灯台の下 【6】
朝。───ジュン、今、何してるんだろう。昼。───ジュン、ご飯食べたかな。インスタントばかり食べてたら体、壊しちゃうよ。夕方。───ジュン、来てくれないかなぁ。ここ最近、帰宅後や休日はずっとこの調子である。初めのうちは認めたくない、と必死に否定していたのだが、もう今更否定する理由も気力もなかった。酒の力に頼って、気を紛らすことも多々あった。「ジュン・・・・」 抱き枕を抱える腕の力が強くなる。涙が流れる。辛い。ふと、カレンダーにが目に入った。明後日が初デート記念日なのに気付いた。カレンダーのメモ欄に書き込みをする。 「思い出すですね。ジュン、ガチガチに固まってたです。 それで、クラスメートに見付かって散々冷やかされて、怒る私をジュンがなだめて・・・・」 顔がほころぶ。心が暖かくなる。同時に、やるせない気持ちも込み上げてくる。 ピンポーン。 「・・誰ですか?」「僕だよ、翠星石。」「・・蒼星石?」「うわ・・これはひどい・・」 部屋は、あちらこちらにゴミや学校の道具などが散乱していた。几帳面な普段の翠星石からは考えられない。 「相当、滅入ってるようだね。」「・・・・」「翠星石、僕は今から一時間ほど散歩してくる。その後、二人でどこか出掛けようか。」「でも・・・・」「いいから。一時間でここを綺麗に片付けて、身だしなみを整えて待っといてね。絶対だよ!」「・・分かったです。」一時間後、彼女が帰ってきた。 「・・よし、合格!」「当たりめぇですよ。」「・・そのワンピース、似合ってる。可愛いよ。」「あ、ありがとです。って、あんまり恥ずかしいこと言うんじゃねぇです。」「ふふ。いいじゃないか、本当の事なんだから。じゃ、行こうか。」「・・・・どこ行くんですか?」 もうかれこれ二十分くらい歩き続けている。海が見えてきた。夕日が水平線に沈みかけている。 「・・久しぶりに二人で飲もうかと思ってさ。あ、見えてきた。」「あぁ、あそこですか。」 見えてきたのは、一軒の小さなカクテルバー。 前に二人で飲んだときに、翠星石が無理矢理連れ込んだのがここだった。無論、翠星石は適当に目に入った店に入っただけである。 「いらっしゃいませ。・・・・おや、これは可愛らしい二輪の花がやって来たものですね。」カウンターに腰掛ける二人。「ありがとう、マスター。・・一ヶ月ぶりくらいかな。」「え?そうなんですか?」「はい。たまにいらっしゃってますよ。貴重な常連の一人ですよ。」「呼んでくれれば良かったですのに。」「一人で飲みたい時もあるんだよ、翠星石。」「なにキザなこと言ってやがるですか。」「べ、別にキザなつもりは・・ちょっと、マスターも笑わないで下さいよ。」「ははは、すみません。では、ご注文は何にしますか?」「じゃあ、いつもので。翠星石にも同じものを。」「かしこまりました。」
シェイカーを振る音が聞こえる。薄暗い部屋に柔らかい青のライトが映える。三人だけの空間。とても心地よかった。 グラスにカクテルが注がれる。濃厚な黄色に、上層に薄く白い層が広がる。 「綺麗です・・・・」 グラスを手に取り、そっと、グラスに口をつける。アルコールの芳香が鼻を刺激し、 「この匂い─────」 まず柑橘の爽やかな香り。その次に、フローラルの甘い香りがやって来て、最後に淡いバニラの香りが鼻を満たす。 「スノーボールをベースに、フローラル系のものを加え、 アドヴォカートだけじゃバニラの香りが足りないと思い、 仕上げにバニラビーンズを少々加えてみました。名前は─────」「スイドリーム・・・・」 涙が、頬を流れる。 「よくご存じで。かの有名な香水の名を冠すなんて、 畏れ多いとは思ったのですが、他に相応しい名が無かったものですから。」「・・初めての・・プレゼント・・・」二年前の彼女の誕生日、ジュンに初めて貰った誕生日プレゼントが、その香水だった。今でもケースごと大切に仕舞ってある。彼女はミドルノートのフリージアの甘い香りがお気に入りで、寝る二十分前に付けて就寝時に香りを楽しむのが日課だった。嗚咽が止まらない。顔を手で押さえ、彼女は泣いた。 「うっ・・・うっ・・・・ジュン・・・」 蒼星石がそっと翠星石の肩を抱き、反対の手で背中を擦る。マスターにそっとウインクして、マスターも返すようにウインクした。 「・・行っておいで、翠星石。」「・・・・えっ?」「逢いたいんでしょ?だったら逢えば良いじゃないか。 想いを、彼に思いっきりぶちまければいい。逢わないままなんて、淋しいよ。」「蒼星石・・・・」「大丈夫。お金は払っておくから。」 顔を上げる。マスターもその通りだと言わんばかりに微笑んでいる。 「・・・・分かったです。ありがとう・・・・」 そう言って、翠星石はバーを後にした。「・・・・ありがとうございました、白崎さん。」「いえいえ、お構い無く。兎風情に常連さんの頼みごとを断る資格がどこにありましょうか。 しかし、貴女様も本当に運が良い。 ちょうど、バニラビーンズを使ってみようかと、 気まぐれで入荷して、今日届いたばかりなんですよ。」「そうですか。それは貴方の気まぐれに感謝しないといけませんね。」「ははは。・・しかし、大丈夫なのですか? 片方の運命の糸車は廻り始めたようですが、もう片方は?」「運命の赤い糸、と言えば分かりますかね。」「成程。──貴女も面白いことを仰る。」「自分の事を兎に形容する貴方には敵いませんよ。」互いに声をあげて笑う。「あの二人なら、大丈夫だよ。きっと。」波が、浜辺の方へ少しずつ押し寄せ始めた。
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