第一話 『Face the change』
――1932年 南フランス。夜……雲が月を遮って、いつもより暗い夜。煤煙を撒き散らしたような、漆黒。陰鬱たる森の静寂を、無粋なエンジン音で破りながら疾駆する黒塗りの車が、一台。1929年のパリ・モーターショーで華麗にデビューした、プジョー201だ。山間の閑散とした田舎道に立ちこめた夜霧は、いつになく濃い。それが為だろう。通い慣れた道であるにも拘わらず、薄気味悪くて仕方がなかった。運転手も不穏な気配を感じているのか、普段より更に、飛ばしている。いくら煌々とヘッドライトを灯したところで、夜霧を消せる訳もないのに……こんなに早く走ったりして、危なくはないのかしら?轍とか、張りだした根に車輪を乗り上げて、横転したりはしない?僅かでも不安を抱いてしまうと、それが呼び水となって、更なる不安に苛まれる。「ねえ……霧が深いから、怖いわ。どうせ家に帰るだけだもの。 ゆっくり、安全運転で行ってちょうだい」革張りの後部席に、ちょこんと納まっていた娘――コリンヌ・フォッセーは、彼女の家のお抱え運転手に、緊張しきった声で頼んだ。車が速度を落とすと、コリンヌは安堵の息を吐いて、暗い車窓に眼を戻した。相変わらず、夜霧は暗い木々の間から、ひたひたと押し出されてくる。まるで、イタズラを企てた妖精が、霧のヴェールを纏って忍び寄ってくるみたい。――妖精だなんて、おとぎ話の世界じゃあるまいし……。コリンヌが白い霧の中に幽かな変化を見たのは、小さく自嘲した直後のことだった。 第一話 『Face the change』 今のは、なに? 少し眠るつもりで閉じかけた瞼を、コリンヌは見開いた。ゆるゆると後方に流れ去った景色に、ほんの一瞬――彼女は確かに、視界の隅で捉えていたのである。ねっとりとした夜霧から、吐き出されるように現れた人影を。「停めてちょうだい!」彼女の鋭い声に驚いた運転手が、加減を忘れてブレーキを踏み込んだ。車が急停止して、コリンヌの華奢な身体は慣性に抗いきれず、ぐいと前のめりになって、運転席のシートバックに押しつけられた。胸が圧迫された息苦しさを感じたのも、一瞬。コリンヌは「ここで待ってて」と、ドアを開け、夜闇へと飛び出していた。車中から、運転手の制止する声が追いかけてきたが、耳を貸そうともしない。濃い霧で5メートル先も見えない状況ながら、彼女はさっきの人影を探した。……しかし、見当たらない。当然だ。ランプも持たずに夜霧に包まれれば、方角すらも見失いかねない。事実、振り返ったコリンヌは、もう車を見出すことが出来なくなっていた。(どうしよう……)この段になって漸く、彼女は前後の見境なく行動した迂闊さを悔やんだ。車で待つ運転手と呼び合えば、その声を頼りに、引き返せるだろう。だが、これ以上さっきの人影を探すことは、困難そうだった。目の錯覚、或いは本物の幽霊だったなら、まあいいと笑って済ませられる。けれど、もし遭難者だったとしたら――助けなければ、死んでしまうかも知れない。「……もう少しだけ、探してみましょう」コリンヌは独りごちて、慎重に足を踏み出した。車のヘッドライトを目印に森を這い出てきたのなら、まだ近くに居るはずだ。五歩くらい進んだところで「誰か居ませんか」と、霧の中に囁いてみる。彼女の声に応えるのは、ホゥホゥというフクロウの、遠い声だけ。やっぱり、こんな夜中の山道に、人なんて歩いているわけがない。よくよく考えたら、付近には民家どころか、山小屋すら無いはずの場所だった。「嫌ね。見間違いだったんだわ、きっと」言って、車に戻ろうと踵を返した彼女は、その直後――ヒィッと喉を鳴らして、腰を抜かさんばかりに驚いていた。いつの間に近づいていたのか、コリンヌの背後には、若い娘が立っていたのだ。コリンヌと同い歳くらいか。娘は茫乎とした表情のまま、ただ棒立ちしていた。白痴のように唇をポカンと開けて、意志のない瞳を宙に彷徨わせている。娘の髪は、夜目にも判るほど真っ白で、右眼を白薔薇の眼帯で隠していた。なにより驚くべきは、その娘の服装だった。この冷え冷えとした山中にあって、身に纏っているのは泥汚れたシュミーズのみ。露わになった肌の至るところに擦り傷が刻まれ、泥が付着していた。「貴女っ! どうして、こんな――」どう考えても、ただの遭難者とは思えない。もしや不逞の輩にかどわかされ、山中で陵辱された上、置き去りにされたのでは。躊躇いもなく、コリンヌは娘の腰を抱き寄せた。饐えたような臭いが、鼻を突く。よほど疲れていたのか、娘はコリンヌの腕に、ぐったりと体重を預けるなり、そのまま気を失ってしまった。娘の肌は汗でベタつき、冷え切っている。コリンヌは運転手に声を掛けて、彼の声を辿り、車まで戻った。彼女が連れてきた小汚い娘を見るや、運転手は驚き戸惑ったが、キニシナイ。後部シートに娘を乗せると、コリンヌは毅然と指示した。「車を出して」――なんとも不思議な客を乗せて、車は再び走りだす。得体の知れない娘は、コリンヌに抱きかかえられて、昏々と眠り続けている。(どういう子なのかしら、この子?)この辺りでは、見かけない娘だった。身元を辿る手懸かりは? 差し当たって、コリンヌは、娘の両手を調べてみた。だが、指輪などのアクセサリはしておらず、指先は泥だらけだ。素手で、穴でも掘っていたのだろうか? さっぱり解らない。結局、個人を特定できそうな手懸かりは、なにも無し。コリンヌは溜息を吐いて、ばさばさに乱れた娘の髪を、そっと撫でた。ひとまず家に連れて帰って、目を覚ましてから、詳しい話を聞くしかないだろう。娘の喉が、ひく……と動いたのをキッカケに、コリンヌは娘の首筋に目を遣った。すると、その時になって始めて、娘がペンダントをしていることに気づいた。車内は暗かったし、シュミーズの下に隠れてもいたので、見落としていたらしい。コリンヌは、娘を起こさないように、そっとペンダントを手に取ってみた。それは、ガラスのように青く透きとおる、雪の結晶を象ったペンダントだった。
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