一、ふしぎな双子
一、ふしぎな双子 三十二歳の春の頃、以下結菱一葉が言うに―― ――ぼくが彼女を最初に見たのは、桜並木の下においてだった。開花したばかりの桜のうつくしさに見惚れていたぼくが、そこを通りかかった彼女を見た瞬間には、桜はもうまったく色を失ってしまったようで、ぼくは桜のうつくしさも忘れて、彼女に目をうばわれてしまった。すれ違った姿が、その背が視界から淡く消えてゆくまで、ぼくは、ぼくの世界で唯一となった色に、ただ見惚れていたのである。…… 一葉がこのようなことを話したところ、失礼にも目の前の弟は大笑いに笑い、「兄さんは気が多い。季節の美景に見惚れてその目を美女に横どりにされて、ずっとそう。毎度々々、よく倦まないものだ」 と、唇から笑いをおさめないまま言った。 名を二葉という。双子なので顔のつくりは一葉とあまり変わらないが、一葉よりも頬がこけていて、声が若干しゃがれている。「ひとりで隅田公園まで、なにをしにいっていたのだか」 二葉のカップを持つ手が傾いて、ゆらりゆらりと中のコーヒーがゆれる。「でも、桜に見惚れていて――、というのは、初めて聞いたな。ぼくも会ってみたいものだ。さぞ、うつくしいひとだったのだろうね」「だから、今回は……」 言いかけて、なにか釈然としない思いになった一葉は言葉をつづけず、頬杖をついて窓の外へと目をやった。目に映る人波は、ふたりが昼食をとっているこの喫茶店にも時々入ってくる。新宿駅からだいぶん遠い、立地があまりよいとは言えない店内は、それでもそこそこの賑わいを見せていた。 二葉は一つ、短い笑声を吐いてから、「見惚れていただけではね。そこで呼びとめて、名前なりなんなりを訊きだして縁を持ったのなら、ぼくは笑わずに慶んださ。でも、兄さんときたら、いつも見惚れるだけで、なんにもしやしない。父さんからの娶嫁の話を無視しつづけて、このありさまじゃないか」 そう言った二葉は、すでに妻帯しており、一女一男をもうけている。 いちおう一葉が兄だから、彼が結菱家の長男で、また嫡子ということになるが、一葉はいまだに伴侶を娶っていない。 そういうことから、二葉を嫡子に、という声があがるのは当然のことだったし、四年前に二葉の妻が男子を出産したことが、よけいにそのあたりの声を調子づかせている。 これでは家の落ち着きようがなかった。 が、一葉は、 ――結婚など四十歳になってからでいい。 と、思っている。その四十歳に一葉はまだ達していない。 しかし二葉は、この人は四十歳になった時には、結婚など五十歳になってから、などと言って、変わらず放蕩な日々をおくりつづけるに決まっている、と考えている。 結婚の年齢を定めて言うのは、所詮妻帯したくない一葉の方便にすぎないことを、二葉は知っていた。「ありさまって、なんだ。おい二葉よ、おまえはちょっと、兄にたいする敬意が足りないのじゃないか」 と、一葉は頬杖をなしていた手でテーブルをたたいて言った。「じゃあさ、そのような兄になっておくれよ」 二葉は甲を一葉にむけて両手をかるくあげ、ふっと嘆息した。言う声の息に嘆きを込めたまま、「そりゃあ、家業だけはひとかどにやっているかもしれないよ。けれどもね、熱心とは言いがたい。その上、後嗣の孫の顔を見られない、では、いつになっても家をまかせられやしない。父さんも、もう歳も歳なのだから」 一葉は少し、気色ばんだ。「なにを言うか。あの人は自分の席を誰かにゆずる気なんぞないだろう。ぼくにもおまえにも、一族の誰にも」 と、一葉は言った。 この頃の日本というのはちょうど高度経済成長をむかえるところで、一代に財を成す者もあらわれ、――またぞろ成金が増えはじめた、金があっても礼のない連中ばかりだ、彼らは終わりがよくあるまい、と父がぼやいているのを一葉は知っている。