二、かくしごと
二、かくしごと 邸にもどった一葉の足もとで、眼鏡の少女がぺこりと頭をさげ、おかえりなさい、とねぎらってくれた。今年八歳になる一葉の姪の、のり、である。生まれつきの弱視のため、いつも眼鏡をかけている。 邸の人間の出入については給仕たちより気がまわると言えよう。一葉が帰宅すると、たいてい最初にでむかえてくれた。 一葉は歩きながら、二葉の居場所を訊いた。部屋に居ると言われたばかりでなく、一葉の帰りを待ちくたびれているとせっつかれたので、一葉はおとなしく二葉の部屋へむかった。 そのまま一葉についてきそうなのりの体をひっくりかえして、背をたたき、弟の世話でも焼いてきなさい、と言った。 一葉はこれから、そのようにするつもりでいる。「時計屋帰りということは、ふられたか、見失ったか」 部屋に入ると、二葉はまず、そう言った。 なんと言われるかをだいたい予想できていた一葉は、とくに気分を害するふうでもなく、二つこぶ付だったとだけ、答えた。一つは夫で一つは息子のことを言っている。 「それより、ぼくを待っていたというのは、いったいなにか用でもあるのか」 と、一葉は訊いた。「べつに待ってなんかいなかったけれど……、誰かがそう言ったの」 と、二葉が逆に訊いてきたので、一葉は一瞬息をつまらせた。 のりが、お父さんが伯父さんのことを待ちくたびれている、と言っていたのである。 しようのない子だ、と一葉は呆れた。「まあ、そう目くじらたてるようなことじゃないでしょう。待っていたわけでもないが、用があることはある」 と、二葉は一葉をなだめた。「柏葉氏から花見のおさそいがあったんだ。さそわれたのはぼくじゃなくてジュンだけれどね、一緒にどうかと思って。来月の中旬に――」 ジュンは二葉の息子の名である。 ふうん、と一葉は気のり薄につぶやき、花見は別邸・本邸のどちらでやるかを訪ね、二葉が、本邸で、と答えると、「なら、だめだな。あそこは嫌いだ」 と、きっぱりと言った。 柏葉の本邸には、先代の植えた若い翌檜の林がある。昔その翌檜を紹介された時、一葉は林間に呑み込まれそうな感覚を得て目眩を起こしてしまい、以来柏葉の本邸を毛嫌いしている。 が、たとえ別邸でやると言われても、一葉は断わったであろう。 ――失恋したばかりの男に言うことじゃあないな。 そう言いたげに一葉は二葉を睨んだ。口もとは笑っている。「桜はしばらく見たくもない、ぼく」「トラウマというやつかい。いいかげんに身をかためてほしいね。でないと、ぼくにとばっちりがくる」 くどくどしいお説教がはじまりそうだ、と感じた一葉は、「心配しなくたって、妻の目星はついている」 と言って、二葉を抑えにかかった。 呆気にとられた二葉は小さく口をあけたまま、言葉を失ってしまった。その反応がおもしろかったのか、一葉は愉快そうに笑った。童子のような幼くて明るい笑貌になっている。 二葉はあけていた口を不快でつぐんだ。「おお、おどろいたな」 と、一葉が言ったのは自分のことではない。二葉のことを言っている。「隅田の女性はこぶ付だったと言っていたはずだが……」「あの女のことじゃないよ」「どこの誰。帰りにでも見つけてきたの」「まあ、だいたいそんな感じ。とびきりの美女で、かがやいて見えた。ああいうのは初めてだ」 美女、と言われたあたりで、二葉は真面目に聞くのをやめた。またいつもの悪癖が出ただけか、と思ったからである。さすがに、一葉のいうとびきりの美女が、自分の娘とそう年齢の違わない女児であることになど、気づきようもなかった。それでも、とりあえず、 「もちろん、名前や住所を訊いてきたのだろうね」「名前だけ。住所はわからないね」「大した進歩だ」 と言い、二葉は窓際まで寄った。外は間違えようもなく夜になっている。真っ赤な薔薇の色が夜には奇妙に映える。 二葉には、夏の蝉と大差ない寿命しかもたない桜の花が、めでたき年度初にたのしむにおいて、はなはだ不適切な代物の気がしてならなかった。