水銀燈の野望 烈風伝 ~紀州雷動編~
<あらすじ>時は戦国の世。備前国に「薔薇乙女」と呼ばれる8人の姉妹がいた。天下統一の野望を抱く長女・水銀燈は、戦国大名となって上洛を果たし将軍・足利義輝の信頼を得る。しかし将軍の弟・足利義秋の陰謀により、幕府は水銀燈に対する討伐令を発令。和解を願う明智光秀の奔走も虚しく、水銀燈と足利幕府の対立はいよいよ決定的なものとなる。<本編に登場する主な史実武将>○織田信長(おだ のぶなが/1534~1582)言わずと知れた戦国時代の覇王。尾張守護代庶流に生まれ、尾張統一後美濃へ進出し、「天下布武」を掲げて全国統一を目指す。浅井、朝倉、本願寺などの勢力を次々と倒し、足利幕府を滅ぼして覇を唱えるが、明智光秀の謀反により本能寺に散った。本編では足利義秋の策略に乗じて水銀燈と対立。その後も薔薇乙女の運命を左右する存在となる。〇羽柴秀吉(はしば ひでよし/1536~1598)信長に才覚を見出され、織田家に仕える。美濃攻めや小谷城攻囲など重要な合戦で大活躍し、家中で頭角を現していった。本能寺の変後は明智光秀、柴田勝家を討って織田家の勢力を継承し、遂には天下統一を果たす。城攻めの名人として有名。本編でも織田家臣の一人として活躍。なお登場時の名は木下藤吉郎秀吉である。――永禄八年十一月。水銀燈のもとへ和睦案を伝えに向かった使者が、二条城へと戻ってきた。義輝「使者の役目、ご苦労であった」将軍・足利義輝の横には弟の左馬頭義秋が控えていた。心労のせいで表情の暗い義輝とは対照的に、義秋はいたって上機嫌に笑みを浮かべている。使者の届けた和睦案は、畿内における水銀燈の領地のほとんどを幕府に返納させるという、実に挑発的な内容であった。誰がどう考えても、そのような提案を水銀燈が受け容れるはずもない。拒否した時点で幕府への明確な反逆とみなし、一向宗、織田、浅井、朝倉などの勢力に一斉に号令して水銀燈を討滅する――それが義秋の思い描く薔薇乙女滅亡のシナリオであった。義秋「して、水銀燈はいかに返答したのじゃ? ん?」家臣「は、それが……左中将様は快く承諾なされてございます」義秋「はっはっは、そうであろう。これで水銀燈の叛意は明白、直ちに軍勢を……ん? 今、何と申した?」家臣「ですから、左中将様は受け容れると……」義秋「受け容れるじゃと!? 馬鹿な! あのような案を突きつけられて、応じる馬鹿が何処に……」義輝「……」ジーはっ、として義秋は口をつぐんだ。そもそも、その和睦案を義輝に提案したのは義秋本人なのである。義輝「コホン……して、左中将のその後の動きはどうなのじゃ」家臣「はっ。山城の諸城に駐留していた軍勢は多くが引き上げにかかり、摂津方面へ行軍を始めておりまする」義輝「そうか。どうやら、左中将は本気で和睦を受け容れるつもりのようじゃな」義秋「ばっ、馬鹿な! 兄上、これはきっと奴の謀事にござりますぞ。いったん和睦に応じる振りをして――」義輝「それならば、京周辺から兵を退くことはあるまい。少なくとも、幕府に直接弓引くつもりはないと見てよかろう」義秋「さ、されど……」義輝「それに考えてもみよ。あの左中将を討つとなれば、あと何年戦が続くか知れぬ。やはり討伐令は行過ぎであった……」義輝にしてみれば、水銀燈が自分に楯突くに忍びなく、全てを投げ打って矛を収めてくれたのだと思いたかった。義輝「左馬頭。いま一度、和睦の条件を吟味してみよ。今度は双方が本当に和するためにな」義秋「……はっ」将軍である兄に真剣な表情で命じられ、首を縦に振るほかない義秋であった。その翌日、細川藤孝は洛中にある明智光秀の屋敷を訪れていた。光秀「なんと、左中将殿は和議に応じられたか……」前日の二条城でのやり取りを聞いて、光秀は意外に思った。あの降伏勧告に近い内容の和睦案を示されては、さすがに水銀燈も腹をくくるしかないと思っていたのである。