幕間1 『恋文』
ひとりの乙女が綴った、手紙。想いを包み込んだ、日焼けした封筒は、いま――知り合って間もない、純朴そうな男性の手の中に横たわり、眠りに就いている。遠くて高い青空に、真一文字の白線が、引かれてゆく。彼は、その飛行機雲を目で追いながら、ふぅん……と、呻るように吐息した。そんな彼の横顔を見つめながら、私は温いコカ・コーラを口に含む。ワインのテイスティングをするみたいに、そっと舌先で転がすと、しゅわぁ……弾ける泡の音が、耳の奥で、蝉時雨とひとつに溶けあった。「大きなお屋敷に住んで、お抱えの運転手がいたり、使用人を雇ったり…… 話を聞いてる限りじゃあ、君の家は、随分と資産家だったんだね」やおら口を開いたかと思えば、その三秒後。彼はいきなり、あっ! と大きな声をあげて、気まずそうに頭を掻いた。本当に突然だったので、私は危うく、飲みかけのコーラで咽せ返りそうになった。「ごめんな。だった――なんて過去形は、とんでもなく無礼だよね。 ……ダメだなぁ、僕は。どうにも口が下手で、よく失敗するんだ」「いいえ……気にしてませんよ。実際に、零落した家柄ですから」私の言葉は、決して謙遜でも、彼を気遣ってのことでもなかった。かつての土地や屋敷は、戦後の混乱で、他人の手に渡ってしまったのだから。他人様に胸張って『資産』ですと誇れるモノなんて、本当に、何もなかった。 幕間1 『恋文』少しばかり、気まずい空気。私も彼も、相手の言葉を待つばかり。木陰のベンチに並んで座ったまま、汗ばむ肌を、吹き抜ける熱い風に晒していた。どれほどか――私が一本目のコーラを飲み干してしまうくらいの時間が経って、「よかったら、教えて欲しいんだけど」やっと、彼は口を開いてくれた。「ひいお祖父さんは、どんな仕事を?」別段、秘密にするようなコトでもない。私は正直に答えた。「小さい頃から、お祖母様に繰り返し聞かされてきた話ですと、 曾祖父は、海運会社を立ちあげ、一代で財をなした傑物だったそうです」「海運かぁ。世界大恐慌が1929年10月以降のことだから…… 1932年当時といったら、海運業も厳しい時代じゃなかったのかな」「ところが、そうでもなかったみたいですよ。 フランスは、イギリスやアメリカ同様、ブロック経済政策を採りましたから。 曾祖父の会社は、本国とマダガスカルを結ぶ航路で収益をあげていたみたい」彼は「なるほどなぁ」と顎のラインに指を滑らせ、頻りに頷いていた。それにしても、この人……見かけは凡庸だけど、なかなか知的なのね。すらっと年代が出てくるあたり、世界史の知識は、それなりにあるらしい。私は彼に促されて、昔話を続けた。「少し、時間を遡ります。1930年のことだったと、お祖母様は仰ってました。 事業の拡大を考えていた曾祖父の元に、一人の日本人青年が訪ねてきたそうです」「日本人…………そうか! それが、この【Yuibishi】氏だね?」「ええ。彼は日本の財団経営者で、新しい事業を興そうと考えていました」当時、世界大恐慌の影響で、日本でも昭和恐慌という事態に陥っていたと聞く。ただでさえ、ブロック経済により高い関税障壁が立ちふさがっているのに、対外貿易を展開しようだなんて、分の悪い賭博もいいところだわ。どう考えてもハイリスク・ローリターン。最悪ノーリターンという場合も……。堅実な商売人ならば、絶対に頚を縦には振らなかった筈よね。「事業提携を持ちかけた訳だね。結果は、どうだったんだい?」「それはもう、トントン拍子に。曾祖父にとっても、渡りに船でしたから。 異国からの客人を自宅に宿泊させて、もてなしたそうです」「君のお祖母さんも、その時に【Yuibishi】氏と会ってたんだな」「……はい。その当時、お祖母様は14歳。青年は18歳だったと―― お互いに歳が近く、青年がフランス語に堪能だったことも手伝って、 二人はすぐに打ち解け…………淡い恋心を抱くようになりました」「すると――」彼は手にしていた封筒を、ひらりと振った。「これって、まさか」彼が言わんとする事は、私にも解った。「多分、あなたが考えているとおりでしょう。それはラブレターです。 二人は離ればなれになっても、頻繁に便りを出し合っていました」そして……と、私は75年の歳月が染み込んだ封筒を指差して、告げた。「それが、二人の間で交わされた、最後の手紙だったんです」最後という単語に興味をそそられたらしく、彼は瞳を輝かせた。「ちょっとだけ、この手紙……読ませてもらっても、いいかな」どうぞ、と。私は気軽に応じた。便箋を抜き出して、慎重に広げた彼は、やおら眉を顰めて呻った。「これって、どこの言葉だろう? アラビア語……とか?」読めなくて当前。ブルーブラックのインクで綴られた文章は、フランス語よ。ただし、鏡に映さなければ読めない、逆さ文字だけどね。私は、困り顔の彼を眺めて、堪えきれなかった笑みを、クスッと漏らした。そして、笑ったお詫びに、手紙の内容を諳んじてあげた。 私のカラダが醜く老いさらばえ、朽ち木の如く滅びようとも―― 私のココロは必ず、その骸を苗床にして、新たな命を芽吹きます。 いつまでも……それこそ未来永劫、あなたを想い続けるでしょう。 いつか、この胸に宿した片想いが、あなたに届くと信じたままに。 けれど……もしも―― 私の醜い本性を、あなたが知ってしまった時は……どうなってしまうの? 私の声に、あなたが応えてくれなくなった時は……どうなってしまうの? 仮定を仮定で補って――絵空事を描くことだけ、ひとり上手になってゆく。 怖い。とても……恐い。 カラダが朽ち果てて、ひと握りの土に還ることよりも―― ココロの死と共に、大切に温めてきた想いが、滅びてしまうことが。 幸せも、歓びも、すべてが空虚な幻だったと、解ってしまうことが。 愛しています。 愛して下さい。 ぐるぐると――それこそ未来永劫、二人の想いが廻るだけ。 それが、私の望む世界の、すべて。「――と、書かれているんです。悲壮で、いかにも最後って感じですよね? まあ、ともかく……お話を続けましょうか。古い古い、夢のお話を――」彼は無言で頷いた。蝉時雨の合間に、ごくり……と、喉の鳴る音が聞こえた。
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