《薔薇国志》 第一章 第三節 ―少女は少年を招き、少年は少女の為に歩みだす―
《薔薇国志》 第一章 第三節 ―少女は少年を招き、少年は少女の為に歩みだす―○雲南 政庁広く、静かな空間。其処に導かれた少年は、導いてきた少女と共に立っていた。広く、静かで――二人きりの場所。人々のざわめきも、小鳥達の囀りも、風の唱い声も――聞こえない。ただ、鼓膜に入るのは少年と少女から生じる音だけ。少女は少年の前に軽やかな動きで振り向き――笑みを浮かべる。「此処が、私と貴方の、始まりの場所」夜空に輝く三日月の様に、美しい微笑み。「此処から、私達の全てが始まるの」瞳に紅い焔を宿した少女―真紅は、詠う様に告げる。少女に応える様に、少年―ジュンは彼女を見つめ、呟く。「………………騙された」それはもう、深い暗い重い怨嗟の声で。○雲南 往来其処に至る数刻前。――市場のどやどやとした喧噪が聞こえなくなるまで。少女―真紅は少年―ジュンの手を引き、ジュンは真紅に遅れまいと駆けた。幾ばくかの距離を稼いだ頃、ジュンは内心で己の体力不足を嘆く。走っている速さも距離も同じだと言うのに、自分は息切れを起こし、真紅は呼吸一つ乱していないから。(ちょっとは運動しないとな………)小さな決意を胸に秘め、走り続けた。「――此処くらいまで来れば、問題ないでしょう」市場から外れ、目的地である政庁が視認できる所まで来て、漸く二人は足を止めた。その場所―市場と政庁を繋ぐ十字路―は、真紅のお気に入りの一つである。西を見れば、遥か西方に続く道が胸をときめかせ。東を見れば、豊かな森が視界を潤し。南を見れば、人々の賑わう様を見分でき。北を見れば、己の成すべき事を認識させてくれる――。今は昼過ぎと言う事もあり少しのざわめきが耳に入るが、仕事始めの朝方には聖域然とした静けさを味あわせてくれる。――すぅと小さく息を吸い込み、ほんの少し乱れていた呼吸を元に戻す。「ふぅ………今の距離程度で呼吸が乱れるなんて、我ながら鍛錬不足なのだわ」「嫌味か、それは………」ちらりと真紅が横を見てみれば。中腰の姿勢で片膝に左手を乗せ、ぜぇはぁと喘いでいる軍士殿。真紅は、少し考えてから彼に言葉を返した。「ただの自戒だったのだけれど。――それに、貴方に体力は望んでいないわ」「はぁ、はぁ………求められても、困るね。僕は、軍士として契約したんだから、な………」此方を見もしないで、ジュンは言い返してくる。彼の言っている事はもっともだし、真紅とて、それに異論はない。だけれども――。「――そうね。でも………女の子より先に息をあげちゃうのは、少し恥ずかしいと思わない?」「………………ふん。………今に見てろ」予想通りの返答に、少年が此方を見ていない事を承知で、微笑を送る。真紅は、出会いの初めより、彼が己よりも頭が回ると踏んでいた。普通、そういう者の思考は読めないのだが。何故だか、彼に限っては手に取る様に理解できた。(相性がいい………んでしょうね、多分)そう思う事に、言葉にできない嬉しさと気恥しさを感じ。わざと、突き放す様に、彼に告げる。「――手、離して欲しいのだけれど?」自分から握っていたのだが、今はもう、その必要性はない。「――!? あ、えと、………ごめん」握り続けていたのは、彼にとっても無意識の事だったのであろう。意外な程、素直に手を離し、謝罪してくる。少しだけ残念だと思っている自分に驚きを感じつつ、それを相手に意識させない為に、真紅はジュンは質問を投げかけた。「ねぇ、そう言えば――落ち着いてる様だから、進みながら話しましょう―、さっきの彼ではないけれど、よく『私は太守』って言葉、信じたわね?」真紅に取って、ジュンの考え方は想像しやすい。彼は、思慮深く、知恵もある。そんな人間が、急に話しかけてきた『小娘』の言葉を何故、やすやすと聞きいれたのだろう。「ふん………別に、不思議な事じゃないからさ。