色も薄くて不気味である。桜だけでなく梅や桃の花も二葉は好まない。要するに彼は色の薄いのを嫌った。 自邸の庭の赤薔薇のような原色染みた、多少毒々しくとも活力のある色が彼の好みである。草の青い色もその一つで、「桜は夏のほうが好きだ」 と言って、二葉はどこかを望見しているようなぼんやりとした目を、窓の外へそそいだ。心の帳のむこうがわで葉桜でも見ているのかもしれない。 ――ははあ、そういうことか。 一葉は、二葉がどうして自分を花見にさそったのか、見当をつけた。 桜は夏のほうが好きだ、と言った二葉の声には甘えがある。「おまえは桜の花が嫌いだったな」 一葉は散りはじめの満開の桜を夢想した。その木の下にいる一葉と二葉は、幼かった。 二葉は今にも気絶しそうなほど顔を蒼ざめさせていて、そういえば一葉は、桜の花見のたびに、半分くらい死んでいる二葉の姿を記憶のフィルムに焼いていた気がする。 ところで、柏葉氏には、巴、という先月十二歳になったばかりのひとり娘がいて、この娘は平たくいうとジュンのいいなずけである。 老夫妻に産まれた大切なひとり娘だから、むろん巴が結菱家に嫁ぐのでなく、ジュンが柏葉家に婿入することになっている。 弟の自分に男子がいるのは家の乱れる本だと思った二葉が、柏葉家に男子のいないのに(言葉はわるいが)つけこんで強引に結ばせたという、当時満八歳と満〇歳のあいだで結ばれた気のながい婚約であった。 そういう経緯もあり、いつ破棄されるかわからない婚約だから、息子を連れて足しげく柏葉家へ通いたいという気持ちは二葉もつよくあるが、しかし、今回の桜の花見は、二葉の心の足をにぶらせるに十分すぎた。 「嫌いってほどじゃないよ。どちらかというと怖いものの類だね」 と、二葉は背後の一葉に言った。「ぼくは、うちの庭の薔薇のほうが怖いと思うな」「どうかな」 と、二葉は言ったが、本音では同意していた。そういう気分になった二葉は、この日初めて自分の邸の庭に怖れを生じさせたということであった。 二葉は落ちこんだ。薔薇を不気味に思ったからと言って、桜が不気味でなくなるわけでもない。 一葉はため息を吐いた。自分に比べて若干たよりない肩が、いっそう貧弱に見え、あわれに思えた。「白崎を貸してくれるなら、ついていってやらんでもないぞ」 二葉は一葉にむきなおった。 一葉とかち合った同じつくりの目は、お断わりだ、と言っている。 白崎は二葉のお気に入りの給仕である。二葉が拾い、雇い、養っている。 ――めずらしい。 と、二葉は思った。 いちいち二葉に許しをねだるなんてことは稀で、一葉はいつも勝手に白崎をつかっている。が、だからこそ、人づかいのあらい一葉に貸すのはごめんである。断わる時間があるならつっぱねる。 一葉は、快諾なんぞはじめから期待していないというふうな口ぶりで、人をむかえにゆかせたいと言った。誰を、と言いかけて、二葉は、「目星という女の人を、か」「そう。ここに住まわせる」「気の早いことだ。でも、住所を知らないんじゃなかったの。それとも会う約束をしているの」「元治にあずけてきた。住所はわからんというか、なくしたと言っていたよ」 と、二葉は眉をひそめた。 後嗣の伴侶は、身元と気格の清らかで、きちんとした女性でなくてはならない。住所をもたないような女を、一葉に添わせるわけにはゆかない。「いや、みなしご。たぶんだけれど」 と、一葉はかるく言ってのけたが、それは二葉の眉間の皺を増やすだけであった。みなしご、というからには、子どもということではないか。が、念のため、年齢を問い質した。 一葉はスイやソウの正確な年齢など知らないので、すなおに知らないと答えた。 寸足らずのジュンより上に見え、鷹揚な性格ののりより若いかと言えば、そうでもないように見えた。 甥姪は推測のあてにならないが、年齢としては、やはりのりと同年齢くらいであろう。