藤孝「その後、左中将殿は伏見城から摂津へ引き上げるといって、兵を撤退させたそうにござる」光秀「摂津へ、でござるか」そこに妙な引っ掛かりをおぼえ、首をかしげる光秀。光秀「兵部殿。左中将殿は確かに摂津を目指す、と?」藤孝「使者の話を聞く限り、それは間違いないようですな」光秀「兵を退いたのは幕府への恭順を示す為であろうが、それならば何ゆえ摂津なのでござろう?」藤孝「うむ、言われてみれば……」和睦案の中では、摂津国も幕府に返納すべき地として記されている。和議を受け容れるとしながら、明け渡すべき土地に再び居座るというのはいかにも不自然であった。藤孝「いっそ真紅殿の居る播磨まで退くと申されれば、公方様もより安心するでしょうな」光秀「左様。あるいは紀伊の門徒衆の巻き返しを警戒されておられるのやもしれぬが……」さまざまな理由を思い浮かべてみる光秀だが、心の底に燻る深刻な不安をかき消すことはついに出来なかった。――年は明け、永禄九年正月。紀州、根来城。鉄砲を用いた戦法を得意とする武装集団、根来衆(ねごろしゅう)の根拠地である。根来衆は領内にいくつもの砦を築き、外部からの侵入者に備えていた。その砦のうちのひとつに、騎馬を駆って接近してくる小さな集団があった。兵士A「おい見ろ。何だ、あれは」兵士B「敵か? それにしては数が少ないが……」見たところ、その数はおよそ数十人に過ぎない。が、見張りの者がじっと目を凝らすうちその数はみるみる増え、あっという間に雲霞の如き大軍勢に変貌していた。兵士A「てっ、敵だぁっ! 騎馬隊の大軍だあっ!」兵士B「し、城にいる本隊に知らせねば……!」巨大な黒雲のような騎馬武者の大集団は、信じ難いほどの速さで砦に押し寄せてくる。その中核に、漆黒の翼のような羽根飾りを纏った女が黒鹿毛を疾駆させていた。長い銀髪をなびかせつつ、女は剣を抜きつれ、虚空を斬り裂くような勢いで鋭く振るった。兵士A「あ、あれは! す……ぐぇっ」言い終えぬうちに、見張りの者は絶命した。砦を守っていた者たちの阿鼻叫喚の悲鳴も、雷鳴のような轟音の中に飲み込まれていく。多くの者は自慢の鉄砲に弾を込める暇もなく、馬蹄に踏みにじられ無残な死骸に成り果てたのだった。顕如「昨夜の雷は凄まじかったのう……空には雲ひとつなかったというに、どうしたものか」ここは雑賀城。紀州一帯に根を張る雑賀衆(さいかしゅう)の根城である。石山本願寺を追われた顕如ら門徒衆は、この地で雑賀衆の力を得て再起を図っていた。門徒「上人様、一大事にございます! 根来城が何者かの手に落ちたとのことにございます!」顕如「な、なんと! それはまことか!?」門徒「根来衆の生き残りが逃げ込んで参りましたゆえ、間違いございませぬ」顕如「なんたること……して、敵は? 敵はいったい何者なのだ」門徒「敵は旗印を持っていなかったようで、それは分かりませぬ。しかし、その人数は三万をゆうに超えると申す者もあります」顕如「さ、三万……!」門徒「根来衆の多くは殺され……もはや再起は不可能とのこと」顕如は言葉を失った。頼みと思っていた紀州の武装集団のひとつが、束の間に消滅してしまったのである。顕如「いったい何者が……あるいは鬼神か……」瞬時に浮かんだのは本願寺を奪った憎き敵の名だが、幕府との和睦が成った今、わざわざこの地へ攻めてくるとは思えなかった。かといって、そのような大軍を集められる勢力は畿内にそうはいない。門徒「なお、敵は真っ直ぐにこの雑賀城を目指して進軍中とのことにございます!」顕如は心底戦慄した。(さては、昨夜轟いた雷鳴は不吉の前兆であったか……)銀「これでよかったのかしらねぇ……」雑賀城攻撃の布陣を終えると、水銀燈は幔幕の中で独りごちた。松永久秀「今にして何を仰せられます。比類なき戦果をあげられ、根来の衆を根絶やしにしたではありませぬか」銀「そのことよぉ。いくら紀州の土豪相手とはいえ、これで将軍家との和議はパァになっちゃったわぁ」久秀「幕府は紀州を攻めるなとは一言も言うてはおりませぬぞ。