『モノクローム』 プロローグ
彼女を見かけたのは、夏の暑さも真っ盛り、八月初旬の昼下がりだった。焼けたアスファルトから、もやもやと立ちのぼる陽炎を抜けて、歩いてくる乙女。つばの広い麦わら帽子で強い日射しを避けつつ、鮮やかなブロンドを揺らめかせていた。右肩から吊したハンドバッグの白が、やたらと眩しい。僕は、彼女を目にしたとき、一瞬だけれど、幻かナニかだと思ってしまった。――何故って?そのくらい、彼女は人間ばなれした美貌を、兼ね備えていたからさ。陳腐だけど、もしかしたら本当に美の女神なんじゃないかと、思えるほどにね。さて……男だったら誰しも、こんな美人とお近づきになりたいと思うはずだ。かく言う僕のココロも、その意味では健全な男子として、素直に反応してしまう。日常会話でもいい。ほんの挨拶だって構わない。とにかく、なんでもいいから、彼女と言葉を交わす方便を探した。目を皿にして、およそ今までの記憶にないほど真剣に、ね。その時だった。彼女の影が不意に揺らいで、後ろへと傾いでいったのは。危ない! 咄嗟に胸の中で叫んだ僕は、気付けば、もう駆け出していた。下心はあったさ、確かに。けれど、信じて欲しい。その場は本当に、無心だったんだ。倒れる寸前で、僕は彼女を抱き留めていた。驚くほど華奢で、軽い身体を。はた……と麦わら帽子が落ちて、彼女の髪から、甘い薔薇の香りが靡いた。手に伝わる、汗に濡れた肌の艶めかしい感触と相俟って、僕の頭はショート寸前だった。 プロローグ 『愛のカケラ』 みっともなくドギマギするも、腕の中で発せられた弱々しい呻きで、我に返った。こんな状態で、惚けている場合じゃない。どうしたのか、訊いてみないと。しかし、彼女の顔を間近に見た僕は、情けないけれど言葉を失ってしまった。見れば見るほど、綺麗な人だ。張りのある白い肌に、クラクラさせられる。多分……僕が学校で接している女の子たちと、そう大差ない歳だろう。「だ、大丈夫かい? 足を挫いたのかな?」気を取り直したものの、彼女にかけた声は、恥ずかしながら上擦っていた。――どうして、足を挫いたかと思ったかって?この女の子は、ヒールの高い靴を履いていたからさ。それが原因で、体勢を崩したのかと思っていたけれど……どうも違うらしい。彼女の背を支えている僕の腕には、異様に高い体温が伝わってきていた。「君……もしかして、熱中症なのか?」露わになった首筋や二の腕には、強い日射しに焼かれた赤い腫れも窺える。この炎天下を、どれだけ歩いていたんだろう?「とにかく、涼しい場所で休ませないとなぁ」幸い、すぐ近くに公園がある。木陰が多いし、噴水もあるから涼は取れるだろう。夏休みと言うこともあって、子供たちと蝉時雨がうるさかったけれど、仕方ない。なるべく静かな木陰のベンチを選んで、彼女を仰向けに寝かせた。ヤブ蚊はいないようだ。僕はスーツの上着を畳んで、枕の代わりに敷いてあげた。手にしたままだった麦わら帽子を、彼女の胸元にそっと置いて、考える。差し当たって……次は、何をすべきだろう?とにかく、体温を下げることだ。それも、可及的速やかに。辺りを見回すと、都合のいいことにジュースの自販機がある。「よし! ちょっとガマンしてるんだぞっ。すぐに戻るからね」返事を期待できる状況じゃなかったけれど、それだけ伝えて、自販機に走った。何でも良いから、よく冷えた缶ジュースを4本買って、女の子の元へと戻る。そして、二本を彼女の細い首筋に当てて、もう二本は、彼女の脇の下に挟ませた。動脈を冷やすことで、早く体温を下げられると、聞いた憶えがあったからだ。「頑張るんだよ。すぐに、楽になるから」僕はベンチの傍らに立つと、麦わら帽子を手にして、彼女を扇ぎ続けた。 ~ ~ ~ 小一時間くらい、そうしていただろうか。扇ぐ腕が、かなり怠い。この見ず知らずの女の子は、漸くにして、うっすらと瞼を開いてくれた。そして、呆然とすること数秒。急にハッと表情を固くして、僕を鋭く睨んできた。「わ、私に……なにをしたの?」「いや……誤解しないで欲しいんだが、僕は何も――」「…………」「本当だよ。いきなり、君が倒れたものだから、日陰に運んで休ませてたんだ。 誓って、変なイタズラなんかしてないよ」「……そう……だったの。ごめんなさい、疑ったりして」素直に謝るところを見ると、倒れた自覚みたいなものが、少しはあるのだろう。彼女が身体を起こし、ベンチに座り直すのを待って、僕は口を開いた。「どのくらい日なたに居たのか知らないけど、暑気中たりしたんだと思うよ。 ちゃんと水分補給してなかったんじゃないのかい?」「それは…………ええ、まあ」「ここ数年、日本の夏は、だんだん暑くなってるみたいだからね。 君は、どこの国から? あ、いや……差し支えなければ、だけど」僕の問いに、彼女は暫し思案して、徐に「昨日、フランスから」と言った。フランスなら緯度的に見て、およそ日本の北海道と、同じくらいの気候だろうか。長旅の疲れと時差ボケが重なれば、この暑さに目を回してしまうのも頷ける。「あの――私……人を探しに来たんです」「そうなんだ? この近所に住んでる人なのかい?」「分からないんです。なにしろ、古い手懸かりしかないものですから」「古いって……どのくらい? 10年前くらいかな?」訊ねると、彼女はハンドバッグから、茶色く変色した封筒を抜き出した。「亡くなった私のお祖母様が、大切に保管していた手紙です。75年昔の――」75年前とは、また大変な昔だ。逆算すれば1932年のことになる。太平洋戦争もあったから、この娘のたずね人が今も存命中かは、甚だ疑わしい。僕は「いいかな?」と断って、彼女の隣りに座り、封筒を受け取った。「宛名は……【Yuibishi】か。この人を探しているんだね? もう少し、詳しく話を聞かせて欲しいな。まあ、ジュースでも飲みながら」言って、彼女の体温を下げるために使った缶ジュースを差し出す。すっかり温くなってしまったソレは、よくよく見ればコカコーラだった。黙って缶を受け取った彼女は、それでは……と、静かに語り始めた。この手紙にまつわる、あるエピソードを――
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