海賊が武将に、肉屋が大将軍になる時代だし。その内、草履売りが王にまで昇るかもな」呼吸を整え歩調を合わす彼は、ぶっきらぼうに理由を明かす。真紅は、ジュンの返答に「そ」と小さく了解の意を示し――その実、頭の中では別の事に思考を飛ばす。奇しくも、その内容は先程、己が少年に推測されていた事と似ていた。(――海賊が………って言うのはわからないけれど。肉屋は何進将軍の事ね――中央の民ならともかく、生活圏が此処だけならそんな事は知らない筈。………と言う事は、彼も元は中央付近に住んでいた………?)直接聞けばそれだけの話なのだが、彼女はそうしなかった。己と少年の関係がそれほど密接でない今、問いかけても返ってくる内容は実のないものであろう。はぐらかされる位ならば、推測だけしておく方が良い。真紅の思考は続く。(――ジュンも、聞いてこないし)今の時代、様々な要因で、人々は移住せざるを得なくなっている。真紅自身がそうであったし、己と同じ境遇の人々を幾人も見てきた。戦火から逃れる為に、一念発揮し旗揚げをする為に、身を隠す為に。理由は人それぞれだが、中には聞かれたくない、言いたくない理由もあるだろう。だから、真紅は彼の生い立ちを深く追求しない事にする。それに――と、自分なりの結論をはじき出し、一連の思考を脇に置いた。(――あれこれと考えるのは、嫌いじゃないし)○雲南 政庁前目前に政庁が見える所まで進んで。ジュンは、とある一つの点について、感心していた。(政庁って割には整えられてるな、此処)建築物としては、建てられてから既に幾年も経っている様で、所々にひびや雨に打たれた陰りが見える。だけれども、真新しい靴跡や固まった泥、木の葉等は重箱の隅程度にしか見受けられなかった。本来、一つの都市を取り仕切る政庁とはそうあるべきなのだが、多くの人が出入りする事もあって、なかなか行きとどいた清掃と言うものは難しい。また、人とは集まると緩みが生じやすい。自分一人ならば率せても、自分を含む集団となれば話は別物になってくる。そういう傾向を考えると、己れの前を歩く少女の統率力は高いと――(判断しないとな)。「――どうかした?」背に視線を感じたのだろう、真紅はちらりと視線をジュンに向け、短く聞いてくる。不意を突かれたジュンは―彼の悪い癖だが―しどろもどろになりながら、一応の返答を返した。「あ、いや、その………綺麗だなって」少年は、冷静な状態であったならば、称賛の言葉をねじ曲げて伝える。だが、咄嗟の出来事や質問に対しては、素のままの言葉が出てしまうのだった。「ふぅん――………背中ばっかり見ていると思ったら、そんな事考えてたの?」視線をジュンから外し、政庁に向けながら、さらっと言う真紅。余りにも自然な口調だったので、ジュンはその意味を掴むまでに数秒かかってしまい。そして、また――しどろどろどろもどろどろ。「ち、違っ!?―ぁ、いや、確かに綺麗だけど、や、そうじゃなくて、つまり――!?」否定と公定、その後すぐに否定。会話として成り立たない言葉を口にするジュンを背中で感じ、真紅はくすくすと笑む。そして、振り向き、言う――先程と同じ様な動作。「そ。――どちらにしても、ありがと」――少し違うのは、悪戯好きの子猫の様な微笑みが浮かんでいる事。真紅の言葉には反論すべき余地があったのだが、恐らくはそれも彼女の思惑の中。であるからして、賢明な少年は、少女の愛らしい呪縛から逃れる為に顔を背け、いつもの彼に戻る為に、「ふん」と小さく鼻を鳴らすのみだった。○雲南 政庁――その建物の中は、外と同じ様に整然と整えられていた。政庁とは公務をこなす場であり、ざっくばらんに言ってしまえば、役人達の仕事場である。だから、其処にあるものは公務に必要なものがあれば十分。なのだが、やはり一番立場の上の者―太守の好みによって、様々な色を移しがちであった。無駄に豪華であったり、散らかっていたり、騒がしかったり。