『少女ハ血ヲ欲ス』
がたり。真夜中の玄関で物音が聞こえる。この広い広い屋敷で、私はひとりぽっち。何年も、何十年も。・・・何百年、てことはないかしら。もうよく覚えていないわ。お客様なんて来たこともない。人はおろか猫や野良犬、小虫一匹たりともここにはいない(と思われる)。窓もない。外へのドアは開くかも知れないけれど、開けたことは無い。・・・たしか。だから、玄関で音が聞こえるというのはおかしなこと。だけど私には音の正体が何かを確かめられるほどの度胸は無い。幽霊がこわいのか、って?違うわ。私が恐れているのは、もっと切実な現実。私に会いに来る人間。それは私を狩りに来る人間に他ならない。彼らが恐ろしいからこそ、私は長い事、長い事、この屋敷からは出なかった。飢えを耐え、渇きを凌ぎ、ここから出なかった。近隣に住む人々にも迷惑はかけなかった。夜な夜な空を飛んだりしなかったし、若い男を襲って血をすすったりしなかったりはしなかった。毎晩、自分をいつか殺しに来るであろう存在を恐れて、震えていた。だから今も、身を縮ませて、震えていた。ついに、来るべきものが来てしまった、と。お父様は言った。「お前は確かに人間ではない。持つ力も、容姿も、人間のそれじゃあない。 だけれど、お前は確かに私の娘。私だけは、何があってもお前を愛している。私がお前の母親を愛したように」お父様は言ってくれた。お父様は賢明な人だった。私をこの屋敷に閉じ込めた。村から、国から、世界から。疎まれ、憎まれるであろう私を。お父様は私を世界から守ってくれた。自らを犠牲にして。化物の親と罵られ、悪魔と非難され、しかし、それでも私を守ろうとして生きた。お父様は私に血を吸わせて下さった。私はお父様の血を啜って生きた。そう。私は吸血鬼。生き血を食らい、闇に溶け、蟲や蝙蝠を操る異形にして真性の化物。・・・もっともそれは母親だけであったそうで、ハーフの私には出来得ないけれど。
私はお父様の命を削り取って生きた。私はお父様を絞りかすに変えて生きた。私のために文字通り身を粉にしてくれた、お父様を私は愛していた。私の世界にとって、お父様が全てだった。だからお父様が亡くなってからの私の生は、まるで消化試合のようなもの。無意味であり無価値であり無味無臭だった。それでも私は死ぬことを恐れた。なぜだろうか。それは、この身体こそがお父様と私を繋ぐ最後の蔦だったからだろう。私自身の存在が、お父様を生かす。そう思っていたからだろう。それとも、もしかしたら、ただ惰性で生きていただけかもしれない。でももしかしたら、「生きているから、死にたくない」ただそれだけだったのかもしれない。いよいよ私の死神様は目の前。吸血鬼の力は多少残っているかもしれないが、大したことはできないだろう。カツン、カツン、カツン。靴底が大理石の床を叩く音。未だに私は思い違いであることを望んでいたが、そんな甘ったれた予想はあっさりと裏切られる。この屋敷に這入りこんでいる者はいる。足音もそう遠い場所ではない。どこか、隠れる場所はないだろうか。私は周りを見るが、そんな場所はない。がらんどうの部屋のどこに隠れればいいのだろうか。私にできること。それは物音を立てないように、身を小さくし、動かないでいることのみだった。ふと、足音が止まる。「誰か・・・いるのか? ・・・んなワケはねーか」野太い男の声。私に会いにきたわけじゃないの?もしかして、ここに来たのはヴァンパイアハンターじゃないの?「・・・仮に居たとしても、同業者か」・・・もしかして、この人はドロボー?ガチャリ。ドアの開く音。それもごくごく、近い場所で。私の恐れていた事。この部屋のドアが開かれた。そこに立っていたのは、薄汚れた格好をした男だった。服もズボンもやぶれかぶれ。口からはすえた臭いもする。頭髪はぼさぼさで泥に塗れている。私だってこれでも女性だ。一応なりは出来るだけ綺麗にしようとは思っている。そしてそんな私の前に現れた薄汚れた男。ただでさえ、人と触れ合うのは久しぶりだというのに。彼は私のことを見ている。おそらく驚いているのだろう。こんな町の中心から離れた屋敷の一室に、白髪で赤い目の少女がひとり、座っているのだから。(もっとも、まだこの屋敷の近くに町が残っているかは疑問だけれど)男がゆっくりと近づいてくる。その手には短剣を握って。「とんだ掘り出しモンだぜ・・・こいつは・・・ 白い髪で瞳が赤いってだけでも十分な売り物になりそうだってのに、おまけに美少女ときたもんだ。 