相容れないものたちの喜劇~第一幕~
1放課後、生徒は皆思い思いに行動する。部活に励む者、勉学に勤しむ者、趣味を楽しむ者、何をするでもなくパソコンの前で妄想に耽りにやにやとしている者…彼女にとっては、いずれもくだらない生活かもしれない。彼女こと翠星石は、密かな想い人であるジュンを探していた。もっとも、客観的に見れば翠星石の素直になれない態度が逆に災いして、彼女の好意は公然の秘密のような状態であった。今彼女の向かう先は家庭科準備室である。ジュンはよくそこで裁縫をしていた。昔からそういったことが好きだったらしく、女の子みたいだと苛められたときもあったようだ。しかし、ジュンのつくる作品はどれも綺麗で、煌びやかで、優美で、繊細で…彼自身の内面を表しているように見えて、翠星石は大好きだった。今日もそこにいるかもしれない。淡い期待を胸に抱いて、翠星石は足が急かないように抑え、校外に咲く花を眺めるような気持ちで廊下を進んだ。もう準備室のドアが目の前にある。すると、ジュンと女の子の声が聞こえてきた。「…チビ人間のやつ、誰かと話してるですか?」入るのが躊躇われて、翠星石はドアの前で気まずそうに立ち竦んだ。女の子の声には聞き覚えがあるような気がした。それは少し高圧的で、それでいながら澄んだ、どこか可愛らしく美しい声だった。「……そう……わかったのだわ」「…真紅?」どうやらその声の主は、妹の真紅らしい。先にジュンと知り合ったのは真紅の方だ。どういう因果か、真紅はジュンを「下僕」と呼んで憚らず、ジュンはジュンでぶつくさ文句をいいながらも真紅の言うとおりに従うのだった。実を言えば、初めの頃翠星石はそんなジュンが嫌いだった。うだつの上がらないダメ男だと思っていた。ただ一緒にいるうちに、ジュンの中にある強さと、繊細さと、優しさと、そして真紅との間にある信頼関係が見えてくるにしたがって、翠星石は自分でもそれと意識しないまま心惹かれていった。それだけにジュンと真紅の関係は、翠星石にとってもっとも気になることの一つだった。「いったい、何を話してやがるのですか?」翠星石は辺りをキョロキョロと見渡した後、そっと聞き耳をたてた。二人の声が、少し途切れがちにだが聞こえてくる。「ジュン…私…こういうこと…初めて……優しく……して頂戴」「…え?」恥じらった少女の艶めかしい声が聞こえ、翠星石は耳を疑った。「わかってる……じゃあ……入れる……」「え?え?」興奮が抑えきれないような昂った少年の声。追い打ちかけるように、更なる衝撃が戸惑う翠星石を襲った。「痛いっ…!」「……大丈夫か……血が…」「…心配ないわ……あなたが……初めて……」翠星石はよろよろとドアを離れた。一体何をしているのだろう?これではまるで…。「…な、何考えてるですか…はっきりと聞こえたわけではないですし… もも、もう一度聞いてみるです」しばし逡巡したあと、翠星石は恐る恐る再び聞き耳を立てた。何かガサゴソと音がする…真紅が何か興奮気味に叫んでいる…「あっ…あっ……動かさないで…」「……そう……うん……気持ちいい……」「あっ……ん……!」そのうち翠星石は考えるのをやめた。………………「……ってそんな場合じゃねぇです!こここここれは何かの間違いで…!」ドン!思わずドアに頭をぶつける。「あうぅっ、ずず、ずらかるですよ!」翠星石は顔を真っ赤にしながら立ち去っていった。2「もうこんな時間か…」蒼星石は一人教室の窓から、朱色に輝く校庭をなんともなしに覗いていた。「花の世話も済んだし…今日はもう帰ろうかな」そうして荷物を取りまとめていると、廊下からせわしない足音が近づいてきた。自然と教室のドアに目を向けると、ドアは勢いよく開き、そこには息を切らし紅潮した双子の姉がいる。「…翠星石?えっと…僕を探してたの?」蒼星石が唖然として呆けていると、翠星石はギリギリ首を蒼星石の方へ向けて、よろよろとにじり寄ってきた。「す、翠星石、ど、どうしたんだい?」ひきつった笑みを浮かべながら、蒼星石は後ずさりした。翠星石は何もいわずにじりじりと近づき、あと一歩というところで下を向いて固まる。「……翠星せ…きぃっ!?」「蒼星石ぃ~~!!」蒼星石が心配そうに翠星石を覗き込もうとしたとき、翠星石は塞き止められていた水がふき出すように、勢いよく蒼星石に抱きついた。「いい、痛い、痛いよ翠星石!いいいったい何があったのさ!?」「あああああ蒼星石!ジュンが、ジュンが、ジュンがあぁぁぁ…」「う、うんうんジュン君ね、うん、わかったから離して…あぅっ!ちょっと落ち着いてよ!」「ジュンが汚されたですぅ~~~!!」「え?ええ?何を言ってるのかわかんないよ…って痛い痛い痛い!痛いってばぁー!」「ジュンがぁぁ~~!!」……3翠星石のいなくなった後、しばらく廊下はしんとしていたが、やがてドアをスライドする音が響いた。「あら…誰かいるのかと思ったけど…誰もいないわね」真紅は怪訝そうな顔をして首を傾げ、ジュンが興味なさそうに言った。「風でも吹いたんじゃないか?」「そうかしら、何かぶつかったような音だったけれど…それに人の気配もしたような…」「考えすぎだろ。続き、やるならはやくしよう」「…そうね。そうしましょう」真紅は振り返って、ドアを閉め再び元の位置に戻った。机の上のエプロンには、くんくんと推測されるやや不格好な犬の型に刺繍が施されていた。「あと少しで完成だな」ジュンが珍しく微笑んで言った。真紅はすました調子で、「そうね、意外と簡単だったわ」「何言ってんだよ、指、怪我した癖に。大丈夫か?」真紅の指には絆創膏が貼ってあった。「は…初めてなんだから仕方ないのだわ。それに、これくらい平気だといってるでしょう」その傷を見ながらジュンは思いついたように尋ねた。「でもどうしてまた、こんなことする気になったんだ?」「…レディーの嗜みとして、これくらいのことはね」「ふうん…。なあ、さっきも言ったけど、もしよかったら…これからもたまに教えてやるよ。 こうしてできあがっていくのも見るだけでも楽しいしさ…完成したらほんと気持ちいいからな」「そうね、こういうこともたまにはいいかもね…ふふ」くんくんの刺繍跡に目を細めて、真紅もまた微笑した。まだ少し辿々しい手つきで、再び糸を通し始める。……「…あっ!もう、また!あっ!」「…だからさ、いちいちそうヒステリックに叫ぶなよ」「もう、またやり直しなのだわ!あとちょっとなのに…ちょっとジュン、エプロンを動かさないで頂戴!」「だから動かしてないって…」さっきまでの和やかな雰囲気も消し飛び、完成にはまだしばらく時間がかかりそうなのだった。
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