第十六話 『出逢った頃のように』
なんとしても、喉から手が出るほどに、この身体が欲しい。それも、なるべく綺麗な状態で。故に、『彼女』は、このまま喉を噛み続けて、縊る手段を選んだ。 ナイフで急所を突いたり、喉笛を斬るなんて、まったくもって問題外。手や荊で絞め殺すのも、頸に一生モノの痣が残ってしまうかもしれない。その点、ちょっとくらいの噛み傷なら、数日もすれば癒えて、目立たなくなろう。喉元なら、チョーカーなどのアクセサリで隠すことも可能だ。 程なく、コリンヌが痙攣を始めた。肌に食い込ませた歯に、なにかが喉を駆け上がってゆく蠕動が伝わってくる。密着させた下腹部にも、温かい湿気が、じわり……。嘔吐と失禁――窒息から死に至る際の、典型的な兆候だった。ここまでくると酸欠で脳が麻痺するので、苦しみはもう感じず、むしろ気持ちいいのだとか。 実に上々。もうすぐ、コリンヌの息吹は永久に絶えて、理想の器が手に入る。あまりにも思惑どおりに運びすぎて、どうしても、『彼女』の頬は緩んでしまう。 「くっ……うふっ」 我慢できずに、つい噴き出してしまった、その一瞬――吐瀉物で詰まっていたコリンヌの喉が、僅かな隙間を得て、ひゅうと鳴る。そして、少女はひどく咽せながら、短く……嗄れた声を吐いた。たった一言。しかし、『彼女』たちにとっては、大きな意味を持つ名詞を。 途端、内側から胸を強打されて、『彼女』はホウセンカの実が弾けるように仰け反った。それでも、突然の動悸は止むことを知らず、『彼女』の呼吸を妨げつづけた。 第十六話 『出逢った頃のように』 息ができない。喘ぐのに必死で、涎を垂らすことさえ、羞恥と感じなかった。鬱血のためか、闇に慣れた彼女の視界が、さらに濃い黒へと収束する。それは圧倒的な重力を持つブラックホールのように、『彼女』を引きずり込んだ。どこまでも真っ黒な、原油を彷彿させる、無意識の溜まりへ――と。 ふと気づくと、『彼女』は闇の淵のほとりに、ぽつんと立ち尽くしていた。ここに至って、『彼女』は初めて、底知れない怖れを抱き、震える歯を食いしばった。早く逃げなければ。そう思うのに、根を張ったみたいに、足が竦んでいる。ばかりか、いつの間にか、黒い荊が身体に絡みついて、『彼女』の動きを妨げていた。それなのに、胸裡からの殴打が、先へ……闇の淵に踏み込めと強いる。 ぷかり……。黒の水面に、小さな白い瞬きが、ひとつ。それを端緒に、幾つもの水泡が生まれては消え、その数だけ白い波紋を描きだした。『彼女』は、頬を引きつらせた。来る! あいつが来る! 全てを奪い返しに来る!絶望という盤石に押し潰されて、ココロの深淵――無意識の中に沈んだ娘が。 冗談じゃない。気合い負けを嫌うように、揺らぐ深淵を睨み、『彼女』は毒づいた。名前を呼ばれたぐらいで、性懲りもなくしゃしゃり出てくるなんて…… (ばかじゃないの! まるで犬ね。この娘のペットってわけぇ? だったら、今度から『シロ』とか『ユキ』とでも、呼んであげましょうか!) 果敢な罵詈も、怯えを滲ませていては、ただ嘲弄を誘うだけ。けれど、白の自己(ゼルブスト)は黙っていた。嗤う代わりに、スピードをあげた。『彼女』への圧迫が強まる。動悸も、より速く、激しいものへ。急激な血圧の変化が、眩暈を引き起こし、『彼女』の意識を白く染めてゆく。なにもかもが霞みゆく中で、『彼女』はココロの深淵に、闇の雫を滴らせる白い腕を見た。 そして――背中を打たれた痛みで、『彼女』が我に返った時……目の前に、白の自己が居た。『彼女』は押し倒されて、馬乗りに抑え込まれていた。完全なマウントポジション。優劣の逆転。今や、『彼女』が狩られる側となったのは、歴然にして明白だった。 ……が、『彼女』の強すぎるプライドが、無様な敗北を許さない。どうせ捨てる身体の主と言えども、いや、不要なゴミと見なしていたからこそ。生意気にも刃向かい、僅かでも畏れを抱かせた存在に、温情をかけようとは思わなかった。精神までも徹底的に壊して、それで生ける屍と化しようが、知ったことではなかった。 けれど、それも所詮は強がり。土壇場での大逆転劇など、虚しい妄想にすぎない。『彼女』は承知していた。押し戻すだけの余力が、もう自分に残されていないことを。 「私は、どうなっても構いません。でも――」白の自己、雪華綺晶の意志が迸る。それは、『彼女』による支配の終焉を告げる、審判の鉄槌。「コリンヌは渡さない。私だけのものだから」 決別の言葉が振り下ろされ、雪華綺晶の右手が、『彼女』の左胸を穿った、直後。現実世界では、黒い荊の一束が、雪華綺晶の左胸を貫いて突き出していた。粘っこい血を滴らせたその先端に、弱々しく明滅する結晶――ローザミスティカを携えて。 