他人の隆盛が気に入らないらしい。 わたしの投機が当って巨富を成したのは僥倖である、と言っていたのも今は昔の感がある。 これなら華族時代の終わりとともに結菱家も終わってしまえばよかったのだ、と一葉は思わなくもないが、そう思えるのは良家の御曹司の太平楽というものであろう。 「そうさせているのが、兄さんじゃないか」 二葉はあっさりと反駁した。 二葉はそのあとも、なにか、いろいろのことを一葉に言って説いたが、一葉は二葉の話の半分も聞いてなかった。すぐに視線を二葉からはずした。 窓の外の景色を目いっぱいに入れていた一葉は、突然、視界の色を、いつかのようにただ一つの色をのぞいて失ってしまった。 一葉は立ちあがった。 二葉にとって、これこそ突然のことで、「どうしたの」「見つけた。さっき話した桜並木の女だ」 と言って、一葉は床を蹴って店の入り口にむかって走りだした。 慌てて二葉もテーブルに手を置き、中腰に立つ。「勘定はどうする。ぼくに全部払えと言うのか」「邸にもどってから返してやる」 鈴の音とともに扉が開閉される。 一葉は店からいなくなった。「なんて人だ」 二葉は憮然とするほかなかった。 一葉は走った。桜並木の下ですれ違った、たった今喫茶店内で窓越しに見た女を追うためである。 一葉はせわしげに首を振ってあたりを見わたし、女をさがした。 他の全ての色を失くしてしまう女の美貌をさがした。 そして夥しい数の人の群から、もはや一葉の中では唯一の有色となった女の彩を確認すると、周囲のいかなるものにも目をくれず走った。 が、手を伸ばせば触れられるという距離まもなくのところになって、一葉はにわかに立ちどまった。 女の足もとに異物の存在――少なくとも一葉にはそう感じられた――をみとめたからである。 七、八歳くらいの男児がいる。女のことを、かあさん、と呼んだ。一葉にははっきりとそう聞こえた。 ――細君だったのか。 一葉はがっかりした。 人妻への横恋慕をつづけるほど、彼は恋愛に熱心ではない。 いや、もし桜並木の女が貞潔をたもっていたのなら、一葉は今度こそ本気で惚れた女と交わろうと思ったかもしれない。それを、子どもの存在が萎えさせてしまった。 一葉が落ちこんでいるうちに、女は人の群にまぎれて消えた。 視界は、すっかりもとの彩色をとりもどしている。 傷心を癒したいのか、その色をもっとたのしもうと思った一葉は、邸へもどらずに、このまま町を散策することにした。こういうところが、二葉には放蕩として映るのであろう。 町の景色は春の盛りからはなやかさを、わずかだけそぎ落としたようなかがやきを見せている。秋に、似ているかもしれない。 あてなくぶらぶらと歩きまわっていると、すっかり裏町にでも入ってしまったらしく、建物は薄暗くさびれたものばかりで、人の往来もまばらである。 時間の流れもあって人通りはさらに少なくなってゆく。 文字通りに表町の殷賑を裏返しにした感じがする。あそこは夜になっても賑やかで騒がしいままだが、ここは(空はまだ茜色にもなっていないのに)廃村のようなさびしさがある。 そのわりに、路地は静かどころかやたらと煩い。 都心でもこういう路地となると、さすがに舗装がゆきとどいておらず、一葉の靴裏は砂利にこすれて耳に煩かった。 煩さの中を歩く一葉の脇を、突如小さな光彩が通りぬけた。 なぜか背にひやりとしたものを感じた一葉は、思わずふりかえってその光彩を見た。 すると光彩と思われた子どもも、一葉のほうへと首だけをむけた。 子どもは髪の短い女児であり、一瞬睨むようなきびしい目つきになると、まばたき一つ、すぐに首をもどして、ついに足をとめずにそのまま走りさろうとした。 