一葉はそう言った。 ――馬鹿々々しい。 みなしごをあわれんで育てようとするのは、立派な心意気だと思わないでもないが、それをネタに人をからかうのは、不快きわまる。 二葉は自分が一葉にからかわれているのだと信じた。「おまえは、あのふたりに会ったことがないからな。会えばぼくの気持ちもわかるだろう」 と、得意顔で一葉は言った。人数が二葉の想像より、一つ上乗せされた。「冗談で言っているのであれば性質がわるすぎる。本気であれば――」 二葉はいったん言葉をとめ、眉の少し上あたりに人さし指を当てた。「ここを疑う」「さて、どうだろう。正気をなくしかねない美貌だった」 口調は冗談を言っているように感じるが、目は真剣そのもののように、二葉には思われた。自分自身も、なにかを熱っぽく語る時、こんな目になっているのかもしれない、と思えるものであった。 しかし、二葉をからかってあそんでいるのも反面の事実であろう。「どちらにしても趣味がわるいや」 二葉のそれは、もうほとんど独り言に等しかった。この時点で二葉は、すでに、白崎を貸す・貸さないでああだこうだと言う気をなくしている。二葉はひっきょう一葉に甘い。どれだけ文句を言っても、最後には彼の自儘をゆるしてしまう。 好きにつかえばいい、二葉は投げやりに言い、「あと、ついてきてくれなくて、けっこう。無理にでも白崎を花見の席に座らせるから」 眉に皺をよせっぱなしで、一葉に退室をうながした。「めずらしく、気前がいいな。じゃあ、遠慮なくつかわせてもらおう」 と言って、一葉は手を打った。 二葉の部屋を出ようとして、ドアノブに手をかけたところで、一葉はあいている手の人さし指をたてて唇にあて、それを二葉に見せると、人さし指に縦断されている口のはしをあげ、しばらくはこれでたのむ、と言った。 先に邸の主人である父と話をつけなくてはならない。 二葉は右手を払った。 月またぎで四日が経過した。 そのあいだ、一葉は一度も元治と連絡をとっていなかったが、同じ邸内にいてもなかなかつかまらなかった父にようやく話をつけられたので、夕食後、一葉は元治に電話をかけた。 客商売をしているからには持って損はない、と言いくるめて昨年暮れに安く買わせた電話機は、今のところ売った一葉の声くらいしか受信せずにいる。 ――なあに、じきにみんな使うようになるさ、などと一葉は言ったことがあるが、元治にはあまり信じてもらえなかった。「近く、ふたりをむかえにゆくことになると思う」「近くって、いつだ」 と、唾を吐いて棄てるような声で元治は言った。あまり機嫌がよくないらしい。「たぶん今週末くらい。前日にまた連絡するよ。ああ、ぼくじゃなくて家人を遣るから、そいつにあずけてくれ。名前は白崎だ。知っているだろう」 と、一葉は元治の不機嫌を大して気にせずに言った。「あの三角眼鏡の男か。あんまり好きじゃないな、あいつ」 元治は言葉には苦味がある。 才気走った感じのするあの青年を、元治はどうも好かない。 一葉はそれこそ、その隠そうともしないとがった才気を愛しているわけだが、元治の好かぬものは好かぬもので、そいつに自分のあずかっていた子らをわたさなければならない、ということが癪にさわったのである。 ――そもそも、あの三角眼鏡は二葉くんの給仕じゃなかったか。 と、元治はそのことを思い出した。それを、一葉は自分の手足のように好き勝手につかっている。二葉としてはたまったものではあるまい。「いいじゃないか、別にそんなこと。あいつがいちばん、つかい勝手が良好なんだ」 二葉もけっこう人物眼がいい、と一葉はめずらしく二葉を褒めたが、二葉を馬鹿にしているような感じでもあった。 なるほど、一葉も自分の拾った双子のことを、この近所沙汰にもしたくないのである。 