《薔薇国志》 第二章 第四節
《薔薇国志》 第二章 第四節 ―少年は初陣に出、少女は号令を発す― (―少年は初陣に出、少女は舞う―より改題)○雲南(ウンナン) 真紅自宅月明かりが煌々と暗闇を照らす夜。とんとん、と包丁がまな板を叩く音。こくこく、と茶が喉を潤す音。前者は薔薇水晶が、後者は真紅がそれぞれ立てていた。「――ねぇ、真紅………」「ん………なに、薔薇水晶?」野菜を切る手を止め、薔薇水晶は真紅に振り返る。同じ様に茶を飲むのを一旦止めて、真紅は薔薇水晶の質問を待った。「明日………なんだよね?――永昌(エイショウ)に出発するの」何時もの様に訥々とした話し方であったが、真紅には姉妹の微かな翳りが感じられた。仕方ないわね………紅の太守は薔薇水晶にばれない様、こっそりとため息をつく。彼女の―雲南の軍士・ジュンが永昌戦について提示したのは、決行日と参加武将、部隊と兵糧だけだったのだから。是が盤上の遊戯であれば、その提示だけで問題なかろう。しかし、今から行おうとしているものは、戦争なのだ――そう簡単ではない。「そうね、明日よ。――不安?」「ぅー………うん、やっぱり、ちょっと………」彼女特有の悩み方をした後、薔薇水晶は少し恥ずかしそうに肯定した。薔薇水晶は己の武官と言う立場をよく理解している。戦場においての緊急的な立ち居振る舞いならともかく、長期的な戦術、ましてや戦略を思案する事は出来ないし、また必要がない。だから、彼女は作戦会議―真紅、ジュン、薔薇水晶、のりのみ―の場でも発言をほとんどしなかったのだが。そんな彼女でも、流石にどの様な兵法を用いるかすら説明がないとなると、不安が生じてしまったようだ。「………そうね。でも、大丈夫よ」「ぅー、そりゃ、ちゃんとどう戦うか知ってる真紅は、そう言うだろうけど………」淡々と同意し、且つくすりと笑む真紅に、薔薇水晶は童の様に拗ねるそぶりを見せた。自分が会議を辞退した後、真紅とジュンが何事かやり取りをしていたのは知っている。その時に、真紅はジュンに作戦を確認したのだろう――彼女はそう思っていた。真紅は太守であり、軍勢長でもある。その事を考慮すれば、薔薇水晶の推測は妥当であろう。しかし――「私も知らないのだわ」――真紅は、事もなげに頭を振った。「………へ?ぇ、え、知らないって………」「言葉のまま。判り易く言うと、私も貴女と同じ情報しか知らないわ」言葉に嘘はない――薔薇水晶は直感でそう感じ取り………しばし、うぅうぅと唸る。真紅の立場・役割を考えれば、自分の推測に間違いはない筈。薔薇水晶は改めてそう思うが、実際には外れているそうだ。だとすれば、と思考を終わらせる――「………わかった。きっと、大丈夫」真紅が、己が姉妹・君主がそれで納得しているなら、自分もそうするべき。微塵のわだかまりもなく、薔薇水晶の不安は氷解した。「そ。安心してくれたみたいで、何より」「あ………、もう一つ。だったら、会議の後、何のお話していたの?」軍議でないのならなんなのだろう………薔薇水晶は素朴に疑問に感じた。戦略ならば聞いてはおくべきだし、内政の幾つかならば力添えもできる。姉妹としてではなく武将として真紅の手助けをする為、問うた彼女であったが。彼女の太守殿は少し口籠った後、そっぽを向く――その表情は、『太主』ではなく『少女』。「ぅ………大した事はないのだわ。それに、話していたと言うより貰っていたと言うか………」「………そんな、やらしー事してたんだ」「ぜ、全然厭らしくないわよ!貰ったって言っても、暑気払いのお薬だし………!」「へー………ほー………ふーん」にまにまにまにま。自身の「やらしい」の言葉と真紅の「厭らしい」というそれには、含まれる内容が若干違うのだが、薔薇水晶に訂正する意思はなかった。ただただ、にまにまと笑む。