『ひょひょいの憑依っ!』Act.5
『ひょひょいの憑依っ!』Act.5夕闇が迫る下町の風景は、どうして、奇妙な胸騒ぎを運んでくるのでしょう?どこからか漂ってくる、夕飯の匂い。お風呂で遊ぶ子供の、はしゃぎ声。車のエンジン音と、クラクション。遠く聞こえる電車の警笛。その他、様々な雑音――闇が世界を塗りつぶしていく中、人影の群は黒い川となって、足早に流れてゆきます。毎日、繰り返される平穏な日常の、何の変哲もないワンシーン。なのに、ジュンはそれらを見る度に、家路を急ぎたい衝動に駆られるのでした。黄昏時は、逢魔が刻。そんな迷信じみた畏れが、連綿と魂に受け継がれているのかも知れません。――などと、しっとりとした雰囲気に包まれながら、ジュンは、ある場所を目指していました。それは……ズバリ、近所の銭湯です。タオルやボディソープ、シャンプーなど、入浴に必要な物はバッグに詰めて、背負っています。にしても、自宅に浴室があるにも拘わらず、何故わざわざ銭湯なのでしょうか。キッカケは、金糸雀の「銭湯って中華風スープのコトかしら?」という爆弾発言でした。「ちょ、おま……広ーい風呂のことだよ。開放感たっぷりで、けっこう気分いいものだぞ。 なんだったら、連れてってやろうか?」ボロアパートから、徒歩で5分くらいの場所にありましたので、ジュンが提案したのです。金糸雀は、ジュンの親切さに感激して、ぜひ連れてってとせがみました。しかし、ただの親切心から誘ったワケではありません。全ては、金糸雀に意趣返しをする作戦なのでした。
銭湯と言えば、当然の事ながら、男湯と女湯に別れています。そして、金糸雀はジュンにくっ憑いていないと、自由に外を出歩けません。つまり――そうです。このままでは、ジュンと一緒に男湯に入らねばならないのです。もしも金糸雀が銭湯というものを熟知していたなら、絶対に憑いてこなかったでしょう。その場合には、真紅や笹塚くんと連絡とりホーダイになる予定でした。しかし、金糸雀は「みんな水着きてるから大丈夫」というジュンのウソを信じ切っていたのです。「おっ! 金糸雀よ、あれがフロ屋の煙突だ……って、語呂が悪いな」『わぁお♪ あれが銭湯なのね。露天風呂とか、あるのかしら~』「無いだろ普通。お前、この町に住んでたくせして、本当に知らなかったのか?」『だってぇ……家にお風呂が有るんだもの。わざわざ行く必要なんて、ないかしら』などと、和やかに語らいながら、銭湯の入り口に辿り着きました。いよいよ、スーパーおいなりさんタイムまでの秒読みが、開始されます。ここまで来てしまえば、もう押しの一手。引き返すつもりは、毛頭なし。お金を払って、脱衣所へ……。ここに至り、金糸雀もやっと異変に気付き慌てましたが、聞く耳など持ちません。『ちょ、ちょ、ちょっ! ちょーっと待つかしらぁーっ!』「天が呼ぶ、地が呼ぶ、人が呼ぶ。風呂に入れと僕を呼ぶ」『呼んでないっ! 誰も呼んでないから、考え直すかしらっ! あっ――!』メガネを外したジュンは、電光石火の早業で、広い浴場へ踏み込みます。夕方という時間帯のせいか、老若男男で、たいそう賑わっておりました。『は……はわ……はわわわわっ』
金糸雀が奇妙な声を発し始めましたが、キニシナイ。ジュンはナニ食わぬ顔で、身体を洗うのでした。30分ほど、ゆっくりと入浴した帰り道。少しばかり、のぼせ気味の肌を、弥生の夜風が心地よく撫でていきます。『キノコの山~は食べざかり~……かしら~』ジュンの頭の中に流れる、音程ハズレのCMソング。さっきから、金糸雀は壊れたステレオのように、繰り返し歌い続けているのでした。幽霊と言っても、うら若い女の子。メテオ級のショックを受けて、茫然メイデンになったようです。真紅を傷つけた仕返しのつもりでしたが……こうなると、ジュンもさすがに、可哀相になってしまいました。「おい、大丈夫なのかよ」『あへぁ? き……キノコの……』「ダメだ、こりゃ」ジュンは肩を竦めて、アパートに急ぐのでした。部屋に着くなり、金糸雀は気分転換と称して、浴室に閉じこもってしまいました。あの調子では、暫く出てこないかも知れません。来月のガス代と水道代の請求額が、そこはかとなく恐ろしげです。(しかし、待てよ……これって、チャンスじゃないか)
