お嫁さんの学校~第一幕~
第一幕1春は賑やかなものだ。冬眠から目覚める動物たち、鳥のさえずり、咲き乱れる春の花、自然界は大騒ぎで、万物の霊長なんて自称する人間も、いまだその支配からは逃れられないらしい。浮き足だって街や野原を駆け抜ける少年少女、志も新しく希望に溢れた青年、なんだか間違えた方向にハッスルしてしまっているらしいおっさん……。……とにかく、春になると、にわかに世間は騒がしくなる。まして恋する乙女となれば、言うに及ばずといったところか。なにしろ恋の病は、花粉症より春に弱い。さて、蒼星石はまさに今、この不治の病を患った姉、翠星石の看病をしている。「蒼星石!たいへんです、たいへんなんです……」「うん、わかった、たいへんなのはわかったよ」「たいへんですよ、ジュンが、ジュンが……」「うんうん、ジュンくんだね、うん、うん、それで?」「だからたいへんなんです、ジュンが…!」「それはわかったって、ジュンくんがたいへんなんだろう?」「そうですぅ、ジュンが…ジュンが…!」「うん、ジュンくんがどうしたの?」「ジュンがたいへんなんですぅ!」「あはは……本当にね、たいへんだよまったく」 もうずっとこの調子である。蒼星石は庭に咲く梅の花を眺めながら、あくびを噛み殺して、翠星石が落ち着くのを待っていた。なにしろこの姉ときたら、一度取り乱せば何を言っても馬耳東風、いかなる手段を用いても、彼女の口を封じることはできないのだ。どんなことであっても、それは彼女を刺激して火に油を注ぐ行為以外のなにものでもない。長年の付き合いから、蒼星石はそのことをよく心得ていた。こういうときはひたすらじっと辛抱強く、翠星石の頭が冷えるのを待つのが一番だ。「つまりですね、ジュンのやつ…よりにもよってあんなやつと!ああ……」「え?あんなやつ?」「ああ、そうなんです、聞いてください蒼星石」「うん、聞いてるよ、さっきから」蒼星石はようやく話が進み始めたらしいことを察知して、あちこちと動き回り落ちつかない翠星石に目を向けた。「ジュンくんが、どうしたの?」「あいつ、翠星石の誘いを蹴りやがったです!」「誘い?デートに誘ったの?」「デデ……デートなんかじゃ……ただ、あのチビはどうせ、休みも暇を持余してるでしょうから… 哀れに思って、その……うぅ、それなのにアイツ…!」「…えーと…つまり断られたの?変だな、ジュンくんにそんな勇気があるなんて…」「勇気ってどういう意味ですか!……ただ…その日は先約があるって……」「先約…ああ、先を越されたわけだ。 なるほど、それじゃ仕方ないね、もっとはやくいえばよかったのに。 君が思っているよりずっと、彼はもてるんだよ」 翠星石は握りしめた両の手を胸の前にもってきて、「なんであんなチビが~!」と、その拳をわなわな震わせた。「それは、自分のことを考えてみればわかることじゃないかな?」「…まるで私がジュンに夢中になってるみたいな言い草ですね」「あれ、違うの?」「そんなわけないです!まったく蒼星石は…」「はいはい、わかったよ。で、先約の相手は真紅か水銀燈か、それとも雛苺か、はたまた巴さんか、 なんにしたって、そう珍しいことじゃないと思うけどね」「ああ、蒼星石、最後まで話を聞いて欲しいです」「十分すぎる程聞いたよ。結局、いつもの発作ってことだろう? ほんと、嫉妬深いんだから…。 ジュンくんが誰かとデートするたびに怒鳴り散らされる僕の身にもなってよ。 別の日にまた誘えばそれでいいじゃないか。 それでこの話はおしまい!僕は散歩に行ってくるよ」「蒼星石!」翠星石はまだ何か話そうとしていたようだが、それもいつものことだったから、蒼星石は振り向きもせず、「じゃあね」と一言、そのまま外へ行ってしまった。雲ひとつない快晴で、絶好の散歩日和だった。