エピローグ 『ささやかな祈り』後編
一瞬、呼吸が止まっていた。痛くて――――どうしようもなく胸が苦しくて。私は唇を閉じることができずに……俯いて、頻りに喘いでいた。胸元に抱き寄せた携帯電話のディスプレイに、ぽた、ぽた……雫が降る。いつの間にか、自覚もないまま、涙が溢れていた。人目なんて、気にもならなかった。【ありがとう】滲んでよく見えない目を擦りながら、タイトルを書き換えて、返信。【お世話になりました。二人で鐘を鳴らしたこと、私、きっと忘れません】たったこれだけの文字数を、何分も掛かって打ち終え、送信。――直後、ふと……どこかから、聞き覚えのあるメロディが流れてきた。この曲……ホイットニー・ヒューストンの『Saving All My Love For You』ね。邦題は、確か『すべてをあなたに』で、歌詞の内容は不倫相手へのメッセージだったはず。誰かの使っているiPodか携帯電話の着メロが、タイミングよく聞こえてきたのかしら?――そうね。きっと、それだけのこと。さて。唯一の心残りも吹っ切れたし、出国の手続きを済ませてしまいましょう。涙を拭って、ふたつのケースに伸ばした腕を引き留めるように、携帯電話が振動した。見れば……またも、彼からのメール。タイトルは【書き忘れ】ですって。いまさら、なによ――【あと二年、僕に時間を与えて欲しい】なぁに、これ。もう結論は出ているでしょうに、二年も費やして、なにがあると言うの?……バカみたい。いま一緒に来てくれないなら、2度目なんてないのよ!【バカ】そうタイトルを付けて、返信した。本文も【バカ】と、一言だけ。すると、また――数秒後に『Saving All My Love For You』が聞こえてきた。ただの偶然? それとも――?どこから聞こえるのか。鳴り止まないメロディを追って、周りを見回す。邪魔な雑踏を掻き分けて、辿っている間に、また音が止んだ。見失いたくない。咄嗟に【バカ】のメールを再送する。また、あのメロディが私を導く。そして、やっと――「あっ!」柱の陰に身を潜めていた彼を、見つけた。ここまで来ておきながら、顔を合わせずに別れるつもりだったの?本当に、バカみたい。腹立たしくて、私は彼に掴みかかっていた。「どうしてっ!」彼は、バツが悪そうに、頭に手を遣った。「ごめん。なんか……気後れしちゃって」「だからって、こんなの酷い! 私が、どんな気持ちで待っていたと思って――」「うん。本当に、すまなかった。どうしようもないバカだな、僕は」言って、彼は、持っていたビニール袋を掲げた。「これだけは、渡しておきたくって」なにかと思えば、夫婦饅頭。江ノ島のお土産なんだと、彼は微笑み、教えてくれた。そして「これが僕の答えだよ」――とも。「君の隣に居てあげたいんだ。いつまでも、ずっと。 あ、で、でも……だからって結婚とか、そういうつもりじゃなくて……なんて言うか」
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