たしかに白崎なら、誰にも見られることなくスイとソウを車に押し込める、そうやって結菱邸へ連れて帰る、それくらいは(具体的にどうするのかは知らないが)難なくやってのけそうだと、と元治も思った。 「ちゃんと許可はもらっているよ。あいつが白崎を要るのは、中旬だと言っていたから」「わかった。ふたりにも、そう言っておくよ」 と、元治は諒承した。「やあ、これで問題が一つ、解決できそうだ。調べども調べども、ちっともソウとスイのことがわからないんだもの。正直、ぼくはちょっと参っているんだよ。直接話を聞けば、また違ってくるだろう」 と、一葉が明るい声で言うと、元治が、「直接でなくても、わかるかもしれないぞ」 と言った。「なにが。なにが、わかるって」「あの子たちの正体さ。おふくろがブリキ箱をあげたんだが、スイがそこになにかを入れた、というより隠していた。ソウも中身を知らない、教えてもらえないようなものだ」 ブリキ箱をそのまま結菱邸へ持ちはこんでゆくようでれば、その蓋をあければ、一葉は、少なくともスイのかかえている秘密を知ることだけは、確実にできよう。「はあ、ブリキ箱ね。わかった」 一葉はうなずいた。受話器に髪がこすれた。 一葉はそこから話題を少し変えた。少しなのは、けっきょく話題の中心が双子の姉妹のままだったからである。 体調のことをおもに、今日までのできごとを、一葉は元治に細かく話させた。一葉はよほどふたりの体の調子が気になるらしく、口調に必死さがあった。 元治は、そんなに不衛生な環境じゃない、飯はちゃんと三食出しているし、睡眠だってたっぷりとらせている、と言った。風呂も、みすぼらしいが、ちゃんとある。 なんでそこまで体調を気にするんだと元治が訊くと、一葉はこう答えた。「知っている家にシラコの娘がいるんだ。それでその娘は陽射しにはまるきし弱いんで、太陽のあるうちは外に出られない、そういう話だ。スイとソウはシラコじゃないと思うが、互い違いの目の病気は、ええと、なんだったっけ、とにかく、それにだってそういうことがあるかもしれないから」 元治はその説明で納得した。「なるほど。まあ今のところ、そうした変調は見られないよ。外には出ようともしない」「そうか。それで、あとはなにか、あったか」 元治は言おうかどうか迷った。 今日はスイの昼寝中に短いあいだであったがソウと話をした。それを教えるべきかどうか。 ちょっとの逡巡のあと、けっきょく元治はそれを一葉に伝えた。 元治の話すところ、それはおよそこういうことである。 居間では、二日とかからずに元治の母に懐いて警戒心を解いてしまったスイが遊び疲れたのか昼寝をしていて、ソウは正座してスイの寝顔を見つめていた。 元治はソウのかたわらに胡坐をかき、「お姉ちゃんは、人見知りなのか人懐っこいのか、よくわからないね」 と、声をひそめて話しかけた。 スイを寝かしつけた元治の母は、甘い間食を作ってやるのだと言って台所に立ち、多量にある柴崎家の時計の針はおおむねが二時頃を示している、そんな時刻のことである。 ソウは、はにかんでいるような、ひきしめているような、微妙なかたちに唇をむすんでいたが、そこにわずかな隙間をつくり、こくりと小さくうなずいた。「わかんないです」 「ぼくは、そういうのよくわからない……」 と、ソウは言った。語尾がしめっていた。膝の上におかれていた両手が、いつのまにか拳をつくっている。「わかんないか」 元治はなにかを考えるふうに、ついと顎をあげた。元治の質問への返答にしては、どこかズレがあるように思えた。ソウがなにをわからないでいるのか、元治にはわからない。 わからないのは、二階の仮の子ども部屋にあるブリキ箱も同じである。 大事な持ち物があればこれにしまっておきなさい、と元治の母は言い、これをスイとソウに与えた。 中になにが入っているのか、元治どころかソウも知らない。ソウは正真着の身着のままでこの家にやって来た。 わからないことは、まだある。 双子のことがニュースにならない。