それに、あのような和睦案は破ったとて至極当然のこと」具足を纏って側に控える雪華綺晶と薔薇水晶は無言のまま。二人は久秀の言うことにも一理あると思っている。――和睦の使者がやって来たあの日。幕府の示してきた和議の条件は、水銀燈の家臣たちを激昂させるに十分であった。当の水銀燈は、使者に対しては終始丁重な態度を崩すことなく応対した。が、使者が引き下がった途端に書状を引き裂き、「バカにすんじゃないわよ!! 屍骸(ジャンク)になりたいのぉっ!!?」と絶叫したのであった。雪華綺晶、薔薇水晶、雛苺もその心の内はまったく同じである。彼女らの怒りは、和議を提案した張本人であろう左馬頭義秋に一様に向けられていた。久秀「お怒りはもっとも至極にござりまする。されば、すぐにでも軍勢を発し、京を――」雪「お待ちあれ」その時雪華綺晶が久秀の言葉を制した。激情を必死に殺した声色だった。雪「それこそまさに幕府の――いいえ、左馬頭殿の狙うところですわ。ここはひとつ、一度は従ってみるべきかと存じます」久秀「そんな必要はありますまい。事ここに至っては、下手な小細工は無用でござろう」銀「待ちなさい、弾正――いいわ、きらきー。和議に応じるとして、その後はどうするの?」雪「それは――」京周辺の全軍に撤収を命じ、軍勢を集結して摂津から大和を経て紀州東部へ侵攻。一向宗の残党を屠って紀州を一挙に掌握し、再び京へ攻め上るというものであった。足利家と即座に雌雄を決すべしと言い張る久秀を抑え、水銀燈は雪華綺晶の策を実行することにした。そして翌日再び幕府の使者と面会し、和議を快諾したのである。薔「作戦は……大成功、じゃない? 銀ちゃん」銀「今のところは、ねぇ」他の勢力に気取られることなく大軍を移動させる方法も、雪華綺晶が考案した。兵士たちを商人や僧侶などに変装させてばらばらに送り込み、紀州に入ったところで再び集結させたのである。水銀燈自身、旅芸人に身をやつして幕府方の忍びの目を見事に欺いていた。紀州に攻め込んだ薔薇乙女軍の兵力は、正確には二万四千である。大軍の勢いに呑まれた根来衆には、その数が実数よりも多く見えたであろう。久秀「まったく、雪華姫様の鬼謀には恐れ入り申した。この弾正など、とても及ぶところではござりませぬ」雪「まぁ、そのような。お世辞を申されても何も出ませんわよ?」薔「すごいよ、雪華姉」パチパチ雪「もぅ、ばらしーまで……この戦いの鍵を握っているのは、私ではなくあの子ですわ」この戦場に来ていない、もう一人の姉妹――雛苺は、ある重要な使命を帯びて別の地へ赴いていた。雪「本当の戦いは、むしろこれから……ですから、ね? 姉上」銀「わかっているわ」目の前の城塞には門徒を統べる法主・顕如が立ちはだかっている。そして、顕如を倒した後には……銀「ここまで来た以上、もう、後には引けない……これからの戦い、この水銀燈が必ず制してみせるわぁ」その頃、伊勢国。雛「うゆ……なんだか、怖いの……」雛苺は織田信長のいる大河内城の門前へ来ていた。義秋の謀略で敵対関係にあった織田家と和睦し、さらに盟約を結ぶためである。信長は伊勢から幾度となく出兵して大和を脅かしていたが、水銀燈はかねてより織田家との全面衝突は避けたいと願っていた。雛苺に任せて大丈夫かと水銀燈は危ぶんだが、雪華綺晶は彼女こそ適任と見て強く推薦したのだった。雛「ううん……水銀燈のためにも、ヒナを信じてくれたきらきーのためにも……がんばらなくちゃなの!」意を決し、雛苺は城内へと足を進めていった。城内には武具に身を固めた兵たちがひしめいている。軍律の厳しいことで知られる織田家らしく、そこには合戦前夜にも似た緊張感が漂っていた。(うゆ~……や、やっぱり怖いの……)せっかく奮い立たせた勇気が、一歩踏み出すごとに萎んでいくようであった。?「おやおや? これは、どこの姫様かの?」雛「ふゆ?」背後から響く間の抜けた声に、思わず振り向く雛苺。そこには色黒の、やけにひょうきんな顔をした背の低い男がしゃがみこんでいた。