幕間2 『azure moon』
「――好きな人は、いますか?」 なんの前触れもなく話を切ったかと思えば、いきなりすぎる質問。僕は返答に困って、ちょっとの間、この場に相応しいだろう言葉を探していた。『はい』か『いいえ』の、どちらかを選ぶだけなのに、だ。 「うん……まあ、ね」「もしかして、恋人さんですか?」 これまた、矢継ぎ早な切り返し。答えにくいことばかり、ズケズケと訊いてくる。再び、僕は二択問題で迷った。答えは『いいえ』しか無いのに、だ。そうさ。僕は未だかつて、恋人と呼べる女性に、巡り会ったためしがない。片想いなら、それこそ両手の指じゃ足りないくらい、経験してきたんだけどね。 男としての意地――みたいな、ちっぽけなプライドも、あったのかな。年齢=彼女居ない歴じゃあ、少し……いや、かなり格好悪いから。それも、こんな可愛らしい女の子を前にしてなら、尚更じゃないか。 「うん……まあ、ね」 バカだな、僕は。いい歳して、こんな見栄っ張りなウソを吐くなんて。おまけに答え方まで、まるっきり同じときてる。 ――だけど、結果的には、マヌケを演じるのも良かったみたいだ。何故って? それはね……彼女の、本当に楽しそうな笑顔を、見られたからだよ。 幕間2 『azure moon』 不器用なヒトね。ひと頻り笑ったあと、彼女は指の背で眦の涙を拭いながら言った。やっぱり、僕の浅はかな見栄なんか、お見通しらしい。だからこそ『不器用』という単語を、わざわざ引っぱり出してきたんだろう。彼女なりの思いやりで、ウソだと断罪しないままで。 ああ、そうだよ。確かに、僕は要領よくないし、思慮の足りないところもあるさ。自分なりに一生懸命のつもりでも、手抜かりがあったり、裏目に出たり……そんな失敗談は、枚挙に暇がない。自慢できるコトじゃあ、ないけどね。 如才なく立ち回れる人間だったなら、僕はいま、ここに居ないと思う。両手に華の生活で、悠々自適な人生を送っていたかも知れない。そして、この初対面の女の子とも、こんな風に話をしてなかったはずだ。 ――まあ、もしも……の妄想に浸るのは、またの機会にしよう。このまま黙っているのも、負け犬の烙印を押されたみたいで、惨めになる。だから僕は、僕なりに、僕自身を擁護しようと思った。 「あの――」頭上から降ってくる葉擦れと、喧しいアブラゼミの声で埋もれそうになる中で、気後れしたような細い声が、紡ぎ出される。それは、僕が放った声じゃなかった。 「ごめんなさい。なんだか、不快にさせてしまったみたい」「どうして、そう思うんだい?」「だって…………急に、黙ってしまうんですもの」 なるほど、そういうことか。また、変に気を遣わせてしまったな。僕は、いつもの癖で髪に手を遣りながら、頭を下げた。 「ごめんな。怒ってたんじゃないんだよ。ただ―― なにを話したらいいのか、言葉に詰まってしまって」 僕は、あまり口が上手じゃないから。そう告げると、彼女は「よかった」と。本当に、それだけを呟いて、安心したように微笑みを浮かべた。彼女の肩から力が抜けていく様子が、はっきりと見て取れた。 「不器用で、口下手で……。 やっぱり、あなたは私の見立てどおりの、良い人でしたね」「え? どういうことだい?」「そのままの意味です。他人を騙したり、貶めたりできない人って意味」「……ああ」 なるほど。そう考えたら、不器用な口下手も、満更でもない。利口に生きれば損も少ないだろうけど、損することで掴める得もある。そうだ。この娘との出会いも、損がもたらした得と……言えなくもないな。 夏の暑さに包まれながら、僕の体温が、ちょっとだけ上がるのを感じた。良い人、か――そんなこと言われたのは、初めてじゃないかな。お世辞と分かっていても気恥ずかしかったし、すごく嬉しかった。不意に、恋に落ちてしまうほどに。 ありがとう。その言葉が、するりと口を衝いて出ていた。彼女は、屈託ない微笑みを僕に向けながら、どういたしまして。そう言って、笑顔のまま、まだ暮れそうもない午後の夏空を見上げた。 「――あ。セミの抜け殻があるわ」「どこだい?」「ほら、あそこよ」 彼女が指差してくれた先を辿ると、僕らの頭上を覆う枝の先端に――緑も鮮やかな葉っぱの裏に、枯れ葉みたいなモノが、しがみついていた。 「本当だ。あんな細い枝の先まで、よく行ったものだなぁ」 少し高いけれど、ジャンプすれば、なんとか手が届きそうだ。僕はベンチを立って、彼女のために、葉っぱごとセミの抜け殻を取ってあげた。女の子だから気持ち悪がるかと思いきや、彼女は嬉々として、それを手にした。 「それにしても、よくセミの抜け殻だって知ってたね。 ヨーロッパにセミは居ないって、誰かに聞いた憶えがあったんだけど」「あら、ご存知ないの? 南フランスにも、セミは居ますよ。 『昆虫記』で有名なアンリ・ファーブルも、南フランスで研究をしたんです。 それに私、小さい頃は、日本にも住んでいましたから」「あ、ああ……それでか。どうりで、日本語が上手な訳だ」 今更だけど、いろいろと納得した。僕らは所詮、行きずりの関係だってことも。そもそも、ほんの数時間前まで、まったくの赤の他人同士だった二人が、こうして親しく会話をしていること自体、考えてみれば奇異な縁だ。 ――でも、だからこそ……なんだろうな。見ず知らずの関係だからこそ、気さくに話せることって、あると思う。知人に明かすのは憚られる話題も、他人になら、小説感覚で打ち明けられるものさ。別れたら、また他人同士。二度と会わないだろうから、後腐れもない――ってね。 「……抜け殻……からっぽの器」 掌に載せたセミの抜け殻を眺めながら、彼女は、謎めいた言葉を口にした。そして、茫乎とした蒼い瞳を、遙か虚空へと彷徨わせる。彼女の視線の先……真夏の蒼穹には、空色の月が、白々と輝いていた。
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