が、一葉はそれをゆるさなかった。大股に走って女児の襟をひっつかむと、自分と正面をあわせるように、女児の体をむりやり一転させた。 視線を女児に近づけるために腰を折り、「この近所の子じゃないな。迷子か」 と、問うより先に同意をうながすような調子で言った。 女児は首を振って否定した。「うそを言うな」 一葉は信じなかった。女児が泣いているからうそだと思ったのではない。 今は消えてしまったが、先ほどまで女児がはなっていた光彩は、どう考えてもこんなさびれた裏町の血ではつくりようがないと、一葉は断定できる。 日本語を解するようだが、はたして日本人かどうかもあやしまれた。 よく見ると髪は茶毛で、鼻梁はくっきりと高く、眦は深くするどい。そして、これがもっとも奇妙なところで、目の色が左右で異なった。片方は赤く片方は緑色をしている。 ――こうさい……なんとかという病気だったか、たしか。 名称はわからないが、聞いたことのある症状である。「家はどこだ。親や兄弟はどこにいる。はぐれたのか。まさかひとりで出歩いてきたというんじゃないだろう」 首が左右に振られる。女児はうつむいている。色違いの目が地をにむけられ、一葉には見えづらいものになっていた。「なにに対して首を振っているのか、これじゃわからないなあ」 首を振るだけで、彼女はなにも喋ってくれない。一葉は質問の仕方のまずさを思い知った。「ぼくは結菱一葉という。ユイビシ、カズハ、だ。わかるか。おまえの名前は、なんていうんだ」 と、一葉は言った。「ユイビシ、カズハ」と、女児は一葉の声をなぞり、「ソウ」 と、名のった。聞きとりづらいくぐもった小声の上に、耳なれない名でもあったために、一葉はもう一度、名を問うてみた。 女児は同じ声を発した。二度目のそれで、一葉はようやく半分くらい納得したふうにうなずいた。「ソウ、か。漢風の名だな」 一葉は膝をさらに折ってソウの顔をのぞきこんだ。 中国人にも日本人にも見えない。色違いの目をのぞけば、西洋人の血しか感じない。「家はどこにあるの。ぼくの家は田園調布の……て言ってもわかるわけないか」 髪を掻いてから、「ずっとむこうの、真っ赤な薔薇だらけの庭がある、西洋風の大きな家さ。けっこう有名な家だよ」 一葉はその指で自邸のある方向を指さした。むろん、周辺の障害物をすべてとりのぞいたところで、その邸が見えるようになるわけではない。「ばらやしき?」 と、ソウは一葉を見あげて言った。「うん、そう、薔薇屋敷。知っているのだね」 ソウの首は左右されず、上下した。一葉はほっと息をついた。ソウに肯首されたのは、これが初めてになる。「きみの家はどこにあるの」 と、一葉は再度問うた。語気も言葉づかいもおだやかになってきている。一葉に合わせるように、ソウも態度を軟化させていった。「公園にあったけれど、なくなっちゃった」 と、ソウは言った。言うとソウは、たちまち泣きそうな顔になり、唇をゆがめた。 涙があふれてきたわけでもないのに目をこすったものだから、一葉は自分がソウを泣かせてしまったと思い、あわてて謝った。 一葉の内で、むくむくと奇妙な感情が湧きあがってきた。ソウへの同情ではなく、公園というものに対して湧きあがった。 桜並木の女が浮かんできた。女の像はちょうど肩口のあたりからあらわれ、そこから上ってゆき、眉まではっきりと見えるようになってから、一葉は自分の妄想をうち消すために首を振った。 「家族はどこにいるの」「さがしている」 と、ソウは言った。口数がだいぶん増えた。 ソウはソウで、結菱一葉と名のった見知らぬ男に慣れてきたのか、ぽつりぽつりと自分のことを話しはじめた。 