6回目
1947.4.20 深夜薔薇水晶に先導されて、薄暗く、入り組んだ壕内を進む。天井に設けられた電球の間隔が広くて、隅々まで電灯が届かないのだ。まるで、ウサギの巣穴みたい。歩きながら、真紅は思った。「ここが……貴女の部屋」前を行く薔薇水晶が足を止め、ブーツの踵を軸に、くるりと振り返る。彼女が差し示す先には、物々しい鉄扉が、鈍色の輝きを放っていた。「元々、部屋数が少ないから……相部屋になる。それでも良い?」「イヤとは言えないでしょう。寝泊まりできれば構わないわ」キッパリと言い切ったところで、真紅は泣き腫らした瞼を細めた。「……と言いたいところだけど、私も女の子なのでね。 同居人は、男? だとしたら、お断りよ。廊下で眠った方がマシなのだわ」「潔癖……見かけどおりね。安心して……ここは女の子だけの居住区だから」薔薇水晶は唇を吊り上げ「ごゆっくり」と、嘲りにも似た笑みを浮かべる。その態度が、なんとなく気に入らなくて、真紅は踵を返すと宛われた個室の扉を開けた。キュルキュルと、蝶番が耳障りな音を立てる。
扉の隙間から流れ出るのは、埃っぽい空気と、甘ったるい人いきれ。女性の部屋にありがちなニオイが、真紅の鼻を突いた。換気されているものの、地下ということもあって、空気の流れが悪いのだろう。ちょっと吸い込んだだけで、真紅は息を詰まらせた。「ちょっとの辛抱よ」鼻先を手で覆って、小声で、自分に言い聞かせる。「仮眠したら、直ぐにあの子たちを追いかけないと」夜明けまで、あと数時間。槐には、まだまだ話を聞きたかったが、仲間たちのことも気懸かりだった。車長として経験の浅い蒼星石では、咄嗟の機転が働くまい。その一瞬が生死を分けるのが、戦場という環境だ。(私が戻るまで、戦闘が始まらなければ良いのだけれど…… こちらの都合を考えてくれるほど、甘い敵ではないわよね)真紅は薄暗い室内に踏み込んで、即座に固いベッドに横たわった。いつからだろう。着の身着のままで眠ることに、慣れてしまったのは。『即座に行動できるように』という、一秒すら争う戦場では当然の配慮ながら、最初は違和感を覚えて、なかなか寝付けなかったものだ。それなのに、今は――衣服が汚れることにすら、無頓着になりつつある。「こんなにも、だらしなくなった私を、あなたはどうお思いになりますか……お父様」
ブーツも脱がずに寝転がる、ふしだらな娘と軽蔑する?それとも……たくましく成長したと、褒めてくれるのかしら?いずれにせよ、皮肉以外の何物でもない。貶す権利も、褒め称える資格も、今や戦争の首謀者となり果てた父には無いのだから。もしも対面して、そんな戯言を並べようものなら、断固として拒絶するだろう。 『あなたなんかに――』その一言を皮切りに、これまでの鬱憤が堰を切った様に、唇から迸る筈だ。大好きな存在を罵倒しなければならない苦痛に苛まれながら、それでも攻撃的な言葉を浴びせ続け、同時に、自分の心をも傷つけ続けるのだろう。(……止めましょう。考えたところで、詮無いことだわ)パン生地を思わせる枕に頭を載せると、ふにゃりと沈み、カビ臭さが立ち上る。こんな状況で、本当に眠れるのだろうか?眉を顰めた真紅は、額に腕を翳して、瞼を閉ざした。……が、懸念したとおり、待てど暮らせど睡魔は訪れない。半身を起こすのも億劫なくらい、身体は疲れ切っているのに、だ。気持ちを落ち着かせようと深呼吸すれば、澱んだ空気を吸い込んで、余計に胸が悪くなる。悶々としていた彼女の耳が微かな歌声を捉えたのは、何度目かの寝返りをうった直後だった。「換気口を伝わって聞こえるのね。この旋律は…………エーデルヴァイス」 英語の発音では、エーデルワイス。小さくて白い花は、スイスの国花でもある。真紅はベッドを抜け出て、天井ちかくにある通気口の真下に寄り、耳をそばだてた。か細いけれど、淀みなく、きりりと通る美しい声だ。「素敵な歌声ね。