その笑みを頬に感じ、そっぽを向いていた顔を薔薇水晶に戻し、真紅は言葉を返す。眉尻を吊り上げ、冷たい声で――頬だけは赤くして。「――ともかく。さっさとご飯を作って頂戴。明日に備えて、早めに寝ないといけないんだから」○雲南 兵舎「くぁ~………疲れたぃ。まぁ、なんとかぎりぎり目処はついたかねぇ」腕をあげ肩の関節を鳴らしながら、己が宿舎に戻ってきた歩兵士長。ジュンとの会談後の一週間、彼は寝る間を惜しんで少年軍士の『指令』を実行していた。其れほどまでにジュンが提示した内容は急務だったのだが、少年の覚悟に応えようと歩兵士長は働き続け――形になるまでに仕立て上げたのだ。体の疲労は限界にまで至っている、両の手は既にぼろぼろ………だったが、仕事をやり遂げた彼の表情は充実感に溢れていた。(まぁ、もっとも………用意したもんを使わんに越した事はないがな)少年軍士が彼に頼んだ事は、あくまで策の『保険』である。ジュンの策が巧くいけば当座、必要のない事――その様な表に出ない仕事を黙々とこなせるのも、歩兵士長に年相応の配慮があるからであろう。何時もならば、まだまだ騒がしいこの場所も、明日に出陣となれば話は違ってくるようで。歩兵士長が戻ってきた頃には既に兵の大多数が眠りに落ちているのが、その豪快な寝息により推測できた。足音程度の雑音で目を覚ますほど繊細な者はいないだろう………思いつつも、歩兵士長は意識して静かに自身の寝所を目指した。そろりそろり………後数歩で辿り着く、そんな地点で彼は声をかけられた――「何所行ってたんだよ、おっさん」「迎えが男ってのは物凄く嫌だな。なんとなく。――何の用でぃ、がきんちょ」歩兵士長の言葉通り、寝所の前にいたのは一か月前まで街のごろつきだった若者であった。暗闇に浮かぶ若者の表情に、歩兵士長は苦笑する。なんて面してやがるんだ、と。「怖じ気ついちまったか?」「………俺は喧嘩なら何度もしてるし、怪我だってさせてきたし、してきた。だけど――」「――人を殺す様な事はしてないってか」ぼそぼそと語る彼に浮かぶのは、不安と委縮の表情。冗談めいた返し方をした歩兵士長だったが、初陣となればそれも仕方なかろう、と考えを改める。ましてや、彼らは軍隊に入ってからまともな訓練を受けていないのだから。「しかも、上の連中は娘っ子や坊主じゃねぇか。そもそも、どうやって永昌の奴らと戦うかも聞いてないし………」勿論、末端の自分に具体的な作戦が語られる訳がないのはわかっている。しかし、それでも何らかの能動的行動を指示されると思っていたのだが。直接の上司である歩兵士長から言い渡されたのは、『軍規の徹底』。迷い子の様子を見せる若者に、歩兵士長は自らの過去を映し合わせ――快活に言い飛ばした。長としての義務と、若人を見守る壮年の自分を認識して。「心配すんな………ってのも無理な話だと思うが、まぁ。――お前さんが思っている以上に、嬢ちゃんも坊主も大した奴なんだよ。今日はさっさと寝て、明日に体力を残しておきな」○雲南 桜田家宅閑静な住宅街―陽も落ちたのだから当たり前なのだが―にある桜田家。周りが静かだからか、此処が騒がしいのか――殊更に大きな音が耳に入り込んでくる。恐らく両方だろうな………そんな事を考えつつ、ジュンは姉が起こす騒音を聞いていた。「えっと、保存食と包帯と………あぁ、お薬も入れておかないと!」がさごそと携帯袋に様々な物を入れていく姉を、若干冷ややかな目で見るジュン。用意周到な彼は、姉がそうするかなり以前からちゃんと装備を整えていた。随分と子ども扱いをする………溜息をつき、姉の騒音を止めようと動く。「あのなぁ………そんなの、一週間前には――」「あぁ!?代えの下着三十着分が袋に入り切らない!?」「入ってたまるか!って言うか、人の物を勝手にいじるな!」