雛「あー! おさるさんなのー!」?「ははは、やっぱり猿に見えるかの? そうじゃそうじゃ、俺はお猿さんじゃ」雛「わーい♪ さるのぼりぃー♪」一気に緊張感の解けた雛苺は、男の背中にひょいと乗っかってしまった。?「わっ、こらこら。急に背に乗るでない、重いではないか」雛「むっ。れでぃにむかって『重い』とは、失礼せんばんなのっ! もうっ、ぷんすかなのーっ!!」ポカポカ?「いててっ。これ、やめんか。わかった、悪かった、謝るから許してくれ、な?」雛「だめなの! ししゃをぶじょくするような悪いおさるさんは、ヒナがこらしめてくれるのーっ!」ポカポカ?「いてっ、いてて。ははっ、まったく元気な使者殿だわい……えっ、使者!?」雛「そうよ? ヒナは、水銀燈からじゅうだいなるしめいをうけてさんじょうつかまつった、れっきとしたししゃなのよ」?「は、はぁ……」あどけない口調で言われても、その使命の重要性がいまいち実感できない。?「そうか、ヒナ殿は水銀燈殿の使者であったか。なれば我が殿のもとに御案内せねばなるまいの」雛「わかればよろしいの。ちなみに、ヒナの名前は雛苺っていうのよ」?「そうかそうか、雛苺殿か。俺の名前はな、木下藤吉郎秀吉じゃ」雛「ふゆ。さるのぶんざいで長ったらしいなまえなのね」秀吉「(つД`)」秀吉に背負われてきた「使者」を一目見たときには、さすがの信長も閉口した。しかし、雷電の如き頭脳を持つこの男は、一呼吸する間にはいつもの厳格な顔つきに戻っていた。秀吉「殿! 薔薇乙女家よりの使者殿をお連れしましてござりまする」信長「であるか。下がってよい」秀吉「ははーっ」額を畳に擦りつけて平伏する秀吉を、雛苺は不思議な面持ちで見つめ、そして向き直った。二間ほど先にいるのは、彫りの深い塑像のような表情をした男。切れ長の瞳が放つ光は業物の刀のように研ぎ澄まされており、城内の緊張感はみなこの男から放たれているのかと思えるほどだ。(う……うゅ……)信長と目が合った瞬間、雛苺はもう涙目であった。ここに来るまでに何度も「怖い」と思うことがあったが、今がまさにピークである。雛「お、おめどおりかない、きょーえつしごく……左兵衛大尉(さひょうえのだいじょう)雛苺ともうします、なの」信長「であるか」雛「か、か……かずさのすけどのにはごけんしょうにあられるごようす、しゅうちゃくしごくにぞんじます……なの」雪華綺晶に教えられた口上を、喉の奥から震える声で搾り出す雛苺。雛「わがあね、水銀燈からのしょ、しょじょうをこれに……どうかごらんいただきたく……なの」信長「であるか」それだけ言って、書状を受け取り目を通し始める信長。その甲高い声に、いかにも重厚な顔立ちとのギャップを感じる雛苺であった。信長が書状を読んでいる間、静寂の合間にふと、笑いを押し殺すような息遣いが聞こえた。そっと振り返ると、退出したはずの秀吉がふすまの陰から丸い目だけを出して覗き込んでいた。(おさるさん! たすけてなのー)ひそひそ声で必死に訴えかける雛苺。(そんなに怯えなさるな。殿は元来お優しい御方じゃ)秀吉もまた、ひそひそと囁きかける。信長の鋭い視線が飛んだ。信長「下がれ、猿」秀吉「はッ!? ははーっ!」呆れるほどのスピードで逃げ出す秀吉。その様子の可笑しさに、雛苺の恐怖心も幾分和らいだ。信長「承った。左中将殿に伝えられよ」雛「……ふゆ?」唐突に言われ、雛苺は思わず首を傾げてしまった。信長「聞こえなんだか。同盟の儀、この信長に異存ないゆえ承知いたしたと申しておるのじゃ」雛「はっ、はいなの! ありがたきしあわせなのっ!」信長「ん。御苦労」信長は素早く立ち上がった。コマ落としの映像のように、その動作には一切無駄がない。むしろ、無駄に速かった。(ふゆ~……お、おわったの……)信長「雛苺と申したな」雛「ひぅッ!? は、はいなの!」いったん安堵したところへいきなり声をかけられ、雛苺は文字通り飛び上がった。