コリンヌと、雪華綺晶。二人の間を満たす淡紅色の光によって、凄惨な光景がさらけ出される。右の眼窩から伸びる、紅い蜜を滴らせた白薔薇。裂けた腹部から這い出した、黒い荊。酸欠で朦朧としていたコリンヌも、それを目にして、完全に覚醒した様子だった。 「な……に、こ……れ?」 雪華綺晶は、問いかけた掠れ声から逃れるように、顔を背けた。それ以上の追求を、暗に拒絶したのか。あるいは、醜く変わり果てた姿を恥じたのか。緩慢な動作でベッドを降りるときも、ずっとコリンヌを見ようとしなかった。 「なんなの、これ? どうして、こんなっ」 やはり、答えは返ってこない。雪華綺晶は、なおも遠ざかってゆく。普通に訊ねるだけでは、答えは返ってこない。コリンヌは一計を案じた。 「――いいわ。それなら、主人として命じます。雪華綺晶、すべてを話しなさい。 貴女は、なんの理由もなく、こんなコトする娘じゃないわ。そうでしょう?」 毅然とした声に背中を叩かれて、やっと、雪華綺晶の歩が止まった。あんな恥辱を受けてなお、コリンヌは、自分を信じてくれようとしている。ならば……信用には、誠意をもって応えなければ。それが人の世の礼節と言うものだ。雪華綺晶はベッドに向きなおり、へたり……と、腰を落とした。 ~ ~ ~ それから、彼女の口から、洗いざらいが告白された。二年前に、この世を去った存在であること。ローザミスティカに操られて、槐という人形師を――父を殺してしまったこと。この身体が、あと数日で朽ち果てることさえ、包み隠さずに。コリンヌは雪華綺晶の話を聞くあいだも、聞き終えても、頻りに頭を振っていた。 「信じられない……そんな話、信じられっこないわ」「でも、事実なのです。ほら。私の……この醜いさまを、ご覧になって」 その言葉は、容赦なく、惨酷な事実を突きつける。雪華綺晶を家族の一員のように想っていたコリンヌには、到底、受け入れがたい現実を。だから、彼女は顔を伏せるに留まらず、両手で目を覆って、イヤイヤをした。幼子が駄々をこねるように、ずっと。 雪華綺晶は、絶え間ない激痛に苛まれながらも、呻きひとつ漏らさずに立ち上がり……ベッドに歩み寄って、コリンヌの頭を愛おしげに抱き寄せ、艶やかな金髪に鼻を埋めた。 「叶うものなら、出逢った頃に戻りたい。私だって……いつまでも、コリンヌのそばに居たい」「じゃあ、そばに居てよ! これからも、一緒に暮らしましょう。ね?」「……できませんわ。私は、まぼろし。この身は、二年前に死んだ娘の蜃気楼。 あなたは、束の間の仮寝をしていただけ。夢の中で、私と戯れていただけ。 そして、悪い夢も、楽しい夢も……どんな夢も、すべからく醒めるべきものなのです。 ――ほら。窓の外を、ご覧になって。空が白み始めています。 あなたと私の、夢の劇場も……そろそろ、幕を引く時間ですわ」「それなら、わたしは眠り続けたっていい! 貴女を失わないで済むのなら」「わがまま……ですのね」 仕方のない人。雪華綺晶は淋しげに微笑み、コリンヌの柔らかな頬に、そっと口づけた。そして、雪の結晶を模したネックレスを外して、少女の手に預けた。 「ふたつだけ、私のお願いをきいてください。あなたにしか、頼めないことなの。 これを……私の代わりとして。いつも、ね。片時も離さず、身に着けていて。 そして、どうか、あの人と……二葉さまと、幸せになって。私の分まで、いっぱい。 私が、この胸で温めていながら孵せなかったら想いを、あなたが叶えて、育ててください」「待って、雪華綺晶っ! わたし、イヤよ! こんな物いらない!」「……では、捨ててくださいな。夢のカケラなんて――」 くるり、と。コリンヌに背を向けた雪華綺晶は、足早に窓に向かい、開け放った。夜露を吸った重たい風が、部屋の中に流れ込んできて、雪華綺晶の長い髪を靡かせる。彼女は、そこでもう一度だけ、涙顔の微笑みを、コリンヌに向けた。 「私を……私なんかを、お友だちと呼んでくれて……本当に、嬉しかった。 あなたと出逢い、普通の女の子として過ごせた日々は、本当に、楽しくて―― いつまでも、このままで……って、ずっと祈っていたのですけれど」「主人の命令よ、雪華綺晶っ! 待ちなさいっ! 戻ってきてっ!」「お別れ、です。 いつか、また、夢で逢えたのなら―― もう一度、可愛がってくださいね。マスター。 ――好き、でした」 少女の悲痛な叫びも、雪華綺晶を繋ぎ止める楔とは、なり得なかった。窓辺に白い影だけを残して、彼女は、朱に染まりだした世界へと身を投げ出していた。
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