2家を出てしばらく歩くと、人気のない土と砂でできた散歩道がある。周りをさまざまな木々で囲まれ、ちょっとした林道のような雰囲気で、蒼星石は気に入っていた。 「参るよ、ほんとに」こんなつぶやきも、ここでは誰にも聞こえない。蒼星石はひとり、うんざりした調子で続けた。「翠星石ときたら、ジュンくんのことばかり。…僕の気持ちも知らないでさ。 デートに誘えるだけいいじゃないか、僕なんて、それすらできないんだから。 せめてジュンくんが誘ってくれたら……そんなこと、あるわけないけど。 あーあ、僕がもう少し女の子らしく振舞えれば、こんな思いをしなくてもすむのかな」 姉妹はみんな、一度はデートの経験をもっているが、蒼星石だけは生来の奥手のために、一度もジュンと二人だけで遊んだりしたこともなかった。それは蒼星石の消極さが原因で、彼女に女の子としての魅力がないとか、そういうことではもちろんない。ジュンも蒼星石に負けず劣らずのウブであったから、たとえ蒼星石がどれほどのコケットだったとしても、自ら動かない限りはなんの進展もないだろう。が、彼女はとかくネガティブにものごとを考えがちだった。「……わかってるさ、僕は翠星石のように快活でもないし、真紅のように知的でもない、 水銀燈のように色っぽくもない、こんな僕といっしょにいたって、きっとジュンくんも楽しくないだろう。 そうだ、この前も翠星石と僕と3人でおしゃべりしてたとき、翠星石がしばらく席をはずすと、 まず沈黙が流れた。あれは気まずかったな。そのあとはジュンくんが、 ”えっと”とか”あの”とかいいながら、一生懸命はなしかけてくれて…僕はろくに答えることもできなかった。 おかげで僕はその後、自室で一時間あまり脳内反省会をすることになったんだ。 あのときはああ答えるべきだった、こういうリアクションをとればよかった、 次からは気をつけようと思っても、それっきり僕はジュンくんと話すことさえありはしない。 なんだろうな、もう。死のうか。死にたい。 …いや、待てよ。そういえば一昨日、偶然スーパーでジュンくんに会ったじゃないか。運命? そして、無視しないで挨拶してくれた…そうだよ、挨拶したんだ! で、そのとき僕はなんて答えた?そう、うんとうなずき慌ててその場から立ち去った!やっぱり死のう!」 思わず口から飛び出た言葉にはっとして、あたりをきょろきょろ見回すと、幸いなことに誰もいないようだった。ほっと一息つく。「……何を言ってるんだろう、僕は。一人になるとつい変なことばかり考えてしまう。僕の悪い癖だ。 …はぁ、それにしても、デートか。今回は誰となんだろう? 翠星石があんなやつっていうくらいだから…水銀燈かな? 水銀燈のこと、あまり好きじゃないみたいだし…僕も苦手だけど。 うーん、でもああいうときの翠星石は、誰が相手でもおかまいなしだから、わからないな。 …まぁ、誰だとしても、きっと、ジュンくんはデートだなんておもっちゃいないんだろうけどね。 でも相手の子にとっては……うん、やっぱりデートだよ。はぁ……」蒼星石は立ち止まると、ひとつ深呼吸をして、その耳を澄ませた。風と葉の擦れ合う音が聞こえ、そこへちろちろと鳥の囀りが混じる。あまり開発されていない土地なだけあって、梅に鶯なんて光景が珍しくない。「ふぅ…こうしてると、落ち着くよ。……あれ、猫の鳴き声がする……」にゃあと聞こえた方向を見れば、上り坂というには大げさな、5メートルくらいの緩く傾いたくさむらの先に、立派な木造の家を囲む塀の上で、猫が一匹まどろんでいた。白い毛並に陽光が溶け込んで、見ていると吸い込まれそうになる。現に、蒼星石は引き寄せられるように坂をのぼって、ふと気がつけば、2メートルほどのコンクリートの塀に手を伸ばしていた。