信長「左中将殿には、南蛮で幼き日を過ごした妹がいると聞いたことがある」雛「うゆ……それ、ヒナのことなの」信長「であるか」「ヒナ」という一人称を瞬時に理解し、信長は再び座った。繰り返してきた短い返事に、今までとは異なる響きが加わっている。雛「あ、あの……かずさどのは『ようろっぱ』のこと、知ってるの?」恐る恐る尋ねてみる雛苺。信長の官名「上総介」を勝手に略していることに、自分でも気づかない。信長「南蛮僧が一度訪ねてきた折、多少は聞いた。が、詳しくは知らぬ」雛「じゃあじゃあ……」着物の袖に手を入れ、何かを取り出そうとする雛苺。出てきたのは、白い小さな布包みであった。信長はそれを受け取ると、早速に包みを解く。中には香ばしい香りを放つ、一辺が一寸ほどの四角い物体が入っていた。信長「菓子か」雛「うゆ。『びすけっと』なの」雛苺の幼い頃からの好物のひとつである。大河内城までの道中も、心細くなるたびに齧りつつ歩いてきたのだ。信長はビスケットをひとつつまむと、幾度か裏返しながらしげしげと眺めた。その眼差しは先ほどまでとは打って変わり、少年のような好奇心に満ち溢れていた。やがてビスケットを半分ほど齧り取り、ゆっくりと咀嚼する。雛「ど……どぉ?」信長「ん……美味い」信長は、微笑んだ。「にっこり」という擬態語そのままの、あどけない、輝くような笑顔だった。雛「よかったの……♪」つられて雛苺も微笑んだ。笑顔の輝き具合なら、こちらも引けを取らない。雛「じゃあじゃあ! 堺にもどったら、いっぱい『びすけっと』買って、いっぱいかずさどのに贈ってあげるの♪」信長「であるか」笑顔のまま、信長は答えた。信長「今日は愉快であった。次に来る折は南蛮の話を聞かせよ。猿も喜ぼう」無駄のない動きで再び立ち上がり、信長は奥へ去っていく。が、途中で足が止まった。雛苺の方へ顔を向けた。信長「『びすけっと』の件、ゆめ忘れるでないぞ」雛「うん!!」雛苺の笑顔が、弾けた。――永禄九年二月。紀伊国。雑賀城は、まだ陥ちていない。根来城を一気に陥とした勢いから一転して、水銀燈は慎重な包囲攻撃に切り替えていた。理由は雑賀衆である。鈴木佐大夫を首領とする雑賀衆は、いわゆるゲリラ戦を得意としていた。陣形を組むことなく少人数の集団に分かれ、地形や夜陰を利用して敵陣を撹乱するのである。彼らが大量の鉄砲を所持していることも考慮し、水銀燈は雑賀城を包囲して徐々にその力を削ごうとしていた。銀「こうゆうやり方、あんまり好きじゃないんだけどぉ……」慎重な姿勢を保ちつつも、水銀燈は一挙に勝利を決する機を窺っていた。なにしろ近江を除く畿内の軍勢のほとんどを紀州に連れて来ている。ぐずぐずしていれば幕府の直属軍が動き出し、手薄な京周辺の要所を奪われる恐れがあった。雪「敵は今までの相手とは違いますわ。確実に息の根を止めるには、もう少し相手が弱るのを待たなければ」銀「わかっちゃいるんだけどねぇ」やがて、伊勢から雛苺が戻ってきた。銀「おかえりぃ。でぇ、首尾は?」雛「うん、うまくいったのー!」銀「ホントに? よくやったわぁ、お疲れ様ぁ」喜びのあまり、水銀燈は思わず雛苺を抱き締め、その頭を何度も撫でた。これで当面の敵がひとつ、戦わずして消えたことになるのだ。雛「えへへ♪」銀「それにしても、こんなに上手くコトが運ぶとはねぇ」雛「だってだって、かずささんもおさるさんも、とってもイイ人だったもん♪」銀「かずさ……さん? おさる、さん……?」雪「どうやら、随分と気に入られたようですわね。うふふ♪」一週間が過ぎた。銀「敵もだいぶ弱ってきているハズ……そろそろ決着をつけるわよぉ」遂に総攻撃の断が下る。水銀燈は島左近、松倉重信、荒木村重らにそれぞれ五百ほどの兵を与え、先鋒として進撃させた。鉄砲を散発的に撃って応戦する雑賀衆を、勢いで蹴散らしていく先鋒部隊。が、ほどなくして陣の後方から銃声と悲鳴があがった。左近「ちいっ、伏兵か! 退けっ、退けいっ!」先鋒隊は散を乱して撤退していく。雑賀衆の頭目・鈴木佐大夫重意はこの機をとらえ、猛反撃に転じた。