『春よ、来い』
『春よ、来い』3月も終わりに差しかかった小さな町の駅に立つ1人の女性…やがて彼女は長い栗色の髪を翻しながらにわか雨の中を歩き始めた。「あれからちょうど4年…ジュン、きっと来てくれてるですよね……」まだ寒さの残る早春の風を浴びながら彼女はポツリと呟く…彼女の名は翠星石、ちょうど先日街の大学を卒業したばかりであり、就職を機に再び生まれ育ったこの小さな町へと帰ってきたのだ。だが、彼女がこの町に帰ってきた理由は他にもあった。それは4年前、彼女がこの町の高校を卒業したころに遡る…4年前……当時彼女には片思いの少年がいた。少年の名は桜田ジュン。2人はいつも口喧嘩ばかりで端から見たらどう考えても仲よくは見えなかっただろう…しかし彼女は、そんな関係の中でもふいに見せるジュンの優しさに次第に心惹かれていたのであった。だが当時の彼女にはその気持ちを素直に表すことなど出来ず、ついいつものように悪態をついては彼を怒らせてばかりいたのだ。それでも翠星石はジュンといられるその瞬間が何よりも楽しく大切なものであった。この時間がいつまでも続けばいい…そう思っていたほどであった。だが、時は有限である…
卒業が間近に迫り、ジュンといられる時間も残り僅かとなったとき、彼女は悩みに悩みぬいた。このままこの想いを抱えたままジュンと別れるか…それとも……そして卒業式が終わった後、翠星石はジュンを町外れにある大桜の樹の下に呼び出した。「突然なんなんだよ?用があるなら学校で言えばいいだろ?」いきなり呼び出されたジュンはいつものように翠星石につっかかる。しかし、その日だけは違った…翠星石は目に涙をうっすらと浮かべてジュンへと口を開いた。「好きです…」2人の間の時間が止まる…「……え?」いつも悪口しか放たれたことのない翠星石の口が告げた言葉にジュンは思考を停止させた。「私は…翠星石は…ずっと前からジュンのことが…好きでした…」そしてもう一度、今度ははっきりとした言葉で彼女は想いの全てをジュンへとぶつけた「え?…じょ…冗談だろ?だってお前は…いっつも僕に…」「何度も言わせるじゃねぇですぅ!!翠星石はジュンのことが好きなんですよ!!」翠星石はまだ信じられないといった様子のジュンに痺れを切らしてはっきりとしたいつもの口調で怒鳴りつけた。
しかしその顔は恥ずかしさに赤く染まり、左右色違いの目からは透明な涙がボロボロと流れ落ちていた。「翠星石は…翠星石は…ずっと…ジュンのことが…ぐすっ…」「翠星石…」その顔を見たジュンは一緒言葉を噤み、やがて自らも口を開いた「ありがとう翠星石…僕も…お前のことが……好きだ…」「ジュン…」「でも…お前も僕もすぐにこの町を離れて別々の大学に進む…僕には…お前を幸せにしてやる自信がないんだ…だから…ごめん。」「!?……そう…ですか…」翠星石はジュンの口から告げられた残酷な答えに悲しげに俯いた。「じゃあ…僕は行くから…」だが、ジュンがその場を離れようとしたとき、翠星石の言葉が彼を引き止めた。「待つです!!」「何だよ?まだなにか…」ジュンはその声に振り向くと、彼女は涙が溢れる瞳を真っ直ぐに向けて言った。「4年です!翠星石とジュンが大学を出るまで4年……もしその時ジュンがまだ翠星石のことを覚えてくれていたならもう一度この場所に来るです!!」「翠星石…お前…」「翠星石は絶対にこの町に帰ってくるです…その年の最初の桜が咲くころ、この桜の樹の下で待ってるです…もしジュンが来てくれたなら…翠星石はもう一度改めてジュンに告白するです…」「翠星石……あぁ、わかった…」ジュンはその言葉に強く頷いた「約束…ですよ?忘れたら承知しねぇですからね…」「あぁ…。」「ずっと…ずっと待ってるですから…うぅっ!!」そう言うと翠星石はジュンの前から長い髪を靡かせながら駆けて行った。それから翠星石はこの町を離れて、それ以来ジュンには会っていない…「何だか…本当に昔のことみたいですね…」淡い光が降り注ぐ懐かしい町を翠星石は歩く。先程まで降っていたにわか雨も今は上がり、小さな家の庭先に咲いた沈丁花の花はそのひとつひとつから春を思わせる香りを漂わせている。その花弁や蕾から滴る雨の雫は翠星石にはまるであの時の自分が流した涙のように見えた。それはいくつもの空を越えてはっきりと蘇る淡く切ない思い出…翠星石はふいに瞼を閉じてあの遠き春の日のことを思い出す。