白い肌着を小さく小さく畳む姉の手からそれを引っ手繰り、ジュンは思わず声を荒げる。疾しい覚えはないのだが、それでも年頃の少年としては気恥ずかしいものなのだろう。非難めいた顔をする姉に一瞥をやり、彼はてきぱきと袋に入れられた物を元に戻す。「大体、薬なんて高価い物を無造作に詰め込むなよ………」彼の言う通り、この時代において薬はとても高価な品物であった。原材料を揃えるのも厄介なのだが、それ以上に調合出来る者がいなかった。結果として絶対数が少なく、衣服や装飾、下手をすると名馬や名器よりも高価で取引されている。「薬と言えば………ちゃんと、真紅ちゃんに武侯行軍散(ブコウギョウグンサン)渡せたのぅ?」嫌な事を覚えている――ジュンは、のりに見えない位置で顔を顰めさせる。もっとも、薬の贈呈は二人の可愛らしい喧嘩をいち早く見抜いた彼女に依っての案であり、覚えていて当たり前なのだが。その事実を思い出し、ジュンは報告する事が義務であるかのように、淡々と告げた。「ふん――軍議の後に渡したよ。また作っておかないとな………」「材料さえあれば、お姉ちゃんでも作れるんだけどぅ………?」おずおずと提案してくる姉に、彼は首を軽く横に振る。元より材料など採りに行かなければなかったし、何より彼女には別の事に専念して欲しかった。ジュンは軍議の際に持ち出し通った案件について、もう一度のりに確認する。「それよりも、姉ちゃんには雲南の増築を早めに終わらせて欲しい」「うん、わかったわ、お姉ちゃん頑張るっ!………なんだけど。街を大きくしても、働く人がいないわよぅ?」「大丈夫。ちゃんと、『連れ帰って』くるさ」衆人が―いや、彼にある程度の信頼を寄せる薔薇水晶や歩兵士長が聞いても、問い返してくるだろう。何がどう大丈夫で、誰をどうやって連れ帰ってくるのかを。しかし、薔薇水晶が真紅の言葉を信じた様に、若者が歩兵士長の言葉に安心した様に。彼の言葉は心配症の姉を納得させる事ができた。のりは、ジュン君がそう言うなら大丈夫ね、とにこにことした純粋な笑みを弟に向ける。――そんな姉に素気ない態度を取ってしまうのは、思春期の少年であれば仕方のない事であった。「………ふん。策が巧くいけば、だけどな。明日早いから、僕はもう寝るぞ。――お休み、姉ちゃん」○雲南 政庁前広場夜が明け、空気も澄み心地よい風が肌に触れる早朝。真紅を高台に頂き、その隣には彼女の軍士たるジュンが。総勢二万の兵士達の最前列には、薔薇水晶とのりが整列していた。並び始めた頃は微かにざわめいていた兵士達だったが、高台に立つ真紅の様を見て――。誰ともなしに口を閉じ、背を伸ばし畏まる。名と同じ色の紅の鎧を纏った彼女は其れほどまでに、威厳をもち、畏怖を抱かせた。陽光の輝きを受け、真紅は静かに告げる。「――私に歩兵隊一万、ジュン・薔薇水晶に同じく五千ずつ。のりは、雲南に残り都市の増築を邁進する様に」滔々と続く言葉に、その場にいる全員が集中する。彼女の声には、そうさせるだけの『力』があった。「兵糧は限度一杯の六十日分――でも、其れまでに終わらせる」真紅の傍らに立つジュンは、表情を変えず、内心で彼女の弁舌に舌を巻く。彼女の声には、表情には、初陣だと言うのに一切の不安も恐れも感じさせない。居並ぶ兵の士気をふつふつと上昇させるまでに落ち着いている様に聞こえた。――紅の君主は、一度口と瞳を閉じ………一拍の間を置き、各々を開く。視線の先を永昌に見定め、言葉に進軍の時を告げ――。「――狙うは永昌!総員、奮起するのだわ!」おおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっ!!広場を怒号で埋め、兵士達は歩みだす。彼らの君主に、勝利を献上する為に――。○雲南―永昌間雲南より永昌までの時間は、徒歩でおよそ六日であり、馬を使うと四日。