いったい、ただの家出娘であったとしても、保護者からすればゆくえ不明以外のなにものでもないわけで、しかもそのゆくえ知れずの娘ふたりはかくもめずらしい外貌なのに、それが新聞などに全然出てこないのは、どうしたことか。 そういう点で、四日は長いのか短いのか。 ソウの膝の上の右拳が動いた。それがひらかれ、スイのかさなりおりたたまれている両手にふれると、ソウは少し、笑った。「わかんないです。ぼくは言われてもすぐ忘れちゃうから。そしたら、スイは教えてくれなくなっちゃった」 ソウの笑みには、さびしい色がある。教えないスイのそれが、いや気なのか思いやりなのか、ソウの中でまだ判然としていないようであった。「それはさびしいことだね。でも、女ってのはみんな、ピンキリにかくしごとをするのが生きがいみたいなところがあるからね。ソウはないのかい、そういうの。スイにかくしごととか、一つくらいあるだろう」 と、元治が言うと、ソウはふるふるとかぶりを振った。 それもやはり、わからない、と言った。 けれどもきっと、かくしごとなんてなにもないはずである。 だってソウは、どうして自分の家がなくなってしまったのか、自分があんなところで住んでいたのか、そうしてなんでスイに手を曳かれて町へ出ることになったのか、それだって知らないし、教えてもらえなかった。 この家に来てから、スイはブリキ箱の中になにかを入れていたが、スイはソウにそれを見せてくれなかった。言ってもくれなかった。 スイはソウに大切なことのなに一つ教えず、全部腹の中におさめてしまっている。 元治はつとめてソウを視界に入れないようにしていたので、となりにいる風変わりな女児が、その時いかなる表情をうかべていたのか、知りようもなかった。 知りたくなかったから見なかった、と言ったほうが正しい。―― 元治が話しているあいだ、一葉は何度も息を吐いた。「ほかには、あるか。ソウはなんと話した」「特にないかな。みなしごかもしれないというのは、話を聞いていてなんとなく思ったが、それくらいだ。ソウは自分のことについて、なんにも知らんらしい。知っているのはスイばかりという具合」 これ以上の情報はスイに聞くか、さもなくばブリキ箱をあけろ、と元治は自分の言葉を締めくくった。 二葉は自室に白崎を呼んだ。部屋に入ってきた白崎に、二葉は、「こういう次第になった」 と、週末の予定について白崎に説明した。「わかりました」 と、白崎が承諾すると、二葉は残念そうに肩を落とした。 ――おや。 と、白崎は、二葉の目をうかがった。二葉の目は、できることならおまえの口から断わってくれ、そう言っているようであった。 白崎は内心微苦笑した。 不都合があるのなら、言われたとおりに一葉の部屋までいって仕事を断わってもかまわない。 たかが子どもをむかえにゆくだけの仕事など誰にでもできることだ、どうしても自分である必要はない。 また、断わったところで一葉は大して怒りはしない。 それくらいの心のはたらきは、しっかりと把握しているつもりである。 白崎は、だから二葉が直接口に出して言えば、ただちにそのようにしたであろう。――断われ、断わってこい、二葉がそう言えば白崎は遠慮なくしたがう気でいた。 が、二葉はついに言わなかった。 白崎はかるい失望をおぼえた。「わたしがその日、二葉さまのおそばにいることに、なにか不都合がございますか」 と、白崎は拗ねるような、二葉を責めるような、そういう言い方をした。 二葉はこればかりは、はっきりと否定しなければならなかった。逆であろう。白崎がいなくなれば、間違いなく不都合が増える。 拾って三年、二葉はすっかり白崎に狎れきっていた。「その代わり、というんじゃないが、柏葉の花見では、ちょっと無茶をしてもらうことがある」「お花見で、ですか。はて――」 白崎は催顔をつくった。