion①
はかなくも桜の花びらは散って、新緑の木々がやわらかな風にそよぎ、雨が世界を包みはじめた頃。私はすっかりこの街に溶け込んでいた。わりと適応力があるほうだったのだろうか?田舎にいたころには考えられない生活環境と生活リズムも、今ではすっかり当たり前のものとかしていた。シャワーを浴びてリビングに戻ると着信があったことを知らせる赤い光の明滅。携帯を開くと履歴には実家の番号が記録されている。タオルに髪を挟むように水分を拭き取りながら片手で発信ボタンを押す。数コールの機械音ののち聞こえてきたのは妹の丁寧な口調…『はい――です。』「あー、蒼星石ですか?」一応確認しておく。まぁ万に一つも間違うことは無いのだが。『あっ、翠星石かい?もーっ!何回掛けたと思ってるのさ』「すまねぇですぅ。ちょうどお風呂に入っていたんですよ♪」『相変わらずお風呂が長いんだね。まぁ…変わりないみたいで安心したよ。』 さっきまでの刺々しい物言いから打って変わって優しげな口調になる妹の声。蒼星石も変わりないようで心底ほっとした。「まぁ翠星石にかかれば東京も、なんてこたぁねーですよ。」…冗談混じりにそんな強気な言動をしたことが、今となっては恨めしい。『慣れたころが一番危ないって言うよ?気をつけなよ、姉さん。』妹の言葉は予言のように正しかったのだが、私はそんなことを知るよしもなく「大丈夫ですよ。蒼星石も近いうちに遊びに来るがいいですぅ」と、無邪気に笑っていた。『 Heart Share Mansion 』 第一話「え?家賃が払われてない?」蒼星石の電話から一週間。私の部屋を尋ねてきたのはマンションの大家さん。今、彼女は到底信じられないような言葉をその口から発している。「あんたと私の間に入ってた管理会社が夜逃げしてねぇ」「まだ一回も払ってもらってないのにだよ?この部屋の家賃。」「可哀相だけどあんたに払ってもらうしかなくてね。」そんな、そんな話があってたまるだろうか!「私はちゃんと払ったです!毎月毎月6万8千円!」しかもまだ先の七月分まで払ってあり、敷金礼金とあわせると七十万近くを払っている計算になる。それはおじじとおばばが無理をしてまで出してくれた大切なお金だ。いまさらまた同じだけ出せと言われて出せるものではない。「そう言われてもねぇ。」それからもあーだこーだと長々と続く交渉。かれこれ一時間近くも私たちは話しあい、そして一つの合意を得た。騙されたのは両者とも同じ、大家さんに否がないわけではない。だから大家さんはこの三ヶ月の家賃を私から請求することを取りやめた。無駄かもしれないが逃げた業者に支払いを求めておく…ということである。そして騙されたもう一人の被害者である私はこの六月で部屋を引き払い出ていくことが決まった。理由は私と大家さんの間に賃貸契約が成立していないということ。敷金礼金を払い直すならここにいられるというのだが、そんな余裕は私には無い。したがって私は、あとたった三日間のうちに新しい住まいを探さなければならなくなってしまった…六月の雨の中を独り歩く。傘をさしてはいても心はずぶ濡れで、瞳には涙が溜まりっぱなしだ。『慣れたころが一番危ないっていうよ…』つい一週間前に蒼星石が電話で言った言葉が頭に浮かぶ。なんてことはない。慣れたころどころか始めからずっと私は騙されていたわけだ。『大丈夫ですよ♪』心配する妹にのんきに答えていた自分がうらめしい。何が大丈夫だったものか。私はついには顔をくちゃくちゃにして泣きじゃくり、立ち止まってしまう。傘から垂れた雨粒が一つ、私の腕にポツリと落ちる。――都会の雨は冷たい。肌に伝わるそれは人の冷たさを感じさせてもいるようだ。すれ違う人も追い越す人も涙する私には誰も無関心で、三月の終わり、初めてこの地に足を踏み入れた日を思い出す。あの時もすごく心細くて、戸惑うだけの自分がとてもみじめだったっけ。――けど。そんな私を一人の青年が救ってくれたではないか。少しだけこの街で生きていく勇気を与えてくれたではないか。