万を超える兵士を連れての行軍と言う事もあり、数日は伸びるかもしれない。或いは、今の士気の高さを考慮に入れるに、早く着く事もあり得るだろうか。歩く様に軍馬を操る真紅がそう考えていると――。「――真紅、お前と薔薇水晶、矢を遠く飛ばせるのはどっちだ?」横合いから、慣れない手さばきで馬を扱うジュンより、声をかけられた。ジュンの奇妙な質問に、少しばかり首を傾げる真紅。彼が求めているのは、戦での技量ではなく、飛距離の様だ。的を射る正確さならば、恐らく自分だろうけど――真紅がそう答えようとした時。「ばらしーのが、上手。だって、金糸雀に教えてもらったから」――ジュンとは反対側から、薔薇水晶がはいはい、と元気よく手をあげた。身内にしかわからない理由に、首を捻りいぶかしむジュン。彼の様子に苦笑し、真紅は手を振り続ける薔薇水晶に加勢する。「金糸雀―姉妹の一人よ―は、姉妹の中でも弓術が得意なのだわ。もっとも、姉妹全員となると――」「えとね、えとね、金糸雀、凄いんだよ。金糸雀の弓矢、ながーく飛ぶし、とっても痛そう」どうやら、金糸雀と言う少女は薔薇水晶にとても懐かれている様だ。真紅の続く言葉を無意識に遮り、姉妹の一人について嬉しそうに語る。童の様な彼女を、微笑ましく思わないでもないジュンだったが。それを聞き続けられる程の余裕は、彼にはなかった。「――わかった。じゃあ、薔薇水晶。永昌の城壁前についたら、本気の力でぎりぎり届くかどうかの所から矢を放ってくれ」頼まれた薔薇水晶に、ジュンの―軍士の目的はわからない。だけれども、彼は真紅の認めた人であり、自分と同じく真紅の勝利を願う者。彼女が拒否する理由は、何もなかった――「わかった、頑張る」○永昌 市場朗繕軍の進軍は、当然の様に永昌の人々に動揺を走らせる。だが、『境界』の異名を持つ街―何代も前から外敵に晒され、侵攻を妨げている都市の人々は、ほとんど逃げ出す事無く、むしろ自衛団の若者達は迎え撃とうとしていた。耳聡い者でもなければ知らないような、無名の軍隊に負ける訳にはいかない、と。城壁の高台で見張りをしていた一人の若者が、東の方から土煙が上がるのを確認し。大声を張り上げ、仲間に告げる――『外敵』たる朗繕軍の襲来を。血気盛んな彼らは相手の進軍を我先に見ようと同じく高台に上がり――驚くべき一条の閃光を目撃してしまった。それは、城壁前より百五十歩程も離れた場所より放たれた薔薇水晶の一矢。矢は彼女の意思が乗り移ったかのように、真っ直ぐに微塵の揺らぎもなく、城門に突き刺さった。それが開戦の宣告代りとでも言う様に、朗繕軍の兵達から歓声が上がる。真紅とジュンが出会ってより約一月半―彼女達の天下統一は、今この時より始められた。――朗繕軍の宣戦布告から約一週間。永昌の市場より少し外れた所にある何の変哲もない小さな住居に、一人の男がふらりと訪れていた。その場所は、ジュンが諜報時に昔馴染みを訪れた住居。男―既に壮年の域に達していた―は古びた扉を小さくとんとんと叩き、中にいる者に来訪を告げる。返ってきたのは、非常に幼く可愛らしい、童女の様な声。「うゅ………ともえ………?」男は苦笑し、少女の期待と外れた自らの来訪を詫びる。「すまない、巴ではなく、私だ。――外が騒がしくなってきたのでな、余り外出しない様に注意しに来たのだが」男は一旦、口を閉じ………開かれた扉より、少しだけ顔を出した少女の表情を確認する。身体つきからは大よそ判断し得ない幼い顔に浮かぶのは、見知った者が来た事への安堵と語られた事象に対する不安、そして、何よりも待ち望んでいる者の姿が見えないという落胆。負の感情を隠しえない少女に申し訳ない気持ちを抱き、男はせめて少しでも払拭できる様にと、微笑みを意識して語りかける。