お江戸(風味)メイデン
ではマジェ・スイ支援でも…お江戸(風味)メイデン『あうっ』栗色の髪を身の丈ほどまで伸ばした女の子が、まさにその髪の毛を自分で踏んですっ転ぶ。べちんと音を立てて、女の子はおでこを地面へと打ちつける。それぞれの速さで歩んでいた人々も、一様に彼女に目をむけ、止まる。うう、何そんなにジロジロみてるですか。そんなにわたしが転んだのがおもしれぇですか。そう言いたくもなるけれど、おでこの痛みと、大多数の他人からの視線に、彼女は押しつぶされる。何事もなかったかのように、立ち上がり、また歩き出そうとする女の子。そこに、手が差し伸べられた。『大丈夫?』その視線の先には、メガネをかけた男の子が立っていた。『おでこ、すりむいてるね』『べ、別に痛くもなんともねぇですし、気にすんじゃねぇです。とっととどっか行っちまえ、です』『でも、涙が出てるよ』『こ、これは土が目に入っただけですぅ!』『なら顔も洗わなきゃね』男の子は少し強引に女の子の手を引っ張ってゆく。それに引きずられるかたちで、もう一度…『ぷぎゃ』『ご、ごめん』女の子はまたすっ転ぶ。今度は髪を踏んだのではないではあるが。 『ど、どしたの?』『おめぇがあんまり引っ張るから…あーッ、ぞうりの鼻緒が切れちまったです!』『ご、ごめん。でもこれならすぐ直せるから。貸して』『え?』女の子が返事をする前に男の子は彼女のぞうりを剥ぎ取る。そして返事をする前に直してしまったのだ。『もう、直っちまったですか?』『うん。慣れてるからね』『おめぇ見かけによらずすげぇ奴ですね』『ぼくん家は呉服屋なんだ。だからよく縫い物とかするんだ』『とっても綺麗になってるです。おばばより上手です』『それは嬉しいな。それじゃ、行こう』『どこにですか?』『ぼくん家。すぐそこだから、薬塗って顔洗うくらいならできるよ』女の子はこの申し出を断ろうと思ったが、それはとてもできなかった。それは、彼が優しく、柔らかく微笑んだから。そんな彼に彼女は興味を持ったから。『しゃーねーです。鼻緒も切られちまったし、お詫びくらいさせてやるです』『そうするといいよ』そして、彼はもう一度笑った。辺りはいつの間にか、夕日で薄赤に染まっている。二人は長い時間を、男の子の家で過ごしたことには気付いていない。『…また、遊びに来てもいいですか?』『うん。いつでもまた、遊びにきてよ』『ありがとです。それじゃ、また。―――――くん』『じゃあね、翠星石ちゃん』そして女の子が、再びこの家に遊びに来たとき、既に男の子はこの家には居なかった。理由は聞かなかった。どうせ自分にできることは何もないのだから。目から溢れる涙を、きっとあの日、目に入った土の所為だと自分に言い聞かせながら、家路についた。「翠星石、起きて」夢を、見ていたらしい。遠い昔の、懐かしく愛しい夢を。妹に揺り起こされて、かつての女の子は目を覚ます。彼女は、すらりと背筋の伸び、凛とした雰囲気を漂わせる、美しい女性へと成長していた。そんな彼女も…「今日は将来の旦那さんと顔合わせなんでしょ? お化粧しなきゃだよ」嫁入りの準備をしているところだった。なんであんな夢を見てしまったのだろう。こんな日に。思い出してしまう。あれが私の最初で最後の恋だったってことに。私に言い寄ってきた男性は多くいた。でも全部蹴っ飛ばしてやったら、二度と顔を見せなかった。今さらながら、なぜそんなことをしたのだろうか、と思う。幼い何も知らない頃の相手を思ってやったのだろうか?…名前も覚えていないような相手のために? この私が? 馬鹿馬鹿しい。ほんっとうに、馬鹿馬鹿しい、わよね。そんな相手のためにだなんて。私は妹に尋ねる。「えー…っと、何でしたっけ? 相手の名前」ため息をつきながら、妹は答える。「そんなんでいいの? ほんとに。桜田ジュンさんだよ、桜田ジュン」…カチリどこかで、歯車が噛み合ったような音が聞こえた。
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