いま、金糸雀はジュンの身体から離れています。つまり、誰かに連絡を取ってもバレないし、独りで出かけることも可能です。となれば、千載一遇の好機を、ボサッと見過ごす理由はありません。ジュンは浴室の様子を窺いながら、携帯電話を操作しました。「……あ、もしもし」『やあ、桜田くん。どうしたんだい』1コールで電話に出た相手は、モゴモゴとくぐもった声で喋りました。「すまん、笹塚。晩飯の最中だったのか。もう少し後にかけ直すよ」『気にしないでいいよ。どうせ、独り暮らしの侘びしい食卓だからね~。 それで……用件は、なんだい?』「実はさ、霊能者の知り合いとか居ないか、訊きたかったんだ」笹塚くんは、ジュンと一緒に下宿先を探した経緯から、即座に事情を察したようです。『……なるほど。その部屋、やっぱり出たんだね?』「ああ。とんでもなく姦しい自爆霊がな。なんでか、真紅を目の敵にしてさ。悪さするんだ。 それで、どうだろう。居るのか? 居ないのか?」『答えは……どっちとも言えないな』「どういう意味だ、そりゃ?」てっきり、ジュンは「No!」という返事を予想していました。それが普通です。それなのに、どちらとも言えない――とは?訝るジュンに、笹塚くんが話しかけてきます。『柿崎さんを憶えてるかい? 昨日の歓迎会に来てくれた、女の子なんだけど』「えぇっと……黒髪の人だったか」『そうそう。彼女、彼女』
ここで、ジュンは一旦、浴室に目を向けました。ドアが開く気配はありません。再び、声を潜めて、笹塚くんとの会話に集中します。「柿崎さんが、霊能者なのか?」『いや、そこまでじゃあ、ないらしいんだけどね。 彼女さぁ、子供の頃、かなり長いこと入院生活してたんだって。 ……で、何度か幽霊を見てる内に、霊感体質になっちゃったらしいんだな、これが』「なるほど。つまり、彼女に相談してみたらって言うんだな?」『ご明察。今から出てこれるかい? 柿崎さんには、僕が連絡しておこう』「え? でも……夜だぞ。いいのかなあ」『急を要するんだろ? だったら、遠慮なんか、してられないよね』笹塚くんの言い分は、至極もっともです。ジュンは彼に謝意を述べると、落ち合う場所を決めて、通話を切りました。そして、金糸雀に悟られないよう注意しながら、アパートを脱出したのです。駅前の居酒屋『きらき屋』にジュンが到着した時には、みんな揃っておりました。笹塚くんと、めぐ、水銀燈の三人です。各自、料理を頬張りながら、飲酒しています。食事の手を止めた笹塚くんが、お座敷席に、ジュンを手招きしました。「やあ、来たね。先に、いただいてるよ」「お待たせ。いいさ、別に。晩飯どきに約束したのが悪いんだし」めぐと水銀燈に軽く会釈して、ジュンは席に着き、料理を注文しました。もう腹ペコです。その際、なにげなく、あの眼帯娘を探しましたが、シフトに入っていないのか見当たりません。元々、彼女に会いに来たワケでもないので、ジュンは早速、本題を切り出しました。