「触れるかな…?」と思った矢先、猫は”きゃん”と犬みたいに鳴いたかと思うと、まるで恐ろしいものでも見たかのように、一目散に駆け出してしまった。 「あ、あれ…?」蒼星石はコチンと固まって、さし伸ばされたやり場のない手がひらひらと空を撫でていた。「僕……嫌われちゃったのかな、ははは……」「違いますよ」「へぇ!?」返事を予想していなかった蒼星石は、間抜けな声を響かせて先まで猫がいた場所に見上げると、見覚えのある色白の少女が、細く今にも折れそうな腕をひっかけて、ぴょこんと顔を出していた。「き、きらき…しょう?」「ええ。こんなところで会うなんて、奇遇ですね」「そ、そうだね」雪華綺晶は「うんしょ」と足を塀にのせて、そのまま軽々と飛び降りた。それは女の子には少々高すぎる高さのはずだが、雪華綺晶は躊躇いもせずに、慣れた調子でそれをやってのけた。蒼星石は一瞬感心したが、すぐに目をそらすと、俯いてもじもじとお腹のあたりに手を合わせた。独り言に返事されることは、内容に関わらずなんとも気恥ずかしいものだ。ましてそれが誰もいないと思っていたときに発せられたものであれば、なおさらである。素の自分が、声色や発音の調子に乗って、余すことなく外部に漏れるのだ。というわけで、蒼星石は平生にもましてその内気っぷりをいかんなく発揮しているのである。「……どうして、そんなところに?」やっとの思いで、それだけ言った。「ここは私の家です」「あ、そうなんだ」「はい」 そして会話が止まった。蒼星石はもちろんだが、雪華綺晶も、蒼星石の記憶では明朗な性格とは言い難い。そのうえお互いあまり親しくもなかったし、蒼星石に至っては苦手意識さえもっていたから、沈黙の訪れも当然のことだったといえる。とはいえ、まったく赤の他人ではない。それどころか、雪華綺晶は蒼星石の従姉妹であった。だから、親交が薄いとはいえ、話そうと思えば話せないわけでもなかった。蒼星石は様子を探るように、ちらりと雪華綺晶を一瞥した。白いワンピースを着ている。袖からは雪のように白い肌にほっそりした腕が伸び、全体に漂う儚げな雰囲気などがいかにも特徴的で、右目にしている眼帯が、彼女のもつ独特の空気感をさらにミステリアスにしていた。「ごめんなさい」「へっ?」思いがけない一言に、なにを言おうかと考えていた蒼星石は、再び間抜けな声を響かせた。「猫を見ていたんでしょう?」「ああ……うん、そうだけど」「猫…私のせいで、逃げたの」「え…そうなの?」「ええ」そう言う雪華綺晶は無表情に近く、そこから謝罪の気持ちを感じることは難しかった。「あのこはいつも、私が近づくと逃げるんです」「いつも?」「はい。嫌われてるんでしょう。理由はわからないけど…悲しいわ」 雪華綺晶はやっぱり無表情、いや、どこかうすら笑いを浮かべているようにすら見えて、どうしたって悲しい顔には見えなかった。「えっと……猫、好きなのかい?」「別に、好きでも嫌いでもないですよ」「ふぅん。それでもやっぱり、嫌われたら悲しいよね」「ええ、あんなに警戒されては、捕まえられないもの」「捕まえる?」「猫ってどんな味がするのか、すごく興味があるの」「ああ……そう…」蒼星石が頬をひきつらせるのを見て、雪華綺晶は「冗談よ」と笑った。しかし、その微笑みはまるではかりごとでもしているかのような含み笑いで、先の猫の行動といい、果たして何が冗談なのかも、蒼星石にはわからなかった。やっぱり、この子は苦手だ!蒼星石は心からそう思った。とにかく早く家に帰りたい。何とか適当にお茶を濁して、この場から離れよう…。「ところで、デートってなんのことですか?」「何を言おうかな…適当にいい天気じゃあまたみたいな……えっ!?今なんて!?」