俺にもようやくツキが回ってきたか・・・えへへ、嬢ちゃん。暴れんじゃないぜ。 その綺麗な顔に傷つけたくねぇだろう? おとなしくしてりゃ、乱暴にはしないぜ」けだもののような、汚らわしい目つきで私を見ている。少しずつにじりよってくる男。「~! ~!!」「心配しなくてもいいんだぜ? やさしーいオジさんたちが買い取ってくれるだろうからよ」私は叫ぼうとするが、声が出ない。他人と接することをしなかった私は、おそらく長い事、声を出していなかった。だからきっと声帯が麻痺しているのだろう。男は私を捕らえようと手を伸ばしてくる。私は目をぎゅっと瞑る。何が起こったのだろうか。そこには赤い色をした海が広がり、男の胴体が倒れていた。そこに頭部はない。自分の手を見つめる。白い、私の肌の色をしているのはそこまで、そこから先はいいにおいがする。ちだ。わたしのてにいっぱいちがついてる。てだけじゃない。かおにも、あしにも、からだにも、ゆかにも、かべにも、てんじょうにも。いっぱいいっぱいちがついてる。おいしそう。ごちそうだらけだわ。ぺろん。おいしい。がり、がり、がり、ばりん。むしゃむしゃ。にんげんって、こんなにおいしいものだったのね。からだじゅうがぞくぞく、ふるえるのがわかるわぁ。とっても、とぉーっても、きもちいい。もっと、もっとたべたいわぁ。がり、がり、がり、ばり、ばり、むしゃ。「そうやって、自分の父親も殺したのか?」先ほどとは違う男の声を聞き、自我を取り戻す。どれほど、時間が経っていたのだろうか。私が意識が喪失したころと、今、意識を取り戻した時の部屋の違いは具体的には三つ。死体が噛み千切られたり、無理やり腕を引きちぎられたりして激しく損傷していること。窓からはすでに日光が洩れていたこと。そして、そこに一人、青年が寄りかかっていたこと。青年は眼鏡を掛け、コートを羽織り、死肉を貪る私を微笑みながら、眺めていた。「せっかくの美貌が台無しだ。君、自分の顔を見てご覧?」この異常な光景を前にしても、青年は声も、仕草も、平然としていた。彼が私に鏡を手渡す。そこに映っていたのは、髪から肌から唇まで真っ赤に染まりきった、しかし、恍惚とした表情で身体を振るわせる、私の姿だった。青年は澄み切った声で、私に言う。「そんなに美味しそうに人間食べちゃって。祓われたいの? もしかして」きっと、私はまだ血の味に、人の味に酔っていたのだろう。「おとなしくしてるなら、乱暴にしないでもいいかなと思ってたんだがね」小声だが、自分のモノとは思えないほどに濁りきり、ドスのきいた声で私は言いかえした。「あなた、もしかしてヴァンパイアハンター? うふふ、私を祓いに来たのかしらぁ?」「祓うつもりはなかったけど、結構凶暴そうだしね。君の対応によってはそうすることになっちまいそうだ」のんびりと、間延びした調子で、しかしやっぱり、透き通った声で青年は続ける。「言っとくけど僕は君より強い。襲い掛かってきてもいいけど、命の覚悟はしてもらう」私は彼の言葉を鼻で嗤った。「今の私は最高にハイってヤツなのよぉ。簡単に負ける気はしないわぁ」私はそういい、高笑いをした。次の瞬間、青年は目の色を変えて、私を睨みつけた。私は彼のその視線を一生忘れる事はないだろう。それほどまでに、冷酷で、無慈悲で、残酷な目だった。冬の空気のように、肺に突き刺さるような凍りついた視線だった。「調子に乗るな。小娘」彼がそう言うや否や、私は身体を鉄の鎖で締め付けられるような痛みを感じ、うつ伏せに倒れた。動けない。指一本どころか眼球さえ動かせない。青年の眼刺しから逃れる事ができない。青年は倒れた私の傍へとゆっくりと歩み寄ってくる。その手にはナイフを握って。日光に照らされ、眼鏡の縁と刃物が白銀色に光る。「きっと久しぶりに人間の血を吸ったんだろ。気分がよくなるのはわかるけど。 いくらなんでも身の程知らず過ぎだぞ」そういって、私の髪を乱暴に掴んで、首を露出させる。青年はナイフの腹で私の首筋をなぞる。「僕は今、すぐにでも君を殺せる。・・・どう? 殺っちゃっていい?」青年は微笑んでいる。青年は私を完全に制圧しているにも関わらず、殺気を放ち続けている。まさに油断も隙もありゃしない。私に勝ち目は無い。「・・・わかったわよぉ」「そういってもらえて嬉しいよ」青年は私に微笑んだ。それでも、私の身体の自由は、まだ帰っては来ない。「さて、僕の仕事についてだけど・・・」第二夜ニ続ク
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