はた迷惑な人たち~第一幕~
第一幕1「ジュンくん、ほんとにもう大丈夫なのぅ?」「ああもう…大丈夫だって言ってるだろ」休日の朝、口うるさい心配性の姉につかまって、ジュンは玄関先で立ち往生していた。「でも、熱も下がったばかりなのに…。ここ一週間、ずっと学校だってお休みしてたのよぅ? せっかく休日なんだから、今日はゆっくりしてたほうが…」「平気だって。それに、その休んでた分の遅れを、はやく取り戻さないといけないんだからな」「…え?じゃあもしかして、お勉強しにいくの?」「う…ま、まぁ、そうなんだけど…」「それなら、わざわざ図書館に行かなくても、家でやったらどうかなぁ?」「……そういうわけにもいかないんだよ。…あー、遅れるじゃないか、僕はもう行くからな!」「じゅ、ジュンくん…!ハンカチもったの?ちりがみは? お夕飯までには帰ってくるのよぅ!もしもなにかあったら大声を出して、近くの家に逃げ…」扉をバタンと閉めると、その奥からはまだ過保護な警告が続いていて、ジュンはうんざりしながら門を出た。「あいつ、僕をなんだと思ってるんだよ」誰にいうでもなく、ぼそっと呟くと、ジュンは少し緊張した面持ちで、手にもっていた教科書くらいなら悠々と入るであろうショルダーバッグを肩に提げた。これから向かう先は図書館で、勉強しに行くというのは本当のことだ。ただ一つ、彼が姉に言わなかった、というより、言えなかったことは、そこには彼の幼馴染みである柏葉巴もいる、ということである。弟の外出の知らせを聞いて、ハンカチの心配をする姉に、そんなことは言えるはずもない。言えばどんなことになるか、ジュンはありありとその眼前に浮かべることができた。「そうよねぇ、ジュンくんももうお年頃だものねぇ…お姉ちゃん嬉しいわぁ!」そして意味深な笑いを浮かべて、なにか豪勢なお菓子でも作り始めるに違いなかった。その後巴が家に来ようものなら、やはりにやにやと、口元に手などあてて、「ねぇねぇ、最近ジュンくんとはどう?」と意味ありげに問いかけるだろう。考えただけで、ジュンは胸がしまって、顔が熱くなるのを感じる。自分は今、比較的仲の良い幼馴染みに、風邪で休んでいた分の勉強を教えてもらうだけだ。そう、それだけのこと。彼女は学級委員でもあったし、ノートを見せてもらうくらいのことは日常茶飯事。今日はちょっと、そう、ほんのちょっとだけ、特別な日。ジュンは自分に言い聞かせると、目的地が遠いような近いような、そんな不思議な感覚を味わいながら、ゆっくりと歩いていった。2休日ということもあってか、図書館の中には、用意された椅子がたいてい埋まるくらいの人がいた。自分と、スクールバッグを置いてもう一人分だけの空間をとると、まだ少し高い椅子に腰掛けて、巴は一つ溜息を漏らした。竹刀袋をたてかけ、机の上のバッグの中を念入りに確かめる。ノート、プリント、教科書、ぱらぱらとめくっていって、最後の一枚を見終えると、微かに頷いて、それらを再び元の場所に戻しておく。壁にかけられた時計を見れば、ちょうど短針と長針が、天井を向いて重なっている。「……ちょっと、早く来すぎたかな……」巴はそのまま机の上にうっぷして、斜めにかけられた竹刀袋をちらとのぞいた。あの時計の短針も、これくらいは傾いてくらないと困る。しかしそればかりは時の力にしかどうにもならないことで、当面巴にできることは、ただ待つことだけだった。そうなるまでに、私の心臓はどれだけの鼓動を打つのだろう。手持ちぶさたで、もう一度巴は無造作に置かれたスクールバッグに手をかけた。そうだ、数学も教えなければいけない。