「さっき言ってたわ。デートデートって何度も」 飛び上がる蒼星石に、雪華綺晶は面白いおもちゃを見つけた子供みたく、満面の笑みで問いかけた。なぜ雪華綺晶が、大して仲良くもない自分に話しかけてきたのか蒼星石は不思議だったのだが、なるほどこれで納得がいった。蒼星石は思った。絶対に誰にも聞かれたくなかったであろう独り言を、恐らくは一部始終、この抜け目のない、腹の底がマリアナ海溝よりも深くて見えない少女に、もれなく全部聞かれてしまっていたのだ。そして、雪華綺晶はそれが最高の暇つぶしになるとでも思ったに違いない。「いや…まてよ、何も全部聞かれたと決まったわけじゃ…うん、そうだよ、そう…」「蒼星石?」「でも…まさか、死にたいって言ったのも聞かれたんじゃ… 死にたいなんて、恥ずかしい独り言の上位ランクに楽々食い込むネガティブワード… ああ、僕が常日頃死にたがってるとか、もしそんな噂を流されたら…」「聞いてる?教えてほしいわ、誰とデートするの?」蒼星石はすっかり動転して、雪華綺晶がいることも忘れハイパーネガティブモードに入っていた。そしてこのことが、きっと後でまた脳内反省会の原因になるであろうことは想像に易い。「蒼星石」「こうなったらもう、樹海に行くしか…え?なに?」「ようやく顔を上げてくれた。ねぇ、蒼星石、デートってなんのことなの?」「……君には関係ないだろう」冷静に考えてみれば、こういう聞き方をするということは、雪華綺晶はデートという断片しか聞き取れていないらしい。なんとか落ち着きを取り戻した蒼星石は、平静を装いしれっとして答えた。 「あら、秘密なの?残念だわ。面白そうな話なのに」「面白くないよ。なにしろ、僕にも関係がない話だから」「え?」「……まぁ、いいか、言っても。ジュンくんが誰かと今度デートするらしくてさ、 君も知ってると思うけど、翠星石はジュンくんのことが……だからね。 さんざん僕に向かって鬱憤晴らしをされちゃって、思わず愚痴ってしまったんだよ。 恥ずかしい話だけど」「へぇ……」「つまらないだろう?」「いいえ、とても面白いわ」確かに雪華綺晶は、目を細め、にやりとその柔らかそうな頬を緩めていた。「面白い?どうして?」「だって、あなたたちの様子が愉快なものですから」この答えは、蒼星石を不快にさせた。「愉快…ねぇ。そりゃ、外から見たらくだらないかもしれないけど、翠星石にとっては大問題なんだよ」「そうですか?」雪華綺晶が相変わらずニヤニヤしているものだから、蒼星石はますます腹ただしくなって、「君って人は…翠星石はね、本当にジュンくんのことを…」蒼星石が声を荒げると、雪華綺晶は抑えきれないという風に手を口に当て、目だけはぎょろりと蒼星石を見据えながら、くすくす喉で笑った。「翠星石、翠星石って……あなたはどうなの?蒼星石」「……はぁ?」蒼星石は訝しげに答えた。 「どうって…なにがさ」「クスクス……わかってるくせに」透き通った瞳。蒼星石は、何もかもを見通されてるような錯覚を覚え、ぞくっと震えた。「ぼ、僕はなにも…ただ、翠星石が……」「そう、翠星石がね」雪華綺晶はますます楽しそうに、目を細めて、 言った。「蒼星石……いいことを教えてあげる。 私ね、そのデートで、ジュンがどこに行くのか知ってる」「…え!?」「水族館に行くそうよ」「え、なんで…」「水族館に行くそうよ」蒼星石の言葉を遮って、雪華綺晶は繰り返した。あまりに急な、思いがけない発言と、まっすぐに見つめる瞳とで、蒼星石はしどろもどろになって、「いったい君は……」やっとそれだけ吐き出すと、雪華綺晶は黙ったまま、ただにんまりと微笑んでいた。戻る 第二幕
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