ソウはスイをさがしているのだと言う。スイはソウの双子の姉である。スイがどこかへいってしまったので、ソウはスイをさがしているのであった。ソウはスイを見失ってスイをさがしはじめたが、もしかするとスイがいなくなったのは、スイがソウを見失ったからかもしれず、するとスイもどこかへいってしまったソウをさがしていることになる。 「双子なのか」 一葉の中で、今までにない同情が生まれた。「双子だったのか。ぼくも双子だ。自分と同じつらがまえの弟がいる。しかしぼくに似ず、これが全然かわいくない」 生意気なやつさ、と一葉は言った。しかし、今ソウがおかれている状況も、そして内にあるに違いない感情も、一葉にはおぼえがある。「姉がいなくて、心細いだろう。さがすのを手伝ってあげる」 一葉は腰をあげて、ソウの小さい手をつかんだ。 親のことは訊かないことにした。 ソウの双子の姉はソウと同じつらがまえの、これが全然かわいくない生意気な娘であった。 スイは、さがしていた双子の妹が、夕暮れの中で見たこともない大人の男、つまり一葉と一緒にいるのを確認すると、ただちにその背後に走り寄って一葉のふくらはぎを蹴とばした。 突然足にぶつかってきた強い衝撃のせいで、一葉がこけそうになっているうちに、スイはソウと一葉のあいだに自分の体をおしこめ、一葉をさんざんに罵ってから、状況の把握をできずにいるソウの手を曳いて、そこから逃げさろうとした。 「あっ、待てこの人さらい。おい、――」 人さらいにしては幼すぎるが、いきなり一葉のふくらはぎを蹴とばした子どもが、ソウをかっさらってゆこうとしているのだから、咄嗟にはそうとしか言いようがなかった。 「どっちが! この人さらい、助平、変態、唐変木ッ」「唐変木の意味も知らない子どもめ。とにかく待て。待ちたくなければ、その子を置いてゆけ」「違う、違う。スイ、この人は違うよ」 逃げながら一葉を罵倒しつづけるスイを、ソウがとめた。足をふんばって、そこにとどまろうとする。「この人は、ぼくと一緒にスイをさがしてくれていたんだ。いい人だよ」「人がいいのはおまえのほうです、このお馬鹿。人さらいなんて最初はみんな優しいんですから、知らない人にほいほいついていっちゃだめです」 スイはいっそうの力をこめてソウの手を曳いたが、ソウは動いてくれなかった。 おかげで一葉は、足の痛みをひきずりながらも、やすやすとソウとスイに追いついた。 ――今日はこの年頃の子どもに祟られている。 一葉は慍然とした。「言っていることは間違っていないし、まあその子が無警戒すぎるのも事実だけれど、ぼくが親切なのは最初だけじゃない。最後までだぞ、迷子ども」 スイは動こうとしないソウを胸に抱えて、一葉を睨みつけた。スイの目はソウと同じく左右で色が違うが、配色がソウと逆になっている。 一葉は目をそむけたくなった。 それをやればスイにますますあやしまれるのでしなかったが、スイの目は一葉のもっとも苦手とするたぐいの一つであった。 ――姉のほうは桜並木の女をすでに凌いでいるが、光彩に女の腥みを得るのは早いだろう。 と、一葉が感じたのには、空の色の影響もある。 日が沈むまでもう時間がない。「とりあえず、表へゆこう。この時刻の人の少ない道には、魔物が出るんだ」 目前の双子こそがそうかもしれないと思いつつ、一葉はふたりを、人の往来の絶えていないはずの表通りへと誘った。 スイはソウを抱いたまま、一歩、一葉から遠ざかった。目に、わずかな怯えがある。姉は妹より用心深い。また一歩後退した。「わかったよ。じゃあ、もうなにもしない。ぼくは勝手に表へ出る。同じ道を歩くかどうかは、そちらの勝手だから、ぼくは知らない」 と、一葉は言い、双子に背をむけて表通りへ足をすすめはじめた。 