エピローグ 『ささやかな祈り』中編
こんなことなら、もっとヒールの低い靴を履いてくるべきだった。――と、後悔しても仕方がない。引き返すにしても、今から坂を下るほうが恐い。彼に手を引かれ、急勾配の長い坂を、ひと区切り上りきると、いくらか足が楽になった。上り坂はまだ続くけれど、さっきまでの傾斜は、もうなさそう。「大丈夫かい? 少し、そこで休もうか」「ええ……ありがとう」彼が指差す先には、木々の切れ間があって、遠く続く砂浜と、山並みが一望できた。とにかく、人が多い。砂浜だか人混みだか、分からないくらい。雨空のせいか、はたまた普段どおりなのか、見おろす海は濁った深緑色をしていた。「湘南海岸と、丹沢の山々だよ。晴れてたら、富士山も見えるんだけど」「そうなんですか? 残念です」「うん……残念だね」近くを舞うトンビを目で追いながら、彼が呟く。「なんか、今日は朝から躓きっぱなしだ」天候や鎌倉でのことも含めて、気に病んでいるのかしら。だとしたら、本当に不器用で、損な性分の人ね。あなたのせいではないのに……。それとも、職業病?「ところで、さっきの話の続きだけど――なにが違うのかな」「は? あぁ……ダイナ号のこと?」「うん、そう。違うと言った君の口調が、どうにも気になってね」「あれは、犠牲者について言ったのよ。亡くなったのは、二葉さまです」「え? じゃあ、インターネットの記載が間違ってたのか」「……と、言うより、誤った情報を流布させた人が居ましたの。誰の仕業だか、分かります?」「いや――たかが一朝一夕で、分かるわけないよ。君は知っているのかい?」「情報を流したのは、結菱一葉さまです。あなた、言ったでしょう。結菱の影響力は、計り知れないって。 亡くなったのは自分だと偽り、彼は二葉さまの名を騙って、生きてきたんです」「そんな……なぜ、そんなことを?」「彼も――お祖母様のことが好きだったから。そういうところ、やはり双子なんですね」そう。結菱一葉もまた、商用でフランスを訪れたとき、コリンヌに会っていた。私が調べただけでも、彼は戦前に数回、フランスに渡っている。密かに、結菱二葉の名義をつかって――彼を、弟の二葉と思い違いして慕ってくれる美しい少女に、若い胸をときめかせたのね。だから、数年前、コリンヌ=フォッセーが表彰されたのを知るや、探りを入れてきた。弟の死の元凶を許し難く思う一方、どこかで未練を引きずっていたみたい。結果として、その身を滅ぼすことになったけれど。『好奇心は猫を殺す』ってね。「一葉さまは、きっと羨ましかったんでしょう。コリンヌに愛されている、二葉さまのことが。 だから、彼は二葉さまに、なろうとしたの。お祖母様を愛するために、二葉さまになりたかったの」「……僕には、分からないな。偽物の自分を愛してもらったって、虚しいだけじゃないか」「でも、それを望み、幸せを感じる人も居るのよ」雛苺みたいに、ね。そう言いかけた口を慌てて閉ざし、彼の顔を窺う。よほどショックだったのか、彼は目を泳がせ、呆然と立ち尽くしていた。「どうして、君は……そんなことまで知っているんだ」
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