薔薇乙女家族番外編 その一一
薔薇乙女家族番外編 その一一~時計塔屋敷~注射器の刃先が僕を刺そうと襲いかかってきたのをすんでのところで食い止めた。今、彼女ともみ合い状態で押しつ押されつになっている。手から滑り落ちて床に転がった携帯が床から僕と彼女を照らす。彼女の二つの瞳が怪しく光る。照らされた彼女の顔にはかつての美しさが完全に失われている。もうまともな話も通じないだろうと感じさせ、胸に冷たいものが疼く。見たくないものを見てしまった。 「ジュン…大丈夫、怖くないわぁ…少しの間だけ眠るだけだからぁ…」水銀燈の醜く歪んだ顔が眼前に来る。僕の目元には涙が浮かんで頬を濡らしているのが分かった。一粒一粒の涙が頬に筋を次々に作っていく。水銀燈はこれに気づいているのかいないのか、笑いを浮かべたままだ。「…水銀燈……」僕は、それに躊躇する事が無かった。彼女の腹部を蹴り付けて怯んだところを思い切り壁に向かって押し倒した。彼女はバタンと大きく倒れて注射器を手から離した。僕は今だと携帯を回収して、彼女が立ちはだかっていた廊下の先へと走った。「待ちなさぁい…ジュン…」水銀燈の声を背中に受けても決して振り返らずに前をしっかりと見て、足を確かに床を踏ませ、目的へと急ぐ。 「ジュン…行かないで…その先はぁ…その先は…」背後の闇からの水銀燈の声。心なしか泣いている様に聞こえた。僕は心で耳を塞いだ。彼女の中に宿る鬼の声には徹底的に反発したが、その涙の声は聞きたくもなかった。バタバタバタ…。足音が暗闇の廊下を叩く。息を切らしながら走っているから壁と壁に跳ね返って周りを足音が駆け巡っている。孤独な空間の中、光を求めて闇を走る。求めた先には本当に光があるのか、闇にまた飲まれるのか。見取り図を持っているわけではないから確たる根拠は持てない。ただ勘を信じるしかない。 バタバタバタ…。床は木製だから、足音は低くて柔らかみのある物だ。足で強く踏めばそれだけまた低くて鈍い音が響く。何故かそれらの音がいくつも重なってきているおまけに、硬質かつ高音の響きが耳に入り込んできた。硬質な音ではあるが…ガラスが砕ける様なものではない。それよりも高音みたいだ。刃と刃を滑らせて、かち合わせた様な音だ…まさかと思った。バタバタバタ!!突如廊下の脇から人影がなだれ込んできた。「うわあ!?」いきなりの事でスピードを殺すのにブレーキペダルではなくサイドブレーキを引いてしまった。体勢を崩して尻餅を付く。人影は一つではなく、複数ある。慌てて照明を照らす。「ぁ…お…お…」光に照らされた影が僕を見て表情を崩した。今まで緊張に張り詰めていたものが一気に緩んだのだろう。「………!」それは僕も同じだ。「お父さぁぁぁん!!!」「金糸雀!翠星石!雛苺!」僕の目の前になだれ込んできた影は、今まで見つからなかった、愛する愛する娘達だった。僕だと分かるや、三人とも僕の胸に飛び込んできた。僕は思い切り抱きしめる。良かった!無事でいてくれて本当に良かった…!離れ離れだった娘達にようやく会えた。眼鏡の中から熱い涙がとめどなく溢れてくる。もっともっと抱きしめあげたい。怖さで震える彼女達を安心させてあげたい。だが、現実はその様な暇さえ与えてくれなかった。「お父さん助けて!!私達追われているかしらぁ!!」「何!?」…シャキーン…シャキーン…。廊下に響く金属音…あれはまさか…。脳裏に浮かんだのは蒼星石の顔だ。彼女に押し倒された時、背中にゴツい鋏を背負っていたのを見た。真紅は…その鋏で犠牲になったのか…。「ジュン…逃げないでぇ…」自分の走ってきた道からも声がした。…水銀燈か?!「みんな、走るぞ!絶対に立ち止まるな!」娘達を連れて廊下を全力疾走する。「ま…待ってなの…」「?…雛苺!」雛苺が途中でもたつき始めた。散々走り回されてなお走るのだから、彼女は体力的にもう限界であるのが顕著に表れていた。僕は一旦止まって雛苺を背負い上げた。「しっかり捕まっていろ!」「ぅ…うぃ…」六歳の女の子は軽荷ではあるがやはり足が鈍る。自然と金糸雀、翠星石の後を追う様な形になってくる。 「あ、おやじ!外ですぅ!」走った先にはバルコニーに出るガラス戸があった。