第六話 『Shapes Of Love』
荊の蔓は、飽くことなく雪華綺晶に絡みつき、締めつけてくる。彼女の細い身体を、幾重にも縛りあげて、容赦なく棘を突き立ててきた。まるで――そう。まるで肉食獣の牙の如く、雪華綺晶の柔肌を裂き、溢れ出る血を貪ってゆく。「やっ……いや……っ、痛ぃ…………や……めて……ぇ」ぎちっ、ぎちっ、ぎちっ――雪華綺晶の、涙を流しての嘆願も、荊の縛めを緩めさせるには至らなかった。ばかりか、彼女の肉体に根を張り巡らさんばかりに蔓が軋めき、更に食い込んでくる。鮮血に染められた衣服が限界まで捩られ、音を立てて引き裂かれていった。「お……願……い。もう…………許…………く、ふぁ」遂に、蔓が頚に巻き付いて、喉を圧迫し始めた。このまま、死ぬ? 夢の中で、訳も分からないまま、殺されてしまうの?――死にたくない! こんな死に方はイヤ!雪華綺晶は、あらん限りの力で、荊の蔓を引きちぎろうと試みた。だが、その抵抗も、徒に傷を広げ、体力を消耗したに過ぎなかった。もう逃れようがない。落胆と絶望に、項垂れることしか出来ない。私は、死という荊に捕らえられた。助かる術は、万に一つも無い。ならば、抗っても苦痛が長引くだけ。雪華綺晶は瞼を閉ざして、闇に身を委ねた。……いつしか、噎せ返るような薔薇の芳香が、辺り一面に立ちこめていた。 第六話 『Shapes Of Love』「――っ! ――っ!」どこからか、女の子の声が聞こえる。とても良く通る声で、誰かを呼んでいる。無に浸っていた雪華綺晶は、その声に名を呼ばれて、個であることを思い出した。そして、徐に……悪夢の世界から、現実という真実への道筋を見出し――いきなり頬に走った痛みで、速やかなる帰還を果たした。「…………痛ぁい」絞り出した声は、別人が話しかけてきたのかと思うほどに、掠れている。乾ききった喉がズキズキ痛くて、雪華綺晶は端正な顔を顰めた。ひどく身体が怠い。ちょっとだけ頭も痛い。それに、寝汗を吸ってジットリと湿った肌着も、気持ち悪かった。眠っている間、ずっと全身を強張らせていたのだろうか。くっついたように開かない瞼を擦るべく、上げようとする腕も、鉛みたいに重たい。疲れを癒すために眠ったのに、寝疲れるだなんて……おマヌケもいいところだ。雪華綺晶は自嘲する余裕もなく、鬱々と、瞼をこじ開けた。すると――「ああ……目を覚ましたのね、きらきー。よかったの、ホントに」窓から射し込む月明かりの中に、雛苺の泣き笑う顔が、青白く浮かび上がった。よかった。雛苺は囁いた言葉どおり、安堵の微笑みを、唇と目元に湛えている。雪華綺晶は、使用人に宛われた小部屋の、粗末なベッドに横たわっていた。「すっごく魘されてたのよ。あんまり苦しそうだったから、ヒナね…… きらきーが死んじゃうんじゃないかって、本気で心配したんだから」怖い夢、見たの? 雛苺の問いかけに、こくん――雪華綺晶は頷いた。本当に、ひどい夢だった。不可解でありながら、やけに現実的な悪夢。鋭い棘が、身体中に突き刺さってゆく感触が、まだ……生々しく残っている。血を吸い取られていく喪失感も、首を圧迫されて鬱血する顔の膨張感も。そして、皮膚を突き破って体内に侵入してくる荊の、おぞましささえも。もし、あのまま雛苺が呼び覚ましてくれなかったら――そう思うと、雪華綺晶は身体の芯から湧いてくる戦慄きを、抑えきれなくなった。「痛くて……苦しくて…………とても、怖かった。とても……」横たわったまま、両手で顔を覆い隠した雪華綺晶の身体が、小刻みに震えだす。押し殺した嗚咽が、彼女の指の隙間から、しくしくと浸みだしてくる。「大丈夫なのよ、きらきー」雛苺は穏やかに言うと、小柄な体躯をめいっぱい広げて、徐に、幼子のように怯えている雪華綺晶に覆い被さった。雪華綺晶が「えっ?!」と、涙声で驚きを表したが、キニシナイ。「朝がくるまで、ヒナが一緒に寝てあげるから。ね? もう怖くないの」ありがとう。その想いは、嗚咽に邪魔されて、巧く言葉に出来ない。だから、雪華綺晶は仕種で表現した。雛苺をギュッと抱きしめて……恐怖による涙を、感謝のための涙に変えて、雛苺の柔らかな頬にキスをした。「きゃ……くすぐったいの~。もぉー。ヒナも仕返ししちゃうのよー」雛苺も、雪華綺晶の涙に濡れた頬を、ちゅっと啄んだ。なるほど、くすぐったい。背中がムズムズして、雪華綺晶は身悶えた。二人はクスクス笑いながら、ベッドの中で戯れ続けた。眠りに就くまで……ずっと。 ~ ~ ~夜が明けて、いつもどおりの一日が始まる。雪華綺晶は、いつもどおりに屋敷での雑務をこなしていった。漏れ聞こえるピアノの旋律に合わせ、上機嫌にハミングしながら。昨夜の悪夢のことなど、すっかり忘れていた。夢なんて、所詮そんなものだろう。どれだけ印象深かろうと、夜が明ければ消えてゆく運命の、朝霧に等しい。――今日は、いつになく雑用が少ない。手空きになった雪華綺晶は、ふと気まぐれに、ピアノのメロディを辿りはじめた。どんどん、音が大きくなって行く。サロンから聞こえてくるようだ。重厚なドアを少しだけ押し開けると、より一層、明瞭な音が彼女を出迎えた。明るくて広々した室内に、グランドピアノが据え置かれている。それを演じているのは、降り注ぐ陽光を浴びて神々しく輝く、ブロンドの乙女。「……マスター」邪魔しないよう、そっと呟いた雪華綺晶の声は、奇妙に熱っぽく上擦っていた。なんて素敵……その想いが、彼女の胸の中に谺する。コリンヌと出会えたこと。彼女の側に居られる僥倖。ああ、素敵すぎる……。――不意に、雪華綺晶を魅了していたピアノの音が止んだ。いけない。ぼうっとして、気付かない内に、マスターの邪魔をしてしまった。我に返って、ドアを閉ざそうとする彼女を、コリンヌの澄んだ声が引き留める。「こっちにいらっしゃいな、雪華綺晶。ちょっと、貴女に話があるの」なんの話だろう? 雪華綺晶は、後ろめたさを引きずりながら、ピアノの側へと歩み寄った。
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