すぐに一葉の背に声がぶつかった。 言葉にもならないただの音がまずあがり、つぎに、「警察はだめ、だめです。交番とか、そういうところ」 と、スイは言った。一葉は盛大に息を吐いた。一葉はその声を無視しようとしたが、一言だけ、「ぼくはそんなところに用はない。自分の邸へ帰るだけだ」 と言った。そのあとは、三人ともなにも言葉を発しなかった。耳に入らない、呼吸の音のみが口から発せられていたに違いなかった。 幼い足音が一葉の背後から聞こえる。自分のあとを、ふたりはちゃんとついてきているらしい、と一葉にはわかった。と同時に、警戒していると言いじょうやはり子どもだな、とも思った。 背をむけている一葉は、当然のことながらスイの目容に変化があらわれていることに気づかなかった。 静まりかえった路地に、靴と下駄の音がかさなりおこっている。 ――邸へ連れて帰ることはできない。元治の家にでもあずけよう。ちょっと距離があるが、まあだいじょうぶだろう。 そう思った一葉は、スイの言ったことを鵜呑みにしていた。 警察にあずけるという手段を彼は棄てている。 家はなくなったという話しだし、保護者が健在として、つっかえされると双子には不都合なのであろう。 この双子の女児は異様である。外見も名もそうである。かかえている事情にも異様があっておかしくないかもしれない。 詮索するのも煩わしいと感じた一葉は、推量をそこに落ち着かせた。 目的地の柴崎時計店はまだ閉店してなかった。 一葉は裏口へは回らず、表の店の玄関戸を開けた。「ここがおまえの邸ですか。ちっせえですう」「お金持ちじゃなかったの」「ここはぼくの友人の家だよ。最後の大空襲でも焼けなかった〝つわもの〟さ」 と言って、一葉は笑った。 一葉の笑いの意味はスイやソウには汲みとることのできないものである。 ふたりは顔を見合わせ、それを傾けた。 店に入ると年老いた女性だけがいた。昨年に亡父の後を継いだばかりの三十搦みの若い店主は、奥にひっこんでいるらしい。「まあまあ、結菱さんのところの坊ちゃんではありませんか。こんな時間にわざわざ――」 土間角の椅子に腰かけている老婆は、訪問客の正体に驚き、腫れぼったい瞼をあげて目を見ひらいたようだった。「それで、せがれになにかご用ですかねえ」「ちょっとたのみたいことがあってね。呼んでくれないかい。話はここでいいから」 と、一葉は言った。老婆はゆっくりとうなずいて立ちあがり、息子を呼びにいった。 まもなく老婆に代わって奥からとび出てきた柴崎元治は、わななき、一葉を指し、「やい、この女ったらしの好色家め。ついについに、こんな幼子にまで手を出しやあがったな」 と言った。 一葉は色をなした。元治の母が一葉の訪問についてどんな説明をしたのか、いやというほどわかった。「冗談はやめろ。この結菱一葉は、そこまで女に不自由しちゃいない」 いちいち弁解するのも面倒な一葉は、それだけを言うと、顎で足もとの双子を示した。「髪の長いのが姉のスイで、短いのが妹のソウ。双子だ。しばらくあずかってくれ」 スイはソウの背に身を隠している。 ソウの手を曳いていたスイは表通りに出ると、にわかにソウの背後に回り、その服の袖をつまんで身をちぢませた。店に入る頃には顔までソウの背に隠して元治を見ようとしなかったのだから、スイはそうとうな人見知りというか、人を怖れているらしい。 ソウは背すじをぴんと伸ばして、まっすぐに元治を見ている。怯えはさほど見せていない。胆力があるというより、姉の言ったとおり、お人よしなせいであろう。 路地にいた時とは、まるきし立場が逆転していた。 