「まぁ、此処の住人達は士気も高い――そう簡単に競り負けはせんだろう」勝てもしないだろうが、とは続けない。そもそも、永昌の勝利条件は引き分け以上―後二十日ほど、城壁を突破されなければいいだけ。男は、少女を安心させる様に更ににやりと笑む。「巴がいれば、相手の総大将も捕えられたかもしれんのだがな」機嫌取りと聞こえるかもしれないが、その言葉は男の本心であった。自らが指揮を取り敵の大将をおびき寄せ、巴に突撃を実行させる。最低でも相手の戦意を削げ、良ければ大将との一騎打ちに持ち込めるかもしれない。そうなれば、巴ほどの武力があれば、勝ちも同然だろう――男の知る武人の中でも、彼女は一二を争う強さだった。「えへへ、巴、とっても強いの!悪い人なんてすぐにやっつけちゃうの!」待ち人が褒められ、己の様に喜ぶ少女。大輪の花と形容すべき笑みに、男も顔を綻ばせる。が――「そうだな――しかし、戦とは良いも悪いもないものだ」少女に説くには難し過ぎる哲学なのだが、つい語ってしまう。それは、一線を引いたとは言え数年前には将軍にまで上り詰めた男の性質によるもの。男の名は皇甫嵩(コウホスウ)―先の『黄巾(コウキン)の乱』を収めた将軍であった。そして、彼に対する少女は――「うゅ………ヒナにはわからないの」――桃色の装いをした、真紅や薔薇水晶の姉妹、雛苺。案の定の返答をする雛苺に、皇甫嵩は苦笑する。しかし、無理な事を説いたというのも自覚していて、彼は頭を振り、彼女に伝える。「そうだな、まだ早すぎるのかもしれない。――雛苺よ、戸締りだけはきちんとしておくのだぞ」彼女の頭に手を置き、優しく撫でる皇甫嵩。撫でられた雛苺は、難しい顔をすぐさま放棄して、にこにことした童の笑みを見せる。傍から見れば、年の離れた親子か―もしくは、年の近い祖父と孫娘の様に見えただろう。暫くの間、そうしていた二人だったが。皇甫嵩は手を止め、ゆっくりとした足取りで扉から離れていく。武勇高き者が見れば、その背中は武人のそれだと判断しただろうが―判る筈もない雛苺は、扉の隙間から顔を出し、彼に問う。「何所に行くの、こうほすぅ?」戦場では聞いた事もない様な高い可愛らしい声に、彼女に悟られぬように苦笑いする彼であったが。振り向き、彼女に見せた表情は、まさしく歴戦の将。彼は武骨に笑み、行き先を告げる。「なに、昔の血が騒いだのと―朝廷を追われ、世話になっている身だ。老いぼれに出来る助言をしに、城壁まで行ってくる」言葉とは裏腹に、その眼光は鋭く。数年前と変わらず、敵兵を留め、敵将を怯えさせるのに十分なほどであった。もっとも。向けられた雛苺には、その辺に散歩に行ってくる、程度にしか受け取られなかったのだが。「うに、行ってらっしゃいなのー」気の抜けるような笑顔と声に、皇甫嵩は頭を掻く。度量と言う点では、この少女も巴と同じく一介の武将以上なのかもしれない。そんな事を思いながら、彼は城壁への道を歩んだ。○永昌 城壁高台への階段を上がる皇甫嵩は、すぐに自衛団の若者達が発する違和感に気がつく。都市を守る―その結びつきで、非常に高い士気を維持していた彼らだったのだが。彼が此処に着いた時には、その士気は影も形も見えなくなっていた。だが、それよりも彼を悩ませたのは、その原因である。敵勢が推測以上に強過ぎ、同朋が傷つき倒れて行ったのならば理解できよう。城壁に火が放たれ、燃え盛る炎に巻かれているならば同意せざるを得ない。しかし、と階段を急ぎ昇る彼は考える。(死人もおらず、この壁にも損害が欠片も見えぬ………)彼の思考はその通りであり―正確に訂正するならば、怪我人すら一人もいなかった。そう、自衛団及び城壁は、朗繕軍の宣戦布告から一週間、全くの無傷。だと言うのに――(この士気の落ちようはなんだ………?)階段を昇り切り、東から吹く風に晒された時。