時間を横軸、鼓動の回数を縦軸として、簡単な一次関数のグラフにできるだろうか。できないだろうな。きっと、右上がりの曲線を描くだろうから。じっとしているのが嫌で、巴は席をたつと、特に目的もなく本棚の方へと向かった。図書館で、本を探す。それはあまりにも普通のことだ。今の彼女はそうではない。ジュンと同じように、巴にとってもまた、ほんの少し、特別な日だった。3ジュンが家を出て、数分ほど歩いた時のことだ。「ジューン!」突然自分の名を呼ぶ声が背後から聞こえたかと思うと、振り向く間もなく、ジュンは背中に体重と衝撃が覆い被さるのを感じた。それに遅れて、暖かく柔らかな感触が伝わってくる。「…雛苺か」前を見たまま、ジュンはぼそっと呟いた。彼に対してこんなことをするのは、彼女くらいのものだ。肩にかけていた手を離すと、少女はジュンの正面に回り込み、首を傾げ「元気になったの?」と尋ねた。その快活な少女は、やはり雛苺で、相変わらず弾けるような笑顔を浮かべている。年はジュンよりも2つ下のはずだが、外見はそれよりも随分幼く見えた。いまにもスキップで駆け出しそうだ。「…いつ見ても、楽しそうなやつだな」「うぃ?えへへ…ヒナね、今から金糸雀と一緒にみっちゃんのところでお茶会するの! みっちゃんの作るお菓子は、すごぉく美味しいのよ~!」「…あいつか」お菓子で釣って、新作の服だのなんだのの着せ替え人形にする魂胆なのだろう、とジュンは思った。実際、その通りに違いなかった。「…ん、じゃあ、金糸雀は?一緒に行くんじゃないのか?」「金糸雀は先に行ってるのよ。お茶会するから来ないかってメールで呼ばれたなの」「へえ…でも、お前だけ呼ばれたのか?」「うゅ…みんなも呼ばれたんだけど、なんでかみんな行きたがらないのよ…」「……賢明な判断だよ」「それで、ジュンはもうお外に出ても大丈夫なの~?」「ん?あ、ああ…まぁな。…そうだ、お見舞い、サンキュ」つい一昨日に、雛苺たちが姉妹揃ってジュンのお見舞いにきた。もっとも、この騒がしい姉妹たちは病人にとって決して良い影響を与えるものではなく、てんやわんやの騒ぎの末に病状はかえって悪化したのではないかと思えたが、とにもかくにもきてくれたということが、やはりジュンには嬉しかった。もっとも、それを口に出して言えるような性格ではなかったが。雛苺は柄にもなく、照れたように「えへ…」と頬を赤くすると、両手を腰にまわして、赤い靴のつま先でとんとんリズムを叩いたりしながら、上目遣いにジュンの目を覗き込んだ。ジュンは思わず目を逸らす。「ジュンは今から何をしに行くの?」「ん…ちょっと、図書館に」「図書館?本を借りるのね」「いや…柏葉に勉強を教えてもらおうと思って」「トモエもいるの!?」雛苺の顔がパァッと明るくなった。まったく違うタイプなのに(だからこそかもしれないけれど)、二人はとても仲がよかった。「…お前は、お茶会に行くんだろ」「うゅ…そうだったの。うー…じゃあ、二人ともヒナと一緒に来たら…」「無茶言うな」「むー……あ、ここで曲がらなきゃ」「じゃあ、ここまでだな。お菓子、食べに行くんだろ?」「うぃ~…。仕方ないのね、トモエによろしくなの~」「ああ、またな」別れた後も、雛苺は途中何度かジュンの方を振り返って、その度にぶんぶん手を振っていた。「こんなところで、あいつに会うなんてなぁ…」なんとなしに空を仰ぎ見ると、澄んだ青の向こう側には、もくもくと入道雲が広がっていた。「…予報は晴れだったけどな」ジュンは少しだけ、歩く速度を速めた。
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