「いきなりで申し訳ないんですけど……柿崎さん。真剣に、僕の話を聞いて欲しいんです」「え~? 改まって、な~にぃ。ひょっとしてぇ……私をぉ、口説くつもりぃ?」「あらぁ、聞き捨てならないわね。私のめぐに、ちょっかい出そうってのぉ、ボウヤ」「……違います。真面目な話なんだから、茶化さないでください」急に、ジュンは心配になりました。彼女たち、かなり酔っています。水銀燈も赤ら顔。二人とも、既に相当量のアルコールを摂取しているようです。こんな状態で、真っ当な返答を期待できるのでしょうか?笹塚くんに目配せしましたが、彼もまた、すっかり出来あがっているご様子。ジュンは顰めっ面を浮かべ、こめかみを指でグリグリしながら、口を開きました。「実はですね、僕がいま住んでる部屋……事故物件なんですよ。 それで、その…………アレが出ちゃいましてね。どうしようかなーと」「引っ越しちゃえばぁ? あ”ー、焼酎うめぇ」アッサリ言って、グラスを呷るめぐ。キャハハと笑いだす水銀燈。笹塚くんは食べてばかり。とてもではありませんが、まともに取り合ってもらえなさそうです。やはり、最後に頼れるのは自分、ということなのでしょう。ジュンは諦めの溜息を吐いて、運ばれてきた料理をヤケ食いするのでした。駅前から、アパートまでの帰り道。閑散とした商店街を歩くのは、ジュンだけです。それほど遅い時間でもないのですが、殆どの店はシャッターを降ろしていました。そんな中、一軒だけ明かりが漏れている店が……。店構えはクラシックな雰囲気で、感じのいい喫茶店を思わせます。廂の『Enju Doll』の白文字が、柔らかい照明を受けて、夜闇に浮かび上がっていました。
「ドール……人形を売ってるのか。こんな店があるなんて、知らなかったな」知ったからと言って、興味がなければ、何の意味もありません。ジュンは、足早に店の前を通り過ぎようとしました。――しかしっ! 次の瞬間っ!「? うぉわぁっ?!」ドアの隙間から飛び出してきた白い腕が、ジュンの襟首を掴みました。しかも、もの凄い力で、店に引きずりこもうとするじゃあーりませんか。まったくの不意打ちでしたので、ジュンは抗うことも出来なかったのです。「おひとりさま……ごあんなーい」自分の身に何が起きたのか解らず、尻餅をついたまま、キョトンとするジュン。そんな彼の頭上から、降ってくる声。声のした方を見上げたジュンの目に飛び込んできたのは、あの――眼帯娘でした。毎度のことながら、神出鬼没です。「ま、またかよっ! なんで、こんなとこに居るんだっ」「ここ…………お父さまの……お店。私の、お父さま……人形師」「人形師? それって、人間国宝とか、重要無形文化財みたいな?」「そこまで……偉くない。せいぜい……おいなりさんに、毛が生えた……程度」「どういう喩えだよ、そりゃ」どの程度なのか、さっぱり見当がつきません。あるいは、この娘のことです。故意に、はぐらかしているのかも――「まあいい。とりあえず、僕を連れ込んだワケを聞かせてもらおうか」
ジュンに強い語調で詰め寄られても、眼帯娘は顔色ひとつ変えず、商品棚を指差しました。「お人形……買って」「やだよ。飾っとく場所もないし、要らない」訪問販売は、キッパリと断ること――ジュンは、のり姉ちゃんの教えを忠実に守ります。すると、眼帯娘は両手で顔を覆って、シクシクと泣き出してしまいました。「お人形……売れないと……生活できない」「泣き落としか? そんなこと言われたって、買わないからな」「うぇーん……もう……一家心中するしかない。そしたら…………化けて出てやる」「はあぁ? 冗談じゃないぞ」幽霊は、金糸雀だけで充分です。「解った! 買うよ。買えばいいんだろっ」それを聞いて、眼帯娘はケロリと泣き止み、ニコニコ顔になりました。なんとまあ、変わり身の早い。現金なものです。「でもさぁ、こういう人形って高いんだろ? 僕は、クレジットカード持ってないんだけど」「心配……いらない。今なら決算セール中で……どれも1万円ポッキリ。 