元治は一葉のとなりに立っている双子に目を落として、しばらく見つめたが、やがてはたと気づき、「目の色が違う」 と、落としていた視線をあげて一葉にむきなおり、言った。「どこの子だ。どこから連れてきた。なにをたくらんでいる」「知らん。迷子になっていたのを拾っただけだ。警察はいやだと本人が言うから、おまえにあずけようと思った。ぼくの邸へは連れてゆけないからね。外聞がある」 名家の御曹司としては、そういう理由で安易に連れ帰ることはできないのだが、じっさいは外聞よりも家内の聞こえのほうがよほど煩い。 が、結菱家の事情なんぞは元治の知ったことではない。元治が気にしなければならないのは、友人が誘拐まがいのことをしてきたあげく、かどわかしたその子どもをあずかれと言ってきていることにある。 いやだと言ったから、で警察へゆかず、ここに連れてこられても困る。「犯罪に加担するのはごめんだぞ。おれはおまえみたいにお高い身分じゃねえんだ。金持ちの気まぐれにつきあっていられるか」 と、元治は手をはらって言った。帰れ、というしぐさである。 権威をもたない庶民の男は、わずかな瑕疵からも自分を守ってくれるものがない、元治はそう言いたい。「なにが犯罪なものか。まっとうに善行じゃないか」 一葉は不快に口をとがらせた。ため息を一つ吐いて、元治を指し、「おい、スイよ、こういうのを正しくと唐変木という」 と、スイに言った。「誰が唐変木だ」 元治が怒りを見せて言うと、一葉はふんと鼻で笑い、「おまえのことさ、元治。気の利かぬ男よ。おまえには路頭に泣く幼子をあわれむ心もないらしい」 その笑いをおさめて、「とにかく、あずけたからな。おまえにその心がなくても、おまえの母にはあるはずだもの」 と、どんな異論もゆるさない語気のつよさで言った。まともに元治を説得する気など、一葉にはちっともない。 一葉がソウとスイをここにおいてゆけば、元治にはどうしようもなくなる。一葉が自ら連れ帰ろうとしないかぎり、元治は双子をあずかるしかない。 元治もその母も無情の人ではないから、警察に保護させるにしても翌日になろう。外はもう、すっかり夜になっている。子どもを出すには、はばかりの生じる時間であった。 それでも元治が断わりをいれようすると、一葉はもう、「もし、この子らの望まぬことをしてみろ。ぼくがおまえの望まぬことすべてをしてやる」 と言い、あとはそれをくりかえすに終始した。 元治はついに諦めた。「一晩、一晩だけだぞ」「けちなことを言うな。まあ、なるたけ早めに家の連中へは話をつけるようにする」 一葉は表情をやわらげて言った。 彼はすぐには帰らなかった。電話を借りて邸へ連絡をいれ、時計屋までむかえを寄越すように言いつけた。そのむかえが来るまでのあいだ、彼は元治や双子とともに居間にあがり、てきとうにくつろいで時間をつぶした。 台所に立つ元治の母の声が居間にとどく。夕飯の支度を手伝えという、息子を呼ぶ声であった。元治は立ちあがった。「客じゃないんだから、おまえも手伝え」 と、元治が言うと、「それはぼくのご身分ではないね」 一葉はにべもなく断わった。 むかえの車が元治の家の前に到着した。 一葉はスイやソウが自分と関わりのあることを、むかえの者に知られたくないのか、居間から出ないよう・表道にいる人間に姿の見られないように、ふたりにきびしく言いつけ、それとは正反対のにこやかな笑顔になってから、 「じゃ、今月中にはむかえに来られるようにするから、それまでよいこで待っていなさい」 と言い、裏口から帰っていった。 柴崎元治の家に住人がふたり増えた。
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