なぜかしら……不思議と、魅了されるわ。 どうせ眠れないのだし、出発まで歌を聴かせてもらうのも、一興というものね」通気口を伝って聞こえるくらいだから、それほど遠くはあるまい。この息が詰まる部屋に居るのも厭だったので、真紅は躊躇いなく、通路に出た。しかし、右と左、どちらから聞こえてくるのだろう?身動きを止め、澄ませた耳に届いたのは、歌声ではなく男の声だった。「あれ? 真紅……」「っ?! あなたは、確か……ジュン、だったわね」「どうしたんだ、こんな所で。迷ったのか?」真紅に声を掛けたのは、レジスタンスと行動を共にしていた少年だった。埃にまみれた見窄らしい格好ではなく、白衣を纏って、どこぞの機関の研究員みたいだ。改めて、ジェット技術を学びに、はるばる日本から来た技術者なのだと実感する。けれど、真紅が目を見張った理由は、彼の変貌ぶりにではなく、彼の隣にあった。「ジュン。そちらは?」不躾と承知しつつも、真紅はジュンの隣に立つ、黒髪の美しい娘を矯めつ眇めつした。彼と同様、膝まである丈の長い白衣を私服の上に引っかけている。 彼女の視線を感じて、娘は恥ずかしげに身を捩ったものの、気後れすることなく、ジュンに紹介される前に、自ら名乗った。「こんばんわ……あ、この時間だと『おはよう』になるのかな? まあ、いいや。私は、柿崎めぐ。桜田くんと共に、日本から来たのよ」「柿崎は、僕の同僚なんだ。元々、僕らは民間の航空機会社の技術見習いでね。 将来を嘱望されて抜擢……と言うと聞こえがいいけど、実際には人材不足なのさ。 僕ら以外は爺さんばっかりだから、長旅に耐えられないんだよな」「たとえ冗談にしても、その見方はひねくれ過ぎよ、桜田くん」軽口を叩いて肩を竦めるジュンを、めぐが溜息混じりに諫めた。「結菱社長も、柴崎専務も言ってたじゃない。 戦争はもうすぐ日本の敗北で終わるから、戦後の復興の為に、技能を磨いてこいって」「う……まあな」鈴の音を思わせるめぐの声に、ジュンは口ごもって、唇を尖らせる。そんな彼の様子を、不甲斐なさげに眺めていた真紅は、ふと、歌声のことを思い出した。もしかしたら、この、めぐという娘が声の主だったのかも……。「ねえ、今さっき歌っていたのは、貴女なの?」「? なんのこと」「僕たちは、ずっと一緒に居たけど、柿崎は歌ったりしてないぞ」怪訝そうに眉根を寄せた二人だったが、寸間を得ず、めぐは手を打ち鳴らした。「桜田くん。ひょっとして、彼女のことじゃないかな」 ジュンも思い当たったらしく「ああ!」と歯を見せる。 「うん……きっと、そうだ! なんだよ真紅、彼女の歌が聴きたいのか?」「え、ええ。寝付けないものだから」「そっか。だったら付いて来いよ。すぐそこだから、案内してやるよ」言って、先に出たジュンの腕に、めぐがするりと腕を絡めた。「私も付いてこうっと。あの娘の歌は好きだから」「うん、僕もだ。あいつの歌を聴くのも、久しぶりだな」そうするのが当たり前であるかのように、二人は自然な態度で寄り添って歩く。真紅の眼には、職場の同僚と言うより寧ろ、恋人同士に映った。(私……もしかして、邪魔なのかしら?)二人の背中を、ぼんやりと眺めながら、真紅は少し遅れて足を踏み出した。とある一室の前で、二人の足が止まる。彼女が宛われた部屋から20mほど離れた場所だ。閉ざされた鉄扉の隙間から、幽かに、くぐもった歌声が滲みだしてくる。ジュンが呼びかけつつドアを叩くと、内側から元気のいい返事があった。 「はいなのー。いますぐ開けますなのよ」 鉄扉が内側へと引き込まれ、愛くるしい笑みを湛えた娘が、ぴょこんと顔を覗かせた。真紅の幼なじみの、雛苺だ。午前四時を過ぎた頃であるのに、この娘は疲労の色ひとつ見せていない。雛苺が背にした薄暗い室内からは、依然としてエーデルワイスの歌が漏れ聞こえてくる。「こんな時間まで起きてたのか、雛苺。