皇甫嵩は風と共に流れてきた『匂い』に、顔を顰めさせる。濁々としたその匂いは、彼も嗅ぎ慣れたもの。だったが、戦場で立ち込める血や錆のそれとは明らかに違った。高台より城壁前を見下ろせる場所にまで動き――皇甫嵩は愕然とする。「なんだ………是は………?」絞り出したその声に浮かぶのは、ただただ漠然とした疑問。彼を襲う眩暈は、匂いに依るものか、眼下の光景によるものか。――呆然とする皇甫嵩であったが、全てを納得させる糸口は意外にも身近にあった。それは、彼を見かけ、声をかけてきた自衛団の若者が持っていた、何事か書かれている一本の矢。矢は無論、薔薇水晶が放った布告のもの。「皇甫嵩様、あいつら、是一本打ってきたきり、ずっとあぁなんですよ」朗繕軍を見下ろしながら、困惑した声の若者。自分も同じ様な表情をしているのだろう――皇甫嵩はそう思いながら、矢を受け取り。其処に書かれた文、微かに聞こえる朗繕軍の兵達の声を手掛かりにし。彼らの策を―ジュンの策を、悟る。「なるほど………なるほどな。くく、ははは、見事、実に見事だ!彼の大将、もしくは軍士か――あの戦場の誰よりも、策士かも知れぬぞ」かつて己が指揮を執った黄巾の乱を思い出しながら、皇甫嵩は、実に愉快そうに笑う。唐突に快活な笑みを放つ彼に、若者は「どうすりゃいいですかね」と、頭を掻きながら尋ねる。尋ねられた皇甫嵩は、そのまま低く笑いながら、問い返す――「どうしたいのだ?」問いに問いが返ってくるとは思っていなかったのだろう。若者は暫しの間、沈黙し。――眼下に視線をやりながら、皇甫嵩が思った通りの答えを返した。○永昌 城壁前。皇甫嵩が城壁に上がった頃。赤い額に手をあて、濁々とした意識を振り払う様に、朗繕軍の若者は立ち上がる。勢いよく顔を起こした所為であろう――奮い立たせた筈の意思は、またもや消えかかった。だが、と彼は奥歯を強く噛みしめながら揺れる足を叱咤する。今、眼前の相手に立ち向かえるのは自分一人。憎まれ口を叩きながらも、心の何所かでは頼りにしていた歩兵士長の姿は、宣戦布告より数日後、全く見かけなくなった。歩兵士長以外の見知った者は皆、地に倒れ伏していた。苦悶や怖れ、果ては恍惚の表情をしている同胞達。其処で倒れてる奴とは、昔よく一緒に悪さをしたっけ。あそこで伏してる友人とは、今度飲む約束をしていたな。傍で動かない昔馴染みは………この戦が終わったら、祝儀をあげるって言ってたな。眠る様に沈む彼らの仇は、もはや自分にしか取れない。若者は噎せかえる臭気に気後れする心を抑えつけ、己が獲物を手にした。相手は、此方の意思を全て薙ぐ様な、底の見えない笑みをしている。だけど――負ける訳には、いかないっ!「おらぁっ、次は酒場でいっちばん安い醪酒(ロウシュ)だぁ!ばらしーちゃんみたいなお嬢ちゃんじゃ飲んだ事もない様な安ざ――」「――んくんくんく。………ぷは。………不味い、もう一杯」「一気ですか。………やばぃ、飲みっぷりに吐き気が」「………吐くなら、見えないとこで。――皆………弱い」片手に酒杯を持ち、片手で口を拭う薔薇水晶は、どこからどう見ても『酒豪』であり。彼らを覆う臭気は酒気であり、辺りに散らばるのは酒杯や兵糧として持ってきた携帯食。その様は、誰がどう見ても、宴会―兵三万全員参加の、大宴会であった。「………お前は、飲まないのか?」薔薇水晶と違い、酒を一滴も入れていない真紅に、傍らのジュンが語りかける。彼が知る限り、真紅はこの乱痴気騒ぎが始まった初めの頃―宣戦布告の直後―より、一度も酒を飲んでいなかった。酒だけならまだしも、彼女は好物の茶すら飲んでいない。――酒気に顔を若干顰めながら、真紅はジュンに返答する。「下戸だもの。それに――」意外な答えに驚きつつ、ジュンは言葉の先を促す――「それに?」「私が『のみたいもの』も、貴方と同じなのだわ」変な理屈だな、と一瞬思う彼であったが。