えてして負の要素ばかりが目につくのだが、今、この場ではそれらは影を潜めていた。そういった整然とされていない煌びやかさを苦手とするジュンにとって、好ましい場所と言える。(働く環境としては、及第点だな。………………うん、悪い場所ではないけれど――)。それにしても――と政庁内をずんずんと歩く真紅について行きながら。ジュンは少し怪訝な顔つきになる。塵一つ落ちていない廊下、花瓶さえ置かれていない窓際、ざわめきさえ聞こえない空間。(――なさすぎないか?………何もかも)神経質なまでに清掃に気をつけていても、少し位の塵は出る筈である。幾ら質素を信条としていても、心を潤す為に花位は必要な筈である。どれだけ熱心に仕事をしていても、小声位は漏れる筈である。そう――人がいれば。(いや、………まさかな。――まさか………)少年の頭の中で、何度も幾度も現れる「まさか」の思惑。それは、真紅が政庁の一番奥の間―所謂、太守の間―へと続く扉を開いた時にも繰り返し脳内を駆け巡る。扉の先には、此方にしかよれていない朱塗りの絨毯と小柄な太守殿が収まるには少し大きな椅子がどんと置かれていた――のみであった。とことこと歩き、異常に綺麗な絨毯を進む真紅。よれよれと歩き、真紅の後を追うジュン。真紅は、真っ直ぐに椅子へと延びる絨毯の真ん中でくるりと振り向き、一拍を置いて、彼女の契約者に、言う。「此処が、私と貴方の、始まりの場所。――此処から、私達の全てが始まるの」「………………騙された」半眼で凝視してくるジュンに、真紅は「何の事?」と小首を傾げた。悪意の欠片もない彼女に、彼は米神をひくひくとひくつかせる。「お・ま・え・なぁぁぁぁ!何が『軍士がいないの』だ!軍士どころか何もかもないじゃないか!」「あら、お言葉ね。間違ってはいないでしょ?」「十分じゃない!――『軍士もいないの』が正しい言い方だ!って、そういう言葉遊びがしたいんじゃない!僕が言いたいのは――!」顔が簡略化できそうな程、騒ぎ立てるジュン。しかし、言葉自体は乱暴だが、確かに彼の言っている事は間違いではない。彼には怒る権利があると言えるだろう。其れを受ける真紅は――冷ややかな対応から一転して、真剣な表情となる。それは、ジュンの言葉も思考も絡めとる、彼に対する『鬼札』。「そうね、文官も武官も、此処には私と貴方を除いてはいないわ。だけど――。ここには、地を耕してくれる人も、街を賑やかにしてくれる人も、暮らしを豊かにしてくれる人もいるわ。それに、ここを守ってくれる人も」ちょっと落ち着きがないけれど――と、微苦笑を浮かべる。此処とは、今、彼女と彼がいる政庁。こことは、今、彼女と彼がいる雲南(まち)。――彼女本人は自覚していない事が又、『鬼札』たる所以。「………………ふん」――真紅の眩しい微笑みを向けられ。ジュンは、くるりと背を向け、短く「戻る」と告げた。その言葉の意味を理解しながらも、少女は質問する。「――帰るの?」真紅の声が、少年の耳にどう伝わったのか。彼は、とことこと歩きながら、ぶっきらぼうに応える。「『此処』の人を増やす………って言っても、一人だけだけど。武力は―僕もだけどさ―ないけど、内政なら得意だと思うのが一人いるんだよ――姉ちゃんだけどさ」「――そ」真紅の何時も通りとなった短い言葉に、ジュンは苦笑し。彼の余り大きくない地声が、彼女に届くかどうかぎりぎりの所で、捨て台詞を吐く。「僕は『戻る』って言ったんだ。『帰る』なんて言っちゃいない。情けない声を出すなよ、お前が大将なんだからさ――太守殿」伝え終えた所で、ジュンは太守の間から足を踏み出す。彼女の『契約者』となって、初めての仕事をこなす為に――初めて、彼女の為に一歩を踏み出す為に。―――――――――――――《薔薇国志》 第一章 第三節 了
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