二葉は、自分の右肩より外を左の人さし指で示し、とん、とでも音を発するように、二、三度空気をたたいた。「外で待たず、ずっと居るといい」 二葉は花見の席に若い給仕を座らせるつもりでいる。かたわらに白崎がいれば、少しは気もまぎれるだろうと思ったのである。 ああ、と白崎は得心した。しかし、たしかに無茶なことである。「よほど桜がお嫌いのようで」「同じことを言うんだなあ」二葉は苦笑した。「苦手なだけだよ」 誰と同じことを言ったのか、と白崎は少し気になったが、おおかた妻か兄か、そのあたりであろう。「花見でなしに、翌檜見であればよかったですね。最近とみに立派だそうですから」 以前、二葉が柏葉の本邸にある翌檜を褒めたのを、白崎は憶えていた。「ああ、そういえば翌檜があったな」 と、二葉は言った。そして、はっとして、白崎を問うような目で見た。 二葉が自分になにかを訊きたがっていると察した白崎は、いつものように心して待機したが、二葉は顎に手を添え、なかなか口をひらかない。 やがて、手のかたちをそのままに指先を白崎にむけ、「ほら、このあいだぼくに話したろう。翌檜がどうとか。草笛さんだっけ、居候の人。その人が酔っぱらって電話で……、――」 二葉はこんなおぼつかない調子で言い、口もとをあいまいな色で染めながら白崎になにかを伝えようとしたが、言えども聞けども、いっこうにまともな伝達が成らない。 なんと話せばよいのか、二葉も言葉をまとめあぐねているようである。 ――翌檜、草笛さん、酔っぱらって電話で? 白崎はたっぷり二、三分考えこんでいたが、ようやく当てはまりそうな記憶を見つけ、ああ、と呟いた。 何日か前に柏葉家で居候中の草笛みつから白崎宛に電話がかかってきて、どう考えても泥酔している彼女が言うには、「翌檜の子たちが消えた、ですか。そんなことを言っていたような気がします」「そう、それだ」 と、二葉はほっと息を吐いた。 それがなにか、と言いかけて、白崎は言葉をのみこんだ。 白崎は二葉の言いたかったことがわかってしまい、――わからないままならよかった。あるいはすっとぼけられるならそうしたかった――思わず目を瞠った。 これ以上できないというほど、細い目がかむっている瞼をひらいて、まさか、と口を動かした。 一葉が女児ふたりを拾った正確な日は知らないが、あずけ先の時計屋からむかえを寄越せと電話のあったのは四日前の夜で、みつが電話を寄越してきたのは翌日夕であった。が、 「それはいくらなんでも、邪推というものですよ」「しかしね、白崎。邪推どおりなら、あの家は、翌檜の林に人を隠匿していることになる。で、それが、逃げたか逐われたかしたんだろう。ぼくはそんな家に息子を婿入させるのだから、これはかなり、問題があるよ」 「邪推でなければ無粋です。だいいち酔いが言わせたでまかせかもしれないし、見た夢を話しただけかもしれない。わたしはそういうふうにうけとめて、まともに聞いていませんでしたから」 白崎も気になることは気になったので、翌日になって柏葉邸に電話をしてみたのだが、みつはその時も酒が抜けておらず、ろれつのあやしいこと夥しかったため、白崎は昨日の夕のあれを、ただの酔っぱらいの妄言で大事ではないとあらためて思い、たあいない世間話の一つとして二葉に聞かせた。 二葉が聞いた話は、白崎が聞いたそれより、いっそうなおざりな内容になっていたはずである。 ――だと、いい。 二葉は重い息を吐いた。 酔っぱらいの言葉をそうまで気にするとは、二葉も神経がこまかいというか、気が小さいというか、……白崎は呆れもしたし、おかしくもあった。「なんでしたら、お花見のおりに、柏葉氏の本邸へ連れてゆきましょうか。一葉さまの息女だと言って」「それじゃ一葉が暴れる」 こればかりは、確認するまでもなく、わかりきっていることであった。
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