真紅の言葉に込められた意味に気付き、もしかして、と声を潜めて再度尋ねる。「………『策』に、気づいたのか?」「永昌の戦力だけを気にして、此方の戦力には無頓着。一方で内政を必要以上に引き上げさせ、働き手が足りない状態を作り。その占めに、城壁からは飛び道具も届かない地点―手も足も出ない場所で大宴会を見せつける。呑みこむ気でしょう?――永昌の人々を」「ご名答」「………こういうやり方は、気に食わないか?」「今度は、お酒じゃなくてお茶を持っていきましょう」「………金がかかりそうだな」「優雅で良いじゃない?――双方に死傷者もなく、都市も焼かれない。素敵な戦い方なのだわ」真紅はにこりと微笑み、ジュンは鼻を人差し指でこすりながらそっぽを向く。彼の可愛らしい照れ隠しにくすくすと笑い声を零す真紅。心を見抜かれた彼は、心にもなく否定しようとするが――。真紅の鈴の様な笑い声と柔らかい表情に、彼自身も笑みを浮かべる。「――貴公らのどちらかが、総大将かな?」二人を包む優しい空気を変えたのは、西から―永昌から――来た者・皇甫嵩であった。彼の出現に、初めての相手側との接触と言う事もあり、緊張するジュン。一方の真紅は、ジュンと違った感覚で、皇甫嵩を緊張した面持ちで迎えた。「貴方は………何故、こんな所に………?」自らを知っている風な少女に、皇甫嵩はほぅ、と声を上げる―「何所かでお会いしたかね」「………『会って』はいない。ただ、『見た』だけなのだわ」はぐらかす様な言い方に、皇甫嵩は首を傾げる。少女の言葉に嘘はないだろう――もし、この特異な風貌の少女と過去に出会っていたならば、記憶に残っている筈だ。だとすれば………少女も、己と同じく朝廷、もしくはその付近にいた者なのだろうか。そう聞こうとした時、彼女の傍らの少年に遮られる。「――二つ。あんたは誰だ。それと、何の様だ?」ぶっきら棒な言葉に明らかな敵意を感じ、皇甫嵩は少年に聞こえぬ様、くぐもった笑みを零す。その理由は概ね、以前歩兵士長がジュンに向けた笑みと同じ様なものであった。噛みついてきそうな視線を感じつつ、皇甫嵩が質問に答えようと口を開く――前に。「使者に敵意を向けてどうするのだわ!彼は、ほら、貴方が『もっと巧く黄巾の乱を鎮められた』って言っていた――!」「あぁ、そんな事も………………――って、じゃあ………皇甫嵩将軍!?」少女に一つめの質問を潰される。云われ様に苦笑していると、少年は年相応の少年らしさで慌てふためき。少女は少女で己の失言に、続く言葉を失ってしまったようだ。皇甫嵩は苦笑を快活なそれに変え。「確かに、この策を考えつく貴公ならばもっと巧いやり方を考えられよう、少年軍士殿」少年と少女を落ち着かせようと自らの両手を二度三度叩き合わせ。「さて――私は、貴公の言う通り永昌の使者を任せられたのだ、少女大将殿」一本の矢を見せながら、告げる。「永昌の人々は、『宴会を共に楽しもうではないか』の誘いに、『是(ハイ)』の答えを返す。――貴公らの、勝ちだ」杯を酌み交わす事は親交の証であり。統治する者のいない永昌においては、傘下に入ることを意味し。真紅達・雲南側は永昌という境界の都市を手に入れ、永昌の人々は雲南という働き場所を得た。朗繕軍の初陣は、一兵の死傷者も出さず、建造物に損害もなく、勝者も敗者も笑いながら終焉を迎える。それは、太守・真紅の言う通り素晴らしい戦い方であり。軍士・ジュンの思い描いたままの勝利であった。―――――――――――――《薔薇国志》 第二章 第四節 了
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
1文字以上入力してください
本文は少なくとも1文字以上必要です。
1文字以上入力してください。