それを開けて外に飛び出すと、ここは時計塔の外壁と隣接している所だと分かる。その外壁には梯子が用意されており、それの続く先を見上げると、十一時五十九分で凍りついた大時計の脇に続いているのが見えた。あそこから時計塔内部に入れそうだ。 「梯子だ!みんな、早く登れ!」娘達を先に登らせて自分は最後に続く。状況的に最後の人間が水銀燈らの攻撃を受けやすい。だが彼女らは僕に対しては殺しに至る様な事はできないはずだという確信があった。 蒼星石は僕には一切無抵抗だった。傷一つ付かなかったものの、あれだけ僕が顔面を殴ったにも関わらず、彼女は僕に牙を向けなかったのがその根拠だ。水銀燈…彼女は今までの行動には肝を冷やされたが、蒼星石と同じように僕への危害はなるべく抑えようとしている。あの注射器も彼女の発言からして麻酔か何かの類だろう。 僕は雛苺を降ろして先に梯子に登らせる。彼女は心配そうな顔を向けたが、大丈夫だと背中を押す。その上を既に登っている金糸雀と翠星石に言う。「二人共!上に登ったら中に入って大時計を動かす電源を探すんだ!」「そ…その電源を入れればいいのかしら!?」「そうだ!」「分かったです!」「やってみるかしら!」 二人揃って返事を返した。僕に何かあったら後は彼女達を頼りにするしかない。この状況では一分一秒の時間が非常に大きい物だ。雛苺がせっせと登った所を見計らって僕も登り始める。梯子は錆が進んでいて手のひら全体がつつかれる様な感触がする。手を切るんじゃないぞと一言だけ言ってやりたかったが、もうそんな余裕も無かった。「痛!…切っちゃったの…」「雛苺、止まるな!頑張れ!」彼女を必死に押し上げる。ここは屋敷の三階から時計塔頂上付近まで続く梯子のど真ん中。転落したらまず助からない。おまけに錆のせいで手も梯子に絡ませ辛いから非常に危険だ。雛苺を何とか押し上げがてら登っていく。ちょうどその時に翠星石と金糸雀が上までたどり着いたみたいだ。「おやじ!着いたですぅ!」「よし、急いで時計塔の電源を探してくれ!」「はいですぅ!」声を枯らしながらも喉を振り絞った返事を耳に認めた。「二人共、頼んだぞ…」そうぼやいた直後、突然足が何かに鷲掴みにされて下に引っ張られた。「捕まえたわよぉ…」慌てて足下を見ると、水銀燈が僕の足をぐいぐい引っ張っているのが見えた。振り切ろうと足を持ち上げようとするが彼女の手の束縛から逃れられない。「ぱ…パパ…」「雛苺!早く行け!」「ぅ…うう…ぁ…」雛苺は完全に気が動転していた。泡をくうばかりで手と足が止まってしまっている。「雛苺!は…早く!」「…うう……」涙をボロボロこぼしている。どうすればいいか分からないと目で訴えてきている。 「…くっ!」梯子に掛けてあるもう片方の足で水銀燈の頭を蹴る…と言うよりもかかとをぶつけた。彼女は一瞬怯んだが手を離さない。ジロリとこちらを睨み付けてきた。その蛇の睨みに心臓が萎縮したのを感じ、ひどく焦った。パニック状態になり、一回で駄目なら何回でもと必死で足を彼女にぶつけ続ける。一本の足は引っ張られている。もう一本の足は彼女を追い払うのに使っている。梯子にしがみついているのは両手のみで、全体重が両手に掛かる。梯子の錆が掌に突き刺さる。 「…逃がさないわぁ」この…っ!なるべく遠心力を付けたかかとが彼女の顔に直接ぶつかった。鼻っ柱に衝撃を与えられたからか流石に動きが止まり、僕の足を掴んでいた手が緩んだ。その隙を逃さずに一気に足を引き抜いた。 空を仰ぐと、雛苺がようやく上に到着したらしい様子だった。空いた梯子を一気に駆け上がろうと、手と足を酷使する。足はたまに梯子から滑り落ちそこねたり、手は錆だらけ傷だらけになるが大した問題ではない。雛苺が時計塔の中に駆け込み、僕は水銀燈との距離を離せた。このまま逃げ切れると思った。その矢先だった。「きゃあああああああ!!!」突然悲鳴が塔から響いてきた。何だ!?何があった!?ようやく塔の中に入り込むと、そこには人影が四つあった。「うふふふ…殺してやるぅ…♪」…雪華綺晶?!雪華綺晶がナイフを持って娘達にじりじり近寄っている! 僕は無我夢中で床を蹴った。足をバネに両手の掌を突き出して、彼女を突き飛ばした。