重意「かかったぞ! 一人も生かして帰すな!」柵や土塁の間からわらわらと群がり出てくる雑賀衆。ばらばらだった小部隊はいつしか集団となり、逃げ惑う薔薇乙女軍を狙撃しつつ追いまわしていく。しかし、やがて彼らの足は止まった。前方に見えるのは真っ黒い帯のような大部隊――水銀燈指揮下の騎馬隊三千が待ち構えていたのだった。重意「し、しまった! 散れっ! 散開して逃げろっ!」だが、時すでに遅かった。鞍上で剣を振るう水銀燈の合図で、騎馬隊は一斉突撃を開始する。横長にずらりと並んだ真っ黒い壁のような軍団。それが一糸乱れず、それでいて津波のような猛威で押し寄せてくる。銀「よくやったわ、左近。これでうるさい蝿どもをまとめて一掃できる……騎馬鉄砲隊の恐ろしさ、存分に味わうがいいわ!!」耳をつんざくような轟音が、辺りを飲み込んだ。騎馬隊の最前列の兵が、騎乗のまま一斉に鉄砲の引き金を引いたのである。一瞬で数百人が血に染まった。倒れこんだ肢体を容赦なく踏みにじり、騎馬隊はますます気勢をあげて追いすがる。重意「な、なんだ!? あれは……」雑賀衆には、状況が理解できない。ただただ恐怖心に駆られ、肉食獣に追われる小動物のように懸命に駆けるばかりであった。歩兵の鉄砲隊ならば射程外へ逃げることも容易だが、馬で追いすがられたうえ狙撃されてはひとたまりもない。再び数百の鉄砲が咆哮し、ほぼ同じ数の風穴が空いた。もはや雑賀衆に戦意はない。銃弾の雨から逃れえた者たちも、薔薇水晶、雪華綺晶の後詰部隊によって血祭りの運命にあった。この一日で数千もの死骸が量産され、雑賀衆は事実上潰滅した。顕如「水銀燈は、天魔か……」雑賀城内で合戦の報告を受けた顕如は、蒼白となった。重意「面目次第もござらぬ。まさか、騎馬鉄砲などというものが……」射撃にいたる一連の動作を馬上で行うには、相当の修練を積む必要がある。それを、水銀燈は数千人という規模で実戦に投入した。ひたすら門徒の信仰心を戦力として戦ってきた顕如からすれば、天魔の所業としか思われない。(そうか、あの雷鳴は……)顕如は根来城が落城した夜のことを思い出していた。あの時雷と思っていた轟音は、大量の鉄砲が一斉に炸裂した際の残響だったのである。雑賀城に籠った門徒らは、阿弥陀仏にすがり最後の抵抗を試みた。が、疲労と空腹には仏の力も及ばず、次々に討ち取られていった。大軍に包囲され長らく補給線を断たれていたためである。雑賀城は三日ともたずに陥落。鈴木重意は斬首され、顕如らは遠く加賀国を目指して落ち延びた。数日後。京都、二条城。将軍義輝は紀州の情勢について報告を受けていた。居並ぶ幕臣たちの中で、左馬頭義秋は悄然としている。(まさか、このようなことになるとは……)水銀燈が約定を破って紀州へ攻め込んだと聞いた折には、これで討伐の名分は動かぬものと狂喜していた。だがその後、根来衆の潰滅、織田信長の寝返りと相次いで悪報が届き、さらには門徒衆の敗北である。義秋が頼みとしていた信長、顕如の二大勢力が消えた今、水銀燈に対抗できる者は畿内にはいない。真紅率いる西国の軍勢を合わせれば、薔薇乙女家の総兵力は十万を超える。水銀燈討伐の大儀を手にした途端、今度は幕府そのものが潰滅の危機を迎えたのだ。義輝「こうなっては……もはや是非に及ぶまい」追い詰められた将軍は、苦しそうに言葉を発した。義輝「幕府の命脈を保つため、左中将水銀燈を討伐いたす。皆、心してかかれ」座を包み込む重苦しい雰囲気は、将軍の凛たる声をもってしても消えることはなかった。藤孝「十兵衛殿……」評議を終え、御前を辞した藤孝は光秀の背中に声をかけた。光秀は、答えない。その胸中を明かす時はすでに何らかの行動を起こした後だろうと、藤孝は思うほかなかった。
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
1文字以上入力してください
本文は少なくとも1文字以上必要です。
1文字以上入力してください。