すると自分に初めての愛情を教えてくれたジュンの懐かしい声が聞こえたような気がした…翠星石はゆっくりと瞼を開くとまたあの桜の樹の元へと歩き出す。その中で考えるのは全てジュンと過ごした懐かしくも騒がしい日常…(翠星石のジュンへの気持ちは…あれからずっと変わってねぇです…例えジュンの気持ちがどんなものであれ…翠星石は返事を…ずっとずっと待っています。)知らない街に独りで過ごし、辛いとき、悲しいことがあったときは翠星石はいつもやがて訪れるまだ見ぬこの日のことを支えに過ごしてきた。迷い立ち止まりそうなときも、ジュンの存在だけが翠星石を励まし続け絶えずその懐かしい眼差しが優しく肩を抱いてくれたのだ…(ジュン…私はここにいますよ…ジュンのこと考えながらあの場所へ歩いています。)それは流るる雨の如く…それは流るる花の如く…どれだけ歩いたのだろうか…翠星石の目の前には一本の老木がそびえ立っていた。忘れもしない光景、そこは4年前ジュンに想いを告げた場所。最後にジュンと会ってあの思い出の場所だ。「ジュン…やっぱ来てねえですね…」だがひとつ違うところは、そこにはジュンの姿がなかったということであった…
今年は暖冬ということもあり、例年よりも早く桜が咲くと聞いた翠星石は天気予報で一週間のうち最も暖かくなるというこの日を選んだ。だが現実は残酷であったようだ…「そりゃそうですよね……あんな約束、覚えてるほうがおかしいのです…あぁ~!!なんかせいせいしたです!!だいたい翠星石にゃあんな奴釣り合いが取れねぇのです!これを機にとっとと新しい恋を…恋を……あれ…?」虚勢を上げた翠星石であったが、気付けば彼女の2つの瞳からは滝のような涙が流れ落ちていた「何で…何でこんなものが…翠星石は…悲しくなんか…ちっとも悲しくなんかねぇですのに……ぐすっ…なんで…うぐっ…うわぁぁぁあああああああああああああッ!!」 次の瞬間、寂しさが限界を超えた翠星石は地面に膝をつき号泣を始めた。「ジュン…なんで…なんで来てくれねぇですかぁ!?翠星石が…翠星石がどれだけお前のことを…ひぐっ…想って……ぐすっ…ジュン…会いてぇですよ…寂しいですよぅ…ううぅぅ…ジュンの大馬鹿野郎…スカポンタン…ひっく…」「久しぶりだってのに…相変わらず口が悪いな。」そのとき、辺りに翠星石とは違う誰かの声が響いた…「……え?」翠星石が顔を上げると、その先には眼鏡を掛けた青年が立ってこちらを見ていた。「ジュ…ン?」「久しぶりだな、翠星石。」その青年が翠星石の名前を呼ぶ。その声、少しはにかんだ表情…僅かばかり印象は変わってはいるがそれは間違いなく、あの日自分が心から恋した少年、桜田ジュンのものであった。気付けば翠星石は大地を蹴り彼の胸へ飛び込んでいた。「馬鹿!馬鹿馬鹿!スカポンタン!スットコドッコイ!ロクデナシ!!チビ人間!!」翠星石はあらん限りの暴言を叫びながらジュンの胸をポカポカと叩いた「ごめんな、少し遅れちゃったみたいだな…」「もう…会えねぇかと思ったじゃねぇですかぁ…ぐすっ…うぅっ…」翠星石はジュンの胸の中で小さく嗚咽を繰り返しているジュンはただそんな彼女の髪を撫でながら静かに口を開いた「なぁ…約束通り、もう一度お前の気持ちを聞かせてくれないか?」「……はいですぅ。」止まっていた二人の時間を動かすように翠星石が口を開く…「私は…翠星石は…あなたのことが…好きです。誰よりも、何よりもあなたのことを愛しています…」「翠星石…じゃあさ、僕の気持ちも聞いてくれ……」
「はい…。」「僕も…ずっと翠星石のこと忘れたことなかった。ずっと…ずっと好きだった…勿論今も、そしてこれからも…」「ジュン…それじゃあ……」「翠星石…僕の恋人になってくれ。」「!?」その言葉をどれだけ夢見てきただろうか?翠星石は一度だけ強く頷くと今度は瞳から喜びの涙を溢れさせた。やがて二人はまだ花もない桜の樹の下で口付けを交わした。その瞬間、二人の中にこの町で最初の…4年ごしの桜が咲いた……春よ、遠き春よ瞼閉じればそこに愛をくれし君の懐かしき声がする…春よ、まだ見ぬ春迷い立ち止まるとき夢をくれし君の眼差しが肩を抱く…BGM:松任谷由実、「春よ、来い」
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