私は涙を拭って前を見据える。また誰かに助けてもらいたいの?また誰かの優しさに甘えたいの?――本音を言うと助けて欲しいし甘えたい。今のどん底の私の前に手を差し延べてくれる人がもしいるならば、私はその手に縋り付いて、その人のためなら何でもするだろう。だけどそれじゃあだめだ。それじゃあ私が東京に来た意味がない。私は一つの目的を持って上京したのだから。私にとって大切な目的…それは両親を見つける、あるいは両親に“見せつける”こと。育てるべき私たち姉妹を捨て、守るべきおじじとおばばを捨てて、いつの間にか都会に消えて行った最低最悪な両親。私は見つけだして文句の一つも言ってやるために…あるいは東京で大成功して、その姿を見せつけてやるためにここに来たのだ。だからこんなところでへこたれてなんかいられない!誰かの優しさを待っている暇なんてない!私は再び雨に包まれた街を歩きだす。小さな胸いっぱいに膨らんだ決意を込めて…… しかし三軒まわった不動産屋はどこもかしこもにぶい返事だった。蓄えもなく、仕事もアルバイト。敷金礼金は払えやしない状態なのだから当然のことだろう。だがそれに加えて時期も悪かったのだ。安いアパートはことごとく貧乏学生が四月に入居してしまっていたから。失意の帰り道、立ち寄ったコンビニで住宅情報誌を開く。ペラペラとめくってみても私が入れるような条件の部屋はあるはずもなかった。敷金礼金がいらず家賃が安いという第一条件に、アルバイトをしているこの街周辺、できれば駅近くという第二条件。さらに信頼できる大家、または管理会社であるという第三条件が新たに加わった今回の部屋探し。見つかるわけがない。「なんでですぅ…」情報誌を閉じて私はつぶやきを漏らす。それは偶然にも春に駅で漏らしたのと同じ言葉だ。気付いた私は苦笑いを浮かべる。全然ダメダメなままなのだなぁ…と。冷たい雨の中で奮い起こした大きな決意も今や風前のともしびになり、それを消しされるだけの大きなため息とともに私の口からはまたあの言葉。「なんでですぅ…」言葉と同時にプッと私を笑う声が横から聞こえたように思う。笑われても仕方ないくらい私は情けないから気にはならなかったけれど。次に聞こえてきたのはコホンという咳ばらい。そして……「それは…磁気化していない切符なんじゃない?ちょっと見せて…」唐突に聞こえてきた声と内容には聞き覚えがあった。顔を向けるとそこにはやはりあの時の青年。私の手から取り上げた情報誌を眺めて、彼は少し笑みを浮かべる。「これじゃあさすがに改札口は通れないなぁ。」私はびっくりしたまま目を見開いて固まっていたのだが、次第にゆっくりと自分の表情が変わっていくのを感じた。「田舎ものだと、グスッ、思って、グスッ」いつの間にか涙があふれているらしい。からかい顔だった青年の顔も驚いたものへと変化していく。「馬鹿に、ウゥッ、しやがるなですぅ、ふぅえーん」 私は思わず青年に抱き着いて大声で泣き叫びはじめる。「えっ!?おいっ、ちょっと」青年は店員や他の客の視線を気にしつつも突然泣き出した私をなだめようと必死だ。「あんたはいつも泣いているんだな…」言葉は呆れた風でも口調は優しい。「うっせーですぅ、グスッ」会う度に泣いているのは事実だ。まだ名前も知らぬもの同士がまるで恋人のように寄り添っているのはとても不思議な光景であることも。こんな馬鹿みたいな女をよくもまぁ受け止められるものだと思う。本当にお人よしなやつ。抱きしめると全然男らしくないひょろっちい体格がわかる。見上げるとメガネの奥には情けなげな瞳が私を見つめている。こんなやつに再会しただけであんなに張り詰めていた緊張がこんなにも簡単に途切れてしまうなんて…子供でもあやすように私の肩をぽんぽんと叩く手はあまりにも頼りない。だけど私はその頼りない彼の手に確かな安らぎを感じて…強くすがりつき涙をこぼし続けた。
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