イイ娘が……揃ってますぜ……ダ・ン・ナ」「なんなんだよ、そのアヤシイ売り文句は」やっぱりワケ解らないです。ジュンは会話を諦めて、ぐるりと店内を見回しました。どの人形も可愛らしい女の子で、精巧な造形が、目を惹きつけて離しません。その中に、おしゃれなパラソルを手にする、快活そうな人形がありました。利発そうな広いオデコと、ハートを象った髪飾りが、妙に印象的です。なんとな~くココロ惹かれるものがあって、ジュンはその人形に決めたのでした。他にも、レジの脇に並べられた、人形用の素敵なブローチが目に留まります。人が身に着けても不自然ではなさそうなので、プレゼント用に、ひとつ購入しました。
「これ、プレゼントしたら、あいつも機嫌を直してくれるかなぁ」思いがけず良い買い物ができたと、ホクホク顔で店を出て歩き始めたところに、眼帯娘の唄うような調子の声が、追いかけてきました。「恋は錯覚……愛はまやかし。眠れる稚児を……起こさぬように。 ねんねんころりよ、おころりよ……」「どういう意味だ?」と、ジュンが振り返った時にはもう――店のシャッターは降ろされ、眼帯娘も姿を消した後でした。ビスクドールを納めた専用カバンを携えて、ジュンは、とある場所を目指していました。期せずして手に入れたプレゼントを、一刻も早く、渡したかったからです。カバンは軽めでしたが、大きいのでかさばり、歩きづらくさせます。ですから、やっとの思いで目的地に到着した時には、小一時間が過ぎておりました。「あいつ、居るかな」荒い呼吸を整えながら、ブザーを押して待つこと、暫し。カチャリとロックの外れる軽快な音がして、ドアが僅かに開かれました。「はい、どちら様――って、ジュン?」「よ、よお……真紅」「……何の用なの? こんな時間に、連絡も無しに来るなんて、失礼じゃないかしら」来訪者がジュンと判って、真紅の表情が、少し堅くなりました。彼女はツンと澄ました態度で、前髪に指を通しながら、ジュンの顔を見つめてきます。ちょっと前までシャワーを浴びていたのか、艶やかな金糸は、ほんのり湿っていました。
臆することない真紅に影響され、ジュンも意を決して、正面から向き合いました。そして、さっき買ったプレゼントの小箱を、差し出したのです。「あのさ……これ、受け取ってくれないか。ブローチなんだけど」「なぜ急に? プレゼントされる理由がないわ」「僕が、そうしたいんだ。それだって立派な理由だろ」「……理由と言うより、屁理屈ね。強引だわ」真紅は、真意を探るように、ジュンの瞳を真っ直ぐに覗き込んできます。「これって……昼間のコトの、お詫びって意味なの? 物で釣って、仲直りして、いつまでも良い友達でいましょう――と? ……ねえ、ジュン。私は、そこまで都合のいい女じゃないつもりよ」「別に、そんなつもりじゃない。僕は――」ちょっと躊躇いましたが、伝えたい意気込みの方が勝ちました。「僕は、お前が好きだから」言って、ジュンは声を失い固まっている真紅の手に、小箱を握らせました。「いらないなら、捨ててくれて構わないよ。じゃあな」「待って! その……来客をもてなさずに帰すのは、礼儀に反するわ。紅茶でも……どう?」「……いや。今日はもう遅いし、気持ちだけ頂いとくよ。じゃ、また明日な」ジュンは、精一杯の冷静を装って別れを告げ、足早に立ち去りました。本当は、すごく嬉しかったのです。それはもう、ギュッと彼女を抱き締めたくなるほどに。ただ……だらしなく赤面した姿を、彼女に見られるのが恥ずかしかったから……。恋は錯覚……愛はまやかし。ふと、眼帯娘の言葉が甦ります。ですが、それは温かく幸せな気持ちに溶かされ、どこかへと流れていくのでした。
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