突き飛ばされた雪華綺晶は床をしばらく転がった後、何事も無かった様に起き上がった。ナイフをしっかり握ったまま、笑顔を浮かべて。「…電源は見つかったか?」雪華綺晶から目を離さないように翠星石に訊く。「多分これだと思うんですけど…蓋が明かないんですぅ…」翠星石の指す物を目尻に捉える。カバーの古びた配電盤だ。「ジュン…」「お父様」梯子から水銀燈と蒼星石が這い上がって来た。大時計を動かす為の、大きな歯車に囲まれたこの部屋にみんなが揃った。僕の傍らには金糸雀、翠星石、雛苺。僕達の目の前には雪華綺晶。背後には水銀燈に蒼星石。そして、僕の胸ポケットに真紅がいる。僕は配電盤のカバーを思い切り蹴り飛ばした。錆だらけのカバーは蝶番も古ぼけていたみたいで、床をガランと転がっていった。レバーが二本ある。これが電源か。「やめて…ジュン!それは…」水銀燈が顔を真っ青にしている。今まで見なかった顔だ。レバーに手をかける。それをガタンと引く。「ヒッ……!」引きつった顔をしている。後一本のレバーで大時計は再び動き出すはずだ。それにも手をかけた。後は力一つ入れれば…。「お父様…」雪華綺晶が口を開いた。「お父様は…私達を捨てるの…」その言葉は僕がここに来るまで散々に聞かされたものだ。そして頭の中に散々巡り巡っていたものだ。だが今の僕には胸に、傍らに守るべき愛がある。妻と共に育んできた夢だ。 それを握り潰そうと言うのなら…僕だって鬼になる。僕は、最後のレバーを引いた。 ガコン…。どこかで何かが動き出した音がした。ガコン…ガコン…ガコン…ガコン…。歯車が厳かに動き始めた。「…お、おやじ…大丈夫なんですか…?」翠星石が怯えた様子で話しかけてきた。「大丈夫…僕の予測さえ正しければ…」ボーーーーン!!!「ぅわ!」大時計の鐘が鳴り始めた。中にいるからその音は凄まじく、内臓まで揺すられる。耳を塞がずにはいられない。「ぁああああああああ!!」鐘の音が響く中、女の金切り声が聞こえた。「あ……ああ…」僕はその光景を一生忘れられないだろう。「キャァァァ!」翠星石は悲鳴を上げ、金糸雀はそれに目を覆い隠し、雛苺は呆然としてしまっている。「あああ…あああああ!!!」水銀燈の全身が火にくるまれ、のた打ち回っていた。それと時同じくして、蒼星石と雪華綺晶の体にも火が灯り始めた。水銀燈の永遠の命は凍りついた時間の中でのもの。その凍った時間を動かしてしまえば儀式は解ける。ローザミスティカはエネルギーを悪魔の子供に効率的に分配する為の物であった。そしてそれは、人間の肉体の中には埋め込めなかったから作り物の体が必要になったのではないか。 そのローザミスティカも稼働時間自体は有限でしかない。時が経つにつれて段々と消耗していく。だがそれは時を止める事で解決できる。それなら最初から時を止めるだけで事が済むとも思うが、それだけでは無意味だった。命の残量をそのままに止めてあるだけだから、悪魔の三つ子に吸われ続けたらそのまま命が尽きてしまう。 時間が止められてなお三つ子…いや、正確には蒼星石と雪華綺晶か…が、成長を続けているという矛盾がその予測を生んだ。彼女達が成長する以上はエネルギーを摂取する必要があるはずだからだ。 娘達を成長させ、なおかつ不死の命にする為に…彼女は自分の体を捨てたのだ。「あぁぁ…熱い…熱い…よ…」悪魔の子供は母親を糧に生きる。糧を無くした異界の者は現世に留まれない。蒼星石、雪華綺晶…彼女は母親と共に運命を共にする事になる。ボーーーーン!!!屋敷の霧が晴れる時、悪魔は死ぬ。今がその時だ。ボーーーーン!!!けたたましい鐘の音色が、時が動いた事を知らせる。長かったのか短かったのか…十一時五十九分という時は今終わったのだ。「…………」みんな沈黙したまま、彼女達の最期を看取った。「…!」炎と共に燃えゆく中、彼女達の目がはっきりと見えてしまった。憎しみか、悲しみか、寂しさか…その目には全てが映っていた様な気がした。
このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー と 利用規約 が適用されます。
1文字以上入力してください
本文は少なくとも1文字以上必要です。
1文字以上入力してください。