あんまり感心しないな」「ぶー。ジュンとめぐだって、夜更かししてるクセにっ」「あのな、僕たちは遊んでるワケじゃないんだぞ。アレを完成させるために――」「ヒナだって、遊んでるんじゃないのよー」子供の口喧嘩みたいな応酬が始まると、めぐが「まあまあ」と、間に割って入った。そして、室内を親指でさしながら、めぐは雛苺に笑みを向けた。「今日は、彼女……調子よさそうね。歌を聴かせて欲しいんだけど、いいかな?」「雛苺。私からも、お願いするわ」ジュンの後ろから進み出た真紅を一瞥すると、雛苺は瞬く間に表情を曇らせた。「みんなで聴いてくれた方が、あの子も喜ぶから大歓迎なのよ。 だけど……真紅の服は……」「あ、そっか。あいつ、軍服を見ると怖がるんだっけ」雛苺に相槌を打ったジュンは、やおら自分の白衣を脱いで、真紅の肩にふわりと掛けた。「これ、羽織っておけよ。ボタンを掛けておけば、服も目立たないだろ」「あ…………ありがとう」 控えめに礼を言うと、真紅は戦車兵の黒い軍服を恥じるように、白衣の端を掻き寄せた。俯いた彼女の頬が、うっすら色付いて見えたのは、光の加減だろうか。それとも、服越しにとは言え、肩に触れた異性の手の温もりを意識したのか。「さっさと入れよ、真紅。元々は、お前が歌を聴きに来たんだからな」対して、ジュンはいつもと変わらず、不躾な口調で促す。馴れ馴れしく“お前”呼ばわりされて、真紅は咎めるように彼を睨んだ。……が、文句を言うことはなく、ぷいっと顔を背け、室内へと姿を消した。めぐは、辛うじてジュンにだけ届くような小声で、そっ……と囁いた。「優しくするのは、私だけにして欲しいなぁ」「え? なんだって?」「……ううん、なんでもなーい。さっ、私たちも行こう♪」ジュンは釈然としない顔のまま、めぐに手を引かれて、雛苺の部屋に踏み込んだ。室内は、真紅の部屋と同様、澱んだ空気に満ちていた。お世辞にも、清潔とは呼べない。けれども、部屋の奥に置かれたベッドに腰掛け、美声を奏でる娘は、目を見張るほど美しく――例えるなら、エーデルワイスの花のような、白くて可愛らしい女性だった。『掃き溜めに鶴』とは、正しく彼女のような存在を言うのだろう。真紅は、まるで人魚の歌に魅入られた船乗りのように、白い娘の元に引き寄せられていった。徐に、歌が止む。娘は、どこか虚ろな眼差しを、真紅に向けていた。「――貴女は……だぁれ?」訊ねる彼女の右眼は、血に塗れた包帯で覆われていた。 ――同時刻 スターリングラード某所 煌々と照明の点された室内には、異様な雰囲気が漂う。薬品の匂いと、饐えた臭い。ガラス管を渡ってゆく気泡が、こぽこぽと笑う。ある場所では、しゅうしゅうと立ち昇った蒸気が、室内に溶けていく。別の箇所では、ぽん! ぽん! と、何かが吹き出る音が響いていた。立ち並ぶ巨大な七つの円筒水槽は、見る者に水族館を彷彿させるだろう。けれど、水槽の中には、生物の影など全くない。ただ、薄気味悪い液体が満たされているだけ。その部屋の一角。純白の診察台の上に、息を呑むほど美しい娘が、全裸で横たわっていた。瞼は閉ざされているものの、胸の双丘は、規則正しく緩やかに上下している。健やかな寝息を立てる娘の様子を、診察台の脇に立ち、見下ろす人影が――ふたつ。どちらも白衣を纏い、口元にはマスクを着用していた。「いよいよですね、フォッセー博士」メガネを掛けた黒髪の人物が、たどたどしいフランス語で、対面する人物に話しかける。フォッセー博士と呼ばれた若い女性は、こくりと頷いて、返事をした。「あなたの協力には、本当に感謝しているわ。 いよいよ…………あの人の理想である『アリス』の時代が、幕を開けるのよ」二人の会話を、夢の終わりを告げるヒバリの声と聞いたのか――娘の瞼が、す……っと見開かれた。
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